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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

弓削皇子(ゆげのみこ)の歌

巻第2-119~122

119
吉野川行く瀬の早(はや)みしましくも淀(よど)むことなくありこせぬかも
120
吾妹子(わぎもこ)に恋ひつつあらずは秋萩(あきはぎ)の咲きて散りぬる花にあらましを
121
夕さらば潮(しほ)満ち来(き)なむ住吉の浅香(あさか)の浦に玉藻(たまも)刈りてな
122
大船(おほふね)の泊(は)つる泊(とま)りのたゆたひに物思ひ痩(や)せぬ人の児(こ)ゆゑに
 

【意味】
〈119〉吉野川の早瀬がしばらくも淀むことがないように、私たちの仲も淀むことなくずっと続いてくれたらいいのに。

〈120〉愛しい女に恋い苦しんでばかりいないで、秋萩がぱっと咲いて散るような恋がしたいものだ。

〈121〉夕方になれば潮が満ちるだろう。住吉の浅香の浦で、今のうちに藻を刈ってしまいたい。

〈122〉大きな船が停泊する港の水のように、心が揺れ動いて痩せてしまった、あなたを思って。そのあなたは、人のものなのに。

【説明】
 弓削皇子が紀皇女を思う歌4首。弓削皇子は天武天皇の第9皇子で、長皇子の同母弟。『万葉集』には8首あり、天武天皇の皇子のなかでは最多です。持統天皇の治世下における不安定な立場に背を向けた非俗、孤独な歌人と評されますが、『柿本人麻呂歌集』には、弓削皇子に献上された歌が5首残されており、広い交流の跡も窺えます。紀皇女は皇子の異母姉妹にあたり、石田王(伝未詳)の妻だったようですが、他の天武天皇の皇女たちと違い、紀皇女の記録はほとんどありません。

 119の「しましく」は、しばらく。「ありこせむかも」の「こせ」は、希望の助詞「こす」の未然形、「ぬかも」は願望の終助詞で、あってくれぬか、あってくれよの意。120の「恋ひつつあらずは」の「ずは」は、ないで。「秋萩」と「秋」を添えていうのは、花を連想させようとしての表現。「まし」は、仮定の推量。121の「住吉」は、大阪市住吉区。「浅香の浦」は、住吉神社の南方の浦。「玉藻」の「玉」は、美称。「刈りてな」は、刈ってしまおう。行楽の歌のようでありながら、思慕する紀皇女のイメージを藻に重ね合わせ、世間の噂にならないうちに恋しい人を自分のものにしてしまいたいという気持ちを詠んでいます。122の上2句は「たゆたひ」を導く序詞。「たゆたひ」は揺れ動くこと、思い悩むこと。「人の児」は、人妻の意。

紀皇女の歌(巻第3-390)

巻第3-242

滝の上の三船(みふね)の山に居(ゐ)る雲の常(つね)にあらむと我(わ)が思はなくに

【意味】
 滝の上高く、三船の山に雲がかかっている。その雲のようにいつまでも生きられようとは思っていないのだが。

【説明】
 弓削皇子が吉野に遊ばれたときの歌。「三船の山」は、吉野の宮滝にかかる橋から上流右手に見える山。「常にあらむと」は、生きていようとは。なおこの歌の解釈は「三船の山にかかる雲がいつまでもあるとは思わないけれども」とも取れます。この歌の次に、春日王(かすがのおおきみ:伝未詳)が和した歌が載っています。

〈243〉大君(おほきみ)は千歳(ちとせ)にまさむ白雲(しらくも)も三船(みふね)の山に絶ゆる日あらめや
 ・・・皇子は永久に世にましますことであろう。白雲もまた、三船の山になくなる日があろうか、ありはしない。

 さらにこの次に弓削皇子の「或る本の歌」とする歌が載っています。左注には『柿本人麻呂歌集』に出ているとあります。

〈244〉み吉野の三船の山に立つ雲の常にあらむと我が思はなくに
 ・・・吉野の三船の山にいつも沸き立っている雲のように、いつまでも生きられようとは思っていないのだが。

 弓削皇子には、持統天皇の皇太子を選定する会議で、軽皇子(文武天皇)を立てることに異議をとなえようとし、葛野王(かどののおおきみ)に叱責され制止されたという経緯があります。本来であれば皇位継承順位第一位となるはずだった異母兄の長皇子を思っての行動だったと推測されています。この歌は、その後の死を覚悟したものと解釈できないではありません。これを心配したとみられる長皇子が弟に贈った歌が、巻第2-130に載っています。

〈130〉丹生(にふ)の川瀬は渡らずてゆくゆくと恋痛(こひた)し我が背(せ)いで通ひ来(こ)ね
 ・・・丹生の川の瀬は渡ろうとせずに、まっすぐに私のところにやって来なさい。恋しさに心痛む我が弟よ。

 弓削皇子の歌にある「吉野」は持統天皇を指した隠語であり、また長皇子の歌の「丹生の川瀬は渡らずて」は、吉野の急流(持統)は無視して、との寓意が含まれているともとれます。皇嗣選定会議が行われた3年後の文武天皇3年(699年)7月、弓削皇子は27歳?の若さで、病気により兄や母に先立って没しました。

巻第8-1467・1608

1467
霍公鳥(ほととぎす)無かる国にも行きてしかその鳴く声を聞けば苦しも
1608
秋萩(あきはぎ)の上に置きたる白露(しらつゆ)の消(け)かもしなまし恋ひつつあらずは
 

