ドイツ生まれの哲学者カントは、現代哲学の源流といわれ、「カント以前の哲学は全てカントに流れ込み、それ以後の哲学は全てカントから流れ出る」などと表現されます。カントによって哲学のベクトルが大きく変わってしまったとされますが、彼の哲学思想はどのようなものだったのでしょうか。
それまでの西洋哲学には「合理論」と「経験論」の2つの考え方がありました。理性の万能性を信じ、理性によって必ず普遍の真理に到達できると考えたのが「合理論」で、「経験論」はあらゆる偏見(イドラ)を排除し、観察された事実をもとに一般法則を導く帰納法を重視するという考え方です。カントはもともと合理論者でした。
ところが、経験論者の一人であるヒュームが唱える「懐疑論」を知って、カントは強い衝撃を受けます。それまで疑うこと自体がタブーだった神の存在に対しても疑いの目を向け、さらに科学(因果律)までもを疑うヒュームの徹底ぶりに接し、カントは「ヒュームの警告こそが、独断のまどろみから私の目を覚まさせ、私の探求にまったく新しい方向を示してくれた」と述べています。
そうしてカントはヒュームの懐疑に立ち向かおうと決意しました。そもそもヒュームの主張とは「すべての知識や概念は、人間か経験から作り出したものにすぎない」というものでしたが、そこでカントに新たな疑問が生じます。もし人間が想像する概念がすべてバラバラの経験による結果であるならば、別々の世界で違う経験をした人間が、幾何学や論理学などのように同じ結論に至ることに説明がつかない、と。
そこでカントは、ヒュームの結論を乗り越えるための仮説を立てます。人間の知識は確かに経験の束といえるが、その経験の受け取り方には、先天的に特有のパターンがあるのではないか、と。そうして、たとえば人間が何かのモノを見るときは、必ず空間的・時間的にそれを見ているというふうに、人間にはあらかじめ組み込まれている共通の「感性」の形式があることを見出します。
しかし、それだけで認識が成立するのではなく、もう一つの共通規格である「悟性」が、そうした感覚的素材を量、質、関係、様態といった「カテゴリー」に当てはめて統一することで、初めて万人が共有できる「知」が成り立つのだと考えました。そして、そうした共通の形式に基づく範囲でしか、普遍的な真理を打ち立てることはできないのだと主張します。
さらにカントは、 人間は何かの物事を認識する際に、必ず先天的な受け取りのパターンを利用するものの、「そのモノ」はすでに経験のプロセスを経由しているから、その時点で「そのモノ自体」ではなくなっている。認識に際して何某かのフィルターが存在する以上、それを飛び越えてそのモノ自体を観測することは不可能である。つまり、真理は構築可能だが、それはあくまで人間が規定する人間のための真理にすぎないというのです。だから、共通の経験の形式をもたない他の生物とは真理を共有できない!
ということは、私たちが認識している「そのモノ」も、本当の世界の「モノ」であるとはいえないし、人間は、自分たちの形式に変換される前の本当の「モノ自体」には決して到達できないということになります。でも、カントはそれで構わないのだと考えます。分からないものはどう考えたって分からないのだから、人間の形式に変換されたあとの現実の世界に限定して探求を進めるべきだと唱えたのです。
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