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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

大伴家持が菟原処女の墓の歌に追同した歌

巻第19-4211~4212

4211
古(いにしへ)に ありけるわざの くすばしき 事と言ひ継(つ)ぐ 茅渟壮士(ちぬをとこ) 菟原壮士(うなひをとこ)の うつせみの 名を争ふと たまきはる 命(いのち)も捨てて 争ひに 妻問(つまど)ひしける 処女(をとめ)らが 聞けば悲しさ 春花(はるはな)の にほえ栄(さか)えて 秋の葉の にほひに照れる あたらしき 身の盛(さか)りすら ますらをの 言(こと)いたはしみ 父母(ちちはは)に 申(まを)し別れて 家離(いへざか)り 海辺(うみへ)に出で立ち 朝夕(あさよひ)に 満ち来る潮(しほ)の 八重(やへ)波に 靡(なび)く玉藻(たまも)の 節(ふし)の間(ま)も 惜(を)しき命(いのち)を 露霜(つゆしも)の 過ぎましにけれ 奥城(おくつき)を ここと定めて 後(のち)の世の 聞き継ぐ人も いや遠(とほ)に 偲(しの)ひにせよと 黄楊小櫛(つげをぐし) 然(しか)挿(さ)しけらし 生(お)ひて靡(なび)けり
4212
処女(をとめ)らが後(のち)の標(しるし)と黄楊小櫛(つげをぐし)生(お)ひ変(かは)り生(お)ひて靡(なび)きけらしも
 

【意味】
〈4211〉遠い昔にあったという、世にも珍しい出来事として言い伝えられてきた、茅渟壮士(ちぬおとこ)と菟原壮士(うないおとこ)の乙女をめぐる伝説。二人は、この世の名誉にかけて争い、命がけで、乙女に妻どいしたという、その乙女の伝説は、聞くも悲しい。春の花のように光り輝き、秋の紅葉のように美しい、そんなもったいない女盛りでありながら、二人の男の言い寄る言葉をつらく思い、父母に事情を告げて家を出て、海辺にたたずんだ。朝に夕に満ちてくる潮の、幾重も波になびく玉藻、その玉藻の一節の間ほどのあいだも惜しい命なのに、はかない露霜のように消え果ててしまった。墓所をここと定めて後の世の人たちも語り継いで、いつまでも乙女を偲ぶよすがにしようと、乙女の黄楊の小櫛をそんなふうに墓に挿したらしい。それが生え育って、こうして靡いていることだ。
 
〈4212〉乙女が後の世の人へのしるしにと残した黄楊の小櫛。この櫛は木となって育ち、靡いているのだろう。

【説明】
 蘆屋(あしや)の菟原処女(うないおとめ)の伝説を歌った、田辺福麻呂の1801~1803、高橋虫麻呂の1809~1811などに、後から家持が唱和したもの。

 4211の「くすばし」は、珍しい、不思議だ、の意。「たまきはる」は「命」の枕詞。「茅渟」は、堺市から岸和田市にかけての地。「あたらし」は、もったいない。「朝夕に~靡く玉藻の」は「節の間」を導く序詞。「露霜の」は「過ぐ」の枕詞。「奥城」は墓。「黄楊小櫛」はツゲの木で作った櫛。
 
 菟原乙女は二人の男に求婚され、その板ばさみに苦しんで自殺したという伝説の美女です。菟原は、蘆屋から神戸市にかけての地とされ、神戸市東灘区御影町には「処女(おとめ)塚」が、その東西1kmほどの所には二人の男の「求女(もとめ)塚」が残っています。菟原乙女は同じ郷里の菟原壮士よりも、他所から来た茅渟壮士が好きだったようです。しかし、いくら心が傾いても、よそ者を受け入れることができなかったのです。
 
 この菟原乙女の伝説は『大和物語』にも載っており、乙女が死ぬ間際に詠んだという「住みわびぬ我が身投げてむ津の国の生田の川は名のみなりけり」という歌があります。後には観阿弥による謡曲『求塚』に発展し、さらには森鴎外の戯曲『生田川』にも採り上げられています。なお、現在、処女塚の西のわきには、田辺福麿が詠んだ「古への小竹田壮士の妻問ひし菟会処女の奥津城ぞこれ」の歌碑が置かれています。

