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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

石川君子(いしかはのきみこ)の歌

巻第3-247

沖つ波(なみ)辺波(へなみ)立つとも我(わ)が背子(せこ)が御船(みふね)の泊(とま)り波立ためやも

【意味】
 沖の波や岸辺に打ち寄せる波がどんなに激しく立とうとも、あなたさまの御船が停泊する港に波立つことなどあろうはずがありません。

【説明】
 この歌は、長田王が筑紫に遣わされて水島に渡る時に詠んだ歌(巻第3-245・246)に和したもので、王が波を懸念したのに、歌をもって祝った歌です。当時の航海では、港に着いて着岸する時がもっとも困難だったらしく、大きな船はなおさらのことで、君子はその時を思い描いて平穏を祝っています。

 「水島」は、熊本県八代市の南川河口にある小島。昔、熊襲(くまそ)征伐のため九州を訪れていた景行天皇一行がこの島にたどり着き、飲み水が底をついたため神に祈ったところ、島の崖の傍から塩気のない水が湧き出たという伝説がある島で、ここから「水島」と名付けられたといいます。「沖つ波」は、沖の波。「辺波」は、岸に寄せる波。「我が背子」は、本来は女が男を親しんで呼ぶ語ですが、男同士にも用いられました。ここは長田王を指しています。「立ためやも」の「やも」は、反語。
 
 作者の石川君子は、名を吉美侯、若子とも記し、和銅8年(715年)に播磨守となり、兵部大舗を経て侍従を務めた人です。『播磨風土記』の編纂に携わったのではないかといわれ、また、神亀~天平年間初頭に聖武天皇に仕えた「風流侍従」10余人のうちの一人に比定されています。但し、この歌の題詞は「石川大夫、和ふる歌」で、左注に「この歌は、今考えると、石川宮麻呂朝臣が慶雲年中に大弐(だいに)に任ぜられ、また、石川朝臣吉美侯(きみこ)が神亀年中に少弐に任せられたが、二人のどちらがこの歌を作ったのかわからない」とあり、定説がありません。

巻第3-278

志賀(しか)の海女(あま)は藻(め)刈り塩焼き暇(いとま)なみ櫛笥(くしげ)の小櫛(をぐし)取りも見なくに

【意味】
 志賀島の海女たちは、藻を刈ったり塩を焼いたりして暇がないので、櫛笥の小櫛を手に取って見ることもできずにいる。

【説明】
 「志賀」は、博多湾の志賀島で、現在は陸続きになっています。「藻」は、海藻の総称。「櫛笥」は、櫛を入れる箱。「小櫛」の「小」は、接頭語。海人の女がその生業にあまりにも忙しく、女として大切な髪をいたわる暇もないことを嘆き憐れんでいます。『万葉集』で「海人」を詠んだ歌は66首あり、地名を冠して呼ばれることが多く、その大半は海人自身によるのではなく、都人が旅先で詠んだものとなっています。

 石川君子は、神亀年間(724~729年)に大宰府の少弐に任じられており、実際に志賀島で働く海女たちを見て詠んだとみられます。都から来た男の目には、力強く働く海女たちの姿がたいそう珍しく、また、ダイナミックに見えたのでしょう。また、「櫛笥」を思い出したのは、10年ばかりも前、彼が播磨守だったころに愛した娘子が、別れの時に詠んだ歌(巻第9-1777)を思い起こしたのかもしれません。

〈1777〉君なくはなぞ身装はむ櫛笥なる黄楊の小櫛も取らむとも思はず
 ・・・あなた様がいらっしゃらなければ、どうして私は身を飾り立てましょうか、化粧箱の黄楊の櫛さえ取ろうと思いません。

巻第11-2742

志賀(しか)の海人(あま)の煙(けぶり)焼き立て焼く塩の辛(から)き恋をも我(あ)れはするかも

【意味】
 志賀島の海人が煙を立てて焼く塩の辛さは格別であり、そんな辛い恋を私はしている。

【説明】
 上3句は「辛き」を導く序詞。「辛き」は、苦しい、辛い意を言い換えたもの。左注に「或る本には、石川君子朝臣が作った」とある歌です。

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鴨君足人(かものきみたるひと)の香具山の歌

巻第3-257~260

257
天降(あも)りつく 天(あめ)の香具山(かぐやま) 霞(かすみ)立つ 春に至(いた)れば 松風に 池波立ちて 桜花(さくらばな) 木(こ)の暗茂(くれしげ)に 沖辺(おきへ)には 鴨(かも)妻呼ばひ 辺(へ)つ辺(へ)へに あぢ群(むら)騒(さわ)き ももしきの 大宮人(おほみやびと)の 退(まか)り出(で)て 遊ぶ舟には 楫棹(かぢさを)も なくてさぶしも 漕(こ)ぐ人なしに
258
人(ひと)漕(こ)がずあらくもしるし潜(かづ)きする鴛鴦(をし)とたかべと船の上(うへ)に棲(す)む
259
いつの間(ま)も神(かむ)さびけるか香具山(かぐやま)の桙杉(ほこすぎ)の本(もと)に苔(こけ)生(む)すまでに
260
天降(あも)りつく 神(かみ)の香具山(かぐやま) うちなびく 春さり来れば 桜花(さくらばな) 木(こ)の暗茂(くれしげ)に 松風に 池波立ち 辺(へ)つ辺(へ)には あぢ群(むら)騒(さわ)き 沖辺(おきへ)には 鴨(かも)妻呼ばひ ももしきの 大宮人(おほみやびと)の 退(まか)り出て 漕(こ)ぎける舟は 棹楫(さをかぢ)も なくてさぶしも 漕がむと思へど
 

