巻第20-4321~4324
4321 畏(かしこ)きや命(みこと)被(かがふ)り明日(あす)ゆりや草(かえ)が共(むた)寝(ね)む妹(いむ)なしにして 4322 我(わ)が妻はいたく恋ひらし飲む水に影(かご)さへ見えて世(よ)に忘られず 4323 時々の花は咲けども何すれぞ母とふ花の咲き出来(でこ)ずけむ 4324 遠江(とへたほみ)志留波(しるは)の礒と尓閇(にへ)の浦と合ひてしあらば言(こと)も通(かゆ)はむ |
【意味】
〈4321〉恐れ多くも大君の仰せを承って、明日からは草と一緒に寝ることになるのだろうか、愛する妻もいないまま。
〈4322〉私の妻は私のことをひどく恋しく思っているらしい。飲む水の上に面影になって見えるので、少しも忘れることができない。
〈4323〉季節が変わるごとに花は色々咲くけれど、どうして母という名の花は咲いてこないのだろう。
〈4324〉遠江の志留波の磯と、今いる尓閇の浦が接していたならば、せめて言葉なりとも交わすことができるのに。
【説明】
いずれも遠江国出身の防人の歌で、4321の作者は、国造(くにのみやつこ)の丁(ちょう)、長下郡(ながのしものこうり)の物部秋持(もののべのあきもち)とあり、国造の家から出た、防人の中では最上級の人。「国造」は、世襲の地方官のことで、その地の豪族。国と郡が置かれることになった大化改新によって廃止されましたが、その後も大部分が優先的に郡司に任ぜられました。「丁」は、律令制下で課税対象となる成年男子をいい、そのうち21~60歳の男子が正丁とされ、庸(よう)・調(ちょう)・徭(よう)などの課役が賦課されました。ほかに年齢に応じて少丁、老丁(次丁)、また身体に軽度の障害のある残疾などに区分され、それぞれに賦課の程度が決められていました。ここでの「丁」は「正丁」をさしています。
4322は、主帳(しゅちょう)の丁、麁玉郡(あらたまのこおり)の若倭部身麻呂(わかやまとべのみまろ)とあり、主張(郡の四等官、公文に関する記録係)の家から出た人。「軍防令」では、兵1,000人つき2人と定められています。4323は「防人(さきもり)山名郡(やまなのこおり)の丈部真麻呂(はせつかべのままろ)」とあり、単に「丁」または「防人」と呼ばれる一般兵士にあたります。4324は同じ郡の丈部川相(はせつかべのかわい)。遠江国からの行程は、上り15日と定められていました。
4321の「畏きや命被り」は「大君の命畏み」と同じ意で、恐れ多い勅命を受けて。「明日ゆりや」の「ゆり」は「より」の方言。「草が共寝む」の「草(かえ)」は「かや」の方言で、草(くさ)のこと。「共寝む」の「共(むた)」は「とも」の古語。「妹(いむ)」は「いも」の方言。防人たちが難波に行き着くまでの旅の宿については、「軍防令」にも記載がなく、他の歌に「草枕旅の丸寝」「旅の仮廬」などの言葉が出てくるところから、草と共に寝る野宿が基本だったのでしょう。4322の「恋ひらし」は「恋ふらし」の訛り。「影さへ見えて」の「影(かご)」は「かげ」の方言。「影さへ」は、影にさえ。「世に」は、決して、全然。夢に相手が見えるのは相手が自分を思うしるしとする俗信がありましたが、ここは手に掬って飲もうとする水の中に自分の姿が映ったのを、それに寄せて妻の面影を思い、同じように考えています。
4323の「時々の」は、季節ごとの。「母とふ花」は、母という名の花。何の花であるかは、春の七草の「ごぎょう」を「母子草」と呼んでいたともいわれますが未詳で、あるいは母を花に喩えた表現なのかもしれません。「何すれぞ」は、どうして。「けむ」は、過去推量。歌の解釈は、上掲のように現在の事実に関する疑問とすべきと思われるのに「けむ」を用いていることに不審が持たれ、難波に着いた作者が道中に見た色々な花を思い浮かべつつ、やはり母という名の花は咲いていなかった、との回想だとする説があります。しかし、防人たちが難波に向かったのは1~2月の寒い季節であり、道中に色々な花が咲いていたとは考えにくいところです。あるいは、まだ若い独身者の歌と見て、「どうして母は亡くなってしまったのか」として、出立に際して呪的見送りをしてくれるはずの母の不在を嘆く歌とする見方もあります。
4324の「遠江(とへたほみ)」は「遠つあふみ」の約「とほたふみ」の地方音で、今の静岡県西部。都に近い近江に対する名称ですが、元々「あふみ」は「淡海」で、淡水湖を意味する普通名詞。「志留波の礒」と「尓閇の浦」の所在は、さまざまな説があるものの未詳。「合ひてしあらば」は反実仮想で、接していたならば、一続きになっていたならば。「通(かゆ)はむ」は「かよはむ」の訛り。「言通ふ」は、離れ住む者相互の間に便りがあること。「む」は、せめて~だけでも、の意。旅の道中での作らしく、急に防人として出立せねばならず、妻に別れを告げる暇がなかったことを嘆いています。
防人について
防人(さきもり)は、663年に百済救済のために出兵した白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れたのを機に、北九州沿岸の防衛のため、軍防令が発せられて設置されました。大宰府に防人司(さきもりのつかさ)が置かれ、防人たちは、朝鮮半島から日本国土への最短の航路に位置する壱岐・対馬の2島と筑紫の要害の地に配備されました。おもに東国の出身者の中から選抜、定員は約1000名、勤務期間は3年とされていました。
防人の徴兵は、逃げたり仮病を使ったりさせないため、事前連絡もなく突然に行われたといいます。まず都に集め、難波の港から船で筑紫に向かいました。家から難波までの費用は自前でした。なお、『万葉集』に防人の歌が数多く収められているのは、当時、すなわち天平勝宝7年(755年)に、出港地の難波で防人の監督事務についていた大伴家持が、彼らに歌を献上させ採録したからだといわれます。
ところで、このころ防人として徴兵されたのが、わずかな例外を除いて、ずっと東国の出身者だったのは何故でしょうか。いろいろな説があるようですが、一説にはこう言います。白村江の戦い以降、日本に逃れてきた百済の宮廷人や兵士は、それぞれ朝廷で文化や軍事の担い手として活躍しました。しかし、身分の低い人や兵士らは幾度かに分けて東国に移植されました。同族間の憎しみは、ときにより激しいものになるといいます。天智天皇は東国で新たな生活を始めた百済人を防人として、再びかり出し、日本を襲ってくるかもしれない彼らの祖国の同胞に立ち向かわせたというのです。何とも切ないお話です。
防人歌について
防人歌は東歌の中にも数首見られますが、一般には巻第20に収められた84首を指します。これらは3年任期の防人が交替する年であった天平勝宝7年(755年)に、諸国の部領使(ことりづかい:防人を引率する国庁の役人)に防人らの歌を進上させ、当時、兵部少輔(兵部省の次席次官)の官職にあり、防人交替業務を担当していた大伴家持が選別して採録しました。難波で収集されたので、難波以西の歌は存在しません。内容としては、故郷を出発する時の歌、難波津までの旅の途上の歌、難波津に集結している時の歌の3つに大別されます。
ところで、なぜ組織的に防人たちの歌が収集されたかについては、彼らの心情を伝える記録として、防人制度検討に際しての参考資料とするためだったようです。当時の兵部省の長官は橘奈良麻呂で、その父は左大臣の諸兄でしたから、諸兄から奈良麻呂を通じて、家持に防人歌収集の命が下された可能性があります。一方で、家持自身が、父の旅人以来の防人廃止を願う執念から、防人の窮状を訴える歌を収集したとする意見もあります。
なお、防人歌も長歌1首を除き、東歌と同様にすべてが完全な短歌形式(5・7・5・7・7)で一字一音の音仮名表記による統一した書式になっているところから、家持に進上されるまでに役人の手が加わった可能性が高く、さらには家持による改作が行われた跡が窺える点には留意すべきです。とはいえ、防人たちの根本の発想や気持ちを伝える歌であることには違いありません。
巻第20-4325~4327
4325 父母(ちちはは)も花にもがもや草枕(くさまくら)旅は行くとも捧(ささ)ごて行かむ 4326 父母(ちちはは)が殿(との)の後方(しりへ)のももよ草(ぐさ)百代(ももよ)いでませ我(わ)が来(きた)るまで 4327 我(わ)が妻も絵に描(か)き取らむ暇(いつま)もが旅行く我(あ)れは見つつ偲(しの)はむ |
【意味】
〈4325〉父母が、せめて花であってくれればなあ。そしたら旅に出るにしても捧げ持って行こうものを。
〈4326〉父母が住んでいる母屋の裏手のももよ草、そのの名のごとく、どうか百歳までお達者で、この私が帰って来るまで。
〈4327〉我が妻をせめて絵に描き写す暇があったらなあ。長い旅路でその絵を見ながら妻をしのぶことができるのに。
【説明】
遠江国の防人の歌。作者は、4325が、佐野郡(さやのこおり)の丈部黒当(はせつかべのくろまさ)、4326が、同じ郡の生壬部足国(みぶべのたるくに)、4327が長下郡(ながのしものこおり)の物部古麻呂(もののべのこまろ)。
4325の「父母も」の「も」については、「父も母も」の上の方のモを略したとする見方や、せめて~でも、のような希求の気持ちを表して用いられる場合があるとの見方があります。ここは後者に従って解釈しています。「花にもがもや」の「もがも」は希求で、~であればよい、の意。「や」は、感動の助詞。「草枕」は「旅」の枕詞。「捧ごて」は「捧げて」の訛り。ササゲはサシアゲの約で、目よりも高く大切に戴き持つこと。
