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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

高橋虫麻呂の歌

巻第3-319~321

319
なまよみの 甲斐(かひ)の国 うち寄する 駿河(するが)の国と 此方此方(こちごち)の 国のみ中ゆ 出(い)で立てる 富士の高嶺(たかね)は 天雲(あまくも)も い行(ゆ)きはばかり 飛ぶ鳥も 飛びものぼらず 燃ゆる火を 雪もち消(け)ち 降る雪を 火もち消(け)ちつつ 言ひも得ず 名付けも知らず 霊(くす)しくも います神かも 石花海(せのうみ)と 名付けてあるも その山の 堤(つつ)める海ぞ 富士川と 人の渡るも その山の 水の溢(たぎ)ちぞ 日の本の 大和の国の 鎮(しづ)めとも います神かも 宝とも なれる山かも 駿河(するが)なる 富士の高嶺(たかね)は 見れど飽かぬかも
320
富士の嶺(ね)に降り置く雪は六月(みなつき)の十五日(もち)に消(け)ぬればその夜(よ)よ降りけり
321
富士の嶺(ね)を高み畏(かしこ)み天雲(あまくも)もい行きはばかり棚引(たなび)くものを
 

【意味】
〈319〉甲斐の国と駿河の国との二つの国の真ん中に聳(そび)え立っている富士の高嶺は、天雲もその行く手を拒まれ、空を飛ぶ鳥も頂まで飛び上がれぬほど高く、燃える火を雪で消し、降る雪を火で消し続けている。言いようもなく、形容のしようもないほどに、霊妙にまします神である。石花海(せのゆみ)と名付けている湖も、その山が塞き止めた湖である。富士川と呼んで人が渡るのも、その山の水がたぎり落ちた川である。日本の国を鎮めたまう神であり、国の宝ともなっている山。駿河にある富士の高嶺は、いくら見ても見飽きない。

〈320〉富士の嶺に降り積もっている雪は、六月十五日に融けて消えると、その夜またすぐ降るといい、まったくそのとおりだ。
 
〈321〉富士の嶺があまり高くて畏れ多いので、天雲さえも通り過ぎるのをためらっているではないか。

【説明】
 「富士の山を詠む」歌。作者の高橋虫麻呂(生没年不明)は、藤原宇合(ふじわらのうまかい)が常陸守だった頃に知遇を得、その後も宇合に仕えた下級官人といわれます。宇合は不比等の三男で、藤原四兄弟の一人です。帰京後の虫麻呂は、摂津・河内・難波などにも出かけており、自編と推定される『高橋虫麻呂歌集』の名が『万葉集』の中に見えます。常陸国の役人時代には、『常陸国風土記』の編纂に加わったとの見方もあります。『万葉集』には30首あまりが入集しており、人麻呂などの宮廷歌人とは違い、天皇賛歌や皇族の挽歌などよりも、旅先での景色や人の営みなどを詠んだ歌が多くあります。

 ただし、これらの旅は決して物見遊山の旅だったわけでなく、あくまで重要な官命や用向きを帯びての旅であったと考えられます。特に、常陸守だった時の藤原宇合は単に国守としてではなく、安房・上総・下総の3国を統括する按察使にも任命されていました。按察使というのは、国司の上に置いて、人民を掌握し、律令行政を辺境の末端まで浸透させる役目を負う監督官のことで、唐の制度に倣って新設されました。当時、問題化しつつあった蝦夷対策という意味合いもあったのでしょう。虫麻呂の歌に、常陸以外の東国諸国の地名が登場するものが多いのは、按察使である宇合に随行、あるいは連絡役など何らかの役目によって各地を往来したためだといわれます。ここの「富士の山を詠む」歌も、中央への報告などの用務から、遠江を通った際のものと見られます。
 
 319の「なまよみの」は、語義未詳ながら「甲斐」の枕詞。「うち寄する」は「駿河」の枕詞。「此方此方」は、あちらこちら。ここでは甲斐と駿河。「国のみ中ゆ」の「み中」は真ん中、「ゆ」は~から、~より。「い行き」の「い」は、接頭語。「霊しく」は、神妙なようすで。「石花海」は、今の西湖と精進湖。もとは1つの湖だったのが、864年の富士山噴火によって2つに別れたといいます。この歌が詠まれたのはそれより前ですが、この時も富士山は煙ののぼる山だったようです。また、今の富士川の源は富士山ではありませんが、ここではそのように見ています。「水の溢ち」は、水が激しく流れること。「日の本の」は「大和」の枕詞。「駿河なる」は、駿河にある。

