本文へスキップ

玄宗を虜にした楊貴妃

 中国、唐の第6代皇帝といえば、玄宗(在位712〜756年)。この人は、則天武后の後に権勢をふるった中宗の皇后の韋(い))一派をクーデタで一掃し、自分の父を即位させて自らは皇太子となり、やがて父のあとを継いだ人です。皇帝になった玄宗は混乱した秩序の回復に力を注ぎ、有用な人材を多く登用して国力を増し、対外的にもモンゴル高原の突厥(とっけつ)を屈伏させるなどの積極策をとり、その善政は「開元の治」と称えられ、唐の絶頂期を築きました。

 ところが、この玄宗、比類のない女好きというか、まさに色を好む英雄の典型の人だったようで、実に男30人、女29人の合計59人もの子どもを作っています。その第18皇子の妃に選ばれたのが、四川省の役人の娘で16歳になる楊玉環(のちの楊貴妃)でした。そして、740年秋、玄宗が長安の郊外にある温泉地ではじめて息子の嫁の楊玉環に会ったとき、ひと目で彼女の虜になってしまいます。このとき玄宗56歳、楊玉環22歳でした。

 美しく豊満な容姿と才知をそなえ、音楽や歌舞にも優れていたとされる楊玉環。後の世に世界の三大美女の一人とされる楊玉環ですが、いったい唐の時代の美女とはどのような姿だったのでしょう。通説によれば、どちらかというとぽっちゃり型の体型に切れ長の目、小さな口が当時の美女の条件だったとされます。楊玉環もそんな感じだったのでしょうか。

 ところで、楊玉環への恋の虜となった玄宗は、どうしても彼女が欲しくてたまりません。しかし、いくら皇帝とはいえ、息子の嫁を横取りするわけにはいきません。でも、あきらめ切れない。そこでどうしたかというと、ひとまず彼女を道教の寺に入れて尼にしました。彼女が自らの意思で息子と離婚したという体裁をつくろったのです。そして、晴れて745年、玄宗は楊玉環を後宮に迎え入れ、女官の最高位で皇后に次ぐ「貴妃」の称号をあたえました。このとき、玄宗62歳、楊貴妃27歳でした。

 それからというもの、玄宗は政治に対する熱意を失い、腑抜けのようになってしまいました。楊貴妃の望みは何でもかなえてやり、たとえばライチという果物が食べたいと言えば、はるか何千キロの彼方の産地から早馬で取り寄せたりもしました。そればかりか、宰相となった楊国忠をはじめ、楊氏一族は悉く高位高官に取り立てられ、世の羨望の的となりました。そして、その専横ぶりが目に余りだすと、やがて周囲の大きな反感を買うようになってきました。

 そして、楊玉環が貴妃の座にのぼってから10年後の755年、宰相・楊国忠に不満をもつ節度使の安禄山(あんろくざん)が反乱を起こしました(安史の乱)。中国周辺の民族をふくむ反乱軍15万に対し、朝廷は20万の兵を動員しましたが、反乱軍は翌年に長安に攻め寄せてきました。玄宗と楊氏一族は四川へ避難しますが、その途上、楊国忠は反乱軍の兵士たちに殺され、さらに楊国忠の息子、楊貴妃の姉たちも次々に殺されてしまいます。最後に残った楊氏の人間は楊貴妃のみになりました。「災いの責任は楊氏にあり」として決起した兵士らをしずめ唐を存続させるには、玄宗は楊貴妃の誅殺を認めざるを得ませんでした。そして楊貴妃は絹で首を締められて殺されました。このとき38歳。

 玄宗は皇太子(粛宗)に位を譲って上皇となり、757年に長安へ戻りましたが、楊貴妃の肖像を前に泣かない日はなかったといいます。二人の愛を甘く悲しくうたった白居易の長編物語詩『長恨歌(ちょうごんか)』は広く知られていますが、やがて玄宗は粛宗との不和で幽閉同然となり、失意のうちに病死しました。

君主の行いを戒めた班ul

 君主に寵愛された女性たちの中には、楊貴妃のような「傾城の美女」とは真逆の高潔な女性もいました。前漢の時代、第11代皇帝の成帝は、側室の班ul(はんしょうよ)という女性をたいへん寵愛していました。
 
 あるとき、成帝は班ulに共に車に乗るようにと誘いました。しかし、彼女は「昔の名君の絵画を見ますと、聖賢とよばれる君主はみな立派な臣を従え、王朝の末の天子はみなその側に気に入りの女を侍らせております。私は陛下をそのようにしたくはありません」と言って辞退したのでした。 

目次へ ↑このページの先頭へ