巻第14-3567~3568
3567 置きて行かば妹(いも)はま愛(かな)し持ちて行く梓(あずさ)の弓の弓束(ゆづか)にもが 3568 後(おく)れ居(ゐ)て恋(こ)ひば苦しも朝狩(あさがり)の君が弓にもならましものを |
【意味】
〈3567〉後に残して行けば、この先お前のことが恋しくてたまらなくなるだろう。せめて手に携える梓の弓の弓束であってくれたらなあ。
〈3568〉あとに残され、恋い焦がれるのは苦しくてたまらないでしょう。朝の狩りにあなたが使う弓にでもなりたい。
【説明】
巻第14の「東歌」の終わり近くに「防人の歌」5首が載っています。作者名も詠まれた年月も記されていません。ここの歌は、防人として旅立つ夫と、その妻の問答歌です。3567の「置きて行かば」は、後に残して行ったならば。「ま愛し」の「ま」は、接頭語。「梓」は、日本各地の山中にあるカバノキ科の落葉喬木で、梓弓はその材で作った弓。「弓束」は、弓の中央部の手に握るところ。「もがも」は、願望。3568の「後れ居て」は、後に残って。「朝狩の」は、朝にする狩りので、ここは「弓」の枕詞。
防人は、663年に百済救済のために出兵した白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れたのを機に、対馬・壱岐・筑紫の防衛のため、軍防令が発せられて設置されました。天智天皇3年(664年)に「対馬嶋、壱岐嶋、筑紫国などに防(さきもり)と烽(とぶひ)を置く」と具体的に述べられており、ここでは「防」の一字が使われています。それに基づいて大宰府に防人司(さきもりのつかさ)が置かれ、おもに東国の出身者の中から選抜、定員は約1000名、勤務期間は3年とされました。但し、平安時代になると次々に廃止されましたから、主として飛鳥時代後期~奈良時代に実施された制度です。
防人の徴兵は、逃げたり仮病を使ったりさせないため、事前連絡もなく突然に行われたといいます。まず都に集め、難波の港から船で筑紫に向かいました。家から難波までの費用は自前でした。なお、『万葉集』に防人の歌が数多く収められているのは、天平勝宝7年(755年)に、出港地の難波で防人の監督事務についていた大伴家持が、彼らに歌を献上させ採録したからだといわれます。それらは巻第20に収められており、ここにある防人歌は、家持が収集したものとは別に「東歌」の歌群にある歌で、別の機会に作られたものとみられています。防人歌に顕著な東国方言が全く見られず、また、地名や特定の山や川も出ていないことから、第三者が防人の境遇に身を置き換えて作ったものかもしれません。
巻第14-3569~3571
3569 防人(さきもり)に立ちし朝明(あさけ)の金門出(かなとで)に手離(たばな)れ惜しみ泣きし児(こ)らはも 3570 葦(あし)の葉に夕霧(ゆふぎり)立ちて鴨(かも)が音(ね)の寒き夕(ゆふへ)し汝(な)をば偲(しの)はむ 3571 己妻(おのづま)を人の里に置きおほほしく見つつそ来(き)ぬるこの道の間(あひだ) |
【意味】
〈3569〉防人として出立した夜明けの門出の時に、握り合った私の手から離れることを嫌がって泣いたわが妻よ。
〈3570〉水辺に生える葦の葉群れに夕霧が立ち込め、鴨の鳴く声が寒々と聞こえてくる夕暮れ時には、なおいっそうおまえを偲ぶことだろう。
〈3571〉自分の妻なのに、自分のいない里に残したまま、気も晴れず、何度も何度も振り返りながらこの道中をやって来た。
【説明】
3569の「朝明」は、夜明け方。「金門出」は、門出。「手離れ惜しみ」は、握り合った手を離すことを嫌がって。「児ら」は、女性を親しんで呼ぶ語。「はも」は、強い詠嘆。
3570は、筑紫へと出航する難波の地での心情を想像して作った歌、またはそのような設定で創作された歌とされます。「葦」は難波の風物であり、また葦には「鴨」がつきものでした。「夕し」の「し」は、強意の助詞。この歌は、防人らしくない整った詠みぶりであり、賀茂真淵は「東(あづま)にもかくよむ人も有りけり」と感心していますが、土屋文明は、「かういふのは、多くの人の次々の修正を受けて、いはば社会的製作として、此の整った姿に到達し得たものだらう」と述べています。そういえば、文武天皇の御代に志貴皇子が詠んだ「葦辺行く鴨の羽がひに霜降りて寒き夕は大和し思ほゆ」(巻第1-64)の歌によく似ています。
3571の「人の里」は、自分のいない里。「おほほし」は、視覚的にぼんやりしているさま、心理的には心が晴れない、不安という意。他人ばかりの村に置いてきた妻の心変わりを不安に思っている歌のようです。まだ同居の段階にいず、妻問いのかたちの関係だったのでしょう。窪田空穂はこの歌について、「技巧はしっかりしていて、防人としては知性的な、やや身分ある者の歌と取れる」と言っています。
防人として徴兵されたのは、わずかな例外を除いて、ずっと東国の出身者でした。これは何故でしょうか。いろいろな説があるようですが、一説にはこう言います。白村江の戦い以降、日本に逃れてきた百済の宮廷人や兵士は、それぞれ朝廷で文化や軍事の担い手として活躍しました。しかし、身分の低い人や兵士らは幾度かに分けて東国に移植されました。同族間の憎しみは、ときにより激しいものになるといいます。天智天皇は東国で新たな生活を始めた百済人を防人として、再びかり出し、日本を襲ってくるかもしれない彼らの祖国の同胞に立ち向かわせたというのです。何とも切ないお話です。
⇒防人の歌(巻第20)
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