大伴家持の歌

巻第19-4254~4255

4254
蜻蛉島(あきづしま) 大和の国を 天雲(あまくも)に 磐船(いはふね)浮かべ 艫(とも)に舳(へ)に 真櫂(まかい)しじ貫(ぬ)き い漕(こ)ぎつつ 国見しせして 天降(あも)りまし 払(はら)ひ平(たひ)らげ 千代(ちよ)を重ね いや継(つ)ぎ継ぎに 知らし来る 天(あま)の日継(ひつぎ)と 神(かむ)ながら わが大君(おほきみ)の 天(あめ)の下(した) 治(をさ)めたまへば もののふの 八十伴(やそとも)の男(を)を 撫(な)でたまひ 整へたまひ 食(を)す国の 四方(よも)の人をも あぶさはず 恵(めぐ)みたまへば 古(いにしへ)ゆ なかりし瑞(しるし) 度(たび)まねく 申(まを)したまひぬ 手抱(たむだ)きて 事なき御代(みよ)と 天地(あめつち) 日月(ひつき)と共に 万代(よろづよ)に 記(しる)し継がむそ やすみしし わが大君 秋の花 其(し)が色々に 見(め)したまひ 明(あき)らめたまひ 酒(さか)みづき 栄(さか)ゆる今日(けふ)の あやに貴(たふと)さ
4255
秋の花(はな)種(くさぐさ)にあれど色ごとに見(め)し明(あき)らむる今日(けふ)の貴(たふと)さ
 

【意味】
〈4254〉蜻蛉島大和の国を、天雲に磐のごとき船を浮かべ、艫にも舳にも櫂を多く取り付け、船を漕いで国見をされて、天降って従わぬ者たちを平らげ、幾代も重ねて次々に治めてこられた日の神、その後継ぎとして、神のままに、わが大君が天下をお治めになるので、数多くの官人たちをいつくしみ、整え、ご支配なさる国の四方の民をも余すところなくお恵みをお与えになるので、昔からあらわれなかった珍しい瑞兆が次々と奏上された。腕組みをしたままでいられる平穏な御代として、天地や日月と共にいついつまでもに記録され、伝えられるだろう。あまねく天下をお治めになるわが大君が、色とりどりの秋の花々をご覧になり、御心を晴らせられて、御酒を召されて栄えておいでになる今日という日の、限りなくも貴いことよ。
 
〈4255〉秋の花はさまざまにあるけれども、その色ごとにご覧になって御心を晴らされる。今日というこの日の何と貴いことよ。

【説明】
 京に向かう途上、感興を覚えてあらかじめ作った、宴に侍して天皇の詔に応える歌。少納言として、宮中の酒宴に侍るさまを想像しての歌です。作歌時期は、天平勝宝3年(751年)8月、孝謙天皇の時代です。

 4254の「蜻蛉島」は「大和」の枕詞。「磐船」は、磐のごとく堅固な船。「艫」は、船尾。「舳」は、船首。「国見」は、国土の視察。「知らす」は、お治めになる。「天の日継と」は、日の神の後継ぎとして。「神ながら」は、神の御心のままに。「もののふの」は、「八十伴の男」の枕詞。「八十伴の男」は、朝廷に仕える文武百官。「あぶさはず」は、余すところなく。「瑞」は、吉事、瑞兆。陸奥の国から金が産出したことなどを指しています。「度まねく」は、たびたび、次々に。「手抱きて」は、何もせず腕組みをして。「やすみしし」は「わが大君」の枕詞。「酒みづき」は、酒を召されて。

