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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

柿本人麻呂の歌

巻第3-264

もののふの八十氏河(やそうじかは)の網代木(あじろき)に いさよふ波の行く方知らずも

【意味】
 宇治川の網代木に遮られてただよう水のように、人の行く末とは分からないものだ。

【説明】
 柿本人麻呂が近江国から大和へ上った時、宇治川の辺(ほとり)で詠んだ歌です。ここは、近江国と大和の往復には必ず通る所だったとされます。「もののふ」は、文武百官のことで多くの氏族に分かれているところから、多数を意味する「八十」にかかる枕詞。また、「もののふの八十氏」の「氏」を同音の川の名の「宇治」に転じて掛けています。「網代木」は、網代をつくるための棒杭。宇治川のものは有名でした。「網代」は、川魚を獲るしかけ。「いさよふ」は漂う、たゆたう。「知らずも」の「も」は、詠嘆。

 宇治川という豊かな大河のなかに、網代の上にいさよう波という些かなものに目をとめて詠んだ歌ですが、「行く方しらずも」との余情に富んだ結句から、この歌の作意については諸説あります。すなわち、①近江の旧都を感傷したなごりから、無常観を寓したもの、②波に魅入られて実景・実感をすなおに詠んだだけのもの、③実景に対する感情がよむ者に自然と無常観を感じさせるもの、などというものです。

巻第3-266

近江(あふみ)の海(み)夕波千鳥(ゆふなみちどり)汝(な)が鳴けば心もしのに古(いにしへ)思ほゆ

【意味】
 近江の湖の夕波に鳴く千鳥よ。おまえが鳴くと、心がしおれてしまいそうなほどにせつなく昔のことがしのばれる。

【説明】
 人麻呂が、近江の荒れた旧都の近く、琵琶湖辺を訪れた時の歌。巻第1にある、近江旧都を回顧した時の歌(29~31)と同時の作かどうかは不明です。「近江の海」は、琵琶湖のこと。「夕波千鳥」は、名詞をつみ重ねた作者の造語で、「汝」は、千鳥に呼びかけて言っているもの。「千鳥」は、川原や海岸などの水辺に棲んで、小魚を食べる小鳥。「心もしのに」の「しの」は、萎る、しなえる。「古」は、その琵琶湖畔に都があった天智天皇の時代を指します。
 
 斎藤茂吉は、下掲の歌などは、人麻呂のこの歌を学んだものかもしれない、と指摘しています。

門部王の歌
〈371〉意宇(おう)の海の河原の千鳥(ちどり)汝(な)が鳴けば我が佐保川の思ほゆらくに
沙弥の歌
〈1469〉あしひきの山ほととぎす汝(な)が鳴けば家なる妹(いも)し常に偲はゆ
中臣宅守の歌
〈3785〉ほととぎす間(あひだ)しまし置け汝(な)が鳴けば我(あ)が思ふ心いたもすべなし

巻第3-303~304

303
名ぐはしき稲見(いなみ)の海の沖つ波 千重(ちへ)に隠りぬ大和島根(やまとしまね)は
304
大君(おほきみ)の遠(とほ)の朝廷(みかど)とあり通(がよ)ふ島門(しまと)を見れば神代(かみよ)し思ほゆ
 

【意味】
〈303〉名高い稲見の海の、沖の波のいくつもの重なりの中へ隠れてしまった、大和の懐かしい山々が。
 
〈304〉大君の遠い朝廷として往来する島門を見ると、この島々によって生み成された遠い神代のことが偲ばれる。

【説明】
 人麻呂が筑紫に下る時に、海道にして作る歌2首とあり、明石海峡を過ぎたあたりで詠まれた歌です。
 
 303の「名ぐはしき」は、名高い。「稲見(印南)の海」は、播磨国の印南野(明石市から高砂市間の平野)沿いの播磨灘(はりまなだ)。上3句は「千重」の序詞になっており、眼前の実際でもあります。「大和島根」の「根」は山頂、大和地方の生駒山地や金剛山地の稜線をいっています。海から見れば、まるで島のようにそびえ立っていますが、印南の海まで来るとかすんで見えなくなります。

