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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

大伴坂上郎女の歌

巻第4-656~658

656
我(わ)れのみぞ君には恋ふる我(わ)が背子(せこ)が恋ふといふことは言(こと)のなぐさぞ
657
思はじと言ひてしものをはねず色のうつろひやすき我(あ)が心かも
658
思へども験(しるし)もなしと知るものを何かここだく我(あ)が恋ひ渡る
 

【意味】
〈656〉恋しいと思っているのは私ばかり。あなたが恋しいと言うのは口先ばかりです。

〈657〉思うまいと口に出して言ったのに、はねずの花の色のように変わりやすい私の心です。

〈658〉いくら恋しく思っても、何の甲斐もないと知っているのに、どうしてこんなに私はずっと恋し続けているのでしょう。

【説明】
 大伴坂上郎女(おほとものさかのうへのいらつめ:生没年不明)は大伴旅人の妹で、大伴家持の叔母にあたります。若い時に穂積皇子(ほづみのみこ)に召され、その没後は藤原不比等の子・麻呂の妻となりますが、すぐに麻呂は離れてしまいます。後に、前妻の子もある大伴宿奈麻呂(おおとものすくなまろ:異母兄)に嫁して、坂上大嬢(さかのうえのおおいらつめ)と二嬢(おといらつめ)を生みました。後に長女は家持の妻となり、次女は大伴駿河麻呂(おおとものするがまろ)の妻となりました。

 なお、大伴宿奈麻呂については、郎女と交わした歌は残っていません。宿奈麻呂は神亀元年(724年)2月22日、従四位下に叙せられたのを最後に『続日本紀』にその名が途絶えています。その後、従四位上に昇叙し右大弁になり、神亀年中に亡くなったようです。郎女はその後、太宰帥として任に就いていた異母兄の旅人が妻を亡くしたため、ひとり大宰府へ下向することになりますが、その時期は神亀5年末か天平初め頃と考えられています。
 
 ここの歌は、「大伴坂上郎女の歌六首」とあるうちの3首。656の「言のなぐさ」は、口先だけの慰め。「気休めのような甘い言葉は要らない、あなたの本当の気持ちが見えないの」と訴えかけています。657は、656とは別の時に夫に贈った歌。「はねず色の」は「うつろひやすき」の枕詞。「はねず色」は、桃色よりやや濃い目の紅色のこと。「はねず」がどの植物であるかは、庭梅・庭桜・モクレン・芙蓉・ザクロなどの説がありますが、はっきりしていません。その花の色が褪せやすいところから、変わりやすいことの譬喩としてあるようです。658もまた別の時に、足遠くなった夫に訴えた歌。「験」は、甲斐のこと。「ここだく」は、こんなにはなはだしく。

巻第4-659~661

659
あらかじめ人言(ひとごと)繁(しげ)しかくしあらばしゑや我(わ)が背子(せこ)奥もいかにあらめ
660
汝(な)をと我(あ)を人ぞ放(さ)くなるいで我(あ)が君(きみ)人の中言(なかごと)聞こすなゆめ
661
恋ひ恋ひて逢へる時だに愛(うつく)しき言(こと)尽くしてよ長くと思はば
 

【意味】
〈659〉今のうちからもう人の噂がうるさい。こんな調子では、ああ、あなた、この先どうなるのでしょう。

〈660〉あなたと私の仲を人が裂こうとしているようです。あなた、人の中傷には耳を貸さないでくださいね、決して。
 
〈661〉恋して恋して、やっと逢えた時くらい、優しい言葉を言い尽くして下さい。これからも二人の仲を長く続けようと思うなら。

【説明】
 上に続いての3首。659・660は、二人の関係について他人からの中傷があり、夫に注意を促しています。659の「あらかじめ」は、深く関わらない今のうちから。「かくしあらば」は、このようであったならば。「しゑや」は、嘆息の声。「奥もいかにあらめ」の「奥」は、将来、末。「奥」に「沖」を掛け、「あらめ」に海藻の「あらめ」を掛けています。660の「放くなる」の「なる」は、伝聞。裂こうとしているという。「いで」は、呼びかけの感動詞。「中言」は、他人の中傷。「聞こすな」の「こす」は、希求の意。「ゆめ」は、決して。

