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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

沙弥満誓(さみまんぜい)の歌

巻第3-336

しらぬひ筑紫(つくし)の綿は身に付けていまだは着(き)ねど暖(あたた)けく見ゆ

【意味】
 筑紫の綿で作られた着物はまだ肌身につけて着たことは無いけれど、いかにも暖かそうに見える。

【説明】
 題詞に「沙弥満誓(さみまんぜい)、綿を詠む歌」とある1首です。「しらぬひ」は語義未詳ながら「筑紫」の枕詞。「綿」を詠んだのは、当時、蚕の繭から紡いだ真綿は、九州の特産品の一つだったことが背景にあるようです。ただし、この歌の解釈にはやや怪しいところがあり、「筑紫の綿」は筑紫の女を意味し、「筑紫の女をまだ抱いたことはないが、よさそうだ」の寓意だとする見方もあります。

 沙弥満誓(生没年未詳)は笠氏の出身で、俗名は麻呂。和銅年間に美濃守として活躍、その政績を賞せられ、また木曽道を開き、養老年間には按察使(あぜち)として尾張・三河・信濃3国を管するなどして順調に昇進を重ねました。その後、元明上皇の病に際して出家入道を請い許され、以後は満誓と号しました。「沙弥」は、剃髪していても妻子のある在家の僧をいいます。養老7年(723年)に造筑紫観世音寺別当として大宰府に下向、神亀4年(727年)の末頃に大伴旅人が太宰帥として赴任してくると、山上憶良らとともにいわゆる「筑紫歌壇」の一員となりました。『万葉集』には7首の短歌を残しています。

 その満誓が亡くなった後に、何と彼が、寺婢(じひ:寺の奴隷のこと)だった女に子を生ませていたことが露顕しました。法では、僧が姦盗を犯すことは最も重い罪とされていたので、生前に露顕していれば大事になっていたはずです。なぜバレたかというと、満誓の5代後の孫が「自分たちが観世音寺の寺卑であるのは、先祖の満誓が生ませた子の子孫だからだ。どうか良民として認めてほしい」と訴えたからです。満誓が亡くなって130年ほど後のことです。

 この成り行きに、草葉の陰の満誓もえらく驚いたことでしょうが、彼のこの歌が、単に「綿」を詠んだのではなく「怪しい」と評されるようになったのも、生前のセクハラ行為がバレたことが、少なからず影響しているのかもしれません。

巻第3-351

世間(よのなか)を何に譬(たと)へむ朝開(あさびら)き漕(こ)ぎ去(い)にし船の跡(あと)なきごとし

【意味】
 世の中を何に譬えたらよかろう。船が夜明けに漕ぎ去ったあとには何の跡形もなくなってしまう。人生もそんなものだろうか。

【説明】
 大伴旅人の「酒を讃める歌」(巻第3-338~350)に呼応して詠んだ作ともいわれ、すぐその次に載せられている歌です。世間を仏者のいう無常という面から捉え、上2句が自問、3句以下が自答した形になっています。「朝開き」は、港に泊まっていた船が夜明けとともに漕ぎ出すこと。「跡」は、航跡のこと。当時、大宰府にあった満誓は、自然と海に接することが多かったところから、実際に目にした風景を譬えたのでしょう。ちなみに旅人が詠んだのは、「生ける者つひにも死ぬるものにあればこの世なる間は楽しくあらな」(349)という歌です。

巻第3-391・393

391
鳥総(とぶさ)立て足柄山(あしがらやま)に船木(ふなぎ)伐(き)り木に伐り行きつあたら船木を
393
見えずとも誰(た)れ恋ひざらめ山の端(は)にいさよふ月を外(よそ)に見てしか
 

【意味】
〈391〉鳥総が立ててあるから足柄山に船木を伐りに行ったのだろう。どこの男か知らないが、船木にすると良い木を、ただの材木として切りおった。
 
〈393〉目に見えなくても、誰が心惹かれずにおられよう。山の端にいざよう月を、遠目ながらにも見たいものだ。

【説明】
 391の「鳥総」は、梢の枝葉がついた部分のことで、木こりが木を伐ったあと、山の神を祭るために切り株の上に立てていました。「足柄山」は、船材の産地だった箱根・足柄の山々。『相模国風土記』逸文に「足軽山(足柄山)は、この山の杉を伐って舟を作ると、あしの軽さが、他の木で作った舟と全然違う。だからあしからの山と名付けられた」と記されています。「船木」は、船材。「あたら」は、惜しむべきの意。「船木」を、評判の美女に譬え、ただの人妻になってしまったと嘆いています。
 
