巻第3-438~440
438 愛(うつく)しき人のまきてし敷栲(しきたへ)のわが手枕(たまくら)をまく人あらめや 439 帰るべく時はなりけり都にて誰(た)が手本(たもと)をか我が枕(まくら)かむ 440 都なる荒れたる家にひとり寝(ね)ば旅にまさりて苦しかるべし |
【意味】
〈438〉愛しい妻が枕として寝た、私のこの腕を枕とする人など他にいようか。
〈439〉都に帰るべく時は移ってきた。しかし、その都で誰の袖を枕にしたらよいのか。妻はもういない。
〈440〉都にある荒れ果てた我が家で一人で寝たら、今の旅寝にもまして辛いことだろう。
【説明】
大伴旅人が筑紫に赴任して間もない神亀5年(728年)初夏の頃、任地に伴っていた妻の大伴郎女(おおとものいらつめ)が病死します。慣れない長旅の疲れがたたったのかもしれません。このとき旅人は64歳でした。ここの3首は、亡き妻を偲んで恋しく思って作った歌です。
438は、左注によれば、四十九日をすませたころの歌とされます。「愛(うつく)しき」は原文「愛」で、ウツクシともウルハシとも訓めますが、「ウツクシ」は親子・夫婦間のいたわりの愛情を表す語で、「ウルハシ」は、立派だ、端正だ、のように、風景の美しさや人品における才能や端麗な美しさを言う語。内容によって訓み分ける必要があり、ここは亡き妻のことを言っているので「ウツクシ」と訓みます。「敷栲の」は、敷物の栲を枕などの寝具にすることから「手枕」に掛かる枕詞。「あらめや」の「や」は反語の助詞で、いるだろうか、いや、いるはずがない。歌中に「まく(枕にする)」の語が繰り返されており、妻の体温の温もりの記憶がまだ覚めないことが窺われます。
その2年後の天平2年(730年)12月、旅人は太宰帥の任期(当時は4年)を終え、大納言に昇任し、都に帰ることになりました。439と440はそのころに詠んだ歌です。439の「時はなりけり」は、気がついたらその時になっていた、という意。「手本」は、ここでは肩から肘までのこと。「枕かむ」の「枕く」は枕の動詞化で、枕としようか。440の「都なる」は、都にある。「家」は、懐かしく心やすらぐはずの都の我が家。旅人の家は、都の東北の佐保にありました。「旅」は、家を離れた異郷での生活、すなわち大宰府での独り寝の生活を意味しています。「まさりて」は、その独り寝にもまして。
国文学者の窪田空穂は「旅より家に還ろうとするにあたり、楽しかるべき家と、苦しかるべき旅ということを心に置き、楽しかるべき所の楽しくないのは、苦しかるべき所の苦しいのよりもさらに苦しいであろうと思いやった」歌であると述べています。この後に、都への道中の歌・帰京後の歌が続きますが、旅人は、亡き妻への思慕を歌った歌を全部で13首作っています。『万葉集』の歌人のなかで、これほど多くの「亡妻挽歌」を歌った人はいません。また、短歌を連作として一まとまりの詠とするのは、旅人の創案によるといいます。
⇒筑紫で妻を亡くした大伴旅人が帰京途上に作った歌(巻第3-446~450)ほか
⇒大伴旅人の歌(巻第5-793ほか)、旅人の妻の死を悼んで山上憶良が詠んだ歌(巻第5-794~799)
巻第4-568~571
568 み崎廻(さきみ)の荒磯(ありそ)に寄する五百重波(いほへなみ)立ちても居(ゐ)ても我(あ)が思へる君 569 韓人(からひと)の衣(ころも)染(そ)むといふ紫(むらさき)の心に染(し)みて思ほゆるかも 570 大和へに君が発(た)つ日の近づけば野に立つ鹿(しか)も響(とよ)めてぞ鳴く 571 月夜(つくよ)よし川の音(おと)清(きよ)しいざここに行くも行かぬも遊びて行かむ |
【意味】
〈568〉岬をめぐる荒磯に幾重にも立って寄せてくる波のように、立っていても座っていても、いつも慕いする我が君です。
〈569〉韓国(からくに)の人が衣を染めるという染料の紫のごとく心に染みて、このお別れが悲しく思われることです。
〈570〉大和へ向かってお発ちになる日が近づいてきたので、野の鹿もまた同じく、騒がしく鳴いていることです。
〈571〉月夜もよく、川のせせらぎも清らかです。さあここで、都へ行く人も行かずにとどまる人も、名残を惜しみ楽しく遊んでお別れしようではありませんか。
