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十七条憲法の第十条

 聖徳太子が制定なさったとされる「十七条憲法」。憲法という名にはなっているものの、近代憲法のように政府と国民の関係を規律した法というわけではなく、もっぱら官僚や貴族に対する道徳的な規範を示したものです。どちらかというと行政法という感じ。そして、第一条冒頭の「和を以って貴しとなす」の条文はあまりに有名です。しかし、ほかにもなかなか素敵な条文というか言葉があるんです。

 ここで紹介させていただきたいのが、第十条に出てくる「共にこれ凡夫のみ」という言葉です。これは、人はみな凡人であり、一人だけが偉いのではない。自分を優秀だとか特別だと思わず、謙虚に相手と接しなければならないと説いているものです。さらには、人にはみなそれぞれの心があり、それぞれに思いとらわれるところがあるのだ、とも言っています。

 こうした振舞いや気持ちのありようって、たとえば、組織の中で立場が偉くなればなる人ほど大切なことのように思います。長らくビジネス現場を経験してきた身として、決して自分が優れた指導者だとは錯覚せず、「凡夫」であるということを常に肝に銘じながら他の人たちに接し、役割を全うする。こういう人がさらに周りから尊敬されるんですよね。まさに「彼も人なり、われも人なり」。
 
 ところで、大阪にある四天王寺は、推古天皇元年(593年)に聖徳太子によって創建された、日本仏法最初の官寺です。その四天王寺の管長を2009年から6年にわたって務めてこられた奥田聖應さんが、当時、「十七条憲法」について次のように語っておられました。第十条についても触れておられます。

 ―― 十七条憲法は、大きく2つに分けられます。まず第一条から第三条までは、人としての心のあり方が説かれています。そして、第四条から第十七条までは、その精神をひもといた具体的なルールが定められています。豊かな国づくりを目指し、政治を行う上でのルールでもあります。第四条から第十七条で示されているすべての行動が実践されたとき、和気藹々とした人間関係の中にも、私心にとらわれない強い組織ができます。

 たとえば、第七条の「人には各(おのおの)任有り」は、役職はその人の実力に応じて与えるべきだと説いています。また、第十条の「忿(いか)りを絶ち、瞋(いか)りを棄(す)て、人の違うを怒らざれ」では、相手が怒ったときこそ、自分の怒りを棄て、相手の意見に耳を傾けるべきだと論じています。常に自分が正論を言っているとは限りません。相手が怒るというのは、必ず相手なりの理由がある。その、相手の正論が何かを知ることが重要なのです。

 さらに、第十四条では「嫉妬(しっと)有ること無かれ」と、人へのをねたみを禁じています。そして最後の第十七条は、重要なことはみんなで議論をしなければならないとしています。なぜならば、みんなで議論すれば道理にかなうことができ、また、たとえ結果が失敗に終わっても、それを乗り越える空気ができるからです。これは、第一条の「和を以て貴しと為す」の精神を改めて確認するものです。

 私が十七条憲法の中でもっとも好きな言葉は、先ほどの第十条の後半に出てくる「共にこれ凡夫のみ」という言葉です。人はみな凡人であり、一人だけが偉いのではない。自分を天才や聖人と思わず、相手と接することの大切さを聖徳太子が説いたくだりです。このことは、立場が偉くなればなるほど大切です。私は、今は四天王寺の管長ではありますが、だからといって優れた指導者とは錯覚せず、自分は「凡夫」であると常に肝に銘じながら、役割を全うしたいと考えています。――

国書を紛失した小野妹子

 小学校の授業で初めて歴史を習ったときの衝撃を今でもよく覚えています。それは他でもない「小野妹子」という人物です。何たって「いもこ」という変てこな名前、女かと思えば男だという。えらい怪訝に思ったものです。

 その小野妹子が、第二次遣隋使として隋に派遣されたのは推古15年(607年)7月のこと。翌年4月に帰国、隋使の裴世清(はいせいせい)らを伴っていました。そして6月に推古天皇に拝謁しましたが、このとき妹子は「国書を献上することはできない」と報告したのです。

 隋の煬帝(ようだい)は妹子に国書を授けましたが、隋からの帰途、百済を通過したとき、国書を百済人に奪われた、というのです。国書といえば、国の元首がその国名をもって発する外交文書です。その大切な文書を紛失したという報告に群臣は大騒ぎとなり、その責任を咎め妹子を流刑に処すべきだと主張しました。

 しかし推古天皇は、妹子が国書を失った罪を許したのです。『隋書』によれば、日本が発した国書にあった「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」との文言が煬帝を極めて不快にさせたとあり、その返書がとても朝廷に見せられる内容ではなかった、そのため妹子があえて帰路に破棄したともいわれています。さて真相はいかに?
 

リメンバー、藤原京

 奈良県にある橿原市(かしはらし)は、今からおよそ1300年前には日本の首都だったところです。持統天皇が、「春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣乾したり 天の香具山」と詠った藤原京があったところです。ここでは柿本人麻呂などの宮廷歌人も活躍しました。

 ところが、わずか16年で都の使命を終えてしまった藤原京は、その後、急速に田園の下に埋もれてしまい、現在もその全容は詳しく分かっていません。最初に思っていたよりかなり広いらしくて、「大藤原京説」も出ているほどです。

 大和三山が横たわる盆地は広大で、この地に降り立つと、どことなく空気に重みがあるような印象を受けます。そして、地の底から悲しみの声が聞こえてきそうな雰囲気すら感じます。

 藤原京の時代は、大宝律令が完成し、中央集権国家の制度づくりが急速に進んだ時期と重なっています。歴史の舞台として、また観光地としても、もっともっと脚光を浴びていい所だと思います。
 

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聖徳太子の略年譜

574年
橘豊日皇子と穴穂部間人皇女の子として生まれる(厩戸皇子)
586年
敏達天皇が崩御し父の橘豊日皇子が即位(用明天皇)
587年
蘇我馬子とともに物部守屋を滅ぼす
592年
蘇我馬子が崇峻天皇を暗殺
推古天皇即位
594年
推古天皇の摂政となる。四天王寺を建立
595年
高句麗の僧・慧慈が渡来し隋の国情を太子に伝える
600年
新羅征討の軍を出す
601年
斑鳩宮の造営に着手
603年
冠位十二階を定める
604年
十七条憲法を制定
605年
斑鳩宮へ移住
607年
小野妹子を隋に派遣
607年
このころ斑鳩寺(法隆寺)完成
608年
小野妹子を再び隋に派遣
614年
犬上御田鍬らを隋に派遣
618年
隋が滅んで唐が成立
620年
「国記」「天皇記」を撰修
622年
死去(享年49歳)

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