1871年(明治4年)、明治政府は文部省を設置、翌72年に学制が公布されました。教育は国家ではなく個人のために必要という国民平等の公教育の理念が説かれ、そこでは「必ス邑(むら)ニ不学ノ戸ナク 家ニ不学ノ人ナカラシメン事ヲ期ス」と宣言されました。
全国を8大学区、1大学区を32中学区、1中学区を210小学区に分け、学校制度の全体がピラミッド型の構造となる学区制度の実現が目指されました。小学校は6歳入学と定め、上等、下等の各4年に分け8年制としました。わずか数年で国内に2万6000ほどの小学校が設立されましたが、国家に財力がなかったので、多くは江戸時代の寺子屋が転用されました。
こうして義務教育制度が準備されましたが、働き手の子どもを登校させるのを嫌がる親も多くいて、学費の負担に苦しむ民衆は実質的な増税だとして反発しました。そのため、なかなか就学率が上がらず、男子が約4割、女子はやっと2割を超える程度だったといいます。また、制度の内容があまりにも理想主義的だという批判もあり、1879年に新たに教育令が公布され、学制は廃止されました。
とまれ、注目すべきはピラミッドの頂点を目指して全ての児童が同じところから出発し、それぞれの才能や努力に応じて高みにのぼれるとする公平さが明確に打ち出されたことです。これは教育を通じ国民にいち早く平等に同じ機会を与え、より高い教育を受けた者がより出世することを保証した「能力主義」の考え方で、江戸時代までの身分制度を壊し、近代的な平等観念に基づく国づくりをしていく上でたいへん重要な役割を果たしました。
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