 661は、逢うことのできた夜の訴え。「言」は、言葉。「愛(うつく)しき」の原文は「愛寸」で、「うるわしき」と訓むものもあります。しかし、歌人の尾崎左永子は「ウツクシキ」と読みたいと言っています。用例からみても「ウルハシキ」にはどうしても「端麗に整った」イメージがつきまとい、「ウツクシキ」には「やさしく可愛らしい」感じがある。語感の問題だが、音韻の続き具合から言っても、「ウツクシキ」の方がずっと快いのである。学説は学説として、実作者の勘としてはどうしても「ウツクシキコトツクシテヨ」でないと耳になじまない。作中「ウツクシキコトツクシテヨ」と「ツクシ」の音が重複しているのもその理由の一つである、と。

 なお、ここまでの6首の相手が誰かは、題詞がないので分かりませんが、その前に、郎女が娘の二嬢について婿の駿河麻呂に贈った歌(651~652)や駿河麻呂が二嬢に心を置いた歌(653~654)が並んでいることから、ここの6首は、あるいは二嬢から夫の駿河麻呂に贈り、また答える歌を郎女が代作したものではないかとする見方があります。とくに「愛しき言尽くしてよ」というのは男女間の心理を知り尽くしたものの表現であり、若い娘の歌ではなく代作なのが明らかだったことから、編集者は原作者の名に戻したのでしょうか。なお、二嬢は作歌が得手ではなかったのか、二嬢の名による歌は『万葉集』に1首も残っていません。

巻第4-666~667

666
相(あひ)見ぬは幾久(いくひさ)さにもあらなくにここだく我(わ)れは恋ひつつもあるか
667
恋ひ恋ひて逢ひたるものを月しあれば夜は隠(こも)るらむしましはあり待て
 

【意味】
〈666〉お互いに顔を合せなかったのはそんなに長い間でもなかったのに、なぜこんなにもしきりにあなたのことが恋しいのでしょう。
 
〈667〉ずっと恋い続けてやっとお逢いできたのです、まだ月が残っているので、夜の闇は深いでしょう、しばらくこのままでいましょうよ。

【説明】
 この歌の前に、安倍朝臣虫麻呂(あべのあそみむしまろ)の「向ひ居て見れども飽かぬ我妹子に立ち別れ行かむたづき知らずも」(向かい合っていくら見ても見飽きることのないあなたと、どうして別れられましょう)という歌があり(665)、ここの歌はこれに答えたものです。また、左注に「郎女の母、石川内命婦(ないみょうぶ)と、安倍朝臣虫麻呂の母、安曇外命婦(あずみのげみょうぶ)とは同じ家に暮らす仲のよい姉妹であった。そのために郎女と虫麻呂もよく出会っていたので、気が通じ合って親しかった。そこでちょっと戯れの相聞歌を作って贈り合った」とあります。「内命婦」は、五位以上の婦人の称。「外命婦」は、五位以上の官人の妻の称。

 666の「ここだく」は、こんなにはなはだしく。「あらなくに」は、ないことなのに。667の「月しあれば」の「し」は、強意。「夜は隠るらむ」は、夜はまだ深いだろう。「しまし」は「しばし」の古語。「あり待て」の「あり」は、そのまま。

巻第4-673~674

673
まそ鏡(かがみ)磨(と)ぎし心をゆるしてば後(のち)に言ふとも験(しるし)あらめやも
674
真玉(またま)つくをちこち兼ねて言(こと)は言へど逢ひて後(のち)こそ悔(くい)にはありといへ
 

【意味】
〈673〉まそ鏡のように清く研ぎ澄ましていた心を、ひとたび緩めて許してしまったら、後でどんなに悔やんでも何の甲斐もありません。
 
〈674〉玉を緒に通し、こちらとあちらを結んで輪にするように、今も将来もずっと変わらないと口ではおっしゃいますが、逢ってしまった後できっと悔いるものだといいますから。