 393は「月の歌」。「誰れ恋ひざらめ」は、誰が恋いずにいようか、皆恋っているの意反語。「いさよふ」は、ためらう、ぐずぐずするの意。「見てしか」の「てしか」は、願望の終助詞。出ようか出まいかとためらっているように見える十六夜の月を、恥じらう深窓の女性に譬えています。

巻第4-572~573

572
まそ鏡(かがみ)見飽かぬ君に後(おく)れてや朝夕(あしたゆうへ)にさびつつ居(を)らむ
573
ぬばたまの黒髪(くろかみ)変はり白(しら)けても痛(いた)き恋には会ふ時ありけり
 

【意味】
〈572〉何度お逢いしても見飽きることのない貴方に取り残され、朝も夕もさびしくなりました。
 
〈573〉黒髪が年をとって白くなっても、まだ辛い恋に会うなんて。こんなこともあるのですね。

【説明】
 大宰帥の大伴旅人が、大納言に任命されて帰京してしまったときに、沙弥満誓が旅人のもとに贈った歌。満誓は、観世音寺別当として筑紫に残っていました。572の「まそ鏡」は「見」の枕詞。573の「ぬばたまの」は「黒」の枕詞。女の恋めかして歌い、男相手の恋愛仕立ての歌となっており、このような形で親愛の情を示すことはよく行われていたようです。この歌に対して、旅人は次の2首(巻第4-574・575)を返しています。
 
〈574〉ここにありて筑紫(つくし)やいづち白雲(しらくも)のたなびく山の方(かた)にしあるらし
 ・・・ここ大和から筑紫を見ると、どちらの方角にあるのだろう。白雲がたなびくあの山の彼方であるようだ。
 
〈575〉草香江(くさかえ)の入江にあさる蘆鶴(あしたづ)のあなたづたづし友なしにして
 ・・・草香江の入江に餌をあさる一羽の鶴のように、ああ、心細いことだ。あなたのような友がいなくて。

 斎藤茂吉は、574を秀歌に挙げつつ、次のように言っています。「旅人の歌調は太く、余り剽軽(ひょうきん)に物をいえなかったところがあった。讃酒歌(さけをほむるうた)でも、『猿にかも似る』といっても、人を笑わせないところがある。旅人の歌調は、顫(ふるえ)が少いが、家持の歌調よりも太い」。

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若湯座王(わかゆゑのおほきみ)の歌ほか

巻第3-352~356

352
葦辺(あしへ)には鶴(たづ)がね鳴きて港風(みなとかぜ)寒く吹くらむ津乎(つを)の崎はも
353
み吉野の高城(たかき)の山に白雲(しらくも)は行きはばかりてたなびけり見ゆ
354
縄(なは)の浦に塩(しほ)焼く煙(けぶり)夕されば行き過ぎかねて山にたなびく
355
大汝(おほなむち)少彦名(すくなひこな)のいましけむ志都(しつ)の石屋(いはや)は幾代(いくよ)経(へ)にけむ
356
今日(けふ)もかも明日香(あすか)の川の夕さらずかはづ鳴く瀬のさやけくあるらむ [或本歌、発句には明日香川今もかもとなと云ふ]
 

【意味】
〈352〉葦辺には鶴が鳴いて、港の風は寒々と吹いているのだろう、ああ、あの津乎(つお)の崎よ。

〈353〉吉野の高城の山に、白雲は行く手を阻まれ、ずっとたなびいているのが見える。

〈354〉縄の浦で塩を焼く煙は、夕方になると、空を行き過ぎることができなくなって、山にたなびいている。

〈355〉大汝と少彦名の二神がおられたという志都の岩屋は、いったい幾代の年月を経てきたことだろう。

〈356〉今日もまた、明日香の川は、夕方になるといつも河鹿の鳴く瀬が、さぞかし清らかに流れていることだろう。(明日香の川では、今もいたずらに)

【説明】
 352は、若湯座王(わかゆえのおおきみ:伝未詳)の歌。『万葉集』には、この1首のみ。「津乎」は、所在未詳。353は、釈通観(しゃくつうかん)の歌。327に出た通観法師。「釈」は、仏門にある者。「高城の山」は、吉野にある山ながら未詳。354は、日置少老(へきのおおゆ:伝未詳)の歌。「縄の浦」は、兵庫県相生市那波の海岸。