4326の「殿」は、宮殿などの豪壮な居宅のことで、父母の住家を賛美して言ったもの。「ももよ草」は、未詳ながら、花びらの多い草という理解から、菊ではないかとする説が有力です。これには、菊は、延暦16年(797年)の桓武天皇の御製にはじめて見えるものだから万葉時代に菊ははなかったとの説がある一方、『懐風藻』(天平勝宝3年:751年)の詩に、野生ではなく立派に栽培されていたらしい菊を詠んだものがあるという反論があります。かりに菊だとしても、この防人が故郷を発った季節に、その花が咲いていたかの疑問は残ります。上3句は「百代」を導く同音反復式序詞。「百代」は、百年で、いつまでもの意。「いでませ」は、いらせられませの意。「我が来るまで」は、任務を終えて筑紫から帰って来る時まで。防人は21歳から60歳までの正丁から選ばれましたが、まだ子供のような独り身の青年たちも多かったようです。
4327の「我が妻も」の「も」は、4325の「父母も」の「も」と同様、せめて~でも、の気持ちを込めた用法。「暇(いつま)」は、イトマの訛り。「もが」は、願望の助詞。防人に指名されると、出発までの間に余裕がなく、肌身離さず持っていたい妻の絵姿を描けない嘆きを歌っています。窪田空穂は、「防人に立つ年齢の者に、そうした嗜みのあったということは驚くに足りる」と言い、詩人の大岡信も、絵(原文では画)という文字に「衝撃でさえある事実を伝える」と言っています。
防人に指名されて国庁に集まった防人たちとその家族は、そこで防人編成式に臨み、そのあと家族と別れ、国司職の部領使(ことりづかい/ぶりょうし:引率する係りの者)に引率されて陸路難波をめざしました。また、難波までの食料などの調達はすべて自弁とされ、公粮(ひょうりょう)が支給されるのは難波に着いてからでした。彼らが難波までに辿ったルートは2つあり、一つは海沿いの東海道、もう一つは山を通る東山道(のちの中仙道)でした。東海道は、茨城県、千葉県から神奈川県、静岡県に入るルート、東山道は、栃木県(下野国)から群馬県(上野国)に行き、碓氷峠を越えて長野県(信濃国)に入り、神坂峠を越えて岐阜県(美濃国)に入るルートでした。
巻第20-4328~4330
4328 大君(おほきみ)の命(みこと)畏(かしこ)み磯(いそ)に触(ふ)り海原(うのはら)渡る父母(ちちはは)を置きて 4329 八十国(やそくに)は難波(なには)に集(つど)ひ船(ふな)かざり我(あ)がせむ日ろを見も人もがも 4330 難波津(なにはつ)に装(よそ)ひ装ひて今日(けふ)の日や出でて罷(まか)らむ見る母なしに |
【意味】
〈4328〉大君のご命令を恐れ畏んで、磯から磯を伝いながら、海原を渡っていく、父母を置いたまま。
〈4329〉諸国の防人たちが難波に集結し、船かざりをして船出に備える。その日の晴れ姿を見送る人がいてくれたらなあ。
〈4330〉難波津で船を飾り立てて今日という日、いよいよ任地に向かう。見送りに来る母もないままに。
【説明】
相模国の防人の歌。作者は、4328が助丁(じょちょう)丈部造人麻呂(はせつかべのみやつこひとまろ)とあり、助丁は未成年の兵士だとする説もありますが、国造丁(防人の部隊を率いた統率役)の補佐役とされます。4329が足下郡(あしがらのしものこおり)の上丁(じょうちょう)丹比部国人(たじひべのくにひと)。上丁は一般兵士の上階の者をさすといわれます。4330が鎌倉郡(かまくらのこおり)の上丁、丸子連多麻呂(まろこのむらじたまろ)。相模国からの行程は、上り25日と定められていました。
4328は、難波に着いた後、海路筑紫へ向かう前途を思い、心細さを秘めつつも決意をうたった歌。「大君の命畏み」は、成句となっている表現。「畏み」は「畏し」のミ語法。「磯に触り」は、磯に接しながら。当時の船は風波への抵抗力が弱かったため、風波があればただちに岩陰に退避できるるよう、できるだけ海岸を離れずに航行したので、そのさまを具象的に言ったものです。「海原(うのはら)」は「うなばら」の訛り。斎藤茂吉はこの歌について、畏み、触り、渡る、置きてという具合にやや小刻みになっているのは作歌的修練が足りない、としながらも、「磯に触り」という語と、「父母を置きて」という語に心を惹かれると言っています。
4329の「八十国」は、多くの国の人々の意で、ここは各国の防人集まったことを国そのものが集結したように言ったもの。「船飾り」は、船が出航するための準備をすること。軍防令には「凡そ軍団には、各(おのもおのも)鼓二面、大角(はらのふえ)二口、少角(くだのふえ)四口置け」とあり、防人の出航の時も陣太鼓や法螺貝の類を用いて壮大に軍楽が奏せられたと想像されます。「日ろ」の「ろ」は、接尾語。「見も」は「見む」の訛り。「もがも」は、願望の「もが」と詠嘆の「も」。
4330の「装ひ装ひて」は、装いに装って。船を旗や幟(のぼり)などで勇壮に飾り立てること。だんだん装備が整っていく様子を示しています。「罷る」は、本来は貴人や他人の前から退出する意ですが、ここでは都またはその辺りから地方に出ることを言っています。東国の防人にとって長い船旅の経験は少なく、出航地の難波津は印象深かったことでしょう。ただ、防人らの歌の提出は船出以前に終わっているはずなのに、これら2首はいずれも難波出航に際しての歌であるのは謎です。
難波に集結した防人たちは、兵部省の役人による手続きを終えたのち、大宰府の防人司から派遣されてきた役人に引率され、海路で筑紫に向かいました。遠い東国の人間がなぜ防人に徴集されたかの理由の一つに、逃亡しにくかったからではないかとする見方も存在します。土地勘がないので逃亡をはじめからあきらめる、また、たとえ逃亡しても方言からすぐに発覚してしまうから、というのです。あるいは、東国の力が強く、その反乱を未然に防ぐため、あえて東国の男たちを西に運んだとする見方もあるようです。
巻第20-4331~4333
4331 大君(おほきみ)の 遠(とほ)の朝廷(みかど)と しらぬひ 筑紫(つくし)の国は 賊(あた)守る おさへの城(き)ぞと 聞こし食(を)す 四方(よも)の国には 人(ひと)さはに 満ちてはあれど 鶏(とり)が鳴く 東男(あづまをのこ)は 出(い)で向かひ 顧(かへり)みせずて 勇(いさ)みたる 猛(たけ)き軍士(いくさ)と ねぎたまひ 任(ま)けのまにまに たらちねの 母が目 離(か)れて 若草の 妻をもまかず あらたまの 月日 数(よ)みつつ 葦(あし)が散る 難波(なには)の御津(みつ)に 大船(おほぶね)に ま櫂(かい)しじ貫(ぬ)き 朝なぎに 水手(かこ)整へ 夕潮(ゆふしほ)に 楫(かぢ)引き折(を)り 率(あども)ひて 漕(こ)ぎ行く君は 波の間(ま)を い行きさぐくみ ま幸(さき)くも 早く至りて 大君(おほきみ)の 命(みこと)のまにま ますらをの 心を持ちて あり巡(めぐ)り 事し終らば 障(つつ)まはず 帰り来ませと 斎瓮(いはひへ)を 床辺(とこへ)に据(す)ゑて 白栲(しろたへ)の 袖(そで)折り返し ぬばたまの 黒髪敷きて 長き日(け)を 待ちかも恋ひむ 愛(は)しき妻らは 4332 大夫(ますらを)の靫(ゆき)取り負ひて出でて行けば別れを惜(を)しみ嘆きけむ妻 4333 鶏(とり)が鳴く東壮士(あづまをとこ)の妻別れ悲しくありけむ年の緒(を)長み |
【意味】
〈4331〉大君の、都を遠く離れた朝廷たる筑紫の国は、外敵から身を守る抑えの砦だと、お治めになっている四方の国々には人が数多く満ちてはいるが、とりわけ東の国の男子は、敵に向かって命をもかえりみない勇敢な兵士だとほめ労われ、お差し向けになるまま、母のもとから離れ、なよやかな妻から離れて、任務につく。過ぎて行く月日を数えながら、難波の港から、大船の左右に櫂をびっしり貫き並べ、朝なぎの海に漕ぎ手を集め、夕潮の流れに楫をたおし、声をかけ合って漕いで行く君は、波の間を押し分け、早く無事に筑紫にたどり着き、大君の仰せのままに、男子たる志を持って防備の任につく。その任務が終わったらつつがなく帰ってきて下さいと、清めた甕(かめ)を床の辺に据え、真っ白な着物の袖を折り返し、夜床に黒髪を敷いて寝て、長い日々を待っていることだろう、彼らの愛しい妻たちは。
〈4332〉男子たるにふさわしく、靫(さや)を背負って門出をする時、さぞや別れを惜しんで嘆いたことだろう、その妻は。
〈4333〉東国の若者たちの妻との別れはさぞかし悲しかったことであろう。別れている年月が長いので。
【説明】
天平勝宝7年(755年)2月8日、大伴家持が、「防人の別れを悲しぶる心を痛みて作れる」歌。天平勝宝3年(751年)に少納言となって越中から都に戻った家持は、その後、兵部少輔となり、防人検校の任にあたることになったわけですが、帰京した彼が、4360~4362の歌と共にこれほどの熱意をもって歌を作ったのは、これが初めてでした。家持にとって、防人たちとの出会いはたいへんな刺激になったようで、まだすべての国の防人の歌の集結が終わらないこの日に、早くもこの歌を詠んでいます。
4331の「遠の朝廷」は、都から遠く離れた行政庁。ここでは大宰府のこと。「しらぬひ」は「筑紫」の枕詞。意味・掛かり方未詳ですが、一説には「領(し)らぬ霊(ひ)憑き(つ)く」意で「筑紫」に掛かるとも言います。「賊守る」は、外敵の襲来を警戒防備する。「おさへの城」は、抑え鎮める砦。「聞こし食す」は、お治めになる。「鶏が鳴く」は「東」の枕詞。掛かり方には諸説あり、一説には「鶏が鳴く、起きよ吾夫(あづま)」の意で「あづま」に続くといいます。「顧みせずて」は、個人的生活や感情を顧慮しないで。「ねぎたまひ」の「ねぐ」は、優しく言い聞かせる、慰撫する。「任け」は、任命して派遣すること。「たらちねの」「若草の」は、それぞれ「母」「妻」の枕詞。「あらたまの」は「年」の枕詞を「月」に転じさせたもの。「葦が散る」は「難波」の枕詞。「率ひて」は、統率して。「さぐくみ」は、押し分けて。「大君の命」は、天皇のおことば。「斎瓮」は、清めた御酒を入れる甕。「白栲の」「ぬばたまの」は、それぞれ「袖」「黒髪」の枕詞。「袖折り返し」は、袖を折り返して寝ると恋人と夢で逢えるという俗信によっています。
