巻第1-69
草枕(くさまくら)旅行く君と知らませば岸の埴生(はにふ)ににほはさましを |
【意味】
旅のお方だと存じ上げていたら、岸の黄色い土であなたの衣を染めて差し上げましたのに。
【説明】
難波の遊行女婦(あそびめ)とされる清江娘子(すみのえのをとめ)が長皇子(天武天皇の第4皇子)にさしあげた歌。長皇子が、持統天皇の難波行幸に従駕した際のやり取りとみられ、行幸とはいえ旅という立場からか、軽くはなやいだ歌がほかにも多く残っています。「埴生」の「埴」は、黄色または赤色の粘土で、布の染料として使われました。住吉は埴の産地として知られていました。「にほはさましを」の「にほふ」は色うるわしい意で、色うるわしくさせる。この歌には、単に衣を染めようというのではなく、神が住む神聖な土地の黄土を身につけることによって、神のご加護を得ましょうという意味が込められています。
遊行女婦は「うかれめ」とも訓(よ)み、彼女たちは、官人たちの宴席で接待役として周旋し、華やぎを添えました。ことに任期を終え都へ戻る官人のために催された餞筵(せんえん)で、彼女たちのうたった別離の歌には、秀歌が多くあります。その生業として官人たちの枕辺にもあって、無聊をかこつ彼らの慰みにもなりました。しかし、そうした一面だけで遊行女婦を語ることはできません。彼女たちは、「言ひ継ぎ」うたい継いでいく芸謡の人たちでもありました。
巻第3-381
家(いへ)思(も)ふと心(こころ)進むな風守り好(よ)くしていませ荒(あら)しその路(みち) |
【意味】
家路が恋しいといって、心を逸(はや)らせてはだめです。風の具合をよくうかがいながらいらしてください。その路は荒々しい道ですから。
【説明】
筑紫娘子(つくしのをとめ)が都に帰る人に贈った歌。題詞には、娘子は筑紫の遊行女婦(うかれめ)で、字(あざな)を児島(こじま)というとあります。大伴旅人が大宰府にあったときに親しくした相手らしく、彼が太宰帥の任を終えて上京するときにも歌を詠んでいます(巻第6-967・968)。ここの歌を贈った相手は誰ともわかっていませんが、挨拶をふつうの会話に代えて歌をもってしたもので、調べの美しさよりも口語に近づけようとしています。「心進むな」は、心逸るな。「風守り」は、風の具合をうかがって。「いませ」は「行け」の敬語。
本来は神をもてなし、神の心をなぐさめるための饗宴の場には、男性と共に女性も必要とされました。ところが、律令国家が成立して以降は、女性は次第に公的・政治的な場から排除されるようになります。官人らの宴席に、男性と同等の立場で参加できる女性は限られてきました。中央には後宮があり、貴族の宴席に侍ってひけをとらない教養を持った女官がいましたが、律令規定では地方に女官は存在しません。その代わりに登場したのが遊行女婦だったと考えられています。
巻第4-521
庭に立つ麻手(あさで)刈(か)り干(ほ)し布さらす東女(あづまをみな)を忘れたまふな |
【意味】
庭に植えた麻を刈り干したり、布にしてさらす東国の女だからとて、決してお忘れくださいますな。
【説明】
養老3年(719年)に常陸守(按察使を兼任)に任命され赴任していた藤原宇合(ふじわらのうまかい)が、任期を終えて都に帰る時に、常陸娘子(ひたちのおとめ)が贈った歌です。藤原宇合は、鎌足の孫、不比等の子ですから、エリート中のエリートであり、その出世コースの出発点として、27歳の若さで地方政治を司っていたのでした。彼の帰任の時期は確定できませんが、4年ないし6年の常陸勤務だったと思われます。そして、いよいよ帰京という時に催された送別の宴、その宴に侍った女性の一人が、常陸娘子でした。
「麻手刈り干し」は、人の背丈を超えるほどの長い麻を刈り、その束を抱きかかえて運び干す作業のこと。その姿は男女の抱擁を思わせるといい、娘子は、宇合と重ねた甘美な抱擁を思い出しつつ歌ったのでしょうか。自身を「東女」と言っているのは、国守に対しての卑下の気持ちを表しています。斎藤茂吉はこの歌を秀歌に挙げ、「農家のおとめのような風にして詠んでいるが、軽い諧謔もあって、女らしい親しみのある歌である。『東女』と自ら云うたのも棄てがたい」と言っています。
