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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

柿本人麻呂、妻が亡くなった後に作った歌

巻第2-207~209

207
天(あま)飛ぶや 軽(かる)の路(みち)は 吾妹子(わぎもこ)が 里にしあれば ねもころに 見まく欲しけど 止まず行かば 人目を多み 数多(まね)く行かば 人知りぬべみ 狭根葛(さねかづら) 後も逢はむと 大船の 思ひ憑(たの)みて 玉かぎる 磐垣淵(いはかきふち)の 隠(こも)りのみ 恋ひつつあるに 渡る日の 暮れ行くが如(ごと) 照る月の 雲隠る如(ごと) 沖つ藻の 靡(なび)きし妹(いも)は 黄葉(もみちば)の 過ぎて去にきと 玉梓(たまづさ)の 使(つかひ)の言へば 梓弓(あづさゆみ) 音に聞きて  言はむ術(すべ) 為(せ)むすべ知らに 音のみを 聞きてあり得ねば 我が恋ふる 千重(ちへ)の一重(ひとへ)も 慰(なぐさ)もる 情(こころ)もありやと 我妹子が 止まず出で見し 軽の市(いち)に 我が立ち聞けば 玉たすき 畝傍(うねび)の山に 鳴く鳥の 声も聞こえず 玉桙(たまほこ)の 道行く人も ひとりだに 似てし行かねば すべをなみ 妹が名呼びて 袖(そで)ぞ振りつる
208
秋山の黄葉(もみち)を茂み迷(まと)ゐぬる妹(いも)が求めむ山道(やまぢ)知らずも
209
黄葉(もみちば)の散りゆくなへに玉梓(たまづさ)の使(つかひ)を見れば逢ひし日思ほゆ
 

【意味】
〈207〉あの軽の地は私の妻の里だから、よくよく見たいと思うけれども、しょっちゅうその道を行くと人目が多く、度々行けばきっと人が知るだろうから、後にでも会おうとそれを頼みに、心の中でばかりずっと恋しく思っているうちに、空を渡る日が暮れていくように、照る月が雲に隠れるように、なびき寄って寝た妻は死んでしまった、そう使いの者が来て知らせてきた。知らせを聞いて、どう言ってよいのかどうしてよいのか分からず、じっとしてもいられないので、自分が恋しく思っている千分の一でも慰められる気持ちにもなるだろうかと、妻がいつも出て見ていた軽の市に行って佇んで耳を傾けたが、懐かしい妻の声も聞こえず、道行く人も一人も妻に似た人が通らないので、どうしようもなく妻の名を呼んで、袖を振ったことだ。

〈208〉秋の山に、紅葉した草木が茂っていて、そこに迷い込んだ妻を捜す山道すらわかわない。

〈209〉もみじがはかなく散りゆく折りしも、文の使いをする人を見ると、妻と逢った日のことを思い出す。

【説明】
 人に知られてはならない存在だった妻の突然の死を、こともあろうに、妻との恋文のやり取りを伝えていた使いの者から知らされた。題詞には「泣血哀慟(きゅうけつあいどう)」すなわち、涙が涸れるまで嘆き悲しみ、しまいには血の涙まで流して泣いたとあります。妻の死を玉梓の使いから知らされるというのは、通い婚(妻問婚)の時代ならではの事情であり、また、歌詞に「まねく行かば人知りぬべみ」とあるのは、忍び妻(隠り妻)だったのでしょうか。

 207の「天飛ぶや」は「軽」の枕詞。「雁」と「軽」が類音で掛かります。「軽の路」は、妻が暮らしていた場所。奈良県橿原市大軽の辺りで、畝傍山の東南の地。「ねもころに」は、丁寧に、心を込めて。「人目を多み」の「・・・を~み」は、「・・・が~なので」の意。「狭根葛」は「逢ふ」の枕詞。「狭根葛」はつる性の植物で、そのつるが分かれて先の方でまた会う意によります。「大船の」は「思ひ憑みて」の枕詞。「玉かぎる」は「磐垣淵」の枕詞。「磐垣淵」は岩が垣のようにめぐっている淵のこと。「沖つ藻の」は「靡く」の枕詞。「黄葉の」は「過ぐ」の枕詞。「過ぐ」は「死」の語を避けた表現。「玉梓の」は「使」の枕詞。「梓弓」は「音」の枕詞。「音に聞きて」は、噂に聞いて。「玉たすき」は「畝傍」の枕詞。「玉桙の」は「道」の枕詞。