4332の「靫」は、矢を入れて背に負う武具。「取り負ひて」の「取り」は接頭語で、背に負うて。「嘆きけむ妻」の「けむ」は、過去推量の助動詞。4333の「年の緒」は、年が長く続くことを緒に譬えていう語。「長み」は、長いので。
遠江国や相模国の防人たちの歌を見て、おそらく家持は、ああ、こんなことだったのかと、意外の感に打たれたと見えます。そこには、大君の「任のまにまに」勇んで出てきた東の「丈夫(ますらを)」のおもかげは全くなく、誰もが父母や妻との別れの悲しみを歌っていたからです。彼らにとって、先ず口をついて出るのは、勇猛心でも丈夫としての気負いでもなく、何より家族との別れの悲しみだった・・・。その衝撃が上掲の題詞となったのでしょう。
巻第20-4334~4336
4334 海原(うなはら)を遠く渡りて年(とし)経(ふ)とも子らが結べる紐(ひも)解くなゆめ 4335 今 替(かは)る新防人(にひさきもり)が船出(ふなで)する海原(うなはら)の上に波な咲きそね 4336 防人の堀江(ほりえ)漕(こ)ぎ出る伊豆手船(いづてぶね)楫(かぢ)取る間(ま)なく恋は繁(しげ)けむ |
【意味】
〈4334〉海原を遠く渡ってどれほど年月が経っても、愛しい妻が結んでくれた着物の紐を解いてはならない、決して。
〈4335〉今交替する新しい防人たちが船出して行く海原の上に、波よ、波頭を立てないでおくれ。
〈4336〉難波の堀江から漕ぎ出して行く伊豆手船、その楫を漕ぐ手が休む間がないように、妻への恋しさが募ってたまらないことだろう。
【説明】
上の歌に続いて、2月9日に家持が作った歌。4334の「子ら」は、防人の妻のこと。「結べる紐」は、夫婦が別れる際に、また逢うことを祈って互いに下紐を結び合ったこと。「ゆめ」は、決して。家にあって夫の帰りを待っている妻の心を思い、他の女と関係してはならないと戒めている歌。4335の「波なさきそね」の「な~そね」は、禁止。「咲く」は、波の泡が白く立つさまを花に譬えて言ったもの。
4336の「堀江」は、難波の掘割。仁徳紀11年の条に、当時大和川・山城川が流入する河内湖が雨季に氾濫していたことから、沿岸住民の困窮を救うために、天皇は難波宮の北に運河を開削し、大和川の水を西の海(大阪湾)に流す工事を起こした。この運河が堀江である、との記載があります。今の天満川のことだとされ、『万葉集』にもしばしば登場します。「伊豆手船」は、伊豆国の職人が造った船。「楫取る間なく」は、楫を操るのに絶え間ない意。上3句は、実景を述べると共に、その船を漕ぐ水夫が手を休めない意で「間なく」を導く序詞。「恋は繁けむ」は、妻への恋は繁くあろう。
巻第20-4337~4341
4337 水鳥(みづどり)の立ちの急ぎに父母(ちちはは)に物(もの)言(は)ず来(け)にて今ぞ悔(くや)しき 4338 畳薦(たたみけめ)牟良自(むらじ)が礒(いそ)の離磯(はなりそ)の母を離(はな)れて行くが悲しさ 4339 国(くに)廻(めぐ)るあとりかまけり行き廻(めぐ)り帰(かひ)り来(く)までに斎(いは)ひて待たね 4340 父母(ちちはは)え斎(いは)ひて待たね筑紫(つくし)なる水漬(みづ)く白玉(しらたま)取りて来(く)までに 4341 橘(たちばな)の美袁利(みをり)の里に父を置きて道の長道(ながち)は行きかてのかも |
【意味】
〈4337〉水鳥が飛び立つように、出発前のあわただしさに父母に物もいわずに来てしまった。今となってはそれが口惜しい。
〈4338〉牟良自の磯の離れ岩のように、母の許を、一人離れて行くのが悲しい。
〈4339〉国から国へ渡り巡るアトリや鴨やケリのように、私が国々を巡って帰ってくるまで、神に無事を祈って待っていて下さい。
〈4340〉父さん母さん、私の無事を神に祈って待っていて下さい。筑紫の海に漬かっている真珠を取って帰ってくるまで。
〈4341〉橘の美袁利(みおり)の里に父を残し、長い旅の道は行きかねることだ。
【説明】
駿河国の防人の歌。作者は、4337が上丁(じょうちょう)有度部牛麻呂(うとべのうしまろ)、4338が助丁(じょちょう)生部道麻呂(みぶべのみちまろ)、4339が刑部虫麻呂(おさかべのむしまろ)、4340が川原虫麻呂(かわらのむしまろ)、4341が丈部足麻呂(はせべのたりまろ)。駿河国からの行程は、上り18日と定められていました。
4337の「水鳥の」は「立つ」の比喩的枕詞。鴨などの水鳥が飛び立つ際の羽音が騒がしい感じをも込めていると見えます。「立ちの急ぎに」の「急ぎ」は、準備の意。「物言(は)ず」は「物いはず」の約。「来(け)にて」は「きにて」の方言。4338の「畳薦」は「たたみこも」の方言で、畳に編む薦。その群がり生えるところから「牟良自」の枕詞。「牟良自が磯」は、所在未詳。上3句は、実景を捉えての譬喩であると共に「離れ」を導く同音反復式序詞。「離り磯」は、ただ一つ離れている岩。軍防令には、征行に婦女を同行することを禁じていますが、『日本霊異記』には、母が筑紫まで随行した防人の話が記されています。
4339の「あとりかまけり」は、アトリ・カマ・ケリの3種の渡り鳥の名とされますが、確かではありません。「帰(かひ)り」は「かえり」の訛り。「斎ふ」は、身を清めて祈る。家族の者が旅中にある間、妻などは禁忌を守って斎戒しました。窪田空穂は、「渡り鳥は、群をなして翔る威勢のいい鳥であるから、防人としての自身を譬えるには、適切である上に、相手に元気づける効果もあるものである。健康な、聡明な人柄が思われる歌である。不明の語のあるのが惜しい」と言っています。4340の「父母え」の「え」は「よ」の方言。「斎ひて」は、潔斎して。「水漬く白玉」は、水に漬かっている真珠。窪田空穂は、「『筑紫なる水漬く白玉』は、憧れを持っていっている形のものであるが、親の心を引き立てようとして、わざと設けていっているものとも取れて、幅の広い語である。これは上の歌よりも、さらに明るい心をもっていっているものである」と評しています。
4341の「橘」は地名で、静岡市清水区立花か。「美袁利の里」は、所在未詳。「道の長道」は、駿河から難波までの遠い道のり。「行きかてぬかも」の「かてぬ」は、できない、しかねる。「かも」は、詠嘆。なお、父への思いを詠んだ歌は珍しく、防人歌のなかで、父だけをあげているのはわずかに1首、「父母」と記しているのが8首、「母父」と記しているのが3首、母だけをあげているのが10首となっています。この時代、父母健在でも、子が母とのみ住むケースはあるにせよ、母をほかにおいて父と子というケースは考えられません。この作者の場合、母親が早くに亡くなるかして、父子家庭だったと見られています。
江戸時代の僧・国学者の契沖が著した『万葉代匠記』には、4337の歌の注に、防人歌全般をとりまとめて次のように記されています。「すべてこの防人どもの歌、ことばはだみたれど(訛っているが)、心まことありて父母に孝あり。妻をいつくしみ子をおもへる、とりどり(それぞれ)にあはれなり。都の歌は古くも少し飾れることもやといふべきを、これらを見ていにしへの人のまことは知られ侍り」
巻第20-4342~4345
4342 真木柱(まけばしら)讃(ほ)めて造れる殿(との)のごといませ母刀自(ははとじ)面変(おめが)はりせず 4343 我(わ)ろ旅は旅と思(おめ)ほど家(いひ)にして子 持(め)ち痩(や)すらむ我(わ)が妻(み)愛(かな)しも 4344 忘らむて野行き山行き我(わ)れ来れど我(わ)が父母(ちちはは)は忘れせぬかも 4345 我妹子(わぎめこ)と二人我(わ)が見しうち寄(え)する駿河(するが)の嶺(ね)らは恋(くふ)しくめあるか |
【意味】
〈4342〉立派な木材を寿いで建てた御殿のように、母上、いつまでも元気でいて下さい、面やつれなどせずに。
〈4343〉自分は、どうせ旅は旅だと割り切ればよいが、家で子供を抱えてやつれている妻が愛しくてならない。
〈4344〉忘れよう、忘れようと思って、野を行き山を行きやってきたが、わが父母のことは忘れることなどできない。
〈4345〉いとしい妻と二人で眺めた 波のうち寄せる駿河の国の、あの頂きがとても恋しい。
【説明】
駿河国の防人の歌。作者は、4342が坂田部首麻呂(さかたべのおびとまろ)、4343が玉作部広目(たまつくりべのひろめ)、4344が商長首麻呂(あきのおさのおびとまろ)、4345が春日部麻呂(かすがべのまろ)。
4342の「真木柱」のケはキの訛りで、杉や檜などを材とした家の中心になる太くて立派な柱のこと。上代の建築では、家の中心となる柱は、特に高く太く、良い材を用いたといいます。「讃めて造れる」は、家を建てる際、その家に吉祥があるように祈り、柱に誉め言葉を言いかけて造るならわしがあったか。「殿」は、身分ある人の家に対する敬称で、そうした殿のようにゆるぎないことの比喩。作者が実際に建築に携わったことのある、土地の豪族などの屋敷のことを言っているのかもしれません。「母刀自」は、母の敬称。「刀自」は家の内を取り仕切る主婦の意で、「戸主(とぬし)」から転じたものといわれます。「面(おめ)」は、オモの訛り。「面変りせず」は、顔の様子が変わることなく、お変わりなく。
