秦王朝が崩壊した後に覇権を争っていたのが、漢王の劉邦(りゅうほう)と楚王の項羽(こうう)です。軍事的にはつねに項羽が優勢だったものの、両者の攻防はなかなか決着せず、膠着状態に陥っていました。そこでいったん休戦して天下を分け合うことで合意し、和睦しました。
ところが両軍が東西に分かれた後、劉邦は約束を反故にしてUターン、撤退していく項羽の軍に背後から襲いかかりました。「相手が油断している今こそチャンス」との臣下の進言に従ったのです。このときの大勝負に出る劉邦の気持ちを表したのが「乾坤一擲(けんこんいってき)」という言葉です。
劉邦の不意打ちを受けた項羽はかろうじて窮地を切り抜け、800騎ばかりの兵士とともに垓下(がいか)の地の砦に立てこもりました。劉邦はほかの勢力に加勢を求め、大軍で砦を取り囲みます。項羽には援軍もなく、やがて食糧も尽きてしまいました。夜になって、劉邦は、取り囲んだ兵士らに、項羽の母国である楚の国の歌を歌わせます。楚の歌を聞かせることによって、楚が占領されたように思わせれば、項羽軍の兵士たちの戦意はなくなるに違いない、そう考えての心理作戦でした。
この効果は大きく、その歌声を聴いた項羽は、大いに驚き、そして自身の敗北を覚悟しました。「漢はすでに楚を落としたということか。敵兵に歌う楚人の何と多いことか」と意気阻喪した項羽は、夜になって愛姫の虞美人(ぐびじん)ら側近を傍らに最後の宴会を開き、酒を飲みながら漢詩を作って歌い、もうどうにもできないと言って、みなで泣きました。
その後、項羽は夜陰に乗じてなんとか敵の包囲網を突破し、長江のほとりの烏江(うこう)まで逃れてきました。そのとき項羽を守る兵の数は、わずか20騎ばかりに減っていました。しかし、長江を渡れば、かつて挙兵したことのある江東です。そこで再び兵を募って、再起を図ることも可能でした。しかし多くの部下を死なせてしまった項羽は、江東の人たちに合わせる顔がないと、川を渡ろうとしませんでした。その場を最後の戦いの地として、自決したのです。いまだ31歳の若さでした。
後に唐代の詩人・杜牧(とぼく)が、この地を訪れ、劉邦に敗れた項羽のことを詩に詠んでいます。「項羽は命を絶ってしまったが、勝敗は兵法家でさえも予測できるものではない。たとえ敗れても恥辱に耐え再起を計ってこそ男子というもの。江東にはすぐれた人材がたくさんいたはず」というような内容で、最後はこう結んでいます。「捲土重来、いまだ知るべからず」。もしあの時、項羽がいっときの屈辱を耐え忍んで川を渡り、捲土重来を期していたら・・・。
〜『史記』項羽紀
【PR】
【PR】
【PR】