よい指揮者とは
皆さまは、数多い指揮者の中で誰がお好きですか? 私のことを申しますと、全部の指揮者を知っているわけではないですけど、カルロス・クライバー、アーノンクール、ヤンソンス、オペラに関してはカラヤンあたりですかね。指揮者によって同じ曲でも、あるいは同じオーケストラでも雰囲気がけっこう変わりますからね。元の楽譜は一つのはずなのに、また特別なアレンジを加えているわけでもないのに、できあがった曲は様々に変わってくる。面白いもんですね。
でも、いくら有能で偉大な指揮者であっても、オーケストラのすべての音をコントロールするのは困難なはず。しかも、演奏のどこからどこまでが指揮者の果たした役割かそうでないかも、なかなか判別できません。しかし、好きな演奏、名演奏と呼ばれるものが、特定の指揮者の力量によって成立しているのは確かに間違いないこと。
それでは、よい指揮者とは、いったいどんな指揮者をいうのでしょうか。さまざまな条件、要件が掲げられているようですが、ある人が言うには「理想の指揮者というのは、彫像のように指揮台に立っているだけで、オーケストラの奏でる音楽を変えることができる人」だそうです。究極の指揮者は、棒を振らず、そこにいるだけで演奏者を感化できる、って。
すごい境地だとは思いますが、けれども、全く分からないではありません。一流のプロ同士の世界とはそうしたもんだろうと、何となく想像はできます。憚りながら私も、プロのビジネスマンのはしくれとして長くやってきました。世界は違えど、また、およそ一流などとは程遠いものの、ビジネス現場でも、よいトップリーダーのそうした有りようは相通ずるところがあると感じます。
まーいくら何でも「彫像のように立っているだけ」というわけにはいきませんけどね、しかし、優秀なトップリーダーは決して多くの言葉を発しない。それでもきっちり独自の文化はできあがってくる。そういうもんだと思います。中国の戦国時代に書かれた帝王学の書『韓非子』、これは現代のトップ・マネジメントにも必読の書とされている本ですが、ここにも、「明君とは、ひっそりと静まり返り、がらんとした空壺のようであり、その居場所も分からないほどだ」と書かれています。
千秋真一の指揮
今もなおクラシック音楽ファンの間で話題になる名作ドラマ『のだめカンタービレ』。(2006年10月〜12月の放映)上野樹里さんや玉木宏さんらをはじめとする配役がとてもよかったし、演技も面白くて素晴らしく、リアルな演奏風景もよかった。「のだめ」の超汚い部屋や、時おり登場する「投げ飛ばされ専用?人形」も愉快だった!
ところが、『クラシック アホラシー』の著者である神沼遼太郎さんは、ドラマのなかで一つだけ不満があったといいます。それは玉木宏さん演じる千秋真一の指揮ぶりだそうです。めちゃくちゃ不自然で違和感があったって。玉木さんは、ドラマに出てくるブラームスの《交響曲第1番》を指揮する演技のために、この曲を1000回以上聴いたそうですが、神沼さんは、どうやらそこに原因があるらしいというのです。どういうことか、神沼さんの言葉をそのまま引用しますと、
―― クラシック・ファンの多くはオケの曲を聴きながらつい手が動いてしまうものである。それが嵩じて聴きながら指揮をして自分は指揮者になれると思い込む人もいる。しかしそのようなやり方で指揮はできない。
生のオケの指揮とCDから流れる音楽の「指揮」との決定的な違いは、出だしにある。オケは指揮者が振らなければ音を出せない。だから指揮者の動きは実際に流れる音楽の一瞬先を行かなければおかしい。聴いてから振るのでは遅いのである。
ブラ1を1000回聴いたということは、おそらく聴きながら振る練習もしたに違いない。その動きが知らず知らず身に付いてしまってあのような映像になったのではないか。つまり、指揮の動きと音が同時になっていて、演奏に指揮を合わせているように見えるのである(もちろんテレビ局側の編集にも原因はあるが)。――
へーなるほどです。そういえば、NHKの『チコちゃんに叱られる』で、「なんで指揮者は手を振るの?」との質問が出され、その答えは「一瞬先の未来を演じているから」というものでした。つまり一瞬早く手を動かす「先振り」という技術によって演奏者に合図を送っている。私もオーケストラの演奏を見ていて、音楽と指揮の手の動きがズレてるなと感じることが時々あり、てっきりその指揮者のスタイルとかクセなのかと思っていました。そうじゃなく「先振り」のせいだったんですね。ちっとも知りませんでした。
じゃあ玉木さんは、指揮の演技のためにいったいどんな練習をすべきだったのでしょうか。神沼さんによると、曲自体は100回くらい聴けば大体の流れは分かるから、その記憶を元に振りながら頭の中でブラ1を思い浮かべるように練習をすればよかった。一種のイメージ・トレーニングですね。そうすれば、より迫真の演技になったはずだって。
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アーノンクールが好き!
「クラシック音楽鑑賞」という趣味の楽しみの一つは、やはり「出会い」なんだろうと思います。自分の感性にぴったりくる楽曲、指揮者、演奏に出会ったときの喜びといったらありません。しかし、裏を返せば、それらになかなか巡り合えない難しさがあるということです。とりわけ、これからクラシック音楽を始めようとするときの「出会い」はとても重要だろうと思います。ただでさえとっつきにくいと言われるのに、「これは!」という良い出会いが得られなければ、それ以上クラシック音楽を聴かないというふうになりかねませんからね。
不肖私の場合は、割と早い段階で、ニコラウス・アーノンクールという指揮者の演奏に出会ったことが大きかったと思います。すでに故人となってしまったのが残念でなりません。かつては古楽器(オリジナル楽器またはピリオド楽器ともいう)による演奏に注力したことから、その新しい活動が評価される一方、異端者と捉えられた時期もありました。また、アーティキュレーションや奏法が斬新な反面、その過剰さや極端さに反感を抱く人たちもいて、今もなお好悪が分かれる指揮者なのだろうと思います。「巨匠」と呼ぶことに猛反対する人もいるみたいです。
しかし、私は理屈もへったくれもなく、とにかくアーノンクールが生み出す音楽が大好きです。あの目玉ギョロリの風貌さえも。彼の指揮による演奏は、先述のようにもっぱら過激さ、極端さがクローズアップされることが多いのですが、それよりむしろ大きな魅力と感じているのが、彼が生み出すピアニッシモの美しさです。あまり目立たないというか言及されない部分ですが、実に繊細で優美で本当に大好きです。激する部分とのコントラストも、とても刺激的!
とにかく、クラシック音楽を始めて間もないあのころにアーノンクールの音楽に出会っていなければ、私も早々にクラシック音楽から離れていたかもしれません。こういうのって、千載一遇というと大げさかもしれませんが、かけがえのない恩師とか、理想の異性に巡り合うのと同じで、その時期というかタイミングが極めて大事だとつくづく思います。それを逃すとなかなか挽回できるものではない。どうか皆さまにもよい出会いがありますように。
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