紀元前1世紀のこと、後漢王朝を開いた光武帝は、夫に先立たれて未亡人になっていた姉の湖陽公主(こようこうしゅ)を何とか再婚させたいと考えていました。当時の光武帝の家臣には、後漢の創業に尽くした錚々たる男たちが多く、あるとき、家臣らの人となりを話題にしてそれとなく探りを入れてみると、湖陽公主は、「宋公の立派なお姿といい、人柄といい、他の者たちにはとても及びもつきません」と言いました。宋公とは、大司空の要職にあった宋弘(そうこう)のことです。
光武帝は、姉が宋弘にひそかに思いを寄せているのを窺い知り、光武帝にも異存はありませんでした。しかし、宋弘にはすでに妻がおり、いくら家臣であっても、あからさまに「姉を娶ってほしい」などとは言えません。まして主君の姉となれば、側室にするわけにもいかないので、正妻ということになります。つまり、今の妻を捨てさせざるを得なくなります。そこで光武帝は、ある日、公主を屏風の後ろに潜ませておいて、宋弘を引見してこう言いました。
「高貴になったら、人との交わりを変え、富裕になったら妻を替えるという諺があり、これが人の情というものであろうが、貴公はどう思うか?」
宋弘はすぐに、光武帝が湖陽公主のことを暗にほのめかしているのを察しました。皇帝の姉を娶って縁戚になれば、その後の出世は約束されたようなものです。しかし、宋弘はきっぱりとこう答えました。
「臣はこう聞いております。貧賤の交わりは忘るべからず、糟糠の妻は堂より下さず」。つまり、貧しかったころの友だちを忘れてはいけないし、苦労を共にした妻を座敷から下げることなどしてはならない、と。
これを聞いた光武帝は、心中ひそかに感嘆しました。さすがに自分が取り立てただけの人材である、と。そして宋弘が退出すると、姉に向かって言いました。「お聞きのとおりです。事は叶いません」
宋弘はこれまでもしばしば光武帝を諫めてきた家臣でしたから、ひょっとしてこのときも、皇帝だから何でもできると思っている光武帝を諫めたのかもしれません。なお、「糟糠」とは、酒粕と米ぬか、つまり貧しい暮らしを意味します。そして、この「糟糠の妻」の語は、かつて貧しい時代があって今は立身出世しているような人が使う言葉であり、今もなお貧しい生活をしている人が使うのは適切ではないようです。
〜『後漢書』宋弘伝
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