もっとも、このように自分を卑下しつつ、お忘れくださいますなというような表現は、遊女が一夜のなじみになった客を送り出すときに歌う歌の常套的表現であり、こういう歌を宴席で披露されては、宇合も困るはずです。したがって、宴の主役である宇合をわざと困らせるために歌った戯れ歌であると見ることもできます。宴会の歌というものは、そうやって囃し立てて歌い、場を盛り上げるものでしたから、これをもって、軽々に宇合と娘子との関係を論じることはできません。この歌が披露された時の宇合の反応はともかく、周りはやんやの喝采だったのではないでしょうか。
娘子(おとめ)と呼ばれ、『万葉集』に秀歌を残している人たちはおおむね卑姓の出身であり、その身分も一様ではありません。どのような生い立ちの女性であるかなども定かでなく、ただ出身国を冠した娘子の場合、その多くは遊行女婦(うかれめ)だっただろうといわれています。固有名詞を伴わず「娘子」とだけ記す歌群の場合は、架空の人物で、虚構の歌である可能性も指摘されています。当時は、身分の高い女性のみ「大嬢」とか「郎女」「女郎」などと呼ばれ、その上に「笠」「大伴」などの氏族名がつきました。
⇒ 藤原宇合の歌(巻第1-72、巻第3-312ほか)
夕闇(ゆふやみ)は道たづたづし月待ちて行(い)ませ我(わ)が背子(せこ)その間(ま)にも見む |
【意味】
夕闇は道がおぼつかないでしょう。月の出を待ってからお行きなさい。お帰りになるその間、月の光で後ろ姿を見送りましょう。
【説明】
豊前国(福岡県東部から大分県北部にかけての地)の娘子、大宅女(おおやけめ)の歌。「大宅」は字(あざな)で姓氏は未詳。遊行女婦だったと推測されています。昼に通ってきて、夕方に帰ろうとする男に、名残を惜しんでの歌です。「夕闇」は、毎月後半、日没から月の出までしばらく暗闇となる間。「たづたづし」は、はっきりしない、おぼつかない。「行ませ」は「行く」の命令形の尊敬語。
斎藤茂吉は、この歌を秀歌に挙げ、次のように言っています。「『その間にも見む』は、甘くて女らしい句である。此頃になると、感情のあらわし方も細(こまか)く、姿態(しな)も濃(こま)やかになっていたものであろう。良寛の歌に『月読の光を待ちて帰りませ山路は栗のいがの多きに』とあるのは、此辺の歌の影響だが、良寛は主に略解(りゃくげ)で万葉を勉強し、むずかしくない、楽なものから入っていたものと見える」。窪田空穂も、「豊前国の身分のない女の歌であるが、魅力のあるところから京に伝わるに至ったものとみえる」と言っています。
巻第8-1492
君が家の花橘(はなたちばな)は成(な)りにけり花なる時に逢はましものを |
【意味】
あなたの家の花橘は、もう実になってしまったのですね。花の咲いているうちにお逢いしたかったのに・・・。
【説明】
作者は遊行女婦とだけあり、名前は分かりません。「君」は、大伴家持を指しているかともいわれます。「成り」は、実になる意で、結婚の譬え、「花なる時」は、独身の青春時代の譬え。「まし」は、反実仮想。男性がすでに家庭を持っているのを知って「もっと前からお逢いしたかった」と言っています。宴席での歌だったかもしれません。
1776 絶等寸(たゆらき)の山の峰(をのへ)の上の桜花咲かむ春へは君し偲(しの)はむ 1777 君なくはなぞ身 装(よそ)はむ櫛笥(くしげ)なる黄楊(つげ)の小櫛(をぐし)も取らむとも思はず |
【意味】
〈1766〉たゆらきの山の頂の桜が咲く春になったら、あなた様をお偲びいたしましょう。
〈1777〉あなた様がいらっしゃらなければ、どうして私は身を飾り立てましょうか、化粧箱の黄楊の櫛さえ取ろうと思いません。
【説明】
播磨娘子(はりまのをとめ)の歌2首。播磨娘子は、播磨国の遊行女婦(うかれめ)かといいますが、伝未詳です。ここの歌は、石川君子(いしかわのきみこ)が播磨国守の任を解かれて帰京する時に詠んだ惜別の歌です。石川君子は、霊亀2年(716年)に播磨守となり、養老4年(720年)10月、兵部大輔に遷任されて帰京しました。
1776の「たゆらきの山」は、播磨国府に近い山とされますが、所在不明。国府は今の姫路の東方にありました。お別れしたら、それきり思い出してもらえないだろうとの嘆きを、共に見たことのある国府付近の春の桜に寄せてうたっています。1777の「櫛笥」は、女性用の化粧箱。「小櫛」の「小」は美称。
窪田空穂は、1776の歌について「きわめて婉曲に訴えているものであり、これは国守と自分との身分の距離を意識してのことである。共に愛でたことのある国府付近の山の、春の桜に寄せていっているのは心細かく、気の利いていて、遊行婦にふさわしい」と述べ、1777についても「遊行婦の歌としては含蓄のある優れたものである」と評しています。また、田辺聖子の言葉、「男は去り、女は歌とともにそこにとどまる」。