4343の「我ろ」の「ろ」は、接尾語。「思(おめ)ほど」は、オモヘドの訛り。「家にして」のイヒはイヘの訛りで、家にあって。「子持ち痩すらむ」のメチはモチの訛り。幼児をかかえ男手もなく生業に追われ痩せ細ることを言っていると見られます。「妻(み)」は、メの訛り。窪田空穂は、「こうした別れの際、自身のことはいわずに、相手のほうを主として物をいうのは、上代では儀礼となっていたのであるが、これは儀礼を超えた、真実の心の溢れ出たものである。若くして老熟したあわれのある歌である」と述べています。また、日本史学者の北山茂夫は、「『かなしも』にこめられた妻をいとおしむ愛情は深くして真実にみちている。農民玉作部広目を、この一首のみで、記憶されるべき万葉作者に数えたいと思うのは、わたくし一人であろうか」と賞賛しており、作家の田辺聖子も、「美しい言葉はここにはない。日常語が何の技巧もなく並べられているだけである。しかし男のやさしさが匂うようにたちのぼって珠玉のような美しい歌になっている」と評しています。
4344の「忘らむて」は、忘ラムトの訛り。先の太平洋戦争の時、若い出征兵士らの共感を呼び、特に愛唱された歌だといい、窪田空穂は、「溜め息をそのまま詠み上げたような純情な歌」と評しています。4345の「我妹子(わぎめこ)は、ワギメコの訛り。「うち寄(え)する」は「駿河」の枕詞。「えす」は、ヨスの訛り。「駿河の嶺ら」は、富士山。「ら」は、接尾語。「恋(くふ)しくめあるか」は、コホシクモアルカの訛り。駿河国では「о」を「e」とする訛りが多くありました。この歌では、単に富士山が恋しいのではなく、妻と一緒に眺めた富士山が恋しいと言っています。
巻第20-4346~4350
4346 父母(ちちはは)が頭(かしら)かき撫(な)で幸(さ)くあれて言ひし言葉(けとば)ぜ忘れかねつも 4347 家にして恋ひつつあらずは汝(な)が佩(は)ける大刀(たち)になりても斎(いは)ひてしかも 4348 たらちねの母を別(わか)れてまこと我(わ)れ旅の仮廬(かりほ)に安く寝(ね)むかも 4349 百隈(ももくま)の道は来(き)にしをまた更(さら)に八十島(やそしま)過ぎて別れか行(ゆ)かむ 4350 庭中(にはなか)の阿須波(あすは)の神に小柴(こしば)さし我(あ)れは斎(いは)はむ帰り来(く)までに |
【意味】
〈4346〉父と母とがかわるがわるにやさしく頭をかき撫でて、元気に過ごしてほしいと言った言葉が忘れられない。
〈4347〉家で恋しく思っているのではなく、お前が腰に帯びる大刀、せめてその太刀にでもなってそばで見守ってやりたい。
〈4348〉母と離れて、本当に私は旅の仮寝で安らかに寝ることができるのだろうか。
〈4349〉多くの曲がりくねった道をここまではるばる来たのに、さらにまた多くの島をめぐって漕いで別れて行かねばならないのか。
〈4350〉庭の中に祀っている阿須波の神に小柴を刺し、私は無事を祈ろう。帰ってくるまでの間を。
【説明】
4346は駿河国の丈部稲麻呂(はせべのいなまろ)の歌。4347~4350は上総国の防人の歌。作者は、4347が国造丁(くにのみやっこのよぼろ)日下部使主三中(くさかべのおみみなか)の父。国造丁は国造の家の使用人のこと。4348が日下部使主三中、4349が助丁の刑部直三野(おさかべのあたいみの)、4350が帳丁若麻続部諸人(わかおみべのもろひと)。
4346の「頭かき撫で」というのは、単なる愛撫ではなく、旅の無事を祈り、祝の言葉に伴わせる一つの呪法ではなかったかともいわれますが、やっと正丁に達したばかりの、まだあどけなさの残る若者の姿が目に浮かぶ歌でもあります。「幸(さ)く」は、サキクの訛り。「あれて」の「て」は、トの訛り。「言葉ぜ」のケトバは、コトバの訛り。「ぜ」はゾの訛り。ここでも「о」を「e」とする訛りが目立ちます。
4347の「恋ひつつあらずは」は、恋い続けていずに。「大刀になりても」の「も」は、せめて~だけなりとも、の意で用いたもの。「斎ひてしかも」の「斎ひ」は、神を祀ることですが、ここでは転じて守護する意。「てしか」は、願望。父親による歌は、防人歌の中でこの1首のみです。窪田空穂は、「歌は一時期前の京の歌と異ならないものである。国造の家なので、相応に教養があったためと思われる」と述べています。
4348の「たらちねの」は「母」の枕詞。「まこと」は、本当に。「仮廬」は、旅先で夜の寝所として造る小屋。「安く寝むかも」の「かも」は反語で、安らかに寝られようか、寝られない。母の安否を気遣うというより、母と一緒にいられない寂しさを訴える、どこか甘えん坊のような感触の残る歌です。4349の「百隅」は、多くの曲がり角。「隈」は、物陰にあって周囲からは見えにくい部分を言います。「道は来にしを」の「道」は、上総から難波までの道筋のこと。「を」は、逆接。「八十島」は、多くの島。「別れか行かむ」は、別れて行くのであろうか。遥々陸路を辿ってきて、さらに難波から船出する時の歌のようです。
4350の「庭」は、収穫物を処理する作業場を広く言い、ここは農家の庭先だろうとされます。「阿須波の神」は『古事記』に出てくる農業神。いわゆる屋敷神として木・石・祠などで神を祭っていたと見られています。「小柴さし」は、神式の一つで、神を祭る清浄な場所であることを示すため境に柴を刺す行為。現在でも行われている地域があり、宇佐八幡宮の柴刺し神事は有名です。「斎ふ」は、精進して祈る。「帰り来までに」は、家に帰るまでの間を。
防人歌には、父母や妻子を思う歌が数多くあります。一方、王朝の歌では、親への慕情を詠うものは極めてまれであり、平安期以降の旅の歌に、父母を思う作はほとんど見られなくなっています。人の心の最たる「まこと」であるはずなのに、雅(みやび)の世界にはふさわしくないとされたのでしょうか。
巻第20-4351~4355
4351 旅衣(たびころも)八重(やへ)着重(きかさ)ねて寐(い)ぬれどもなほ肌寒(はださむ)し妹(いも)にしあらねば 4352 道の辺(へ)の茨(うまら)の末(うれ)に延(は)ほ豆のからまる君をはかれか行かむ 4353 家風(いへかぜ)は日に日に吹けど我妹子(わぎもこ)が家言(いへごと)持ちて来(く)る人もなし 4354 立鴨(たちこも)の発(た)ちの騒(さわ)きに相(あひ)見てし妹(いも)が心は忘れせぬかも 4355 よそにのみ見てや渡(わた)らも難波潟(なにはがた)雲居(くもゐ)に見ゆる島ならなくに |
【意味】
〈4351〉旅の着物を何枚も重ねて寝るのだけれど、やはり肌寒い。妻ではないので。
〈4352〉道ばたのいばらの先に豆のつるが絡みつくように、私に絡みついて離れない君を残して、別れて行かなければならないのか。
〈4353〉家のほうからの風は日ごとに吹いてくるのに、妻からの家の便りを持ってきてくれる人とてない。
〈4354〉立つ鴨のような出立のあわただしさの中を、逢いに来てくれたあの子の心根は忘れようにも忘れられない。
〈4355〉ただ見るだけで渡って行くのか、この難波潟は、雲の彼方に見える遠い離れ島というわけではないのに。
【説明】
上総国の防人の歌。作者は、4351が望陀郡(まぐたのこおり)の上丁、玉作部国忍(たまつくりべのくにおし)、4352が天羽郡(あまはのこおり)の上丁丈部鳥(はせべのとり)、4353が朝夷郡(あさひなのこおり)の上丁丸子連大歳(まるこのむらじおおとし)、4354が長狭郡(ながさのこおり)の上丁、丈部与呂麻呂(はせべのよろまろ)、4355が武射郡(むざのこおり)の上丁、丈部山代(はせべのやましろ)。上総国からの行程は、上り30日と定められていました。
4351の「八重着重ねて」は、何枚も重ねて着て。「妹にしあらねば」の「し」は、強意の副助詞。旅衣は妻でないから、の意。時は2月であり、旅寝は着たままの丸寝だったのです。
4352の「茨」は、ノイバラ。「末」は、先端。「延ほ豆の」の「はほ」は、ハフの訛り。この豆が今日の何にあたるか不明。上3句は「からまる」を導く譬喩式序詞。「君」は女が男に呼びかける語ですが、ここでは逆になっており、妻に対する敬称。「はかれか」の「はかる」は、離れる、別れる。「か」は、疑問。「行かむ」は「か」の係り結びで、連体形。窪田空穂はこの歌について、「防人として発足した男を見送りして来た妻が、男がいざ別れようとすると、女は悲しみが極まり、すがりついて離れずにいるので、男は、こうした妻と別れて行くのだろうかと、嘆いて詠んだのである。序は眼前を捉えたものであるが、その時の状態と気分とをきわめて適切にあらわすものとなって、男の当惑と歎息とをさながらに見せるものとなっている。魅力ある歌である」と述べています。
4353の「家風」は、気象学的な風の名ではなくふるさとの家の方角から吹いてくる風。「家言」は、家からのことづて。風や、雲、鳥などは、音信を連想させるものだったとされます。4354の「立鴨の」の「こも」は、鴨の訛り。「立薦(水草)」とする説もあります。鴨の群れの飛び立つ羽音の騒がしさから「発ちの騒き」に掛かる比喩的枕詞。「発ちの騒き」は、出発の騒ぎ。夫婦関係は結んでいるものの、絶対に秘密にしている間柄であったとみえ、女は、素知らぬさまを装っているのに堪えられず、村の見送りの者の中に立ちまぎれて、よそながら見て別れを惜しんだようです。ただ、「相見てし」は、男女の共寝の意だとして、「立つ鴨のような出立のあわただしさの中を、相寝た妻の心根は忘れようにも忘れられない」のように解するものもあります。語続きからすれば、上掲の解釈の方が自然で無理のないものと思料しますが、如何でしょうか。
