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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

佐伯東人(さへきのあづまひと)の歌ほか

巻第4-621~622

621
間(あひだ)無く恋ふるにかあらむ草枕(くさまくら)旅なる君の夢(いめ)にし見ゆる
622
草枕(くさまくら)旅に久しくなりぬれば汝(な)をこそ思へな恋ひそ吾妹(わぎも)
 

【意味】
〈621〉絶え間なくあなたが恋しく思ってくださるるからでしょうか、旅しているあなたが、毎晩夢に現れてきます。

〈622〉旅が長くなってしまったので、お前のことばかり思っている、辛い思いなどしないでおくれ、愛しい妻よ。

【説明】
 621は、西海道(壱岐・対馬を含む九州全土)節度使の判官として赴任していた佐伯東人の妻が、夫に贈った歌、622はそれに東人が答えた歌です。節度使というのは、聖武期の天平4年(732年)に諸道に置かれた令外官(りょうげのかん)で、地方の兵力増強、軍備拡張の監督に当たりました。この時の西海道節度使は藤原宇合(ふじわらのうまかい)で、東人が任じられた判官は四等官制の第3位にあたる官です。東人はこの後まもなく外従五位下に叙せられました。

 「草枕」は「旅」の枕詞。621の「間無く恋ふる」の主語が夫なのか妻である自分なのかはっきりしませんが、相手が思ってくれると自分の夢に相手が現れるという当時の人々の夢解釈に従えば、上掲の解釈になります。自分が主語の場合だと「絶え間なくあなたを恋しく思っているからでしょうか、旅しているあなたが、毎晩夢に現れてきます」というふうになります。そうすると622も若干ニュアンスが変わり、「旅が長くなってしまったので、お前のことばかり思っている。しかしお前は私のことを恋うことはするな、愛しい妻よ」のようになります。「思へな恋ひそ」の「な~そ」は、禁止。

 いずれにしましても、まことに仲睦まじい夫婦による相聞です。

令外官とは
 令外官(りょうげのかん)とは、律令の令制に規定のない新設の官職で、 これには令制以前に存在しながら、令に規定されなかった官と、令施行以後新設された官とがありました。現実的な政治課題に対して、既存の律令制・官制にとらわれず、柔軟かつ即応的な対応を行うために置かれました。
 おもな令外官は、摂政、関白をはじめ、内大臣、中納言、参議、近衛府、征夷大将軍、鎮守府将軍、中宮職、蔵人所、和歌所、記録所、勘解由 (かげゆ) 使、検非違使、陸奥出羽按察使 (あぜち) 、押領使、追捕使 (ついぶし) などで、特に蔵人所と検非違使は平安時代以降次第に権限を伸ばしていきました。
 

池辺王(いけへのおほきみ)の歌

巻第4-623

松の葉に月はゆつりぬ黄葉(もみちば)の過ぐれや君が逢はぬ夜(よ)ぞ多き

【意味】
 松の葉越しに月は渡っていき、お待ちしている間に月も変わってしまった。あなたに逢えない夜が多くなりましたね。

【説明】
 題詞に「池辺王が宴席で誦詠した歌」とあります。池辺王は、大友皇子・十市皇女の孫で、淡海三船の父。『万葉集』にはこの1首のみ。「松の葉」に「待つの端(待った挙句)」の意を掛けています。「ゆつりぬ」は「い移る」の約。「黄葉の」は「過ぐ」の枕詞。「過ぐれや」は、愛の盛りが過ぎたのか、あるいは、あの世に行ってしまったのか、などとする解釈があります。王の自作か古歌なのか、はっきりしません。

高安王(たかやすのおほきみ)の歌

巻第4-625

沖辺(おきへ)行き辺(へ)を行き今や妹(いも)がため我(わ)が漁(すなど)れる藻臥束鮒(もふしつかぶな)

【意味】
 沖に行ったり、岸辺に戻ったりして、今ようやくあなたのために捕まえた、藻の中の小さな鮒です。

【説明】
 題詞に「高安王が、包んだ鮒を娘子に贈った歌」とあります。高安王は、敏達天皇の孫である百済王の後裔。和銅6年(713年)に従五位下、養老元年(717年)従五位上。同3年伊予守として阿波、讃岐、土佐三国の按察使。同5年正五位下、神亀元年(724年)正五位上、同4年従四位下。同11年に大原真人の姓を賜わって臣籍降下。弟に風流侍従として知られる門部王・桜井王、娘に高田女王がいます。

 「辺」は「沖」に対して陸に近い所。「藻臥束鮒」は、藻の中に潜むこぶしの幅の長さほどの鮒のこと。岸の深い所から浅い所まで方々歩いて、ものすごく苦労して獲ったように大げさに言いながら、実はそれは束鮒のごときちっぽけな鮒であり、明るく楽しい歌になっています。斎藤茂吉も「結句の造語がおもしろい」と言っています。もっとも、高安王自らが鮒を捕ったというわけではなく、家来が捕ってきたものを、いかにも自分が捕ったんだと、言葉を添えて贈ったものでしょう。