なお、石川君子は後に大宰府の少弐に任じられており(724~729年)、その地の海女たちの姿を見て、「志賀の海女は藻刈り塩焼き暇なみ櫛笥の小櫛取りも見なくに」(巻第3-278)という歌を詠んでいます。「櫛笥の小櫛」と詠ったのは、彼が播磨で愛した娘子の歌を思い起こしたのかもしれません。
⇒石川君子の歌(巻第3-247・278,巻第11-2472)
巻第12-3140
はしきやし然(しか)ある恋にもありしかも君に後(おく)れて恋しき思へば |
【意味】
ああ、こうなるはずの恋だったのですね。あの方に取り残されて、恋しくてならないことを思えば。
【説明】
「羈旅発思」(旅にあって思いを発した歌)の作者未詳の歌群にあり、遊行女婦の歌とされます。一夜を共にした旅人のことを詠っています。「はしきやし」は、ああ愛おしい、ああ懐かしい。「然ある」は、このようにある、こんなに。「かも」は、詠嘆。「後れて」は、後に残って。
巻第18-4047・4067
4047 垂姫(たるひめ)の浦を漕(こ)ぎつつ今日(けふ)の日は楽しく遊べ言ひ継(つ)ぎにせむ 4067 二上(ふたがみ)の山に隠(こも)れる霍公鳥(ほととぎす)今も鳴かぬか君に聞かせむ |
【意味】
〈4047〉垂姫の浦を漕ぎ回って、今日という日は楽しく遊んで下さい。後の語りぐさにいたしましょう。
〈4067〉二上山にこもっているホトトギスよ。今こそ鳴いてくれないか。わが君にお聞かせしたいから。
【説明】
大伴家持の歌日記とされる巻第18にある、遊行女婦の土師(はにし)の歌。4047は、越中国庁の官人らが水海(みずうみ)で遊覧したときに、それぞれが思いを述べて作った歌の中の1首で、宴に同席していた人々への挨拶の歌とみえます。「垂姫の浦」は、富山県氷見市の南方にあった布勢の水海。
4067は、越中国の掾(じよう:三等官)久米朝臣広繩(くめのあそみひろつな)の館にて国守の大伴家持らを招いて催された宴席で行われた歌のやり取りの中の1首です。季節は4月の朔、今で言えば5月の半ば過ぎにあたり、ホトトギスは、里で鳴く前は山にいるとされていました。「二上山」は、富山県高岡市と氷見市にまたがる山。なお、この歌の前に大伴家持の歌(4066)があり、これに和した歌のようです。
〈4066〉卯の花の咲く月立ちぬ霍公鳥(ほととぎす)来鳴き響(とよ)めよ含(ふふ)みたりとも
・・・卯の花が咲く4月になった。ホトトギスよ、ここに来て鳴いておくれ、卯の花はまだ蕾だけれども。
巻第19-4232
雪の山斎(しま)巌(いはほ)に植ゑたるなでしこは千代(ちよ)に咲かぬか君がかざしに |
【意味】
雪の積もった美しい庭に植えたナデシコは、いついつまでも咲いてほしい。あなた様の髪飾りとなるように。
【説明】
遊行女婦の蒲生娘子(かまふのをとめ)の歌。天平勝宝3年(752年)1月3日、越中国の介(すけ:次官)内蔵忌寸縄麻呂(くらのいみきなわまろ)の館で、国守の大伴家持らを招いて催された宴で詠んだ歌です。「雪の山斎」は、雪景色の庭。「千代」は、永久。
この歌は、その前にある掾(じよう:三等官)久米朝臣広縄(くめのあそみひろつな)が、家の主人の縄麻呂があらかじめ用意していた造花のなでしこを見てうたった歌(4231)に和したものです。
〈4231〉なでしこは秋咲くものを君が家の雪の巌(いはほ)に咲けりけるかも
・・・ナデシコは秋咲くものなのに、なんと、あなたの家の雪の岩にはずっと咲いていたのですね。
巻第19-4236~4237
4236 天地(あめつち)の 神はなかれや 愛(うつく)しき 我(わ)が妻(つま)離(さか)る 光る神 鳴りはた娘子(をとめ) 携(たずさ)はり 共にあらむと 思ひしに 心 違(たが)ひぬ 言はむすべ 為(せ)むすべ知らに 木綿(ゆふ)だすき 肩に取り掛け 倭文幣(しつぬさ)を 手に取り持ちて な放(さ)けそと 我(わ)れは祈れど まきて寝し 妹(いも)が手本(たもと)は 雲にたなびく 4237 うつつにと思ひてしかも夢(いめ)のみに手本(たもと)巻き寝(ぬ)と見ればすべなし |
【意味】
〈4236〉天にも地にも神はいないのだろうか。愛しい我が妻は遠くへ去ってしまった。光る神が鳴りはためく、その波多娘子と手を携えて共に暮らしていこうと思っていたのに、思いははずれてしまった。どう言ったらよいか、どうしたらよいのか術も分からないまま、木綿のたすきを肩に取り結び、倭文織りの幣を手に捧げ持って、私たち二人を引き離さないで下さいと一心に祈る。けれども、手枕を交わして寝たあの子の腕は、今は雲になってたなびいている。