巻第19-4266~4267

4266
あしひきの 八(や)つ峰(を)の上(うへ)の 栂(つが)の木の いや継(つ)ぎ継ぎに 松が根の 絶ゆることなく あをによし 奈良の都に 万代(よろづよ)に 国知らさむと やすみしし わが大君(おほきみ)の 神(かむ)ながら 思ほしめして 豊(とよ)の宴(あかり) 見(め)す今日(けふ)の日は もののふの 八十伴(やそとも)の男(を)の 島山に 赤(あか)る橘(たちばな) うずに挿(さ)し 紐(ひも)解(と)き放(さ)けて 千年(ちとせ)寿(ほ)き 寿(ほ)き響(とよ)もし ゑらゑらに 仕(つか)へ奉(まつ)るを 見るが貴(たふと)さ
4267
天皇(すめろき)の御代(みよ)万代(よろづよ)にかくしこそ見(め)し明きらめめ立つ年の端(は)に
 

【意味】
〈4266〉多くの峰々に生い茂る栂(つが)の木のように、いよいよ次々に、松の根の絶えることがないように、ここ奈良の都で、いついつまでも国をお治めになろうと、我が大君が、神の御心のままにおぼしめされて、豊の宴(うたげ)をなさる今日という日は、多くの官人が御苑の山に赤く輝く橘を髪に挿し、 衣の紐を解いてくつろぎ、大君の千年を寿(ことほ)ぎ、一斉に祝いの声をあげ、笑い楽しんでお仕え申し上げるさまを目にすると、ただただ貴い。
 
〈4267〉天皇の御代がいついつまでも続き、このように豊の宴をお開きになり、御心を晴れやかにされますよう、新たに来る年ごとに。

【説明】
 詔に答えるためにあらかじめ作った歌。新年の賀宴では、詔によって賀歌を献ずることがあったので、そのためにあらかじめ作ったものです。

 4266の「あしひきの」は「八つ峰」の枕詞。「八つ峰」は、多くの峰。「栂」は、マツ科の常緑高木。「あしひきの~栂の木の」は「いや継ぎ継ぎに」を導く序詞。「あをによし」は「奈良」の枕詞。「やすみしし」は「わが大君」の枕詞。「豊の宴」は、天皇が催す神聖な宴会。「見す」は「見る」の敬語ながら、ここではお催しになる意。「もののふの」は、「八十伴の男」の枕詞。「八十伴の男」は、朝廷に仕える文武百官。「島山」は庭園の古称で、庭に造った山。「寿く」は、祝いごとを言う。「ゑらゑらに」は、声をあげて笑い楽しむさま。

 4267の「かくしこそ」の「し」「こそ」は、強意。「立つ年の端に」は、新たに来る年ごとに。

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古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。

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大伴家持の略年譜

718 家持生まれる
724 聖武天皇即位
728 父の旅人が 大宰帥に
731 父の旅人が死去
745 従五位下に叙せられる
746 越中守となる
749 従五位上に昇叙
749 孝謙天皇即位
751 少納言となる
754 兵部少輔を拝命
755 難波で防人を検校
757 橘諸兄が死去
757 兵部大輔に昇進
757 橘奈良麻呂の乱
758 因幡守となる
758 淳仁天皇即位
759 万葉集巻末の歌を詠む
764 薩摩守となる
764 恵美押勝の乱
766 称徳天皇が重祚
766 道鏡が法王となる
767 大宰少弐となる
770 道鏡が下野国に配流
770 従五位下に昇叙
771 光仁天皇即位
771 従四位下に昇叙
774 相模守となる
776 伊勢守となる
777 従四位上に昇叙
778 正四位下に昇叙
780 参議となり、右大弁を兼ねる
781 桓武天皇即位
781 正四位上に昇叙
781 従三位に叙せられ公卿に列する
783 中納言となる
784 持節征東将軍となる
784 長岡京遷都
785 死去(68歳)

官人の位階

親王
一品~四品

諸王
一位~五位(このうち一位~三位は正・従位、四~五位は正・従一に各上・下階。合計十四階)

諸臣
一位~初位(このうち一位~三位は正・従の計六階。四位~八位は正・従に各上・下があり計二十階。初位は大初位・少初位に各上・下の計四階)

これらのうち、五位以上が貴族とされた。 また官人は最下位の初位から何らかの免税が認められ、三位以上では親子3代にわたって全ての租税が免除された。
さらに父祖の官位によって子・孫の最初の官位が決まる蔭位制度があり、たとえば一位の者の嫡出子は従五位下、庶出子および孫は正六位に最初から任命された。

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