 当時、死んだ人は自ら山路に入っていくと信じられていました。反歌の208では、まだ妻の死を認めようとせず、山道に迷い込んだだけだと思い、しかし、時間を経た209では、やっと妻の死を現実のものと認め、静かな回想にふけっています。「散りゆくなへに」は、散ってゆくにつれて。「使」は、長歌にもありますが、妻が人麻呂のところに連絡係としてよく遣わした使用人のこと。後になってたまたま路上で見かけ、妻とのことを思い出しています。

 作者の柿本人麻呂(生没年未詳)は、持統~文武期にかけて、宮廷歌人の第一人者として認められていた人らしく、公的な儀礼や宴の場で多くの歌を残しています。ただし、宮人としては下級で、はじめ舎人として出仕し、のちに地方官ともなっているようですが、六位以下で終わっているとみられています。万葉集以外に所伝はありません。

巻第2-210~212

210
うつせみと 思ひし時に 取り持ちて わが二人見し 走出(はしりで)の 堤(つつみ)に立てる 槻(つき)の木の こちごちの枝の 春の葉の 茂きが如く 思へりし 妹にはあれど たのめりし 児らにはあれど 世の中を 背(そむ)きし得ねば かぎろひの 燃ゆる荒野(あらの)に 白妙(しろたへ)の 天(あま)領巾(ひれ)隠り 鳥じもの 朝立ちいまして 入日なす 隠りにしかば 吾妹子が 形見に置ける みどり児の 乞ひ泣くごとに 取り与ふる 物し無ければ 男じもの 腋(わき)ばさみ持ち 吾妹子と 二人わが宿(ね)し 枕づく 嬬屋(つまや)の内に 昼はもうらさび暮し 夜はも 息づき明(あか)し 嘆けども せむすべ知らに 恋ふれども 逢ふ因(よし)を無み 大鳥の 羽易(はがい)の山に わが恋ふる 妹は座(いま)すと 人の言へば 石根(いはね)さくみて なづみ来し 吉(よ)けくもぞなき うつせみと 思ひし妹が 玉かぎる ほのかにだにも 見えなく思へば
211
去年(こぞ)見てし秋の月夜は照らせども相(あひ)見し妹はいや年さかる
212
衾道(ふすまぢ)を引手(ひきで)の山に妹を置きて山道(やまぢ)を行けば生けりともなし
 

【意味】
〈210〉妻はずっとこの世の人だと思っていた時、手を取り合って私たち二人が見た、突き出た堤に立っていた槻の木の、あちらこちらの枝に春の葉がたくさん茂っていたように、思い続けた妻であったが、頼りにしてきた妻であったが、無常の世の道理に背くことはできず、陽炎(かげろう)がゆらめく荒野に、真っ白な天女の領巾に覆われて、鳥でもないのに朝早く飛び立ってしまい、夕日のように隠れてしまったので、妻が形見として残していった幼な子が、何かを欲しがり泣くたびに、与えるものも無く、男だというのに脇に抱えて、いとしい妻と寝た離れの中で、昼には心寂しく過ごし、夜にはため息をついて明かし、いくら嘆いてもどうしようもなく、恋焦がれても逢えず、羽易の山に妻がいると人が言ってくれるので、大地に根を張ったような大きな岩を踏み分けて、骨折りながらやって来たものの、その甲斐も無い。ずっとこの世の人だと思っていた妻が、玉の光ほどにほのかにも見えないことを思うと。

〈211〉去年に見た秋の月は変わらず照ってはいるが、一緒に眺めた妻は、年月とともにますます遠ざかっていく。

〈212〉引手の山に妻を置いて、寂しい山道を帰っていくと、とても自分が生きているとは思われない。

【説明】
 207~209の続きで、長歌と短歌2首。妻が死んでも日常は繰り返され、それがいっそう妻への思いを深めてしまう・・・。ただし、歌の内容からは、207~209と210~212とは別人の妻と見られます。初めの軽の妻が死んだのは秋であり、人麻呂がそれを知って軽の地へ行った時は、すでに葬儀は終り、妻の亡骸は折から黄葉している山へ葬られていた時であることがわかります。