4355の「よそにのみ」は、無関係なようにばかり。「見てや渡らも」の「や」は、疑問。「渡らも」は、渡ラムの訛り。「雲居」は、雲の居る所。「島ならなくに」は、島ではないのに。難波に着いて出航の日を待って過ごしている間に詠まれたもののようです。この歌について窪田空穂は、「屈折の多い言い方をしているもので、これを中央の京の歌としても、あまりにも文芸的な言い方で、解しやすくないものである。防人の歌とすると、甚しく加筆したものにみえる」と言っています。
防人は任務の期間も一部の税しか免除されなかったため、農民にとってはたいへん重い負担でした。また、徴集された防人は、部領使(ことりづかい/ぶりょうし:引率する係りの者)が同行して連れて行かれましたが、自弁でした。部領使は馬に乗り、従者もいましたが、防人たちは徒歩のみで、夜は寺院などの宿泊場所がなければ野宿させられました。もっと辛いのが任務が終わって帰郷する際で、付き添いも無く、途中で野垂れ死にする者も少なくなかったといいます。遠い東国の人間がなぜ防人に徴集されたかの理由の一つに、強い東国の力を削ぎ、その反乱を未然に防ぐため、あえて東国の男たちを西に運んだとする見方がありますが、容易に帰れないように仕向けたのはそのためだったともいわれます。
筑紫に着いた防人たちは、軍防令の定めによって土地がもらえました。自給自足の農耕を行うためです。そのためか、出発の時には、弓矢や太刀などの武具のほか、鎌、鍬、斧などの農具が携行品として支給されています。防人といっても実際に戦う機会があったわけではなく、土地がもらえて気候が温暖で文化も進んだ地に馴染み、さらに故郷への帰途が極めて困難となれば、そのまま土着する者も少なくなかったことは想像に難くありません。
巻第20-4356~4359
4356 我(わ)が母の袖(そで)もち撫(な)でて我(わ)がからに泣きし心を忘らえぬかも 4357 葦垣(あしがき)の隈処(くまと)に立ちて我妹子(わぎもこ)が袖(そで)もしほほに泣きしぞ思(も)はゆ 4358 大君(おほきみ)の命(みこと)畏(かしこ)み出(い)で来れば我(わぬ)取り付きて言ひし子なはも 4359 筑紫辺(つくしへ)に舳(へ)向(む)かる船のいつしかも仕(つか)へまつりて国に舳(へ)向(む)かも |
【意味】
〈4356〉私の母が、袖で頭を撫でてくれながら、私のために泣いてくれた。その気持ちは忘れようにも忘れられない。
〈4357〉葦の垣根の隈に立って、愛しい妻が袖もぐっしょり濡れるほどに泣いた。その姿が思い出されてならない。
〈4358〉大君の仰せを恐れ畏んで旅立つその時に、私にしがみついてあれこれ訴えていた可愛い女よ、ああ。
〈4359〉筑紫の方角に舳先を向けて進む船は、いつかになったら任務を終えて、故郷へ舳先が向くのだろうか。
【説明】
上総国の防人の歌。作者は、4356が山辺郡(やまのへのこおり)の上丁、物部乎刀良(もののべのおとら)、4357が同国市原郡(いちはらのこおり)の上丁、刑部直千国(おさかべのあたいちくに)、4358が種淮郡(ずえのこおり)の上丁、物部竜(もののべのたつ)、4359が長柄郡(ながらのこおり)の上丁、若麻続部羊(わかおみべのひつじ)。
4356の「袖もち撫でて」の「もち」は、用いて、以て。「撫でて」は、部位を特定されない場合は頭を撫でることに限られます。「我がからに」は、私のことゆえに。「かも」は、詠嘆。ここでも4346の歌と同じように「頭を撫でる」行為がうたわれています。旅の無事を祈り、祝の言葉に伴わせる一つの呪法であったようです。ただ、「我が母の袖もち撫でて」は、母が私の袖を撫でて、とする解釈もあります。4357の「葦垣」は、葦を刈って編んだ簡単な垣。「隈処」は、周囲から見えにくい物陰。「しほほに」はシホシホの略で、涙にびっしょりと濡れている形容。ただし、用例はこの1首のみです。秘密にしていた関係の妻だったのでしょうか、人目を忍んで別れを惜しみ、ひどく泣いたようすが歌われています。
4358の「我(わぬ)取り付きて」のワヌはワレの訛り。「言ひし子な」の「言ひし」は、行かないでほしい、とか、連れて行ってくれ、とかの切なる訴えだったのでしょう。「子な」は、子ラの方言。「子」は、男性が女性を親しんで言う語。「はも」は、強い詠嘆。この歌について窪田空穂は、「この妻も人には秘密にしてある関係の者なので、晴れての見送りもできず、男の旅の通路に待ち構えていて、ひそかに男に逢ったことをあらわしている」と言い、斎藤茂吉は「『我の取り付きて言ひし子なはも』の句は、現実に見るような生き生きしたところがあっていい」と評しています。
4359は、難波津から乗ろうとする船を眺めて作った歌。「筑紫辺に」は、筑紫の方へ。「向かる」は、向ケルの訛り。「いつしかも」は、いつになれば。早く~したい、と願望する語法。「仕へまつりて」は、任務を完了して。「舳向かも」の「向かも」は、向カムの訛り。
巻第20-4363~4367
4363 難波津(なにはつ)に御船(みふね)下(お)ろ据(す)ゑ八十楫(やそか)貫(ぬ)き今は漕(こ)ぎぬと妹(いも)に告げこそ 4364 防人(さきむり)に立たむ騒(さわ)きに家の妹(いむ)が業(な)るべきことを言はず来(き)ぬかも 4365 押し照るや難波(なには)の津ゆり船装(ふなよそ)ひ我(あ)れは漕(こ)ぎぬと妹(いも)に告(つ)ぎこそ 4366 常陸(ひたち)指し行かむ雁(かり)もが我(わ)が恋を記(しる)して付けて妹(いも)に知らせむ 4367 我(あ)が面(もて)の忘れも時(しだ)は筑波嶺(つくはね)を振り放(さ)け見つつ妹(いも)は偲(しぬ)はね |
【意味】
〈4363〉難波の港に御船を引き下ろして浮かべ、たくさんの梶を並べて、さあこれから漕ぎ出そうとしていると、故郷の妻に伝えてくれないか。
〈4364〉防人として出発していくあわただしさに紛れ、家の妻に暮らしを立てる手だてを告げずに出て来てしまった。
〈4365〉照り輝く難波の港から、船出の準備をして、これから漕ぎ出そうとしていると、故郷の彼女に伝えておくれ。
〈4366〉常陸を指して飛んでいく雁でもいたらよい。わが恋の苦しみを記して雁に託して、故郷の妻に伝言してもらうのに。
〈4367〉私の顔を忘れそうになった時は、筑波の峰を振り仰いでは、お前さんは私のことを偲んでくれ。
【説明】
常陸国の防人の歌。作者は、4363・4364が茨城郡(うばらきのこおり)の若舎人部広足(わかとねりべのひろたり)、4365・4366が信太郡(しだのこおり)の物部道足(もののべのみちたり)、4367が茨城郡(うばらきのこおり)の占部小竜(うらべのおたつ)。常陸国からの行程は、上り30日と定められていました。
4363の「御船」は、官船への美称。「下ろ据ゑ」は、オロシスヱの約。陸上に上げてあった船を修羅やころなどを用いて水上に移動させることを言っていると見られます。「八十楫」は、多くの楫。「告げこそ」の「こそ」は、願望の終助詞。4364の「防人(さきむり)」は、サキモリの訛り。「立たむ騒き」は、出発の際の慌しさ。「妹(いむ)」は、イモの訛り。「業るべきこと」は、生活のために働くこと、生業。ここでは農作業の手順などと見られます。一家の主として妻に言い置くべきだったことを悔やんでいるのは、よっぽどせかされての旅立ちだったとみえ、生活の実感と苦悩が重く沈んでいる歌です。
4365の「押し照るや」は「難波」の枕詞。「ゆり」は、動作の起点を表す格助詞「より」の訛り。「船装ひ」は、出航の準備。「告ぎこそ」は、告ゲコソの訛り。「こそ」は、願望の終助詞。4366の「行かむ雁もが」の「もが」は、願望の助動詞。行く雁があればよいがなあ。「記して付けて」は、神に記して雁に取り付けて。雁信の故事を踏まえた表現です。4367の「面(もて)」は「おもて」の訛り。「忘れも」は、忘レムの訛り。「時(しだ)」は「時」の古語。「筑波嶺」は、筑波山。「偲はね」の「ね」は、願望の助詞。
4363の歌は、とくに家持の手が加わっている気配が濃厚であるとする見方があります。「御船下ろすゑ」は、あたかも貴族が船出するかのような美しい表現であり、「八十楫貫き」などという言葉を防人が使わなかっただろうし、数が多いことを示す「八十」や「八」は家持が好んで使った語だから、というのがその理由です。それにしても防人の多くの兵士たちが和歌を詠み得たことには驚きますが、これは、もともと求婚の時とか宴席などで、和歌を詠み歌うことが必須とされていたという当時の生活上の必要から来ているともいわれます。さらに4366の歌に関連して、防人らの中にもある程度基本的な漢字を書ける者がいたのではないかと言われています。地方、特に関東から墨書土器の類が、国府や国分寺以外の、一般の集落の遺跡からもかなり出土しているのです。
巻第20-4368~4372
4368 久慈川(くじがは)は幸(さけ)くあり待て潮船(しほぶね)にま楫(かぢ)しじ貫(ぬ)き我(わ)は帰り来(こ)む 4369 筑波嶺(つくはね)のさ百合(ゆる)の花の夜床(ゆとこ)にも愛(かな)しけ妹(いも)ぞ昼も愛(かな)しけ 4370 霰(あられ)降り鹿島(かしま)の神を祈りつつ皇御軍(すめらみくさ)に我れは来(き)にしを 4371 橘(たちばな)の下(した)吹く風の香(か)ぐはしき筑波(つくは)の山を恋ひずあらめかも 4372 足柄(あしがら)の 御坂(みさか)賜(たま)はり 顧(かへり)みず 我(あ)れは越(く)え行く 荒(あら)し男(を)も 立(た)しやはばかる 不破(ふは)の関(せき) 越(く)えて我(わ)は行(ゆ)く 馬(むま)の爪(つめ) 筑紫(つくし)の崎(さき)に 留(ち)まり居(ゐ)て 我(あ)れは斎(いは)はむ 諸(もろもろ)は 幸(さけ)くと申(まを)す 帰り来(く)までに |