【説明】
大伴旅人が妻を亡くしてから2年後の天平2年(730年)12月、旅人は大納言となり、都に帰ることになりました。ここの歌は、出発の何日か前に筑紫国の蘆城(あしき)の駅家(うまや)で送別の宴を開いたときに、大宰府の官人たちが作った歌です。「蘆城」は、大宰府の東南、筑紫野市阿志岐の地で、駅家は、公務往来の駅馬を置いていた所。旅人の出発当日ではなく、宴のためにわざわざここまで来ているのは、大宰府郊外の大和に似た風景が好まれていたのかもしれません。なお、巻第6に「冬十二月、大宰帥大伴卿の京に上る時に、娘子の作る歌二首」として、水城にて遊行女婦の児島が惜別の歌を詠み(965・966)、それに続いて旅人が詠んだ短歌2首がありますが、その折の宴とここの歌が詠まれた宴との前後如何については説が分かれています。
568は筑前掾(ちくぜんのじょう:筑前国司の三等官)門部連石足(かどべのむらじいそたり)の歌。「み崎」は、海に突き出した陸地の先端部、岬。「み」は、神のうしわく所という意味で固定して冠する語。「廻」は、周りの意。「荒磯」はアライソの約で、岩ばかりの波の荒い海岸、荒涼として人気のない磯。「五百重波」は、幾重にも重なって立つ波。ここまでの3句は「立ちて」を導く譬喩式序詞。「立ちても居ても」は、立っている時も座っている時も。
569・570は大典(だいてん:四等官の上位)麻田連陽春(あさだのむらじやす)の歌。麻田連陽春は、亡命渡来人の子。「麻田連」の姓を賜わり、のち石見守となった人で、『懐風藻』にも詩を残す文人です。569の「韓人」は、韓国(唐)の人。「紫の」の「紫」は、染料としてのもの。「の」は、~のように。ここまでの3句は「心に染みて」を導く譬喩式序詞。「紫」は高貴な色とされており、高級官僚の服色としても定められていました。たとえば三位以上は「薄紫衣」、一位は「深紫衣」となっており、旅人は養老5年(721年)正月に従三位になりましたから、この10年前から紫の礼服を着用していたことになります。陽春はこのことを踏まえ、正位三位大納言となった旅人の朝服の色が、いっそう濃い紫になることを言っています。
570の「大和へに」の「へ」は、方向を表す名詞としての用法。後世には助詞化しますが、上代では地名などの体言に接しそれと一語として用いられることがありました。「響めて」は、声を響かせて。太宰帥として旅人が施いた仁政は、人間ばかりでなく、野の鹿までもそれを感じているとの意が込められています。宴が催されたのは鹿が鳴く季節ではないことから、『詩経』の「鹿鳴」によったものと見られています。
571は防人佑(さきもりのすけ:防人司の二等官)大伴四綱(おおとものよつな)の歌。「月夜」は、ここは月そのもの。「川」は、筑後川水系の芦城川とされます。「いざ」は、人を誘って呼びかける語。「行くも行かぬも」の「行く」は、京へ向かう旅人一行、「行かむ」は、行かずに大宰府にとどまる人。この歌について窪田空穂は、「月夜よし河音清けし」と、句を切って同韻を畳み、「行くも去かぬも遊びて帰かむ」と「行く」を三回までも畳んでいるところは、口承文学の系統を際やかに引いたもの、と評しています。四綱の歌は『万葉集』に5首入集しています。
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大伴旅人の略年譜
710年 元明天皇の朝賀に際し、左将軍として朱雀大路を行進
711年 正五位上から従四位下に
715年 従四位上・中務卿に
718年 中納言
719年 正四位下
720年 征隼人持説節大将軍として隼人の反乱の鎮圧にあたる
720年 藤原不比等が死去
721年 従三位
724年 聖武天皇の即位に伴い正三位に
727年 妻の大伴郎女を伴い、太宰帥として筑紫に赴任
728年 妻の大伴郎女が死去
729年 長屋王の変(2月)
729年 光明子、立后
729年 藤原房前に琴を献上(10月)
730年 旅人邸で梅花宴(1月)
730年 大納言に任じられて帰京(12月)
731年 従二位(1月)
731年 死去、享年67(7月)
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