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わが街の音楽?

 オーストリアの指揮者オトマール・スウィトナーが、かつてN響の名誉指揮者を務めていたころ、当時のN響の団員が、モーツァルトを演奏するに際して、スウィトナーにこう尋ねたそうです。「われわれのオケと比べて、ウィーン・フィルは何が違うのか?」と。

 スウィトナーは答えて、「演奏上の技術的なものは全く変わらない。ただ、気構えが違う。モーツァルトの音楽に対して構えすぎないように」と言ったそうです。つまり、ウィーン・フィルのメンバーにとって、モーツァルトは「わが街の音楽」であり、体が自然に動くから「構え」がない、それだけ自分たちの血となり肉となっているんだ、と。

 このエピソードに接して、クラシック音楽ファンのはしくれとして深く考えさせられるのであります。プロのN響のメンバーでさえそうなんだから、ど素人の私ごときなんぞ、そもそもクラシック音楽の真髄のカケラにも触れられていないのではないか。ある曲を、分かったつもりになって「いいなー」と感動しながら聴いていても、実は本場である彼(か)の地の人たちの感覚とは全くズレているのではないか、と。

 たとえば、外国人が日本の「演歌」の魅力をなかなか理解できない、あるいは、外国人歌手が演歌をどれほど上手に歌っても、私たち日本人の心にあまり響いてこないように。はたまた、美しい金髪の女性が和服を着飾っても、違和感ばかりで、ちっとも似合うとは思えないように、ずっと互いの間を埋めることのできない文化の違いや溝があるんじゃないか。つまり、私たちにとって、モーツァルトは「街の音楽」には絶対に成り得ない?!

 であるならば、結局のところ、開き直るしかないんだと思います。つまり、これから先も、ひたすら構えなければならない。むしろ「構えるな」という方に無理があるのかもしれません。だってN響のメンバーだって構えてる。ですから、決して分かった風な態度をとらず、少しでも理解を深められるよう、謙虚に耳を傾けるのみです。

オトマール・スウィトナー(1922〜2010年)
 オーストリアの指揮者。オーソドックスながらも格調高く実直な演奏スタイルで、ドレスデン国立歌劇場の音楽監督、ベルリン国立歌劇場の音楽監督、NHK交響楽団の名誉指揮者などを歴任。
 

ベルリオーズの『幻想交響曲』

 ベートーヴェンの交響曲第6番『田園』によって切り開かれた「標題音楽」という新しいジャンル。そして、それを受け継ぎ、さらにリアルに描写しようとしたとされる、ベルリオーズの『幻想交響曲』。まさに現実的なファンタジーともいうべき魅力的な曲で、私もよく聴いています。

 ただ、あまりにこの曲が素敵なので、彼のほかの作品はどんなんだろうと期待をこめていくつか聴いてみたところ、あまり心に響く曲がありません。かの中川右介さんも、クラシック音楽入門者向けの本の中で、ベルリオーズの曲でとりあえず聴くべきは『幻想交響曲』のみといっていい、と言い切っておられます。「一発屋」というと失礼な言い方かもしれませんが、もっとほかに多くの素敵な作品を残せなかったのかと、残念で物足りない気がしてなりません。

 『幻想交響曲』は、当時の売れっ子女優・ハリエット・スミスソンへの一方的かつ熱烈な恋愛感情と破局の体験から生まれた曲だとされます。やはり、若者の燃えさかる恋の情熱の発露というかたちでしか、ああいう名曲は生まれ得なかったのでしょうか。さらに後には、その恋を何とか成就させてハリエットと結婚しましたから(これはこれでスゴイと思いますけど)、ひょっとして、それによってその後の彼の熱い感性も冷めてしまったのでしょうか。

 とまれ、『幻想交響曲』は、世界中の指揮者たちが選んだ「交響曲トップ20」のなかでも第7位に選ばれている、まぎれもない名曲中の名曲です。ベルリオーズによる各楽章の表題と解説が残されていますので、ここにご紹介します。

第1楽章〜「夢・情熱」
 病的なほどに強い感受性と、激しく豊かな想像力に富んだ若い音楽家がいた。彼は、恋の悩みによる絶望から、発作的にアヘンによる服毒自殺を図る。しかし、麻薬の量が足らず死ねないまま、重苦しい眠りのなかで奇怪な幻想を見る。感覚も、感情も、記憶も、彼の病んだ脳のなかで一つの観念となり、音楽的な映像となって現れる。それは彼女の姿が決まった楽想となって現れる固定観念であり、そこかしこに見えたり聴こえたりしてくる。

第2楽章〜「舞踏会」
 とある舞踏会の喧騒と華やかなお祭り騒ぎのなかで、彼は再び恋人を見出す。

第3楽章〜「田園の風景」
 夏の夕べの田園地帯。彼の耳に、二人の羊飼いが笛で互いに呼び合っている音が聴こえてくる。牧歌的な二重奏、風に揺れる木々の軽やかなざわめき。彼は、自分の心のなかに希望が湧いてくるのを確信する。笛の音と木々のざわめきと希望が混ざり合い、彼の心は落ち着いた静けさに満たされ、彼の空想も明るくのどかに・・・。しかし、彼女が再び彼の目の前に現れた瞬間、彼の心は乱れ、悲しく辛い予感に心が揺すぶられる。もし、彼女に捨てられてしまったら・・・。一人の羊飼いが、再び牧歌的な旋律を奏でる。ところが、もう一人の羊飼いは、なぜかそれに応えない。日が沈み、遠くに雷鳴が轟く。孤独・・・。静寂・・・。

第4楽章〜「断頭台への行進」
 彼は、夢のなかで、愛していた彼女を殺してしまう。そして死刑判決の宣告を受け、断頭台へ引かれていく。行進の行列は、時に憂鬱で暗く、また荒々しく、時に華やかに厳かになる。彼の鈍く重い足音に、周囲の騒々しい音が切れ目なく重なる。最後に固定観念が一瞬現れる。それは彼女への最後の愛。しかし、その切ない思いも、斧の一撃で切断される。

第5楽章〜「サバトの夜の夢」
 彼は、サバト(魔女の饗宴)に参加している自分を見出す。それは彼自身の埋葬の祭りだった。亡霊や魔法使い、あらゆる種類の恐ろしい化け物たちが、彼の葬儀のために集まっている。不気味な音、呻き声、ケケケケケと笑う声、遠くからの叫び声、それに応える化け物たちの嬌声。そこへ、愛する人の旋律が聴こえてくる。しかし、かつての気品や慎みは失われ、醜悪で、野卑で、グロテスクな舞踏の旋律に変身する。彼女もサバトにやってきたのだ。彼女の到着に、化け物たちは歓喜のわめき声をあげる。彼女も悪魔の宴に加わる。弔鐘が響き、「怒りの日」の滑稽なパロディの旋律が響く。サバトの輪舞と「怒りの日」が一緒くたになり、夜を徹して乱痴気パーティーは続く。

 私の愛聴盤は、サイモン・ラトル指揮、ベルリンフィルによる、2008年の録音です。最大音量にリミッターがかけられていて、こういった録音には賛否両論あるようですが、その不思議?な音の鳴り方に、かえって「幻想的」な雰囲気が醸し出されているようにも感じられます。 

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今、恋をしている人に、これから恋をする人に・・・・・・。


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