【意味】
〈4368〉久慈川よ、変わらぬ姿で待っていてくれ。潮船に櫂をたくさんつけて急いで私は帰って来るから。
〈4369〉筑波の嶺に咲くさ百合の花ではないが、夜床(ゆとこ)で可愛くてならない彼女は、昼間でも可愛くてならない。
〈4370〉霰が降ってかしましいではないが、武神であられる鹿島の神に祈りを捧げながら、天皇の兵士として私はやってきたものを。
〈4371〉橘の実のなっている木陰を吹く風のように、なつかしい筑波の山を、どうして恋い焦がれずにいられようか。
〈4372〉足柄の御坂を通していただき、後を振り返らずに私は越えてゆく。荒々しい男でさえ立ち止まってためらう不破の関を越えて、私は行く。馬の蹄がすり減って尽きるほど遠い筑紫の崎にとどまって、私は身を清めて神に祈りを捧げよう。故郷の衆のみんなが達者でいてくれるように、と。無事に帰って来るまで。
【説明】
常陸国の防人の歌。作者は、4368が丸子部佐壮(まろこげのすけお)、4369・4370が上丁、大舎人部千文(おおとねりべのちふみ)、4371が助丁、占部広方(うらべのひろかた)、4372が倭文部可良麻呂(しとりべのからまろ)。
4368の「久慈川」は、福島県に発し東に流れ、太平洋に注ぐ川。「幸(さけ)く」は、サキクの訛り。「潮船」は、海上を行く船で、河船に対しての称。「ま楫しじ貫き」は、楫をいっぱい通して。窪田空穂は、「この防人は、久慈河との別れを惜しみ、河を祝って、わが勢よい帰りを待てといっているのである。こうした特殊なことをいっているのは、この防人の生活は久慈河に深いつながりがあり、河船を漕ぐことを業としているところからのことであろう」と述べています。
4369の「筑波嶺」は、茨城県西部の筑波山。「さ百合(ゆる)」の「さ」は美称、「百合(ゆる)」は、ユリの訛りで、山百合の花。上2句は「さゆる」の「ゆ」が「ゆどこ」の「ゆ」の音に通じるところから「夜床」を導く同音反復式序詞。「夜床(ゆとこ)」は、ヨトコの訛り。「愛しけ」は、愛シキの訛り。東歌といってもよい、防人とは全く関係なさそうな恋歌となっており、上句は「ゆ」の音、下句は「け」のリフレインで美しい韻を含んでいます。そして、妹の可愛さを称えるのに終始しているこの歌を、斎藤茂吉は、「言い方が如何にも素朴直截で愛誦するに堪うべきもの」と評しています。
4370の「霰降り」は、あられが降って喧(かしま)しいことから、同音の「鹿島」に掛かる枕詞。「鹿島の神」は、古来、武神として崇められた鹿島神宮。この祭祀をつかさどっていた中臣氏が中央で勢力を得て藤原氏となって以来、藤原氏の氏神となりました。「皇御軍」は、皇軍の兵士。作者は常陸の国府を出立し、その道すがら長久を祈願したのでしょうか。この歌は、かつての大戦中に政府指導で出された「愛国百人一首」に戦意高揚の歌として選ばれ、「我れは来にしを」を「我れは来たものを、何で逡巡などするものか」などと、武人としての強い決意を述べた歌と解されました。しかし、それは牽強付会と言わざるを得ず、前後の歌との関係からも、末尾の句には、無事に帰還できるだろうか、また妻に逢えるだろうかという不安と危惧の気持ちが込められているものと解せられます。
言語学者の犬養孝も、「戦時中には単に”皇軍の意識”ということであおり立て同じ作者の『筑波嶺のさ百合の花の夜床にもかなしけ妹そ昼もかなしけ』(巻第20-4369)の歌はめめしい私情として伏せられがちだったが、”百合の花の咲くなつかしい筑波山の郷土、そこにおいてきた美しい妻、夜の寝床でもかわいかったあの女(こ)は昼もかわいくてたまらない”と、私に徹する愛情の律動を訴える人であってこそ「われは来にしを」の深い感慨を見るのではなかろうか。同一人の作であることを見すごすことはできない」と述べています。
4371の「橘」は、ミカン科の常緑樹で、常世の国の木と伝えられる聖木。初夏に芳香のある白色の花が咲きます。時は1月であるので、ここは熟した実を指したもの。常陸風土記には、行方(なめかた)郡(霞ヶ浦と北浦との間)および香島郡(北浦と鹿島灘との間)には橘の木が生い茂っていることが記されており、また行方郡の新治の洲から筑波山が望見できるとも書かれています。「下吹く風の」の「の」は、~のように。「香ぐはしき」は、香りが霊妙な。「恋ひずあらめかも」の「かも」は反語で、恋い焦がれずにいられようか。
4372の「足柄の御坂」は、神奈川県と静岡県の県境にある標高759mの足柄峠。箱根路が開かれるまでは、東山道の碓氷峠と並び東海道を経由して東国に入る交通上の要衝でした。「御坂賜はり」の「御坂」は、坂には神が祀ってあるところからの敬称。「賜はり」は、坂の神のお許しをいただいて。「顧みず」は、故郷の方を振り返って見ずに。「越(く)え」は、コエの訛り。「荒し男」は、強く勇敢な男。「立し」は、タチの訛り。「や」は、感動の助詞。「はばかる」は、ここでは行き悩む意。「不破の関」は、岐阜県関が原町にあった東山道の関所。北陸道の愛発(あらち)、東海道の鈴鹿と共に三関の一つに数えられました。「馬の爪」は、馬の蹄をすり減らして尽くす意で「筑紫」の枕詞。「留(ち)まり」は、トマリの訛り。「諸」は、防人の留守家族およびその部落の人たちを指しています。
防人にる長歌は、この1首のみであり、足柄→不破の関→筑紫と地名を並べて道行き歌の体をなし、枕詞も効果的に使われています。窪田空穂は、「語短く心を尽くしていっているもので、技巧としても勝れたものである。挨拶の語であるから、先蹤となるものがあったかもしれぬが、それとしても非凡なものである」と評しています。
巻第20-4373~4377
4373 今日(けふ)よりは返り見なくて大君(おほきみ)の醜(しこ)の御楯(みたて)と出で立つ我(わ)れは 4374 天地(あめつち)の神を祈りて猟矢(さつや)貫(ぬ)き筑紫(つくし)の島を指して行く我(わ)れは 4375 松の木(け)の並(な)みたる見れば家人(いはびと)の我(わ)れを見送ると立たりしもころ 4376 旅行きに行くと知らずて母父(あもしし)に言(こと)申(まを)さずて今ぞ悔(くや)しけ 4377 母刀自(あもとじ)も玉にもがもや戴(いただ)きてみづらの中に合(あ)へ巻かまくも |
【意味】
〈4373〉今日からは、もう決して我が身を顧みることなく、大君の醜の御盾として出立するのだ、私は。
〈4374〉天地の神々に無事を祈り、背の胡籙(やなぐい)に矢を挿して、筑紫の島を指してはるばる進むのだ、私は。
〈4375〉松の木が立ち並んでいるのを見ると、門出の際に、家族一同が並んで私を見送ってくれたようすにそっくりだ。
〈4376〉こんなに長い旅路になるとも知らないで、母父に別れの言葉も告げずに出てきたが、今となって悔やまれてならない。
〈4377〉母上がもしも玉であってくれたら、捧げ戴いてみづら髪に一緒に巻きつけように。
【説明】
下野国の防人の歌。作者は、4373が火長(かちょう)の今奉部与曾布(いままつりべのよそふ)。火長は、兵士10人の集団の長のこと。4374が火長の大田部荒耳(おおたべのあらみみ)、4375が火長の物部真嶋(もののべのましま)。4376が寒川郡(さむかわのこおり)の上丁、川上臣老(かわかみのおみおゆ)、4377が津守宿祢小黒栖(つもりのすくねおぐろす)。下野国からの行程は、上り34日と定められていました。
4373の「今日よりは」は、下野国の自家出発の日を指します。「返り見なくて」は、自身を顧みることはせずに。「醜の御盾として」の「醜」は、自分を卑下する語。「と」は、として、で、自分自身を天皇の盾に見立てています。歌の内容は出征する男たちの心を奮い立たせるもので、そんな風に自身の心に暗示を与え、強くふるまったのでしょう。先の大戦中は、事あるごとに引用されて有名になった歌ですが、防人歌全体の中にあっては、次の4374の歌とともに極めて異例な発想の歌になっています。すなわち防人として勇ましく戦意高揚を歌った歌は、これら2首のみです。4374の「猟矢貫き」の「猟矢」は、狩猟に用いる矢。「貫き」は、矢を束ねて胡籙(やなぐい:矢を入れて背負う道具)に入れること。窪田空穂は、この2首とも、才能のあるすぐれた歌と評しています。
4375の「木(け)」は、キの訛り。「並みたる」について、ナラブが2つの物が揃っている場合に用いられるのの対し、ナムは3つ以上の物が列をなしている場合にいうとされます。「家人(いはびと)」は、イヘビトの訛り。「立たりし」は「立ちありし」で、いつまでも立っていた。「もころ」は「如し」の古語。4376の「知らずて」は、知らずして。「母父(あもしし)」は、オモチチの訛り。「言申さずて」は、暇乞いを申さずに。「悔しけ」は、クヤシキの訛り。この若者は、防人に徴兵されるという事態を理解せずに出立したのでしょうか、それとも所属の兵団から呼び出され、帰宅する暇も与えられずに出立させられたのでしょうか。こんなことがあったのかと疑われるような1首です。