 320の「六月の十五日に消ぬれば」は、富士山では陰暦6月(今の7月から8月の初めごろ)15日に雪が消え、子の刻(16日の午前0時頃)にまた新しい雪が降り出すとの言い伝えがあったようで(『駿河国風土記』)、それを踏まえています。321の「高み」は、高くて、高いので。

巻第6-971~972

971
白雲の 龍田(たつた)の山の 露霜(つゆしも)に 色づく時に 打ち越えて 旅行く君は 五百重山(いほへやま) い行きさくみ 賊(あた)守る 筑紫(つくし)に至り 山の極(そき) 野の極(そき)見よと 伴(とも)の部(べ)を 班(あか)ち遣(つか)はし 山彦(やまびこ)の 答へむ極(きは)み 蟾蜍(たにぐく)の さ渡る極(きは)み 国形(くにかた)を 見めしたまひて 冬こもり 春さりゆかば 飛ぶ鳥の 早く来まさね 龍田道(たつたぢ)の 岡辺(をかへ)の道に 紅躑躅(につつじ)の にほはむ時の 桜花(さくらばな) 咲きなむ時に 山たづの 迎へ参(ま)ゐ出(で)む 君が来まさば
972
千万(ちよろづ)の軍(いくさ)なりとも言挙(ことあ)げせず取りて来(き)ぬべき士(をのこ)とぞ思ふ
 

【意味】
〈971〉白雲の立つという龍田の山が、つめたい露によって色づく頃に、その山を越えて遠い旅にお出かけになるあなたは、幾重にも重なる山々を踏み分けて進み、国防のかなめとなる筑紫に至り、山の果て、野の果てまで視察せよと、配下の者達をあちこちに遣わし、山彦のこだまする限り、蟾蜍(ひきがえる)の這い回る限り、国のありさまを御覧になって、冬木が芽吹く春になったら、空飛ぶ鳥のように早く帰って来てください。龍田道の岡辺の道に、紅のつつじが咲き映える時、桜の花が咲き匂う時に、お迎えに参りましょう。あなたが帰って来られるならば。
 
〈972〉あなたは、たとえ相手が千万の兵であろうとも、とやかく言わずに討ち取ってこられるに違いない、そんな勇猛な男子であると思っています。

【説明】
 天平4年(732年)8月に、藤原宇合(ふじわらのうまかい)が西海道節度使に任命された時に虫麻呂が作った歌です。西海道節度使は、当時対立を深めていた新羅への備えとして派遣された特使で、軍団を統括するために設けられた臨時の官職(令外官)です。西海道は現在の九州地方のことで、筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩・壱岐・対馬を指します。藤原宇合は藤原四兄弟の一人で、遣唐副使や常陸国守、また蝦夷の反乱を抑えるための持節大将軍などを歴任、虫麻呂は、宇合が常陸国守だった時からの部下でした。ちなみに、この時、同じ節度使として東山道は藤原房前、山陰は多治比真人県守が任じられました。

 971の「白雲の」は「龍田」の枕詞。「龍田の山」は、奈良県生駒郡三郷町の龍田大社の背後にある山。大和国と河内国を結ぶ龍田越えの道があり、生駒越えと共によく利用されていました。虫麻呂は、この龍田まで見送ってきて、この送別の歌を作ったようです。「五百重山」は、多くの山の意。「い行きさくみ」は、踏み分けて進み。「極」は、果て。「伴の部」は、配下の軍兵。「班ち」は、「分かち」の古語。「蟾蜍」は、ヒキガエル。「国形」は、国の状況、ありさま。「冬こもり」は「春」の枕詞。「飛ぶ鳥の」は「早く」の枕詞。「龍田道」は、大和から難波へ、龍田山近くを越えていく道。「山たづの」は「迎へ」の枕詞。結句の「君が来まさば」は転倒形結句となっており、虫麻呂はこれをよく使っています。
 
