
巻第6-993~994
| 993 月立ちてただ三日月の眉根(まよね)掻(か)き日長く恋ひし君に逢へるかも 994 ふりさけて若月(みかづき)見ればひと目見し人の眉引(まよび)き思ほゆるかも |
【意味】
〈993〉姿をあらわしてたった三日という細い月のかたちの眉を掻いて、ずっと恋しく思っていたあなたに逢えました。
〈994〉空を振り仰いで三日月を見ると、ひと目逢っただけのあの人の、美しい眉が思い出されます。
【説明】
993が大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)の歌、994が大伴家持の歌です。天平5年、郎女が佐保宅から西の家へ帰る家持に向けて詠んだ歌と、それに答えて家持が詠んだ歌とされます。佐保宅は、旅人の父(安麻呂)の代以来の「大納言大将軍大伴卿」「佐保大納言卿」の家で、孫の家持に至る3代の家屋敷ですが、この時の家持は16歳で、大伴家の所有する別宅に移り住んでいました。佐保宅の西の方角にあったことから「西宅」「西の家」と呼ばれていました。
993の「三日月の眉根」は、黛(まゆずみ)で描いた引き眉のことで、当時、細く三日月のように描くのが中国風の最新モードとされ、それに倣った化粧法のようです。また、眉が痒くなるのは恋人が訪れてくる前兆とする俗信があり、坂上郎女は、恋人に逢いたいと思う気持ちから、自分の眉を掻いたら、そのとおりに恋人がやって来た、と言っています。これに答えた家持の歌は、郎女にみちびかれての習作だといいます。「ひと目見し人の眉引き思ほゆるかも」というのは、佐保宅で見た郎女の娘(坂上大嬢:後の家持の妻)のことを言っているのでしょうか、それとも歌を寄せた郎女のことでしょうか。これらの歌は、南朝宋の詩人・鮑照の「娟娟として蛾眉に似たり」、あるいは笵靖の妻の「軽鬢浮雲を学び、雙蛾初月に擬す」の表現を踏まえているとされ、郎女の持つ海彼性を窺い知ることができます。
藤原麻呂(不比等の四男)との恋を失った坂上郎女は、高齢の異母兄・大伴宿奈麻呂(おおとものすくなまろ)に嫁ぎましたが、二人の娘が生まれた後、夫に先立たれます。神亀元年(724年)以降」『続日本紀』の記述から消えてしまうので、このあたりで死別したらしいというのが通説です。そして、神亀5年(728年)、大宰府にいる異母兄・大伴旅人が妻を亡くしたので、郎女は一人はるばる大宰府に赴き、旅人と住むことになりました。その理由としては、旅人の後妻になるためとも、旅人やその子・家持らの世話をし、大伴一族の家刀自(いえとじ)として家政を取り仕切るためだったとも言われています。天平2年(730年)10月、旅人は大納言に任ぜられてその年の暮れに帰京、しかし翌年7月に旅人は亡くなります。このとき坂上郎女は30歳をこえたばかり。娘の大嬢と二嬢はまだ10歳に達しない年頃であり、大伴宗家を継ぐべき家持もまだ14歳の少年でした。
やがて坂上郎女は、甥の家持の歌の指導を行うようになります。上の2首はその一環としてのやり取りとされ、国文学者の窪田空穂は、その指導したことは明らかであるとして次のように述べています。「それは二つのことで、第一は初月は眼前の実物で、それを見ている態度で詠むのであるが、必ずしもそれに即そうとはせず、それによって連想される情趣的なことを詠むことである。第二には、その情趣は、自身の体験として得たもので、個人的なものであるが、それと同時に他人も体験しうる一般性をもったものだということである。これを歌そのものの上でいうと、郎女としては、初月を見ると、それを自身の眉根の形を連想させるものとしてその譬喩に用い、転じてその眉根が痒くて掻くという、自身のことであると同時に当時の人だと誰でも体験していることに展開させ、再転させてその前兆どおり、待ちこがれている夫に逢えたことにしたのである。これは当時の女性としては最も喜ばしい、一般性をもったことなのである。これは穿ちすぎた解のごとくであるが、この歌に続いている家持の歌は、男女の相違があるだけで、題の扱い方は全く同一であるのでも知られることであり、またこの歌のみとしても、郎女の平常の、柔らかく屈折はもちながらも、単純にして率直で、冴えを失っていないのにくらべて、この歌は技巧がありすぎ、一首としての綜合統一がたりず、したがって調べの冴えに遠いことも、全く作為のものであることを思わせるからである」
