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貨幣をつくらなかった室町幕府

 室町時代は、物々交換から貨幣中心の経済に変った時代であり、経済史的にはとても重要な時期にあたります。しかしながら、国内で流通していたのは、中国から輸入した「渡来銭」でした。政権を担う室町幕府は、自前の貨幣をつくらなかったのです。

 もっとも多く流通していたのは、明の第3代皇帝・永楽帝の時代に鋳造が始まった永楽通宝(永楽銭)で、これが日本の標準通貨になっていました。永楽通宝の多くは、勘合貿易や倭寇によって大量に輸入され、江戸時代初頭まで流通しました。また、私鋳銭という私的につくられた貨幣も多く出回っていました。

 ところで、室町幕府はなぜ貨幣をつくろうとしなかったのでしょうか。外国貨幣や私的な貨幣が経済を動かしていては、幕府の権威は保てず、経済の核心を握ることもできません。

 これは、幕府が貨幣をつくろうにもつくれなかったというのが実状のようです。といっても、貨幣にする銅や鋳造技術がなかったのではなく、幕府に信用がなかったためです。貨幣の価値を裏付けるのは、政権に対する信用です。その信用がなければ、いくら貨幣をつくっても誰も使いません。それで、やむなく渡来銭や私鋳銭が流通するのを黙認していたというわけです。ちょっと残念な幕府でありましたね。

足利学校

 足利学校は、中世に下野(しもつけ)国の足利荘(栃木県足利市昌平町)に設立された学校施設で、戦国時代にかけて、関東における事実上の最高学府となりました。平安末期に足利義兼(よしかね)が所領に設立したといわれますが、ほかに平安初期の小野篁(たかむら)説、室町時代の上杉憲実(のりざね)説などもあるようです。

 いずれにせよ、室町中期の永享年間(1429〜41年)に、関東管領・上杉憲実が鎌倉円覚寺の僧で易学の大家だった快元を招いて初代校長とし、当時貴重書だった中国宋版の経典を寄贈したことにより、漢学研修の学校としての形態がととのいました。

 学校の管理は禅宗寺院にならって禅僧が行い、学生は寄宿生活をしましたが、在俗の者も在学中は剃髪して僧侶の姿になりました。授業では易学を中心に、漢籍や兵法書が講義されました。戦国末期の7代校長九華のとき、小田原北条氏の厚い保護を得て最盛期を迎えます。

 当時の合戦は日時や方角などの吉凶を占って行なわれたため、足利学校は軍配者・軍師とよばれた軍事顧問を養成する機関としても知られ、全国から学生を集めて儒学研究の独自の学風を生みました。キリスト教の宣教師フランシスコ・ザビエルは、この学校を「日本で最も大にして最も有名な坂東のアカデミー(大学)」と記し、校名は海外にまで伝えられました。

 江戸時代になってからも徳川氏の保護を得て存続し、明治維新後は、足利藩校求道館の図書などが移されています。1872年(明治5年)に校務を廃し、学校は蔵書とともに栃木県に引き継がれましたが、のち足利町に返却、1903年には学校跡に足利学校遺跡図書館が開設され、現在にいたっています。

 蔵書は上杉憲実・憲忠(のりただ)父子寄贈の宋版「五経註疏(ちゅうしょ)」をはじめ、北条氏政が寄贈した旧金沢文庫本の宗版「文選(もんぜん)」(国宝)、徳川家康の寄贈書などがあり、国宝や国の重要文化財が数多くあります。学校跡は国史跡に指定されており、今日では足利市の生涯学習のよすがとして、足利市教育委員会によって管理されています。
 

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室町幕府の将軍

  1. 足利尊氏
  2. 足利義詮
  3. 足利義満
  4. 足利義持
  5. 足利義量
  6. 足利義教
  7. 足利義勝
  8. 足利義政
  9. 足利義尚
  10. 足利義材
  11. 足利義澄
  12. 足利義晴
  13. 足利義輝
  14. 足利義栄
  15. 足利義昭


(足利義満)

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