巻第8-1504

暇(いとま)なみ五月(さつき)をすらに我妹子(わぎもこ)が花橘(はなたちばな)を見ずか過ぎなむ

【意味】
 暇がなく、もう五月になったというのに、妻の家の花橘を見ないで終わってしまうのだろうか。

【説明】
 「暇なみ」は、公務が忙しくて暇がないので。「我妹子が花橘を」は、妻の家の花橘を。窪田空穂は、「巧拙をいうほどの歌ではないが、身分ある人でないと、持てない気分のある歌」と評しています。

巻第17-3952

妹(いも)が家に伊久里(いくり)の杜(もり)の藤の花今来む春も常(つね)かくし見む

【意味】
 妻の家に行くという名の伊久里の杜の藤の花よ、また来る春も、いつもこのように賞美しつつ見よう。

【説明】
 古歌一首とあり、天平18年(746年)8月、越中守大伴家持の館の宴で、僧玄勝(伝未詳)が伝誦したという大原高安真人の歌。高安真人は、この時すでに故人だったので「古歌」と言っています。家持が国守として着任した後に初めて催された宴であり、巻第17-3943~3955には、その時に家持や池主らが詠んだ歌が載っています。玄勝が国守の館に招かれているのは、国分寺の僧だったからかもしれません。

 「妹が家に」は「伊久里」の枕詞。「伊久里」は、富山県砺波市井栗谷か。「杜」は、神霊が寄りつく樹木が茂った神社などの霊域。「かくし」は、このように。

大伴四綱(おほとものよつな)の歌

巻第4-629

何(なに)すとか使(つか)ひの来(き)つる君をこそかにもかくにも待ちかてにすれ

【意味】
 どうして使いなどが来たのか。あなたのほうこそ、とにもかくにも待ちかねていたのに。

【説明】
 大伴四綱の宴席の歌。四綱は、天平初年頃、防人司佑として大宰府に仕えていた人で、巻第3に2首、巻第4に2首、巻第8に1首入集しています。

 「何すとか」は、どうして。「使ひ」は、伝言を伝える使者。「かにもかくにも」は、とにもかくにも。「待ちかてに」は、待ちきれずに。この歌は、女性の立場で宴会の座興に歌ったものとされますが、窪田空穂は次のように言っています。

「宴席に来るはずの人で、その遅いのを待ちかねていた時、その人よりの使の来たのを見た瞬間の心持である。使は、都合で来られない断わりをいいに来たとみえ、四綱はむろんそれを聞いたのであるが、わざとそれには触れず、使を見た瞬間の心持だけをいい、強いても来よと促したもので、その使に持ち帰らせた形の歌である。その場合柄として、要を得た、また機知の働いた歌である。この風は、歌垣の場合にも、また平時でも、歌をもって問答する場合には行なわれてきたもので、歌のもつ一面として重んじられ喜ばれていたものである。実際に即して、複雑した、微細な気分を、安らかにあらわし得ている歌である」

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律令下の中央官制

二官八省を基本とする体制で、天皇の下に、朝廷の祭祀を担当する神祇官と国政を統括する太政官が置かれ、太政官の下に実務を分担する八省が置かれました。二官八省のほかにも、行政組織を監察する弾正台、宮中を護衛する衛府がありました。
 
太政官の長官は太政大臣ですが、通常はこれに次ぐ左大臣右大臣が実質的な長官の役割を担いました。この下に事務局として少納言局と左右の弁官局がありました。

[八省]
中務省
式部省
治部省
民部省
(以上は左弁官局が管轄)
兵部省
刑部省
大蔵省
宮内省
(以上は右弁官局が管轄)

国司について

 国司(こくし、くにのつかさ)は、令制により、地方行政単位である国を支配する行政官として中央から派遣された官吏のことです。四等官からなる守(かみ:長官)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)を指し、その下に書記や雑務を担う史生(ししょう)がいました。国を大・上・中・下の4等級として、それに応じた一定数の国司をおいたとされます。大国、上国の守は、中央では中級貴族に位置しました。

 任期は6年(のちに4年)で、国衙(政庁)において政務に当たり、祭祀・行政・司法・軍事のすべてを司り、赴任した国内では絶大な権限を与えられました。国司たちは、その国内の各郡の官吏(郡司)へ指示を行ないました。郡司は中央官僚ではなく、在地の有力者、いわゆる旧豪族が任命されました。その郡司の業務監査や、農民への勧農などの業務を果たすため、責任者である守は、毎年1回国内の各郡を視察する義務がありました。これを部内巡行といいます。

 国司は、家族を連れて任国に赴くことが認められていました。また、公務の都合などで在任中もたびたび上京しており、在任中ずっと帰京できなかったわけではありません。


(再現された国司の姿)

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