この歌が、年代の明らかな最初の家持作とみる研究者は多いようです。なお、これ以後、家持が19歳になる天平8年(736年)9月に「秋の歌4首」(巻第8-1566~1569)を詠むまで、彼の動静を示す歌は載っていません。10代後半のこの時期は、歌の勉強というより、叙任に備えた孝経・論語・千字文・詩文などの学習に没頭していたのかもしれません。
| 1619 玉桙(たまほこ)の道は遠けどはしきやし妹(いも)を相(あひ)見に出でてぞ我(あ)が来(こ)し 1620 あらたまの月立つまでに来ませねば夢(いめ)にし見つつ思ひそ我(あ)がせし |
【意味】
〈1619〉道のりは遠くても、いとおしいあなたに逢うために、私はやって来ました。
〈1620〉月が改まるまでにいらっしゃらないので、私は夢にまで見続けて、物思いをしてしまいました。
【説明】
1619は大伴家持、1620は大伴坂上郎女の歌。大伴氏は竹田の庄(橿原市)と跡見(とみ)の庄(桜井市外)を領地として経営していました。ふだんは都の邸宅に住んでいるので、管理人を置いて日常の管理をさせ、春の作付けと秋の収穫には出向いて立ち会う必要がありました。ここの歌は、天平11年(739年)8月、竹田の庄に秋の収穫のため下向していた叔母・大伴坂上郎女のもとを、家持が訪ねたときに交わした歌です。このとき家持は23歳。
1619の「玉桙の」は「道」の枕詞、「はしきやし」は、ああ愛しい、ああ慕わしい。「妹」はふつう男性から恋人に対してかける言葉ですから、叔母に対して用いるのは一般的ではありません。少しふざけて、庄への訪問を、逢引にやって来たように歌ったものでしょうか。また、さりげなく道のりの遠さを言うことで慕情の深さを示しています。それに答えたのが1620で、男を待ち侘びた女として歌を返していますが、これらはあくまで儀礼の範囲のやり取りであるとみられています。「あらたまの」は「年」に掛かる枕詞ですが、ここでは「月」に転じています。「月立つまでに来ませねば」の「月立つ」は、新月が現れることで、つまり月が改まること。「来まさねば」の「まさ」は、尊敬の補助動詞「ます」の未然形。月が改まるまでにいらっしゃらないので、の意で、延び延びになっていた家持の訪問を皮肉った表現です。
郎女は、収穫された稲の検分、労働者への慰労、税関係の雑用などで多忙を極めていたのでしょう。家持は家持で、都での公務で忙しかったはずです。また家持は、この夏6月に、子までもうけた妾を失い(巻第3-462~474)、初秋のころまで嘆きの中にありました。郎女とともに庄にあったらしい娘の大嬢と家持との間で、恋歌らしい恋歌が交わされるようになるのは、この秋9月からのことです(巻第8-1624~1626)。
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巻第17-3927~3928
| 3927 草枕(くさまくら)旅行く君を幸(さき)くあれと斎瓮(いはひへ)据(す)ゑつ我(あ)が床(とこ)の辺(へ)に 3928 今のごと恋しく君が思ほえばいかにかもせむするすべのなさ 3929 旅に去(い)にし君しも継(つ)ぎて夢(いめ)に見ゆ我(あ)が片恋(かたこひ)の繁(しげ)ければかも 3930 道の中(なか)国(くに)つ御神(みかみ)は旅行きもし知らぬ君を恵(めぐ)みたまはな |
【意味】
〈3927〉任地に赴くあなたが無事であれと、斎瓮を据えて祈りました。私の床の辺に。
〈3928〉今のようにこんなに恋しくあなたのことが思われるのに、これからどうしたらいいのでしょう。するべき方法もないことです。
〈3929〉旅に行ってしまったあなたのことが次々に夢に出てきます。私の片恋が激しいせいでしょうか。
〈3930〉越中の国を支配なさっている神よ、旅に行く経験もないあの人を、どうかお守り下さい。
【説明】
3927・3928は、天平18年(746年)閏7月に、家持が越中国守に任ぜられ、任地に赴く時に坂上郎女が作った歌。3929・3930は、家持が越中に着任した時にさらに贈った歌。一族の神祀を担っていた彼女の当然の祈願ではありましたが、一族のホープである若い家持の門出に並々ならぬ心を寄せており、あたかも家持の妻の坂上大嬢の歌ではないかと思われるほどの心情が込められています。それほどに郎女にとって愛すべき甥だったことが窺われます。