 972の「言挙げ」は、自身の願望などを言葉に出して言い立てること。巻第13-3250の歌に「蜻蛉島大和の国は神柄か言挙げせぬ国」とあるように、言挙げしないというのは、古代のモラルでもありました。「取りて来ぬべき」は、きっと討ち取って来るであろうところの。宇合の任務は節度使であるのに、ただちに外敵に抗する大将軍のごとき言い方をし、長歌の精神をさらに展開しています。これについて斎藤茂吉は、「調べを強く緊(し)めて、武将を送るにふさわしい声調を出している」、そして、「この万葉調がもはや吾等には出来ない」とも言っています。

 なお、『懐風藻』には、虫麻呂のこの歌に併せ、宇合自身が作った次の漢詩が記されています。

往歳東山役 今年西海行 行人一生裏 幾度倦辺兵(往く歳は東山の役 今年は西海の行 行人一生の裏 幾度か辺兵に倦まん)
・・・前に東山道の役に任じられ、今は西海道の節度使として赴く。私は一生のうち、幾度辺土の士となればすむのか。

 いかにも泣き言を言っているようですが、実際、宇合は、遣唐使の一員として唐に渡ったほか、国内のあちこちを飛び回り、さまざまな仕事に携わっています。生涯を通して、大和にいた期間は短かったとみられ、藤原四兄弟の中で最もよく働いた人です。虫麻呂は、宇合のこの漢詩を踏まえて、愚痴など言わずに志を高く持ち、しっかり任務を果たしてきて下さい、と勇気づけたともみられますが、むしろ当人の本音をもらした漢詩を併せ記すことで、虫麻呂の勇ましい歌が、いかに「建前の歌」であるかを、あえて浮かび上がらせているようにも感じられます。

藤原宇合の歌

巻第8-1497

筑波嶺(つくはね)に我(わ)が行けりせば霍公鳥(ほととぎす)山彦(やまびこ)響(とよ)め鳴かましやそれ

【意味】
 もし私が筑波嶺に登りに行ったとしたら、ホトトギスが山をこだませて鳴いてくれただろうか。

【説明】
 題詞に「筑波山に登らざりしことを惜しむ」歌とあり、左注に『高橋虫麻呂歌集』に出ている、とある歌です。「筑波嶺」は、筑波山。「行けりせば霍公鳥山彦響め鳴かましや」の「せば~まし」は反実仮想。「それ」は、語調を強めるために添えた語。窪田空穂は、「常陸の国庁にあって、同僚が筑波山に登ったが、聞こうと思ったほととぎすが鳴かなかったと話した時、それに答える心で詠んだものと思われる。作意は、ほととぎすの鳴かなかったのは、自分を誘って同行しなかったからだ。自分がいたら、きっと盛んに鳴いたにちがいない、というので、戯談の形で恨みをいったものである」と説明しています。

 なお、常陸の国庁は、茨城郡、今の石岡にあり、筑波山はその西方おおよそ15kmに位置していますから、年中見ることができました。虫麻呂の歌からは、彼は少なくとも3回は筑波山に登っていることになります。

検税使大伴卿が筑波山に登ったときの歌(巻第9-1753~1754)
筑波山に登る歌(巻第9-1757~1758)
筑波の嶺に登って嬥歌(かがい)の会をした日に作った歌(巻第9-1759~1760)

藤原宇合と虫麻呂の関係
 宇合の下僚だった虫麻呂の歌作は、宇合の職歴とすべて対応しており、宇合が常陸国に赴任した養老3年(719年)7月から、節度使に任命された天平4年(732年)8月までの間に全部収まります。虫麻呂は宇合と共にあることで、作歌活動が保証され実現したのであり、そのための各地の取材も可能だったはずです。宇合という人は虫麻呂からみれば、虫麻呂のよき理解者であり促進者であったことが窺えます。ただ、宇合が持節大将軍・西海道節度使・太宰帥といった遠隔地に赴く役職にある時は、属官となって現地に随行・近侍していませんから、歌作もありません。
 そういうわけで、宇合の存在と宇合との出会いが、歌人虫麻呂の誕生をもたらしたと言えます。虫麻呂が純粋に個人的叙情を表現した作はわずかしかなく、他はすべて宇合との官人的なつながりの営為のなかで制作されています。それらの幾つかの歌から、宇合に対する感謝の念と、官人としての上下関係を超えた親密感が滲み出ていると感じられます。