 355は、生石村主真人(おいしのすぐりまひと:伝未詳)の歌。「大汝」は大国主命(おおくにぬしのみこと)、「少彦名」は、大国主命の国造りに協力したといわれる神。「志都の石屋」は、諸説あるものの所在未詳。356は、上古麻呂(かみのこまろ:伝未詳)の歌。「夕さらず」は、夕方になると欠かさず。

石上大夫(いそのかみのまへつきみ)の歌ほか

巻第3-368~369

368
大船(おほふね)に真楫(まかぢ)しじ貫(ぬ)き大君(おほきみ)の命(みこと)畏(かしこ)み磯廻(いそみ)するかも
369
物部(もののふ)の臣(おみ)の壮士(をとこ)は大君(おほきみ)の任(ま)けのまにまに聞くといふものぞ
 

【意味】
〈368〉大船に多くの楫を取り付け、大君の仰せを謹んで承り、磯巡りをすることであるよ。

〈369〉朝廷に仕える官人たる者は、大君のご命令のとおりに、いかなることも諾い従うべきものです。

【説明】
 368は石上大夫の歌。「大夫」は、四位・五位の人への称。左注に「今考えると、石上朝臣乙麻呂(いそのかみのあそみおとまろ)が越前の国守に任ぜられている。あるいはこの大夫か」との記載があります。天平11年(732年)に密通事件で土佐に配流された時の歌が、巻第6-1019~1023にあります。「大船に真楫しじ貫き」は、成句。「磯廻」は、磯の周りを巡ること。国守として任地にあった石上大夫が、国内を巡視するための航海をした際の歌、あるいは国守として赴任する時の歌とされます。

 369は、368に和した作者未詳歌。ただし、左注に「笠朝臣金村の歌集に出ている」とあるので、金村の歌かもしれません。「物部」は、朝廷に仕える文武百官。「任け」は、地方官に任命して派遣すること。「まにまに」は、従って。「聞く」は、ここでは諾い従う意。石上大夫の従者というより、ほぼ対等に近い、親しい間柄の人であるかのような歌です。

巻第3-374

雨降らば着(き)むと思へる笠(かさ)の山(やま)人にな着せそ濡(ぬ)れは漬(ひ)つとも 

【意味】
 雨が降ったら着ようと思っている笠、その名を持つ笠の山よ、人には着せないでくれ、たとえその人がびしょ濡れになっても。

【説明】
 石上乙麻呂朝臣(いそのかみのおとまろあそみ)の歌。「笠の山」は、三笠山あるいは桜井市の笠の山。女性に見立てています。「な着せそ」の「な~そ」は、禁止。「漬つ」は、濡れる、水に浸かる。

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古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。

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筑紫観世音寺

太宰府市にある観世音寺(かんぜおんじ)は、天智天皇の発願で、母・斉明天皇の供養のために創建されました。久しく造作が終わらず、養老7年(723年)、勅命によって沙弥満誓が長官としてその任に当たりました。ようやく完成し供養が行われたのは天平18年(746年)のことで、発願の時から80年あまりが経過していました。

その15年後に、僧に授戒をする「戒壇院」が設けられたことで観世音寺は、奈良の東大寺、下野の薬師寺と併せて日本の三戒壇の一つとなりました。最盛時には、49もの子院を擁したとされ、正式な僧侶として必要な戒律を授かるため、遠方からも多くの出家者が訪れたと言われています。

なお、元明上皇の病に際して出家した沙弥満誓でしたが、上皇崩御後に筑紫に赴いたのは、 上皇が観世音寺の完成に強い希望を持っていたことから、自ら希望して赴任したとの見方もあるようです。


(観世音寺)

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主要歌人の生年

593年 舒明天皇
614年 藤原鎌足
626年 天智天皇
630年 額田王
631年 天武天皇
640年 有馬皇子
645年 持統天皇
654年 高市皇子
660年 山上憶良
660年 元明天皇
661年 大伯皇女
662年 柿本人麻呂
663年 大津皇子
665年 大伴旅人
668年 志貴皇子
673年 弓削皇子
676年 舎人皇子
680年 元正天皇
681年 藤原房前
683年 文武天皇
684年 長屋王
684年 橘諸兄
694年 藤原宇合
700年 山部赤人
700年 大伴坂上郎女
701年 聖武天皇
701年 光明皇后
706年 藤原仲麻呂
715年 笠金村
715年 藤原広嗣
718年 大伴家持
718年 孝謙天皇
721年 橘奈良麻呂

(生年不詳の歌人を除く)


(大伴旅人)


(藤原房前)


(橘諸兄)

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