【意味】
〈257〉天から降ってきたという天の香具山では、霞立つ春になったので、山に吹く松風に、麓の池には波が立ち、山に咲く桜の花は、木陰が暗くなるほどに咲き、池の沖では、鴨が妻を呼び続けており、岸辺ではあじ鴨の群れが鳴き騒いでいるけれども、宮仕えの人たちが、御殿から退出して舟遊びをした舟には、それを漕ぐ櫓も棹も失せてしまって物さびしい。舟を漕ぐ人もなくて。

〈258〉誰も舟を漕がなくなったのは明らかだ。水に潜る鴛鴦(おしどり)や小鴨(こがも)が舟の上に棲みついている。

〈259〉いつの間にこれほど神々しくなってしまったのか、香具山の尖った杉の根元が苔生すまでに。

〈260〉天から降ってきたという天の香具山では、草木のなびく春になったので、山に咲く桜の花は、木陰が暗くなるほどに咲き、山に吹く松風に、麓の池には波が立ち、池の岸辺ではあじ鴨の群れが鳴き騒ぎ、沖では鴨が妻を呼び続けているけれども、宮仕えの人たちが、御殿から退出していつも漕いでいた舟には、それを漕ぐ櫓も棹も失せてしまって物さびしい。その舟を漕いでみようと思ったものの。

【説明】
 鴨足人(かものたるひと)は伝未詳ながら、藤原宮大極殿の地を鴨公というので、そこに居住した祭祀氏族ともいわれます。香具山にあった高市皇子の宮周辺の荒廃を嘆く歌ではないかとされます。257の「天降りつく」は「香具山」の枕詞。「霞立つ」は「春」の枕詞。「沖辺」は、池の中央を指します。「あぢ群」は、あじ鴨。「ももしきの」は「大宮」の枕詞。「さぶし」は、心楽しまない意。258の「あらく」は「ある」の名詞形。「潜き」は、水に潜ること。「鴛鴦」は、オシドリ。「たかべ」は、小鴨。259の「神さぶ」は、古くなって神々しく見えること。「桙杉」は、鉾先のように尖った杉。「本」は、根元。

 260は「或る本の歌に曰く」とある歌。「うちなびく」は「春」の枕詞。260の左注には、「今考えると、奈良に遷都した後に、旧都(藤原京)を憐れんでこの歌を作ったのだろうか」とあります。奈良遷都は、和銅3年(710年)3月10日。

刑部垂麻呂(おさかべのたりまろ)の歌

巻第3-263

馬ないたく打ちてな行きそ日(け)並べて見ても我(わ)が行く志賀(しが)にあらなくに

【意味】
 馬をそんなにもひどく鞭打って行くな。何日も見て行ける志賀ではないのだから。

【説明】
 題詞に「近江の国から都に上り来る時に、刑部垂麻呂が作った」歌とあります。「都」は、藤原京。刑部垂麻呂は、伝未詳。『万葉集』には2首(もう1首は巻第3-427)。「馬ないたく打ちてな行きそ」の「な~そ」は、禁止。「な」を重ねて意を強めていますが、文法上の誤りであるとの指摘もあります。「志賀」は、大津市北部の、近江京があった地。「あらなく」の「なく」は、打消の「な」に「く」を添えて名詞形としたもの。海のない大和国に住んでいた人にとって、近江の湖は強く心を引かれるものであったとみえます。

阿倍女郎(あべのいらつめ)の歌

巻第3-269

人見ずは我(わ)が袖(そで)もちて隠(かく)さむを焼けつつかあらむ着ずて来(き)にけり

【意味】
 人が見ていなければ、私の袖で隠してあげたいのだけれど、この屋部の坂は、これからもずっと赤茶けて焼け続けるのだろうか。これまで何も着ないまま居続けてきたのですね。

【説明】
 阿倍女郎が、屋部の坂で作った歌。阿倍女郎は、伝未詳。ほかに中臣東人などとの贈答歌がありますが、同一人かは疑問とされます。「屋部の坂」は、所在未詳。国境の赤肌の坂をいとおしむ歌であるものの、「人見ずは」は、見る人がないならば。「我が袖もちて隠さむを」とあるのは、見るに忍びないものとして感じています。草木がなく赤土の地肌が露出しているのを見て、恋の激しい思いに衣が焼かれた女性、すなわち肌が露わになった女性を連想して憐れんでいます。この歌は難解とされ、解釈も諸説あります。
 
阿倍女郎の歌(巻第4-505~506)
阿倍女郎と中臣東人の歌(巻第4-514~516)