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『万葉集』以前に存在した歌集

■「古歌集」または「古集」
 これら2つが同一のものか別のものかは定かではありませんが、『万葉集』巻第2・7・9・10・11の資料とされています。

■「柿本人麻呂歌集」
 人麻呂が2巻に編集したものとみられていますが、それらの中には明らかな別人の作や伝承歌もあり、すべてが人麻呂の作というわけではありません。『万葉集』巻第2・3・7・9~14の資料とされています。

■「類聚歌林(るいじゅうかりん)」
 山上憶良が編集した全7巻と想定される歌集で、何らかの基準による分類がなされ、『日本書紀』『風土記』その他の文献を使って作歌事情などを考証しています。『万葉集』巻第1・2・9の資料となっています。

■「笠金村歌集」
 おおむね金村自身の歌とみられる歌集で、『万葉集』巻第2・3・6・9の資料となっています。

■「高橋虫麻呂歌集」
 おおむね虫麻呂の歌とみられる歌集で、『万葉集』巻第3・8・9の資料となっています。

■「田辺福麻呂歌集」
 おおむね福麻呂自身の歌とみられる歌集で、『万葉集』巻第6・9の資料となっています。

 
 なお、これらの歌集はいずれも散逸しており、現在の私たちが見ることはできません。

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古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。

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万葉時代の年号

大化
 645~650年
白雉
 650~654年
 朱鳥まで年号なし
朱鳥
 686年
 大宝まで年号なし
大宝
 701~704年
慶雲
 704~708年
和銅
 708~715年
霊亀
 715~717年
養老
 717~724年
神亀
 724~729年
天平
 729~749年
天平感宝
 749年
天平勝宝
 749~757年
天平宝字
 757~765年

長歌と短歌

長歌は、「5・7・5・7・7」の短歌に対する呼び方で、5音と7音を交互に6句以上並べて最後は7音で結ぶ形の歌です。長歌の後にはふつう、反歌と呼ぶ短歌を一首から数首添え、長歌で歌いきれなかった思いを補足したり、長歌の内容をまとめたりします。

長歌の始まりは、古代の歌謡にあるとみられ、『古事記』や『日本書紀』の中に見られます。多くは5音と7音の句を3回以上繰り返した形式でしたが、次第に5・7音の最後に7音を加えて結ぶ形式に定型化していきました。

『万葉集』の時代になると、柿本人麻呂などによって短歌形式の反歌を付け加えた形式となります。漢詩文に強い人麻呂はその影響を受けつつ、長歌を形式の上でも表現の上でも一挙に完成させました。短歌は日常的に詠まれましたが、長歌は公式な儀式の場で詠まれる場合が多く、人麻呂の力量が大いに発揮できたようです。

人麻呂には約20首の長歌があり、それらは平均約40句と長大です。ただ、長歌は『万葉集』には260余首収められていますが、平安期以降は衰退し、『古今集』ではわずか5首しかありません。
  

斎藤茂吉

斎藤茂吉(1882年~1953年)は大正から昭和前期にかけて活躍した歌人(精神科医でもある)で、近代短歌を確立した人です。高校時代に正岡子規の歌集に接していたく感動、作歌を志し、大学生時代に伊藤佐千夫に弟子入りしました。一方、精神科医としても活躍し、ドイツ、オーストリア留学をはじめ、青山脳病院院長の職に励む傍らで、旺盛な創作活動を行いました。

子規の没後に創刊された短歌雑誌『アララギ』の中心的な推進者となり、編集に尽くしました。また、茂吉の歌集『赤光』は、一躍彼の名を高らかしめました。その後、アララギ派は歌壇の中心的存在となり、『万葉集』の歌を手本として、写実的な歌風を進めました。1938年に刊行された彼の著作『万葉秀歌』上・下は、今もなお版を重ねる名著となっています。


(斎藤茂吉)

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