【説明】
 この歌の前に、安倍朝臣虫麻呂(あべのあそみむしまろ)の「倭文環(しつたまき)数にもあらぬ命もてなにかここだく我(あ)が恋ひわたる」(ものの数にも入らないつまらない身であるのに、なんでこんなに私は恋い続けるのでしょう)という歌があり(672)、ここの歌はこれに答えたものです。
 
 673の「まそ鏡」は白銅製の鏡で、「磨ぐ」の枕詞。674の「真玉つく」の「真」は美称、「玉つく」は、玉を身に着ける意で、「をちこち」の枕詞。「をちこち」は、あちらこちら。ここでは将来と現在の意。戯れの歌であったにせよ、男女関係が自由で開放的だった時代にありながらも、聡明な女性らしく、結婚を前にし、将来を思う緊張した心をうたっています。

巻第4-683~689

683
言ふ言(こと)の畏(かしこ)き国ぞ紅(くれなゐ)の色にな出(い)でそ思ひ死ぬとも
684
今は我(わ)は死なむよ我が背(せ)生けりとも我(わ)れに依(よ)るべしと言ふと言はなくに
685
人言(ひとごと)を繁(しげ)みか君が二鞘(ふたさや)の家を隔(へだ)てて恋ひつつまさむ
686
このころは千歳(ちとせ)や行きも過ぎぬると我(あ)れかしか思ふ見まく欲(ほ)りかも
687
うるはしと我(あ)が思ふ心 早川(はやかは)の塞(せ)きに塞(せ)くともなほや崩(く)えなむ
688
青山(あをやま)を横ぎる雲のいちしろく我(わ)れと笑(ゑ)まして人に知らゆな
689
海山(うみやま)も隔(へだ)たらなくに何しかも目言(めこと)をだにもここだ乏(とも)しき
 

【意味】
〈683〉人の噂が恐ろしい土地ですよ、思う気持を顔色に出してはいけません。たとえ思い死にしようとも。

〈684〉もう私は死んでしまいそう、あなた。生きていても、あなたが私に心を寄せてくれることはないのだから。

〈685〉人の噂がうるさいからか、二鞘のように近い家どうしなのに、あなたはそのわずかな距離を隔てて、私を恋しく思っておられるのだろう。
 
〈686〉このごろ、お逢いできずに千年も経ってしまったように思えてならない私です。ああ、あなたにお逢いしたい。
 
〈687〉愛しいと私が思う心は流れの速い川のようで、塞き止めても塞き止めても押しとどめようがありません。
 
〈688〉青々とした山を横切る白い雲のようにはっきりと私に笑顔を見せて、人には知られないでください。
 
〈689〉海や山を隔てているわけでもないのに、どうしてちょっと逢ってお話しすることさえ滅多にできず、こんなに物足りない思いをするのでしょうか。

【説明】
 ここの7首は、すでに夫婦関係は結ばれているものの、まだ秘密にしておくべき時期に夫である人に対して贈ったもの、あるいは家持に対して大嬢の立場をちらつかせたものかとされます。

 683の「紅の」は「色に出づ」の枕詞。「色にな出でそ」の「な~そ」は、禁止。684では激しい恋心を言っているようですが、実は女歌の技巧でもあります。685の「人言を繁み」は、人の噂がしきりにあるので。「二鞘の」は「家を隔つ」の枕詞。686の「見まく欲り」は、逢いたいと思う。688の上2句は「いちしろく」を導く序詞。「いちしろく」は、著しく。「知らゆな」は、知られないようにせよ。「ゆ」は受け身、「な」は禁止。689の「目言」は、目で語りかけること。「何しかも」は、どうして、何なれば。「ここだ」は、こんなに甚だしく。「乏しき」は、少ない。