この点について作家の大嶽洋子は次のように述べています。「これは姑が娘婿に贈る歌としては、ちょっと過激ではないだろうか。(中略)坂上郎女が晩年に苦しい恋をした相手とは、家持ではないだろうか。誰にも漏らすことのできない秘密。お互いに感じとっていても決して現実の言葉とも事実ともなり得ない感情の負の部分。この時期の郎女の歌には註が長くついていて、『たわむれに詠んだ』ことを強調している。だが、美しい叫びのような香りに満ちた歌には、みじんの遊びの雰囲気は感じとれない」。そして、「母は娘を愛し、娘は母を愛し、その二人のいずれをも愛した家持。三人が三様に苦しんで、大嬢はときを待ち、家持はかりそめの恋愛三昧を演出したのではないだろうか。そして坂上大嬢が越中に出向き、初めて母親の強い引力から物理的にも、精神的にも離れることで、この魂の地獄からの落着を得たのではないか。以降、家持は歌境も冴えわたり、詩人としても、男性としても、一段と魅力を増したと私は思う」
3927の「草枕」は「旅」の枕詞。「幸く」は、無事で。「斎瓮」は、神に供える酒を入れる瓶。「我が床の辺に」は、自分の寝る床のそばに、の意。床のそばや枕辺に斎瓮を据えるのは、当時の定まった慣わしになっていたもの。3928の「今のごと」は、別れに臨む今のように。「すべ」は、方法・手段。3929の「君しも」「君」は家持、「し」は強意の、「も」は詠嘆の助詞。「継ぎて」は、続けて。「かも」は、疑問的詠嘆。3930の「道の中」は、越中国を「越の道の中の国」と呼んでいたので、越中の意味。「国つ御神」は、その国を守護する神。「し知らぬ」は、するのを知らない、経験のない意。「恵みたまはな」の「な」は、相手に希望や願望を示す助詞。
巻第17-3931~3936
| 3931 君により我が名はすでに龍田山(たつたやま)絶えたる恋の繁(しげ)きころかも 3932 須磨人(すまひと)の海辺(うみへ)常(つね)去らず焼く塩の辛(から)き恋をも我(あ)れはするかも 3933 ありさりて後(のち)も逢(あ)はむと思へこそ露(つゆ)の命(いのち)も継(つ)ぎつつ渡れ 3934 なかなかに死なば安(やす)けむ君が目を見ず久(ひさ)ならばすべなかるべし 3935 隠(こも)り沼(ぬ)の下(した)ゆ恋ひあまり白波(しらなみ)のいちしろく出でぬ人の知るべく 3936 草枕(くさまくら)旅にしばしばかくのみや君を遣(や)りつつ我(あ)が恋ひ居(を)らむ |
【意味】
〈3931〉あなたのせいで私の浮き名はすでに立ってしまいました。絶えてしまった恋への思いが近ごろしきりにつのるこの頃です。
〈3932〉須磨の海人がいつも海岸で焼く塩のような、そんな辛い恋を私はしています。
〈3933〉このまま生き永らえて、後も逢おうと思うからこそ、露のようなはかないこの命をつないで暮らしています。
〈3934〉かえって死んでしまえば楽でしょう。あなたの姿を見ずに久しくなれば、やるせないことでしょう。
〈3935〉隠り沼のように心密かに包んでいた恋心があふれて、白い波のようにはっきりと顔に出てしまいました。人が知ってしまうほどに。
〈3936〉旅にしばしば出て行かれるあなたを、これから先も私は、こうして見送りながら、恋い焦がれていなければならないのでしょうか。
【説明】
京に住む平群女郎(へぐりのいらつめ:伝未詳)からも、越中に旅立った家持を追うように複数回にわたり贈られた歌12首(3931~3942)が載っており、この時期、坂上大嬢のほか、複数の女性との関係があったことが窺えます。歌の内容から見ると、家持が聖武天皇に従って恭仁京などを転々としていた時期の終わりごろに、二人は親密になり、家持が越中に赴任するまでの、それほど長くない期間、恋仲だったらしく思われます。巻第17になってはじめて登場するものの、家持に恋歌を贈っている女性たちの中では、笠郎女に次いで、その歌の数が多くなっています。
3931の「君により」の「より」は、原因する意。「龍田山」は、奈良県生駒郡三郷町と大阪府柏原市の間の山々の古名。「浮き名が立つ」との掛詞になっており、また下との関係では「恋を断つ」に続いています。「絶えたる恋」は、家持の越中赴任によって二人の関係が切れてしまったことの意。「繁き」は、しきりに起こる、繰り返される意。3932の「須磨人の」の「須磨」は、神戸市須磨区一帯の地。「人」は、海人。上3句は「辛き」を導く譬喩式序詞。「辛き恋」は、辛(つら)い恋。下2句は慣用句となっているもの。