〈4237〉現実に共寝していると思いたい。夢の中だけで手枕を交わすのは、何ともやりきれない。
【説明】
作者未詳の「死にし妻を悲傷(かな)しぶる歌」を蒲生娘子(かまふのをとめ)が伝誦したもの。上の歌(4232)を詠んだ宴席で披露した古歌とされます。
4236の「光る神鳴りはた娘子」の「光る神」は、雷。「光る神鳴り」は、鳴り響く意の「鳴りはためく」を起こし、「はた娘子」を導く序詞。「はた娘」の「はた」は未詳ながら、氏の名とする説もあります。「木綿だすき肩に取り掛け倭文幣を手に取り持ちて」は、神に祈る時の礼装。「倭文」は、織物の名。「な放けそ」の「な~そ」は禁止。4237の「思ひてしかも」の「てしか」は、願望、「も」は、詠嘆。
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和歌の前に平等な日本人~渡部昇一氏の著書から引用
古代の日本人たちは、(中略)詩、すなわち和歌の前において平等だと感じていたように思われる。われわれの先祖が歌というものに抱いていた感情はまことに独特なものであって、よその国においてはあまり例がないのではないかと思われる。
たとえば上古の日本の社会組織は、明確な氏族制度であった。天皇と皇子の子孫は「皇別」、建国の神話と関係ある者は「神別」、帰化人の子孫は「蕃別」と区別されたほかに、職能によって氏族構成員以外の者も区別されており、武器を作る者は弓削部、矢作部とか、織物を作るのは服部とか錦織部というふうであった。これは一種のカースト制と言うべきであろう。このカースト制の実体はよくわからないし、現在のインドのように厳しかったかどうかもわからない。しかしカーストはカーストである。
ところが、このカーストを超越する点があった。それが和歌なのである。
『万葉集』を考えてみよう。これは全20巻、長歌や短歌などを合わせて4500首ほど含まれている。成立の過程の詳細なところはわかっていないが、だいたい巻ごとに編者があり、その全体をまとめるのに大伴家持が大きな役割を果たしていたであろうと推察される。大伴氏の先祖である天忍日命(アメノオシヒノミコト)は、神話によれば、高魂家より出て天孫降臨のときは靭負部をひきいて前衛の役を務めるという大功があり、古代においては朝臣の首位を占め、最も権力ある貴族であった。
その大伴氏が編集にたずさわっていたとすれば、カースト的偏見がはいっていたとしてもおかしくないはずである。それがそうではないのだ。この中の作者は誰でも知っているように、上は天皇から下は農民、兵士、乞食に至るまではいっており、男女の差別もない。また地域も、東国、北陸、九州の各地方を含んでいるのであって、文字どおり国民的歌集である。
一つの国民が国家的なことに参加できるという制度は、近代の選挙権の拡大という形で現れたと考えるのが普通である。選挙に一般庶民が参加できるようになったのは新しいことであるし、女性が参加できるようになったのはさらに新しい。しかしわが国においては、千数百年前から、和歌の前には万人平等という思想があった。
『万葉集』に現れた歌聖として尊敬を受けている柿本人麻呂にせよ山部赤人にせよ、身分は高くない。特に、柿本人麻呂は、石見国の大柿の股から生まれたという伝説があり、江戸時代の川柳にも「九九人は親の腹から生まれ」(百人一首に人麻呂がはいっていることを指す)などというのがある。これは人麻呂が素性も知れ微賤の出身であることを暗示しているが、この人麻呂は和歌の神様になって崇拝されるようになる。
このように和歌を通じて見れば、日本人の身分に上下はないという感覚は、かすかながら生き残っていて、現在でも新年に皇居で行われる歌会始には誰でも参加できる。
毎年、皇帝が詩の題、つまり「勅題」を出して、誰でもそれに応募でき、作品がよければ皇帝の招待を受けるというような優美な風習は世界中にないであろう。
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古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |
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