 文学者の犬養孝は、このような恋歌を詠んだ大伴坂上郎女について、次のように述べています。「この大伴坂上郎女という人は生まれもよく、資質もゆたかに持っていた。そして、それに充分なだけの教養も積んでいる。さらに、自らが歌の修練をしっかりやっている。そういう点をみても、この人は大歌人といえます。そして女流歌人として、第三期から第四期の最も代表的な歌人と言えるでしょう。その上、この人の歌などを見ていますと、恋というものも、素朴な、熱烈な恋ということから、少しずつ貴族社会の社交的なものになっていく匂いも、この人の作品の中には思われます。このことがやがて、初期の万葉から、だんだん平安の方へとつながる要素になるわけです。そういう意味からも、この人の歌の生涯というものは大変意味深いと思います」

巻第4-721、725~726

721
あしひきの山にし居(を)れば風流(みやび)なみ我(わ)がする業(わざ)をとがめたまふな
725
にほ鳥の潜(かず)く池水(いけみず)心あらば君に我(あ)が恋ふる心(こころ)示さね
726
外(よそ)に居(い)て恋ひつつあらずは君が家(いえ)の池に住むといふ鴨(かも)にあらましを
 

【意味】
〈721〉山に住んでいるゆえ、都の風雅さもないので、私がする振る舞いをどうかおとがめなさいませんように。

〈725〉カイツブリが深く潜る池の水よ、心があるのなら、君をお慕いする私の心を映し出しておくれ。
 
〈726〉よそに離れ住んでいて恋い焦がれるのではなく、いっそ君のお家の池に住むという鴨になりたい。

【説明】
 聖武天皇に献上した歌3首。郎女がどのような立場から天皇に歌を献上したものかは分かっていません。母の石川郎女と同じように命婦として宮廷に仕えた時期があるのかも不明ですが、亡き父安麻呂や兄の旅人の遺功を承けて氏族を盛り立てるため(直接には家持を朝廷に推輓するため)に、宮廷との関係を親密に保とうとする意図が、作歌の背後にあったのではないかと解されています。

 721の「あしひきの」は「山」の枕詞。「山にし」の「し」は、強意。「山にし居れば」は、郎女が住む佐保のことを卑下して言っています。「なみ」は、ないので。佐保の産物の何かを献上した際に添えられた歌とみられます。725の「にほ鳥」は、カイツブリ。「示さね」は、示してくれよ。726の「外に居て」は、大宮の外にあっての意。「あらましを」は、ありたいものを。725・726とも恋歌仕立てになっていますが、726の「君が家」という表現は大宮を指す語として相応しくなく、あるいは題詞が誤っているのではないかといわれます。

巻第4-723~724

723
常世(とこよ)にと 我(わ)が行かなくに 小金門(をかなと)に もの悲(がな)しらに 思へりし 我(あ)が子の刀自(とじ)を ぬばたまの 夜昼(よるひる)といはず 思ふにし 我(あ)が身は痩せ(や)せぬ 嘆くにし 袖(そで)さへ濡(ぬ)れぬ かくばかり もとなし恋ひば 故郷(ふるさと)に この月ごろも ありかつましじ
724
朝髪(あさかみ)の思ひ乱れてかくばかりなねが恋ふれそ夢(いめ)に見えける
 

【意味】
〈723〉あの世に私が行ってしまうわけでもないのに、門口で悲しそうにしていた我が子よ。留守中に私に代わってつとめる刀自(主婦)のことを思うと、夜も昼も心配で私はやせてしまった。嘆くあまりに着物の袖は涙で濡れてしまった。これほど気がかりでやたらに恋しくては、ここ故郷の跡見の庄には、そう何か月もいられないだろう。
 
〈724〉寝起きの髪のように思い乱れて、おねえちゃんのお前が恋しがるからか、夢にお前の姿が出てくる。

【説明】
 何某かの用事で出かけて行った跡見(とみ)の庄(たどころ)から、奈良の家に留まっている娘の大嬢に贈った歌。「跡見の庄」は、桜井市外山にあったのではないかとされる大伴氏の田所(たどころ:領地)。「大嬢」は郎女の長女で、後の大伴家持の妻。なお、左注に「大嬢が奉る歌に報へ賜ふ」とありますが、大嬢が郎女に贈った歌は残っていません。歌の内容からは、ずいぶん寂しがっていた様子が窺えます。
 