【意味】
〈1467〉ホトトギスのいない所があるなら行きたいものだ。その鳴き声を聞くと辛い。
 
〈1608〉秋萩についた白露のように、はかなくこの世から消えてしまったほうがましだ。こんなに恋して苦しむよりは。

【説明】
 1467の「無かる」は「無し」の連体形。「国」は、所、土地という狭い範囲の意で用いられています。「てしか」は、願望の終助詞。ホトトギスは、その哀調を帯びた鳴き声が愛され、『万葉集』には、ホトトギスを詠んだ歌が153首もあります。中国では、懐古の悲鳥とされました。

 1608の上3句は「消」を導く序詞。「まし」は、仮説の帰結で、できるならばそうしようの意。「恋ひつつあらずは」の「つつ」は、継続。は、請い続けていずに。なお、この歌は、古歌とされる巻第10-2254と重複しており、また2256、2258にも酷似した歌が載っています。皇子の歌とされるこの歌も、何らかの事情で、謡い物であったものが皇子の歌として伝えられたのかもしれません。

弓削皇子と額田王の歌(巻第2-111~113)

弓削皇子が亡くなった時に置始東人が作った歌

巻第2-204~206

204
やすみしし 我(わ)が大君(おほきみ) 高(たか)光る 日の皇子(みこ) ひさかたの 天(あま)つ宮に 神(かむ)ながら 神(かみ)といませば そこをしも あやに恐(かしこ)み 昼はも 日のことごと 夜(よる)はも 夜(よ)のことごと 臥(ふ)し居(ゐ)嘆けど 飽(あ)き足らぬかも
205
大君(おほきみ)は神にしいませば天雲(あまくも)の五百重(いほへ)の下に隠(かく)りたまひぬ
206
楽浪(ささなみ)の志賀(しが)さざれ波しくしくに常(つね)にと君が思ほせりける
 

【意味】
〈204〉天下を支配せらるる我が主君、高く光り輝く天皇の皇子は、天上の御殿に神々しくも神として鎮まりになられた。そのことを無性に恐れ畏み、昼は昼中、夜は夜中、伏して悲しみ嘆いているけれども、いつまでたっても嘆き足りない。

〈205〉わが大君は神でいらっしゃるから、天雲が幾重にも重なる向こうにお隠れになった。

〈206〉志賀の浜のさざ波が絶え間なく打ち寄せるように、永く世にありたいと君は思っていらっしゃったのに。

【説明】
 弓削皇子は、文武天皇3年(699年)7月に、母や兄に先立って27歳の若さで薨去。作者の置始東人(おきそめのあずまと)は、弓削皇子の舎人だったとみられます。

 204の「やすみしし」は「我が大君」の枕詞。「高光る」は「日」の枕詞。「ひさかたの」は「天」の枕詞。「天つ宮」は、天上にある宮。「そこをしも」の「しも」は、強意。「あやに」は、無性に、言いようもなく。「昼はも日のことごと夜はも夜のことごと」は、昼は終日、夜は終夜。歌の殆ど全部が成句からなっており、作者の手腕がみられないことから、儀礼的に強いて作ったものとみられます。205の「五百重」は、限りなく深く重なっていることの表現。206の「楽浪」は、琵琶湖の西南岸一帯。「志賀」は、大津市の北部。「さざれ波」は、さざ波。「しくしくに」は、しきりに。

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『万葉集』に出てくる土地
 『万葉集』に出てくる土地は、北海道と青森・秋田・山形・岩手・沖縄の5県にはありませんが、その他は国内全土に及び、その地名の数は延べ約2,900、同一呼称の地名を一つに数えると約1,200になります。その中で、大和の国(奈良県)の地名数が延べ約900、同一呼称を一つに数えると約300の多数にのぼります。万葉の時代にあたる、舒明天皇以後、淳仁天皇の天平宝字3年(759年)まで130年間、都が一時、難波・近江・山城に遷ることはあったものの、あとは全部大和一国のなかにありましたから、当然といえます。その大和の万葉の舞台は、今の奈良県のなかの、初瀬・桜井の一帯、山の辺の道一帯、飛鳥から大和三山の間の藤原京の地域、宇陀郡地域、葛城・宇智方面、吉野川流域、奈良市周辺、生駒・竜田の地域などに大体分けられます。 

古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。

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天武天皇の子女

皇子
高市皇子
草壁皇子
大津皇子
忍壁皇子
穂積皇子
舎人皇子
長皇子
弓削皇子
新田部 皇子(生年未詳)
磯城皇子(生没年未詳)

皇女
十市皇女
大伯皇女
但馬皇女
田形皇女
託基皇女
泊瀬部皇女(生年未詳)
紀皇女(生没年未詳)


(天武天皇)

ホトトギスの故事

霍公鳥(ホトトギス)は、特徴的な鳴き声と、ウグイスなどに托卵する習性で知られる鳥で、『万葉集』には153首も詠まれています(うち大伴家持が65首)。霍公鳥には「杜宇」「蜀魂」「不如帰」などの異名がありますが、これらは中国の故事や伝説にもとづきます。

長江流域に蜀(古蜀)という貧しい国があり、そこに杜宇(とう)という男が現れ、農耕を指導して蜀を再興、やがて帝王となり「望帝」と呼ばれた。後に、長江の治水に長けた男に帝位を譲り、自分は山中に隠棲した。杜宇が亡くなると、その霊魂はホトトギスに化身し、農耕を始める季節が来ると、鋭く鳴いて民に告げた。また後に蜀が秦によって滅ぼされてしまったことを知った杜宇の化身のホトトギスは、ひどく嘆き悲しみ、「不如帰去」(帰り去くに如かず。= 帰りたい)と鳴きながら血を吐くまで鳴いた。ホトトギスの口の中が赤いのはそのためだ、と言われるようになった。

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