モーツァルト効果!

「モーツァルトを聴くと頭がよくなる」というアメリカの大学による研究結果が発表され、一躍モーツァルト・ブームとなったのが1990年代前半のこと。それを受けて、ある州では新生児のいる家庭にクラシック音楽のCDが無料で配布され、また他の州の公立保育園では、週に1度クラシック音楽を流すことが義務付けられたといいます。そういえばかつて私の義理の妹も、妊娠したときにお腹の子のためにモーツァルトを聴いていたと言っていましたね。
ところが、1999年にこれを否定する声が上がり、また幼児の脳の発達とは無関係という結果も発表され、ブームは下火になりました。すると今度は、モーツァルトの音楽に「癒し効果」があるという研究結果が次々に発表され、再びブームになったのは皆さまのご記憶にも新しいところだと思います。こちらのほうはかなり効果が認められているそうで、「モーツァルト効果」なんて言い方がされていますね。人間だけでなく、牛のお乳の出がよくなったとか、植物の成長がよくなったとか。
私たちの体の自律神経には、交感神経と副交感神経とがあって、相互に役割を分担しあって働いているそうです。ストレス状態や興奮状態に働くのが交感神経、反対にリラックス状態に働くのが副交感神経で、具体的には、心拍数や血圧を上昇させるのが交感神経、その逆が副交感神経。また食べ物の消化を促進してくれるのが副交感神経で、逆に抑制するのが交感神経だそうです。ストレス過多などでそのバランスが崩れると、食欲不振、不眠症など体調を崩す原因になるといいます。
そこで、両者のバランスをうまく整えてくれるのがモーツァルトというわけです。じゃあ、なぜベートーヴェンやブラームスではなくモーツァルトなのか。その理由は、まずひと言で言えば「軽い」ということでしょうか。多くは明るい長調の曲で、ほぼ一定の高周波がずっと気持ちよく鳴り響きます。途中でテンポが揺れ動いたり、急に大音量が鳴ったりするということもありません。しかし、それ以外にも、きっとモーツァルトならではの理由があるはず。実はそのあたりを端的に表しているのが、かのチャイコフスキーの言葉ではないかと思います。
モーツァルトより100年あまり後にロシアで生まれたチャイコフスキー、その彼が何を言っていたかというと、「モーツァルトの音楽を聴くと、まるで私自身が良いことをしたような気がする」って。あのチャイコフスキーがですよ! 何だか、ハッとさせられるような素敵な言葉です。そして理屈がどうとか関係なく、「あ、ホントにそうだよね」「モーツァルトは私たちのすべてを肯定してくれるよね」って心から納得させられます。ひょっとしたら、モーツァルト評のど真ん中を突いている名言かもしれません。

モーツァルトの『レクイエム』
未完で問題作とされながらも、一方ではモーツァルトの最高傑作とも賞される『レクイエム』。まさに自身へのレクイエム(死者へのミサ曲)ともいうべき遺作となってしまったことや、匿名による高額報酬の作曲依頼などの謎めいたエピソードとも相俟って、いかにも数奇、神秘を感じさせる曲だと思いますが、皆さまはいかが感じておられるでしょうか。
しかしながら、天邪鬼な私としましては、やはり未完であり、且つ大半の部分が他人の手により補完されて成り立っている曲であることが、どうしても心に引っ掛かります。全14曲のうちモーツァルトが完成させたのは第1曲のみで、第2、第3曲はほぼ出来上がっていたものの未完、第11曲以降は草稿が全く存在せず、それ以外は主要部分または断片が残されていたのみだといいます。
しばしば、人の発言に関して「何を言ったかということより、誰が言ったかが重要」などと言われますね。音楽に関しても同様だと思うんです。曲が良ければ誰が作ったかなんて関係ないともいいますが、私にとっては、誰が作った音楽なのかが一番の重要事で、つねにそれを念頭に置きながらクラシック音楽に耳を傾けている次第です。作曲家の存在や作曲家の思いを無視して聴くことはできないです。
そんな偏屈な態度、先入観のためか、『レクイエム』の特に後半部分は何となく興醒めしてしまい、最後まで聴くことはあまりないんです。こういう鑑賞態度はあまりよろしくないかもしれませんけど・・・。だけども、こうした未完で中途半端?な曲が最高傑作といわれるのも、どうも合点がいきません。それに、モーツアルトに対して、何だか失礼な気もするのです。
モーツァルトの《ヴァイオリン協奏曲第6番》
故・宇野功芳先生が著書の中でおっしゃっていたのが、「僕はモーツァルトのヴァイオリン協奏曲の中で、《第6番》がいちばん好きだ」って。《第3番》や《第5番》のような無邪気な明るさには欠けるが、もっと深い香りや翳りがあるからだそうです。しかし、ちょっと待ってください。モーツァルトのヴァイオリン協奏曲って《第5番》までじゃなかったでしたっけ? というので調べましたらこういうことです。
《第6番》は1799年にアンドレによって出版されたものの、作曲技法や様式が異質であるため偽作ではないかと疑われたそうです。しかし、結局は未完成だった楽譜に他人が加筆して完成させたものだとして、K・268というケッヘル番号も付されました。一時期はこの《第6番》がもっとも人気を得て、モーツァルトのヴァイオリン協奏曲の代表作となっていたといいます。しかし今ではほぼ偽作だと決定づけられ、フリードリヒ・ヨハン・エック(1767〜1838年)作曲によると推定されている、って。
そんなわけで、今では演奏機会も録音もほとんどない気の毒な作品になってしまったわけですが、それでも宇野先生は「曲が美しければ作曲者は誰でもよいではないか」と。うーん、僭越ながら不肖私の場合は、誰が作曲したのかというのはけっこう重要です。なので、ヴァイオリン協奏曲《第6番》という曲の呼び名は、きちんと変えてほしく思います。そもそも本来の作曲家に失礼だし、このまま聴いていたら、どうしてもモーツァルトの影が脳裏にちらついてくるではありませんか。
この作品を何の先入観もなく虚心坦懐に聴けば、確かに陰影のあるとても美しい曲だと感じます。これが真のモーツァルトの作品だといわれれば、特段の疑いもなくそう感じますし、偽作だといわれればそうかなとも思います。要は、私ごときにはよく分からないです。でも中途半端な思いで聴くのは決して気持ちがいいものではありません。
さらには、この《第6番》に加え《第7番》もあって、モーツァルトの死後の19世紀に写譜が見つかり、「アブネック氏所有の作曲者自筆総譜に従い、ウジェーヌ・ソゼーが写譜」との記載もあるんだとか。しかしこれも、過去のモーツァルトの作品に似た部分がある一方で、独奏ヴァイオリンの奏法に19世紀の名人芸的パッセージが多く含まれ、音楽構成上も彼の時代のものとは言い難いとして、偽作と認定された作品です。ややこしい話ですが、でも、このままでは偽作とされている作品が何だか可哀そうに思えてきます。
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