 一方、210~212の季節は春のようであり、人麻呂は妻の葬儀に立ち合い、少なくとも野辺送りされる柩を目にしています。さらに残された乳呑児を、妻に代って見なくてはならないという状態であり、また、妻の死後、人麻呂とその周囲の人との交渉があるところから、この妻は軽の妻が人目を憚っていたのとは異なり、同棲をしていたものと取れます。一夫多妻の時代でしたから、二人の妻を同時にもっていたとしても怪しむべきことではありません。あるいは前後していたものかもしれませんが、そのあたりは不明です。双方とも、巻第2-131以下の石見相聞歌と同じく、人麻呂の体験を題材にして創作され、宮廷サロンの享受に具された作であるとの見方があります。
 
 210の「うつせみ」は、現(うつ)し身の転で、この世にある身。「こちごち」は、あちらこちら。「児ら」の「ら」は接尾語。「鳥じもの」は、鳥でもないのに鳥であるかのように、の意。「入り日なす」「枕づく」「大鳥の」は、それぞれ「隠り」「嬬屋」「羽易」の枕詞。「羽易」は、鳥のたたんだ翼が背で交わるところ。「みどり児」は1~3歳の幼児。「羽易の山」は所在未詳ながら、天理市と桜井市にまたがる竜王山という説があります。「玉かぎる」は「ほのか」の枕詞。「石根さくみて」の「さくむ」は、踏み分ける。

 210の「なづみ来し」の「なづむ」は、行き悩む。211の「いや年さかる」の「いや」は、ますます。212の「衾道を」は、意味不明ながら「引手」の枕詞か。「引手の山」は所在不明ながら、天理市中山の東にある竜王山とする説があります。「生けりともなし」は、生きている気もしない。

巻第2-213~216

213
うつそみと 思ひし時に 携(たづさ)はり 我(わ)が二人見し 出で立ちの 百枝槻(ももえつき)の木 こちごちに 枝させるごと 春の葉の 茂(しげ)きがごとく 思へりし 妹(いも)にはあれど たのめりし 妹にはあれど 世の中を 背(そむ)きし得ねば かぎろひの 燃ゆる荒野(あらの)に 白たへの 天領巾隠(あまひれがく)り 鳥じもの 朝立ちい行きて 入り日なす 隠(かく)りにしかば 我妹子(わぎもこ)が 形見に置ける みどり子の 乞(こ)ひ泣くごとに 取り委(まか)す 物しなければ 男じもの 腋(わき)ばさみ持ち 我妹子と 二人わが寝し 枕づく 嬬屋(つまや)のうちに 昼は うらさび暮らし 夜は 息づき明かし 嘆けども せむすべ知らに 恋ふれども 逢ふよしをなみ 大鳥(おほとり)の 羽易(はがひ)の山に 汝(な)が恋ふる 妹はいますと 人の言へば 岩根(いはね)さくみて なづみ来(こ)し 吉(よ)けくもぞなき うつそみと 思ひし妹が 灰(はひ)にていませば
214
去年(こぞ)見てし秋の月夜(つくよ)は渡れども相(あひ)見し妹(いも)はいや年(とし)離(さか)る
215
衾道(ふすまぢ)を引出(ひきで)の山に妹(いも)を置きて山道(やまぢ)思ふに生けるともなし
216
家に来て我が屋を見れば玉床(たまどこ)の外(ほか)に向きけり妹(いも)が木枕(こまくら)
 

【意味】
〈213〉この世にずっといると思っていた妻と手を携えて見た、まっすぐに突き立つ百枝の槻の木。その木があちこちに枝を伸ばしているように、春の葉がびっしりと生い茂っているように、絶え間なく愛しく思っていた妻であり、頼みにしていた彼女であったのに、無常の世の道理に背くことはできず、陽炎(かげろう)がゆらめく荒野に、真っ白な天女の領巾に覆われて、鳥でもないのに朝早く飛び立ってしまい、夕日のように隠れてしまったので、妻が形見として残していった幼な子が、何かを欲しがり泣くたびに、与えるものも無く、男だというのに脇に抱えて、いとしい妻と寝た離れの中で、昼には心寂しく過ごし、夜にはため息をついて明かし、いくら嘆いてもどうしようもなく、恋焦がれても逢えず、羽易の山に妻がいると人が言ってくれるので、大地に根を張ったような大きな岩を踏み分けて、骨折りながらやって来たものの、その甲斐も無い。ずっとこの世の人だと思っていた妻が、空しくも灰となっておられるので。