4377の「刀自」は主婦の意で、ここは女主人である母に対する尊称。「玉にもがもや」の「もが」は願望で、「も・や」は感動の助詞。「みづら」は、17~18歳の男子の髪型の一種で、頭髪を中央より左右に分け、耳の上で輪にして束ねたもの。白鳳時代に描かれたとされる有名な聖徳太子像には、太子の左右に、御子の山背大兄王と御弟の殖栗王が小さく描かれていますが、この2皇子の髪型がこれに当たるのではないかといわれます。唐制を模して冠や頭巾の類をかぶるようになってからは廃れたようです。「合へ」は、交えて。「巻かまく」は「巻かむ」のク語法で、名詞形。この時代、玉は護身の威力があるとの信仰があったといいます。
家持が採録した「防人歌」のなかで、4373や4374の歌のような勇ましく強い歌は少数派であり、家持はむしろ、人間の弱さといいますか、真情の流露である歌を尊重し、積極的に収めてくれました。そのおかげで、私たちは、当時の人たちの生の声を直接聞いているかのように感じることができます。
巻第20-4378~4382
4378 月日(つくひ)やは過(す)ぐは行けども母父(あもしし)が玉の姿は忘れせなふも 4379 白波(しらなみ)の寄そる浜辺に別れなばいともすべなみ八度(やたび)袖(そで)振る 4380 難波津(なにはと)を漕(こ)ぎ出て見れば神(かみ)さぶる生駒高嶺(いこまたかね)に雲ぞたなびく 4381 国々(くにぐに)の防人(さきもり)集(つど)ひ船乗りて別るを見ればいともすべなし 4382 ふたほがみ悪(あ)しけ人なりあたゆまひ我(わ)がする時に防人に差(さ)す |
【意味】
〈4378〉月日だけはどんどん過ぎて行くけれど、母さん父さんの玉のような姿は忘れれことができない。
〈4379〉白波が打ち寄せてくる浜辺へと離れていってしまえば、どうしようもないので、今ここで、幾度も幾度も袖を振る。
〈4380〉難波の港を漕ぎ出して顧みれば、神々しい生駒山に雲がたなびいている。
〈4381〉国々の防人が集まって、船に乗り込み、別れていくのを見るとなんともやるせない。
〈4382〉ふたほがみは意地の悪い人だ。急病に苦しんでいる私を防人に指名するなんて。
【説明】
下野国の防人の歌。作者は、4378が都賀郡(つがのこおり)の上丁、中臣部足国(なかとみべのたるくに)、4379が足利郡(あしかがのこおり)の上丁、大舎人部祢麻呂(おおとねりべのねまろ)、4380が梁田郡(やなだのこおり)の上丁、大田部三成(おおたべのみなり)、4381が河内郡(こうちのこおり)の上丁の神麻続部島麻呂(かむおみべのしままろ)、4382が那須郡(なすのこおり)の上丁、大伴部広成(おおともべのひろなり)。下野国からの行程は、上り34日と定められていました。
4378の「月日やは」の「月日(つくひ)」は、ツキヒの訛り。「や」は、「夜」の意とする説と、助詞の「や」とする説があります。「過ぐ」は、スギの訛り。「母父(あもしし)」は、オモチチの訛り。「玉の姿は」は、玉のような姿は、で、両親を尊んでの表現。「忘れせなふも」の「なふ」は、東国語独特の打消の助動詞。4379の「寄そる」は、ヨスルの訛り。「浜辺」は、任地である筑紫の浜辺のことを言っているか。「いともすべなみ」は、何とも方法がないので。
4380の「難波津(なにはと)」は、ナニハツの訛り。一方、「難波門」の字を宛て、難波の海門と解する説もあります。「神さぶる」は、神々しい。「生駒高嶺」は、難波津の東方にそびえる生駒山(標高642m)。筑紫に向けての出航を待つ間、遊覧か何かで海に漕ぎ出した折の歌と見られます。4381の「国々」は、東の諸国。「別るを見れば」は、難波に早く着いた遠江・相模・駿河などの国々の防人らが、検校を終えて順次出発して行くのを見送ったものとされます。「いともすべなし」は、何ともやるせない、言いようがない。
4382の「ふたほがみ」は語義未詳ながら、「かみ」を「守」として長官・首長とする説や、「ふたほ」の村の「上(長)」、二心ある人の意とする説などがあります。「悪しけ」は、アシキの訛り。「あたゆまひ」は、急病の意で、「ゆまひ」はヤマヒの訛りか。「差す」は、指名する。病気の身でありながら防人に指名されたことに強い不満を言っており、多くの防人歌が防人に任じられたことを運命的なものとして受け入れている中ではめずらしいとされます。しかし、本人は本気でも、聞く第三者が思わず微苦笑するような歌であり、また、このような思い切った表現で怒りを公にすることが許されたこの時代の大らかさも感じられます。
巻第20-4383~4386
4383 津の国の海の渚(なぎさ)に船装(ふなよそ)ひ立(た)し出(で)も時に母(あも)が目もがも 4384 暁(あかとき)のかはたれ時(どき)に島蔭(しまかぎ)を漕(こ)ぎ去(に)し船のたづき知らずも 4385 行(ゆ)こ先(さき)に波なとゑらひ後方(しるへ)には子をと妻をと置きてとも来(き)ぬ 4386 我が門(かづ)の五本柳(いつもとやなぎ)いつもいつも母(おも)が恋(こひ)すす業(な)りましつしも |
【意味】
〈4383〉摂津の国の渚で船出の準備をし、いよいよ出航する時に、母の顔を見たいことだ。
〈4384〉夜明けの薄明かりの中、島陰を漕いで隠れていった船が、今どうしているのか、知りようもない。
〈4385〉船の行き先に波よ高くうねらないでおくれ。後ろには、子や妻を置いてきたのだから。
〈4386〉我が家の門口に立つ五本(いつもと)柳、その名のように、いつの時も母は私のことを思いながら働いておられるだろう。
【説明】
4383は、下野国の塩屋郡(しおやのこおり)の上丁、丈部足人(はせつかべのたるひと)の歌。4384~4386は下総国の防人の歌。作者は、4384が助丁、海上郡(うなかみのこおり)の海上国造、他田日奉直得大理(おさだのひまつりのあたいとこたり)、4385が葛飾郡(かつしかのこおり)の私部石島(きさきべのいわしま)、4386が結城郡(ゆうきのこおり)の矢作部真長(やはぎべのまなが)。
4383の「津の国」は「摂津」の古称で、大阪府北部から兵庫県東部にまたがる地。「船装ひ」は、船出の準備をすること。「立し出も」は「立ち出む」の訛り。「母(あも)」は、オモの訛り。「目もがも」の「もが」は願望で、顔を見たい。窪田空穂は「この歌はよく詠みこなしてあり、落ち着いた、しみじみした味わいを持ったものとなっている。歌に馴れていた防人と思える」と言っています。
4384の「暁」は、夜明け前のまだ薄暗い時分。「かはたれ時」の「かはたれ」は「彼は誰」で、薄暗くて人の顔がはっきり分からない時の意。本来「たそかれ(誰そ彼)」と「かはたれ」は、夜明け前や日没後の薄明り頃合いを指して区別することなく用いられていたのが、後に「たそかれ」が日没後、「かはたれ」が夜明け前と区別されるようになったとされます。「島蔭(しまかぎ)」の「かぎ」は、カゲの訛り。島の向こう側。「たづき知らずも」の「たづき」は、手がかり、様子、成り行きの意。何艘かに別れて船出して行く先発の船を見送り、見えなくなってその行方を思い、かつ自分たちの不安な気持ちを歌っています。
4385の「行こ先」の「ゆこ」は、ユクの訛り。「波なとゑらひ」の「な」は、禁止、「とゑらひ」は、湾曲する、ふくらむ意。「後方(しるへ)」は、シリヘの訛り。「子をと妻をと」は、子と妻とを。「置きてとも来ぬ」の「とも」は、語義未詳。4386の「門(かづ)」は、カドの訛り。「五本柳」は、五本の柳。上2句は「いつも」を導く同音反復式序詞。「恋すす」の「すす」は、ツツの訛り。「業り」は生業で、ここでは農事。「まし」は、敬語。「つしも」の「つし」は、ツツの訛りか。「も」は、詠嘆。
巻第20-4387~4390
4387 千葉(ちば)の野(ぬ)の児手柏(このてかしは)のほほまれどあやに愛(かな)しみ置きてたか来ぬ 4388 旅と云(へ)ど真旅(またび)になりぬ家の妹(も)が着せし衣(ころも)に垢(あか)付きにかり 4389 潮舟(しほふね)の舳(へ)越(こ)そ白波(しらなみ)にはしくも負ふせたまほか思はへなくに 4390 群玉(むらたま)の枢(くる)にくぎさし堅(かた)めとし妹(いも)が心は動(あよ)くなめかも |
【意味】
〈4387〉千葉の野の児手柏の若葉のように、まだ蕾のままだけど、やたらに可愛くてならないので、そのまま触れずにはるばるやって来た。
〈4388〉一口に旅と言っても、本当の長旅になってしまった。家の妻が着せてくれた衣に、垢がついてしまったことだ。
〈4389〉潮舟の舳先を越してくる白波のように、だしぬけに防人を仰せつかった。思ってもみなかったのに。
〈4390〉扉の枢に釘を挿し込んで堅く戸締りをするように、堅い契りを交わした妻の心は動揺しているだろうか、いやそんなことはない。
【説明】
下総国の防人の歌。作者は、4387が千葉郡(ちばのこおり)の大田部足人(おおたべのたるひと)、4388が占部虫麻呂(うらべのむしまろ)、4389が印波郡(いにわのこおり)の丈部直大麻呂(はせつかべのあたいおおまろ)、4390が猨島郡(さしまのこおり)の刑部志加麻呂(おさかべのしかまろ)。下総国からの行程は、上り30日と定められていました。
4387の「千葉」は、千葉市と習志野市の一帯。「児手柏」は、現在の何の木であるか不明ですが、その葉が子供の手を広げたような形をしている柏だろうとされます。上2句は「ほほまれど」を導く譬喩式序詞。「ほほまれど」は、フフメレドの訛り。つぼんで開かずにいる意で、年若い女の比喩。「たか来ぬ」は「高来ぬ(はるばる来た)」あるいは「誰が来ぬ(誰が来た)」と解する2説があります。上掲の訳は前者によっていますが、後者によると、自分が置いてきたのを、誰かと疑問の形であらわし、よくも置いてきたものだ、のような意味になります。いずれにせよ、妻問いをしたかしないかの初歩段階での、まだ一人前になりきらない相手へのこよなき愛を歌っています。