 723の「常世」は、ここでは死後の国。「小金門」の「小」は接頭語、「金門」は門とされるものの、どのような門か未詳。「刀自」は、家の主婦。ここでは、母親の留守中、主婦の立場にある相手、すなわち娘の大嬢をこう呼んだもの。「ぬばたまの」は「夜」の枕詞。「もとな」は、やたらに、みだりに。「し」は、強意。「故郷」は、ここでは跡見。724の「朝髪の」は「思ひ乱る」の枕詞。「なね」は、弟や妹が姉に対していう呼称を母が用いたもの。

 詩人の大岡信は、この長歌を通じて浮かびあがる娘大嬢の姿には実に可憐なものがある、として、次のように言っています。「彼女は、母が大伴家の荘園にしばらく滞在しに出かける時、門口に立って『もの悲しらに』うち沈んだ表情で見送っている。その様子は、まるで母親が二度と帰ってこないと思っているかのように、うちしおれていたので、母の目にそれが焼き付いた。それが気になって仕方がない母の情がこの一編の長歌のモチーフだが、娘のこうした肖像を描くのに、門口にたたずんでいる印象的な姿だけをとりだしてきたのは坂上郎女の手腕。この単純化によって、歌の中の娘の姿は生彩を放つものになった」。

 また、歌人の尾崎左永子は、「母娘ぴったりの、深い絆の感じられるうたである。つねに抑制がほどよく利いていて、しかも才気溢れる坂上郎女にして、母子の情はかくばかり手放しで表出するものかと、意表を衝かれた思いがする。こうも心情的に密着した母娘であるとすれば、大嬢を妻とした家持もさぞたいへんであったろう」と述べています。

巻第4-760~761

760
うち渡す竹田(たけだ)の原に鳴く鶴(たづ)の間(ま)なく時なしわが恋ふらくは
761
早川(はやかは)の瀬に居(ゐ)る鳥のよしをなみ思ひてありし我(あ)が子はもあはれ
 

【意味】
〈760〉見渡す限りの竹田の原で鳴く鶴のように、私は絶え間もなく、いつもあなたのことを気に懸けている。
 
〈761〉流れの速い川瀬に立つ鳥が足を取られそうになるように、頼りどころがなくて心細げなわが子が心配です。

【説明】
 「大伴坂上、竹田の庄より女子(むすめ)大嬢に贈る歌」。「うち渡す」は、見渡す。「竹田」は、橿原市にある耳成山の東北のあたりで、大伴氏の荘園がありました。何かの用事で、娘の大嬢を置いて出かけてきたものとみえます。760の「うち渡す」は、広い地形を見渡す意。上3句は「間なく時なし」を導く序詞。「恋ふらく」は「恋ふ」に「く」を添えて名詞形としたもの。この4・5句は古くから成句となっているものです。また、鶴は子をいつくしむ鳥と考えられていたようで、自身を鶴に譬えています。761の「早川」は、流れの速い川。上2句は「よしをなみ」を導く序詞。「よしをなみ」は、どうしようもないので。頼る母がいない状態を言っています。

 この2首は、郎女が竹田の庄へ来ようとした時、大嬢が留守中を心細がって嘆いていたようすを思い出して作った歌らしく、古今、子を心配する母の気持ちは変わらないようです。

 なお、以上の723~724、760~761から、大伴氏は、跡見・竹田という、少なくとも2か所の田所(荘園)を持っていたことが分かります。723では「ふるさと」とも表現しているので、郎女には父祖伝来の領地という意識があったのかもしれません。しかし、ふだんは都の邸宅に住んでいるので、管理人を置いて日常の管理をさせ、春の作付けと秋の収穫には出向いて立ち会ったものと見られます。また、「月ごろ」という表現もあるので、その滞在期間は月を跨ぐほどの長期間だったことが窺えます。巻第8-1619~1620には、秋の収穫時に竹田の庄に下向していた郎女のもとを、家持が訪ねた時の歌が載っています。