〈214〉去年の秋に見た月は、今夜も同じように渡っていく。一緒に見た妻との思い出も歳月を経れば遠ざかっていく。

〈215〉妻を置いてきた引手の山に別れを告げて、その山道を思うと生きた心地もしない。

〈216〉家に帰り着いて、夫婦で寝た部屋を見ると、妻の木枕があらぬ方向に向いて転がっていた。

【説明】
 「或る本の歌に曰く」とある歌。人麻呂の前の歌が伝唱されているうちに、伝唱者によって部分的に改められていったものが記録されたもの考えられています。216の「玉床」の「玉」は美称で、死者の寝床を尊んで言っています。「木枕」は、黄楊(つげ)などで作った枕だとされます。この時代は、その人が身に付けた物は、その人の魂が宿るものとして重んじ、ことに床や枕を重んじて、その人が余所へ行って不在の時、また死後も一年の間は大切にして手を触れず、粗末にすると、その人に災いが起こると信じられていたといいます。

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人麻呂の妻
 人麻呂の妻が何人いたかについては、2人説から5人説まであり、確かなことは分かっていません。最も多い5人とみた場合は、次のように分類されます(①~④は仮名)。

①軽娘子
 妻が亡くなった後に泣血哀慟して作った長歌(巻第2-207・210・213)でうたわれた妻。
②羽易娘子
 210の長歌に、幼児を残して死んだことうたわれているため、①の軽娘子とは別人の妻だとする。
③第二の羽易娘子
 213の長歌の妻も別人とする。
④石見娘子
 人麻呂が石見国から上京して妻と別れるときに作った長歌(巻第2-131・135・138)でうたわれた妻。
⑤依羅娘子
 巻第2-224・225で、亡くなった人麻呂を思い作った歌の作者。

 このうち、①②③すべてを同一人、②③を同一人、④⑤を同一人とする説など、さまざまあります。
 
 

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古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。

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歌の三大分類

雑歌(ぞうか)
 「相聞」「挽歌」の分類項目に属さないものを言い、国見(くにみ)、遊猟(ゆうりょう)、行幸(ぎょうこう)など宮廷生活の晴の場でなされた歌などを収め、「万葉数」の編纂に際しては、雑歌が他の二つの部に優先している。巻1、3、5、6、7、8、9、10、13、14、16の諸巻に「雑歌」の部をたてている。
 
相聞(そうもん)
 お互いの起居を問う意で、相聞往来ともいう。相互の関係は、男女・親子・兄弟・親戚・朋友・君臣などに及ぶが、やはり恋愛関係のものが最も多い。巻2、4、8、9、10、11、12、13、14の諸巻に「相聞」の部立をもち、収める歌数は1750首に上り、全歌数の3分の1を超える。これらは表現の仕方によって、正述心緒(せいじゆつしんしよ)、寄物陳思(きぶつちんし)、譬喩(ひゆ)などと分類されている。
 
挽歌(ばんか)
 元来は棺(ひつぎ)を挽く時の歌で、哀悼の意を歌ったもの。喪葬儀礼の外で死者を哀傷する歌として、中国の文学の媒介によって形づくられていった新しい歌の領域。『古今集』以後は「挽歌」の部立は消え、「哀傷歌」と称されるようになる。

柿本人麻呂の略年譜

662年
このころ生まれる
672年
壬申の乱
680年
このころまでには出仕していたとみられる
686年
天武天皇崩御
689年
このころ巻第1-29~31の近江荒都歌を作る
689年
草壁皇子没。巻第2-167~170の殯宮挽歌を作る
690年
持統天皇の吉野行幸。巻第1-36~37の吉野賛歌はこの時の作か
691年
泊瀬部皇女・忍壁皇子に奉る挽歌(巻第2-194~195)を作る
692年
持統天皇の伊勢行幸。都に留まって巻第140~42の歌を作る
692年
軽皇子(文武天皇)が宇陀の阿騎で狩猟した際に、巻第1-45~49の歌を作る
694年
藤原京へ遷都
696年
高市皇子没。巻第2-199~201の殯宮挽歌を作る
697年
文武天皇即位
700年
明日香皇女没。巻第2-196~198の殯宮挽歌を作る(作歌年が明らかな最後の歌)
702年
持統上皇崩御
707年
文武天皇崩御、元明天皇即位
710年
平城京へ遷都
724年
このころ亡くなる

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