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武田信玄による「よい部下の見分け方」

 戦国の武将・武田信玄がこんなことを言っています。

「私が若い者と話をすると、三通りの反応を示す。一つ目はポカンと口を開けて私の話に呑み込まれているタイプ。二つ目は、私の喉(のど)あたりをじっと見つめていて、分かっているのか分かっていないのかはっきりしないタイプ。三つ目は、私が話している間じゅう、いちいち相槌を打ったり笑顔を見せたりするタイプ」

 信玄はさらに話を続けて、

「一番目のポカンと口を開けて私の話に呑まれているのは、自分の判断がまったくつかないヤツだ。二番目の、喉のあたりをじっと見つめているのは、一見愚かそうに見えるが、実は私の言うことを一つ一つ噛みしめ、頭の中で反芻(はんすう)している。三番目の相槌を打ったり笑ったりする者は、いかにも話を理解していますよと言いたくて、そういう態度をとるのだ」

 そして「どのタイプがいちばん大事か?」に関して、

「二番目がいちばん頼もしいタイプ。私の話の内容をきちんと整理し、決して鵜呑みにはしない。分からないことがあったら、おそらく後で聞きに来るだろう」

 これと似たような話を、同時代の武将・小早川隆景も語っています。

「すぐ分かったという部下に、分かったためしはない。私はそんなに単純な話はしていない。だから、話をした時には一見ぼんやり聞いているようでも、優れた人間は必ず後で質問をしに来る。こういう人間こそ頼もしい」

 上司の皆さま、いかがでしょう? ご自身の部下のなかに思い当たる人物はいらっしゃるでしょうか。

武士の初陣

 「元服」というのは、奈良時代以降に”成人”を示す儀式として行われ、男子の場合、数え年で12歳から16歳の間に行われました。そして、元服した武士の子が、初めて戦に加わることを「初陣(ういじん)」と呼びました。初陣は、一人前の武士になるための通過儀礼の性質を帯びていました。

 たとえば、織田信長の初陣は14歳のときで、記録では、駿河から吉良大浜(現在の愛知県吉良町)へ向かい、翌日、名古屋の城に戻ったとされています。戦自体の記録は残っていないことから、緊迫した状況での出陣ではなく、セレモニー的な色合いの濃い初陣だったと見られています。他の例としては、源頼朝が13歳、伊達政宗が15歳、武田信玄が16歳で初陣を遂げています。

 実際は、多くの場合、領主の子の初陣は、父や重臣たちが相談して時期や戦場が決められました。初陣でいきなり負け戦となれば、縁起がよくないばかりか、笑いものにされかねません。絶対に負け戦にならないよう、慎重にそのタイミングがはかられたのです。

 もっとも、そういうことができるのは、身分の高い大名や重臣クラスの子弟のみで、下級武士の子は、初陣から激しい戦いに臨むこともありました。弱小の大名家でも、強国に攻め込まれて、10歳以下で初陣となったあげく、命を落とした者も少なくありませんでした。

 一方で、初陣でいきなり大活躍した者もいます。豊臣秀吉の軍師だった竹中半兵衛が12歳のとき、父の留守中に敵に襲われ、母や幼い弟たちとともに戦ったのが図らずも初陣になりました。そして、このとき彼は、籠城戦の末、見事に敵を撃退しています。そして、半兵衛よりもっと派手だったのが、毛利元就の孫である毛利秀元の初陣です。秀吉に気に入られ、何と、文禄の役における毛利3万軍の総大将デビューだったといいますから、無茶にもほどがあります。
 

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武田信玄の名言

一生懸命だと知恵が出る。中途半端だと愚痴が出る。いい加減だと言い訳が出る。

人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり。

信頼してこそ人は尽くしてくれるものだ。

人間にとって学問は、木の枝に繁る葉と同じである。

負けまじき軍に負け、亡ぶまじき家の亡ぶを、人みな天命と言う。某においては天命とは思わず、みな仕様の悪しきが故と思うなり。

渋柿は渋柿として使え。接ぎ木をして甘くすることなど小細工である。

もう一押しこそ慎重になれ。

自分のしたいことより、嫌なことを先にせよ。この心構えさえあれば、道の途中で挫折したり、身を滅ぼしたりするようなことはない。

三度ものを言って三度 言葉の変わる人間は、嘘をつく人間である。

百人のうち九十九人に誉めらるるは、善き者にあらず。

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