 304の「遠の朝廷」は、京から遠く離れた国々にある政庁。ここでは筑紫に向かいつつあるので、その方面の国庁である大宰府。「島門」は、瀬戸、海峡。明石海峡を「遠の朝廷」への出入口と見立てています。「あり通ふ」は、人麻呂自身のことではなく、昔から今まで通い続けてきた古人たちのことを思っています。「神代」は、伊弉諾(いざなぎ)、伊井冉(いざなみ)の二神の国産みのことをいっているものと解されます。
 
 筑紫への船旅は、人麻呂にとって初めての経験だったかもしれません。しかし、人麻呂は、あえて、この海峡を経て大宰府に通ったはずの数え切れぬほどの古人たちに思いを馳せています。窪田空穂は人麻呂について、「人麿はものを感じるに、空間的に、感覚として感じるだけにとどまらず、時間的に、永遠の時の流れの上にうかべて感じる人」であったと述べています。

人麻呂と赤人の歌風の違い
 明治から昭和初期にかけて活躍した歌人の中村憲吉は、人麻呂と赤人のそれぞれの歌風について、次のような論評を行っています。
 
 ―― 人麻呂の歌の上に現れるものは、まず外部に向かって強く興奮する意志感情と、これを自在に斡旋する表現才能とである。しかしこの興奮も気魄もまたその表現才能も、畢竟は作者が内に真摯の生命を深くひそめていてこそ、はじめてその強い真実性の光を放つのであって、然らざる限りは、これらの特色はただその歌を一種のこけおどし歌たらしめ、浮誇粉飾を能事とする歌たらしむるに過ぎないであろう。
 
 この人麻呂の歌風の陥るべき危険性については、賀茂真淵が早くより「上つ代の歌を味ひみれば、人麻呂の歌も巧を用ひたるところ、猶後につく方なり」といい、伊藤佐千夫も「予が人麻呂の歌に対する不満の要点をいえば、(1)文彩余りあって質これに伴わざるもの多きこと、(2)言語の慟が往々内容に一致せざること、(3)内容の自然的発現を重んぜずして形式に偏した格調を悦べるの風あること、(4)技巧的作為に往々 匠氣(しょうき:好評を得ようとする気持ち))を認め得ること」といい、島木赤彦も「人麻呂は男性的長所を最もよく発揮し得た人であって、歌の姿が雄偉高邁であると共に、その長所に辷り過ぎると、雄偉が騒がしくなり、高邁が跳ねあがり過ぎるという欠点があるようである」といって注意の目を放ったところである。
 
 赤人の歌はこれに反して、感情の興奮を内に深く鎮めて蔵するところにその特色が存し、もって人麻呂の表現態度とは対蹠的の立場にあることを示している。これは畢竟赤人の敬虔温雅な趣味性格に帰着する問題であるが、これがために赤人の歌の表現態度は人麻呂に比して、消極的で穏正であって、その意志感情を直接対象の上に活躍せしめていない。だから赤人の歌では対象はその素朴平明な姿をありのままに現わしていて、その客観性は厳然と保有されている。故に何らかの作者の主観感情が直接読者の胸にふれてくるとしたらば、それはこの客観性のある微妙なる間隙から油然としてしみ出ずるがためである。赤人の歌では外面に現れているものは、事象の真であって作者の意志感情の力ではない。しかし文学上の真は一般的の真とは異なり、事象を把握する感情の深浅強弱によって成立するが故に、対象の客観的描写のなかに作者の深くひそめる感奮と情熱があってこそ、はじめてその歌が生気を帯び、光彩を放ってくるのである。然らざる限りは、この種の歌の外形的描写の自然さも、素直さも、平明さも、畢竟は無気力と平板と乾燥無味とを意味するものに他ならないのである。これ赤人が一歩あやまれば陥るべき病所なのである。―― 

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古典に親しむ

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