三大歌集の比較
 

■万葉集
①歌を呪術とする意識が残り、対象にはたらきかける積極的な勢いが、力強く荘重な調べとなる。
②実感を抑えず飾らず大胆率直に表現する。簡明にして力強く、賀茂真淵は「ますらをぶり」と評する。
③日常生活そのままでないにしても、現実の体験に即して歌うことが多く、具象的、写実的で印象が鮮明。
④用語、題材についてすでに雅俗を分かつ意識が生じているが、なお生活に密着したものが比較的多く、素朴、清新の感をもって訴えかける。時に粗野。
⑤五七調で、短歌は二句切れ、四句切れが多く、重厚な調べ。後期には七五調も現れる。歌謡の名残をとどめ音楽的効果をねらった同音同語の反復もある。
⑥素朴な枕詞、序詞を多用。ほかに掛詞、比喩、対句を使用。
⑦率直に表現するため、断言的な句切れが多い。終助詞による終止、詠嘆「も」「かも」を多用。
 
■古今集
①宗教や政治を離れ、歌それ自体が目的となり、洗練された表現により美の典型をひたすら追求する。
②感情を生のまますべてを表すことを避け、屈折した表現をとる。その婉曲さが優美繊細の効果を生む。
③日常体験から遊離した花鳥風月や恋・無常など、情趣化された世界を機知に富んだ趣向や見立てにより表現する。理知がまさり、時に観念の遊戯に陥る。
④優雅の基準にかなう題材を雅かなことばで詠ずるため、流麗であるが、単調となる弊がある。
⑤七五調で、三句切れが多く、流暢な調べとなる。
⑥掛詞、縁語の使用が多い。それらが観念的な連想を生み、虚実あるいは主従二様のイメージを交錯させ、纏綿たる情緒を楽しませる。掛詞がさらに進んでことばの遊戯となったものが物名であり、それで一巻をなす。ほかに枕詞、序詞、比喩、擬人法などを用いる。
⑦理知的に屈折した表現をとるため、推量、疑問、反語による句切れが多い。助動詞による終止が目立つ。詠嘆の終助詞は「かな」を用いる。
 
■新古今集
①乱世の現実を忌避し、王朝に憧れる浪漫的な気分が支配し、唯美的、芸術至上主義的な立場に立つ。
②世俗的な感情を拒否し、「もののあはれ」という伝統的な感覚を象徴的な手法で縹渺とただよわせる。幽玄余情の様式を完成するが、時に晦渋に陥る。
③客観的具象的な世界を浪漫的な心情風景に再構成し、現実を超えた絵画あるいは物語のごとき世界をつくる。
④選び抜かれた素材を言語の論理性を超えた技巧によって表現し、幽玄妖艶の美、有心の理念を追求する。
⑤七五調で、三句切れが多く、また初句切れも目立つ。
⑥掛詞、縁語、比喩はかなり用いられるが、枕詞、序詞の使用は著しく減少する。古歌の句を借用しただけの単純な本歌取りは古今集にもみられるが、新古今集では高度な表現技法にまで磨かれ、物語的な情緒を醸し出す象徴の手法として用いられる。
⑦体言止めを多く用いる。 

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風流侍従

聖武朝初期に「風流侍従」とと称せられる人たちが存在していたことが、『藤原武智麻呂伝』に見え、六人部王、長田王、門部王、佐為王、桜井王、石川朝臣君子、阿倍朝臣安麻呂、置始工ら8人の名が記されています。ただし、この「風流侍従」は律令制における正式の官の呼称ではなく、聖武天皇の新宮廷に始まった新しい文化である「風流」をリードしていく役割を担っていたとされます。

 神亀6年(729年)に国家的イベントとして催された朱雀門における歌垣において、門部王、長田王がその頭を務めたとの記録が残っています。さらに「風流侍従」の役割としては、歌舞の整備が推し進められるなかで、地方歌舞を宮廷歌舞に取り込むこともあったのではないかともみられています。


(聖武天皇)

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天の香具山

香具山は、畝傍山、耳成山とともに大和三山とよばれ、『万葉集』では単独で9首詠まれており、全体では13首に登場 します。標高152mと、山というより小高い丘のようであり、太古の時代には竜門山地の多武峰の山裾の部分であったのが、その後の浸食作用で失われなかった残り部分といわれています。
 
『伊予国風土記』には、天から山が2つに分かれて落ち、1つが伊予国(愛媛県)の「天山(あめやま)」となり、もう1つが大和国の「香具山」になったと記されており、また『阿波国風土記』には、「アマノモト山」という大きな山が阿波国(徳島県)に落ち、それが砕けて大和に降りつき天香具山と呼ばれたと記されています。

そうした伝説から、香具山は大和三山の中で最も神聖視され、「天」を冠する名称になったといわれ、また、北麓には天香山神社、南麓には天岩戸神社、頂上には『日本書紀』で初めての神とされた国之常立神(くにのとこたちのかみ)を祀る國常立(くにとこたち)神社があります。 


(香具山)

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デアゴスティーニ

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