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大伴家の人々
大伴安麻呂
 壬申の乱での功臣で、旅人・田主・宿奈麻呂・坂上郎女らの父。大宝・和銅期を通じて式部卿・兵部卿・大納言・太宰帥(兼)となり、和銅7年(714年)5月に死去した時は、大納言兼大将軍。正三位の地位にあった。佐保地内に邸宅をもち、「佐保大納言卿」と呼ばれた。

巨勢郎女
 安麻呂の妻で、田主の母。旅人の母であるとも考えられている。安麻呂が巨勢郎女に求婚し、それに郎女が答えた歌が『万葉集』巻第2-101~102に残されている。なお、大伴氏と巨勢氏は、壬申の乱においては敵対関係にあった。

石川郎女(石川内命婦)
 安麻呂の妻で、坂上郎女・稲公の母。蘇我氏の高貴な血を引き、内命婦として宮廷に仕えた。安麻呂が、すでに巨勢郎女との間に旅人・田主・宿奈麻呂の3人の子供をもうけているにもかかわらず、石川郎女と結婚したのは、蘇我氏を継承する石川氏との姻戚関係を結びたいとの理由からだったとされる。

旅人
 安麻呂の長男で、母は巨勢郎女と考えられている。家持・書持の父。征隼人持節使・大宰帥をへて従二位・大納言。太宰帥として筑紫在任中に、山上憶良らとともに筑紫歌壇を形成。安麻呂、旅人と続く「佐保大納言家」は、この時代、大伴氏のなかで最も有力な家柄だった。

稲公(稲君)
 安麻呂と石川郎女の子で、旅人の庶弟、家持の叔父、坂上郎女の実弟。天平2年(730年)6月、旅人が大宰府で重病に陥った際に、遺言を伝えたいとして、京から稲公と甥の古麻呂を呼び寄せており、親しい関係が窺える。家持が24歳で内舎人の職にあったとき、天平13年(741年)12月に因幡国守として赴任している。

田主
 安麻呂と巨勢郎女の子で、旅人の実弟、家持の叔父にあたる。『万葉集』には「容姿佳艶、風流秀絶、見る人聞く者、嘆せずといふことなし」と記され、その美男子ぶりが強調されている。しかし、兄弟の宿奈麻呂や稲公が五位以上の官職を伴って史書にしばしば登場するのに対し、田主は『続日本紀』にも登場しない。五位以上の官位に就く前に亡くなったか。

古麻呂
 父親について複数の説があり確実なことは不明。長徳あるいは御行の子とする系図も存在するが、『万葉集』には旅人の甥とする記述がある。旅人の弟には田主・宿奈麻呂・稲公がいるので、古麻呂はこのうち誰かの子であったことになる。天平勝宝期に左少弁・遣唐副使・左大弁の職をにない正四位下となる。唐から帰国するとき、鑑真を自らの船に載せて日本に招くことに成功した。のち橘奈良麻呂らによる藤原仲麻呂の排除計画に与し、捕縛されて命を落とした。

坂上郎女
 安麻呂と石川郎女の子で、旅人の異母妹、家持の叔母にあたる。若い時に穂積皇子に召され、その没後は藤原不比等の子・麻呂の妻となるが、すぐに麻呂は離れる。後に、前妻の子もある大伴宿奈麻呂(異母兄)に嫁して、坂上大嬢と二嬢を生む。後に、長女は家持の妻となり、次女は大伴駿河麻呂(おおとものするがまろ)の妻となった。家持の少・青年期に大きな影響を与えた。

書持
 旅人の子で、家持の弟。史書などには事績は見られず、『万葉集』に収められた歌のみでその生涯を知ることができる。天平18年(746年)に若くして亡くなった。

池主
 出自は不明で、池主という名から、田主の子ではないかと見る説がある。家持と長く親交を結んだ役人として知られ、天平年間末期に越中掾を務め、天平18年(746年)6月に家持が越中守に任ぜられて以降、翌年にかけて作歌活動が『万葉集』に見られる。 

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大伴坂上郎女の略年譜

大伴安麻呂と石川内命婦の間に生まれるが、生年未詳(696年前後、あるいは701年か)

