アダム・スミス以前のヨーロッパにおける経済思想では、重商主義と重農主義が対立していました。重商主義とは、ヨーロッパの絶対王政国家が採っていた政策で、金銀財宝が富であると考え、自国の輸出産業(商工業)を重視して保護育成し、貿易差額によって国富を増大させようとするものです。一方、重農主義とは、18世紀後半のフランスが採っていた経済政策で、農業が国富を生み出す源泉であるとし、商工業の発展は、農業生産により原材料が供給されることによって初めて実現するというものです。
そのころのイギリスは、名誉革命によって議会制度・政党政治の体制が築き上げられ、おもに領主や産業資本家を中心とした立憲国家となっていましたが、その経済政策は重商主義によるものでした。インドや東南アジアの物産の輸入と植民活動に従事する東インド会社などの特許会社を保護する貿易を経済政策の柱としていました。
そんななか、アダム・スミスは『国富論』を発表、重商主義を批判し、経済政策では国家の統制や介入を排除し、市場原理に任せるべきであると主張したのです。そして、労働こそが価値を生み出す源泉であり、分業などにより労働の効率を高めることによって冨が増大する。生産性を高めるためには市場での自由競争が必要であり、それが社会全体の進歩の原動力になると考えました。これが自由主義経済思想です。
しかしそれでは、各人による勝手な利己心の追求に任せることになり、ひいては経済秩序を破壊する恐れがある、だから国家が保護や介入をすべきだという批判が起きます。これに対してアダム・スミスは、「市場経済において、各個人が自己の利益を追求すれば、結果として社会全体において適切な資源配分が達成される」のだと説明します。
つまり、市場には、需要と供給の関係によって価格が自動的に決まってくる市場原理(自動調節機能)があるのだから、経済秩序はおのずと整う。さらに、一般的には悪徳と思われる「利己心」についても、その発揮によって勤勉や節約などの徳が生まれ、さらに健康や財産、地位や名誉などに配慮しようとする向上心につながる。そのように、「見えざる手」によって知らず知らずのうちに公共の利益に寄与すると考えたのです。だから、「欲望のままに自分の利益を追求せよ」と。
従って、アダム・スミスは、政府の役割はできるだけ小さくあるべきだと主張しました(「小さな政府」論)。ただし、政府は何もせず、すべて市場に任せればよいと言っているわけではありません。彼は、政府は次の3つに関して責任を果たさなければならないとしています。すなわち、国防、司法行政、公共設備の3つです。
このようなアダム・スミスの考えは、イギリス産業革命の時期と重なったこともあり広く受け入れられ、資本主義社会の大いなる発展をもたらしました。また経済思想の歴史においては、近代経済学の基礎となる古典派経済学を体系づけたことから、アダム・スミスは「古典派経済学」の祖と称されるようになりました。
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