4388の「旅と云(へ)ど」は「旅と云(い)へど」の約。「真旅」は、衣に垢が付くほどの長旅。「妹(も)」は「いも」の約。「垢付きにかり」の「かり」は、ケリの訛り。衣が垢づいたのを見て、妻と別れての旅の久しくなったことをしみじみ思った歌で、窪田空穂は、「類想の多い歌であるが、・・・婉曲な言い方をしているところにあわれさがある」と言っています。4389の「潮舟」は、海上を漕ぐ舟。「舳先」は、船首。「越そ」は、コスの訛り。上2句は「にはしく」を導く譬喩式序詞。「にはしく」は、にわかに。「負ふせたまほか」は「負ほせ給ふか」の転。「思はへなくに」は「思ひあへなくに」の約で、思いもしなかったのに。「あへ」は、~できる意の補助動詞。
4390の「群玉の」の「群玉」は数多くの玉で、それらがくるくる回ることから「枢」に掛かる枕詞。「枢」は「くるる」とも言い、開き戸を開閉させる装置のことで、木に穴を穿ち、それに軸となる木を挿し、その木を回転させて開閉するもの。「なめかも」は「らめかも」の意で、反語、あるいは疑問か。疑問なら「動揺しているのかなあ」。妻の操を信じながらも、あるべくもないことを妄想する自分を言い聞かせている歌です。
巻第20-4391~4394
4391 国々の社(やしろ)の神に幣(ぬさ)奉(まつ)り贖乞(あがこひ)すなむ妹(いも)が愛(かな)しさ 4392 天地(あめつし)のいづれの神を祈らばか愛(うつく)し母にまた言(こと)問はむ 4393 大君(おほきみ)の命(みこと)にされば父母(ちちはは)を斎瓮(いはひへ)と置きて参(ま)ゐ出(で)来(き)にしを 4394 大君(おほきみ)の命(みこと)畏(かしこ)み弓の共(みた)さ寝(ね)かわたらむ長けこの夜(よ)を |
【意味】
〈4391〉諸々の里の社の神々に幣を捧げて、私の旅の無事を祈っているだろう妻が愛しい。
〈4392〉天の神、地の神のどの神様にお祈りしたら、愛しい母とまた話ができるようになるのだろうか。
〈4393〉大君の恐れ多いご命令であるので、父上、母上を斎瓮とともに後に残して、家を出て来たことだ。
〈4394〉大君のご命令の恐れ多さに、弓を抱えたまま寝ることになるのだろうか。長いこの夜を。
【説明】
下総国の防人の歌。作者は、4391が結城郡(ゆうきのこおり)の忍海部五百麻呂(おしぬみべのいおまろ)、4392が埴生郡(はにゅうのこおり)の大伴部麻与佐(おおともべのまよさ)、4393が結城郡の雀部広島(さざきべのひろしま)、4394が相馬郡(そうまのこおり)の大伴部子羊(おおともべのこひつじ)。
4391の「国々の」は、諸々の里の意。下の句にある動作の主体が「妹」であるので、広く諸国をいうのではなく、狭い範囲の地域を指しているものと見られます。「幣」は、神に祈る際に手向けとして捧げるもの。旅に関する歌では、旅先で自ら旅中の安全を祈る場合に捧げることが多くあり、残って旅人の帰りを待つ者が捧げる場合もあります。「贖乞すなむ」の原文は「阿加古比須奈牟」で語義未詳ながら、①「贖乞」だとして、災難を逃れるために物を捧げて祈る意、②「我が恋」だとして、私が恋しく思っている意、と解する説があります。ここは①に従っています。「すなむ」は「すらむ」の訛りで、するであろう。
4392の「天地(あめつし)」は、アメツチの訛り。「いづれの神を」は、数多い天ツ神・国ツ神のうちのどの神に。天ツ神は主として天孫降臨の際に高天原から地上に降ったという諸神とその子孫の神々。国ツ神は土着の神。「愛し」は、親から子、男性から女性に対するように、一般に弱小の者に対するいたわりの気持ちを表す語ですが、ここは残される母への憐憫の情で言っているのでしょう。4393の「命にされば」は「命にしあれば」の約。命であるので。「斎瓮と置きて」は、斎瓮とともに残して。「斎瓮」は、神に供える酒を入れる器のことで、旅の無事を祈るため、残る人々が、枕辺や床辺の土を彫って据えるならわしがありました。「参ゐ出来にしを」は、家を出てきたことだ。
4394の「弓のみた」の「みた」は、ムタの訛りで、弓とともに。「さ寝か渡らむ」の「さ」は、接頭語。「さ寝」は、男女の共寝に用いることが多い語です。「か~む」は、中央語の「や~む」と同じく、こうも~することか、という気持ちの表現。「長け」は、ナガキの訛り。家で抱いていた妻と別れ、これからは弓を抱いて寝るのかと嘆いています。故郷を出発したのは2月、東山道を行く冬の夜はさぞ寒かったことでしょう。
なお、防人歌の中に「大君の命畏み・・・」と詠んだ歌が数首ありますが、こうした語を用いているのは一般の防人歌とは異質であり、日本史学者の北山茂夫によれば、この共通の慣用句は「地方民自身の発想ではなく、中央官人の天皇観を端的に示すものとして、万葉中期には使われていた。それが、国司の論告に地方の豪族・農民のあいだにもちこまれ、兵士役を通じて受容されたのであろう」と述べています。さらに文学者の土橋寛は、このように言っています。「『大君の命令がおそれ多いので』どうなのかといえば、同じように妻子・父母と別れてきたのだと嘆くのである。だから、(たとえば4373の歌「今日よりは顧みなくて・・・」)の鉄壁のような兵士の姿は、それを裏返しに言ったまでで、じつは、なみなみならぬ郷愁に根ざしたものなのである」
巻第20-4398~4400
4398 大君(おほきみ)の 命(みこと)畏(かしこ)み 妻(つま)別れ 悲しくはあれど 大夫(ますらを)の 心振り起(おこ)し 取り装(よそ)ひ 門出(かどで)をすれば たらちねの 母(はは)掻(か)き撫(な)で 若草(わかくさ)の 妻は取り付き 平(たひ)らけく 我れは斎(いは)はむ ま幸(さき)くて 早(はや)帰り来(こ)と 真袖(まそで)もち 涙を拭(のご)ひ むせひつつ 言(こと)問ひすれば 群鳥(むらとり)の 出で立ちかてに とどこほり かへり見しつつ いや遠(とほ)に 国を来(き)離れ いや高(たか)に 山を越え過ぎ 葦(あし)が散る 難波(なには)に来(き)居て 夕潮(ゆふしほ)に 船を浮けすゑ 朝なぎに 舳(へ)向け漕(こ)がむと さもらふと 我が居(を)る時に 春霞(はるがすみ) 島廻(しまみ)に立ちて 鶴(たづ)が音(ね)の 悲しく鳴けば はろはろに 家を思ひ出 負(お)ひ征矢(そや)の そよと鳴るまで 嘆きつるかも 4399 海原(うなはら)に霞(かすみ)たなびき鶴(たづ)が音(ね)の悲しき宵(よひ)は国辺(くにへ)し思ほゆ 4400 家思ふと寐(い)を寝(ね)ず居(を)れば鶴が鳴く葦辺(あしへ)も見えず春の霞に |
【意味】
〈4398〉大君のご命令を畏んで、妻と別れるのは悲しいけれど、男子たるものの気を奮い立たせ、身支度を整えて門出をしようとすると、母が私の頭を掻き撫で、妻は私の袖にとりすがって言う。「ご無事をお祈りしています、どうかご無事で一日も早くお帰り下さい」と、両の袖で涙を拭い、しゃくりあげながら話しかけるので、群鳥のようにさっさと飛び立ちがたく、足もとどまりがちに後を振り返りながら国を出てきた。故郷から遠く離れ、高い山を越えて、やっと葦が生えるここ難波にやってきた。夕潮どきに船を浮かべ、朝なぎを待って筑紫へ舳先を向けて漕ぎ出そうと潮待ちをしていると、春霞が島辺に立ち込め、鶴が悲しそうに鳴くので、はるばるやってきた故郷の家を思い出し、背に負う弓矢がかさかさと音を立てるほどに、私は身もだえをして嘆いている。
〈4399〉海原一面に霞がたなびき、鶴の鳴き声が悲しく聞こえる。そんな宵はしきりに故郷が思われてならない。
〈4400〉故郷を思って寝られずにいると、鶴が悲しく鳴く、その葦辺も見えない。春の霞が立ちこめていて。
【説明】
兵部少輔(兵部省の次官)として難波の出張所に詰めている大伴家持が、防人の気持ちになって詠んだ長歌と短歌。諸国から徴集された防人が作った歌を進上させつつ、その選歌・編集を行うかたわらに作った歌とみられます。先の第一作(4331~4333)と比べると、より防人たちの世界に近づいており、枕詞も少なく、表現が平易で、家持が精いっぱい防人になりきろうとしたあとが窺えます。
4398の「取り装ひ」は、防人としての装いをして。「たらちねの」「若草の」は、それぞれ「母」「妻」の枕詞。「平らけく」は、平安であるように。「斎ふ」は、吉事を祈って禁忌を守ること。「ま幸くて」の「ま」は、接頭語。「真袖」は、左右の両袖。「むせふ」は「むせぶ」の上代語。「群鳥の」は「出で立つ」の枕詞。「かてに」は、しかねて。「いや遠に国を来離れいや高に山を越え過ぎ」は、人麻呂の「いや遠に里は放りぬいや高に山も越え来ぬ」(巻第2-131)に倣ったもの。「葦が散る」は「難波」の枕詞。「舳向け」は、船首を進行方向に向け。「さもらふ」は、天候を伺い。「はろはろに」は、はるかに遠いさま。「征矢」は、戦に用いる矢。「そよ」は、征矢が擦れ合う音。「嘆きつるかも」の「かも」は、詠嘆。4399の「国辺」は、故郷の辺り。4400の「寐を寝ず」は、眠らないで。
ただ、窪田空穂は、こうした歌を詠んだ家持を心優しく思いやり深い人としながらも、4398に「春霞島廻に立ちて鶴が音の悲しく鳴けば」とあるのは、防人の感傷ではなく貴族階級のものであり、気分本位の人で、防人その人の心情を理解するには限度があったことを思わせられる、と指摘しています。また、作家の田辺聖子も、「どうしてもインテリの技巧が目立って、防人の心の訴えの美しさとは程遠い」と言っています。
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