16~17歳頃に穂積皇子に嫁す

714年、父・安麻呂が死去

715年、穂積皇子が死去。その後、宮廷に留まり命婦として仕えたか

721年、藤原麻呂が左京大夫となる。麻呂の恋人になるが、しばらくして別れる

724年頃、異母兄の大伴宿奈麻呂に嫁す

坂上大嬢と坂上二嬢を生む

727年、異母兄の大伴旅人が太宰帥になる

728年頃、旅人の妻が死去。坂上郎女が大宰府に赴き、家持と書持を養育

730年 旅人が大納言となり帰郷。郎女も帰京

731年、旅人が死去。郎女は本宅の佐保邸で刀自として家政を取り仕切る

746年、娘婿となった家持が国守として越中国に赴任

750年、越中国の家持に同行していた娘の大嬢に歌を贈る(郎女の最後の歌)

没年未詳

万葉集の代表的歌人

第1期(~壬申の乱)
磐姫皇后
雄略天皇
舒明天皇
有馬皇子
中大兄皇子(天智天皇)
大海人皇子(天武天皇)
藤原鎌足
鏡王女
額田王

第2期(白鳳時代)
持統天皇
柿本人麻呂
長意吉麻呂
高市黒人
志貴皇子
弓削皇子
大伯皇女
大津皇子
穂積皇子
但馬皇女
石川郎女

第3期(奈良時代初期)
大伴旅人
大伴坂上郎女
山上憶良
山部赤人
笠金村
高橋虫麻呂

第4期(奈良時代中期)
大伴家持
大伴池主
田辺福麻呂
笠郎女
紀郎女
狭野芽娘子
中臣宅守
湯原王


(額田王)

万葉の植物

オミナエシ
秋の七草のひとつに数えられ、小さな黄色い花が集まった房と、枝まで黄色に染まった姿が特徴。『万葉集』の時代にはまだ「女郎花」の字はあてられておらず、「姫押」「姫部志」「佳人部志」などと書かれていました。いずれも美しい女性を想起させるもので、「姫押」は「美人(姫)を圧倒する(押)ほど美しい」意を語源とする説があります。

サクラ
日本の国花のサクラはバラ科の落葉高木で、多くの品種があります。名前の由来は、花が「咲く」からきたとされていましたが、「サ」は稲の神様で、「クラ」は居る所という説も唱えられています。稲の神様が田植えが始まるまで居るところがサクラで、サナエは稲の苗、サミダレは稲を植えるころに降る雨のことをいう、とされます。
なお、『万葉集』で詠まれている桜の種類は「山桜」です。「ソメイヨシノ」は江戸末期に染井村(東京)の植木屋によって作り出された品種で、葉が出る前に花が咲き、華やかに見えることからたちまち全国に植えられ、今の桜の名所の主役となっています。

タチバナ
古くから野生していた日本固有の柑橘の常緑小高木。『古事記』『日本書紀』には、垂仁天皇が田道間守を常世の国に遣わして「非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)・非時香木実(時じくの香の木の実)」と呼ばれる不老不死の力を持った霊薬を持ち帰らせたという話が記されています。

チガヤ
イネ科の草で、日当たりのよい場所に群生します。細い葉を一面に立て、白い穂を出します。新芽には糖分が豊富に含まれており、昔は食用にされていました。 チガヤの「チ」は千を表し、多く群がって生える様子から、千なる茅(カヤ)の意味で名付けられた名です。

ツユクサ
ツユクサ科の1年草で、道ばたなどでよく見られます。秋に可憐な青花を咲かせますが、朝に咲いて、昼過ぎにはしぼんでしまう短い命です。また、昔はツユクサで布を染めましたが、すぐに色褪せるため、移ろう恋心に例えられました。「月草」はツユクサの古名です。

ナデシコ
ナデシコ科の多年草(一年草も)で、秋の七草の一つで、夏にピンク色の可憐な花を咲かせ、我が子を撫でるように可愛らしい花であるところから「撫子(撫でし子)」の文字が当てられています。数多くの種類があり、ヒメハマナデシコとシナノナデシコは日本固有種です。

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