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枕流漱石(ちんりゅうそうせき)

 三国時代の西晋の政治家・孫楚(そんそ)は、若いころに老子や荘子の説にかぶれ、山村での隠遁生活に憧れていました。そして、「石に枕し流れに漱(くちすす)ぐような自然の暮らしがしたい」と言うべきところを「石に漱ぎ流れに枕す」と言い誤りました。それを聞いた友人の王済(おうさい)が「いったい、どうすればそんなことができるのか」と笑いました。
 
 孫楚はすかさず、「昔の隠者の許由(きょゆう)は、つまらぬことを聞いたときには、流れで耳を洗ったそうだ。それが流れに枕するということだ。そして、石で漱ぐというのは、小さな石を口に含んで汚れた歯を磨くということだ」と言い張り、自らの誤りを認めようとしませんでした。いかにも苦しい言い逃れでしたが、王済は、かえってこの切り返しを見事だと思いました。
 
 強情な孫楚は、他人に頭を下げることができない人物でしたが、なぜか王済にだけは敬服していました。その王済が死んだとき、彼はその棺にすがって号泣したといいます。また、生前に王済が「うまい」と褒めてくれていたロバの鳴きまねをし、別れのあいさつ代わりとしました。周囲の人たちが笑うなか、「立派な人物が先に死に、俗物ばかりが生き残る」と怒ったといいます。案外に純情一途な男だったようです。
 
 「枕流漱石(ちんりゅうそうせき)」は「流れに枕し石に漱ぐ」とも読みます。または「漱石枕流(そうせきちんりゅう)」ともいい、強情で負け惜しみの強いこと、また、うまくこじつけて言い逃れをすることを意味します。明治の文豪・夏目漱石の雅号「漱石」は、この語からとったことで有名ですね。もっとも、これは自身で考えに考えて決めた名ではなく、森鴎外が持っていた多くのペンネームから適当?に選んで譲ってもらったのだといいます。

〜『晋書』孫楚伝

蚤か虱に見える

 子圉(しぎょ)が、孔子を宋の宰相にひき合わせました。面談が終わって孔子が退出すると、子圉が入ってきて、今の客人はいかがでしたかと、宰相に尋ねました。宰相は言いました。
 
「孔子に会った後すぐにお前を見ると、お前はまるでちっぽけな蚤(のみ)か虱(しらみ)のように見える。私は、さっそくわが君に孔子をひき合わせようと思う」
 
 子圉は、孔子が主君に重用されては困ると不安になりました。そこで宰相にむかってこう言いました。「わが君が孔子にお会いになられたら、やはりあなた様が蚤か虱のように見られるでしょう」
 
 それを聞いた宰相は、もう孔子を主君に会わせようとはしませんでした。
 

三人を言いて虎(とら)を成す

 魏(ぎ)の大臣が重臣が、他国に人質に出される皇太子に付き添って出向くことになりました。その時、大臣は王に言いました。

「都に虎が出たと一人が言えば、王はそれを信じますか」
「いや、信じない」
「それでは、二人の者が言えばどうですか」
「いや、それでも信じない」
「それでは、三人の者が同じことを言ったらどうですか」
「それなら信じるであろう」
「私が留守をしている間に、私を批判する者はおそらく三人ではすみますまい。もっと多くの者が王に讒言(ざんげん)しにやって来るでしょう」

 大臣は、王にそう釘を刺して出発します。しかし、帰国すると、心配したとおり、王は人々の悪口を信じて大臣を近づけなくなりました。
 

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故事成句

梁上君子(りょうじょうのくんし)

盗賊、泥棒のこと。転じて「鼠」の異名。

後漢の陳ショクは、ある夜天井の梁の上に泥棒がひそんでいるのに気づき、子供を起こして「人は努力して学ばなければいけない。悪人だってはじめから悪人というわけではなく、ただ悪い習慣が身に付くのだ。あの梁の上の紳士もそうだ」と諫めたところ、泥棒は下りてきて改心したという故事から。

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