3933の「ありさりて」は「ありしありて」の約、「あり」は生存の意で、生き永らえて。「継ぎつつ渡れ」の「継ぎつつ」は、命をつなぎつつ。「思へこそ」は「思へばこそ」の古格。「渡れ」は、上の「こそ」の係り結びで已然形。ずっと過ごしている意。3934の「なかなかに」は、中途半端に、かえって、むしろ。「安けむ」は、安らかであろう。「君が目を見ず」は、君に逢わずに。「すべなかるべし」の「すべなし」は、どうしようもない、やるせない意。3933・3934とも類歌のあることが指摘されています。
3935の「隠り沼」は、水の流れ出る口のない沼。「隠り沼の」は、その水が下にこもる意から「下」にかかる比喩的枕詞。「下ゆ恋ひあまり」の「下」は心の中の意、「ゆ」は起点・経由点を示す格助詞で、心の内に包んでいた恋心が外へあふれ出ること。「白波の」は「いちしろく」にかかる比喩的枕詞。「いちしろく」は、はっきりと。「人の知るべく」の「べし」は、強い確信をもって推量する助動詞。巻第12-3023と全く同じ歌で、 古歌を借りて自らの思いを打ち明けています。
3936の「草枕」は「旅」の枕詞。「旅にしばしば」は、家持が恭仁、難波、越中へと移動が続いていることを言っています。「かくのみや君を遣りつつ」の「かく」は、このように。「のみ」は、強調の助詞。「や」は疑問の係助詞。「遣る」は、女郎の立場からいやいや家持を遠くへ行かせる、または送り出す意。「恋ひ居らむ」の「む」は、上の「や」を受けての連体形の結び。家持に贈った歌ですが、一人悲しむ愚痴に近いような歌になっています。
巻第17-3937~3942
| 3937 草枕(くさまくら)旅(たび)去(い)にし君が帰り来(こ)む月日を知らむすべの知らなく 3938 かくのみや我(あ)が恋ひ居(を)らむぬばたまの夜(よる)の紐(ひも)だに解(と)き放(さ)けずして 3939 里近く君が業(な)りなば恋ひめやともとな思ひし我(あ)れぞ悔(くや)しき 3940 万代(よろづよ)に心は解けて我が背子(せこ)が捻(つ)みし手見つつ忍(しの)びかねつも 3941 うぐひすの鳴くくら谷にうちはめて焼けは死ぬとも君をし待たむ 3942 松の花(はな)花数(はなかず)にしも我(わ)が背子(せこ)が思へらなくにもとな咲きつつ |
【意味】
〈3937〉(越中に)旅立ってしまったあなたが、いつ帰って来られるのか、その月日を知る手がかりさえも分からなくて。
〈3938〉このようにばかり、いつまでも恋い焦がれているのでしょうか。夜の衣の紐も解き放たずに。
〈3939〉私の里近くにあなたが日々を過ごしていらっしゃれば、恋い焦がれることなどあろうかと、わけもなく思っていた私が、今では悔しくてなりません。
〈3940〉いついつまでも変わるまいと心を解いて、あなたがつねった手を見ていると、耐え難くなります。
〈3941〉鴬が鳴く深い谷に身を投げて、たとえ焼け死ぬようなことがあろうと、ただあなたをお待ちしています。
〈3942〉松の花が花の数にも入らないと、あなたは思っていらっしゃるけれど、心もとなくも咲いています。
【説明】
平群女郎(へぐりのいらつめ:伝未詳)が、越中に旅立った家持に贈った歌の続き。都からの折々の使いに託して贈ったもの、との左注があります。3937の「草枕」は「旅」の枕詞。「すべ」は、方法、手段。「知らなく」は「知らず」のク語法で名詞形。国守の任期はふつう4年でしたが、若い女郎にとっては遥かに遠い先のことに思えたとみえます。「来む」「知らむ」「知らなく」と同様の言葉が重なっているところから、作歌の不馴れが窺える歌となっています。
3938の「かくのみや」は、このようにばかり。上2句は慣用句。「ぬばたまの」は「夜」の枕詞。「夜の紐」は、夜着る衣の紐。「解き放けずして」は、家持と逢えないので、身を固く守り、くつろいで寝ることもしない意。3939の「里」は、女郎の住んでいる所。「恋ひめやと」は、恋い焦がれることはあろうかと。「もとな」は、わけもなく、いたずらに。3940の「心は解けて」は、心が打ち解けて。「捻みし」は、つねった。「手」は、女郎の手。『万葉集』には珍しく男女間の戯れの具体的行為が表現されており、窪田空穂は、「家持としては記憶にもないほどのものであろうが、女郎からいうと、そのつねられた手が、その嬉しかった時の形見のごとくに思われて、自分の手を見るごとにその時の全体が思い出されたのであろう」と述べています。
3941の「くら谷」は、深い谷。暗い谷、あるいは地名とする説もあります。「うちはめて」の「うち」は接頭語、「はめ」は物の間に入れること。我が身を投げ入れて。「焼けは死ぬとも」は、焼け死んでも、の意で、火山の地獄などを想像してのものと見えます。ただ、そこに鶯が鳴くというのは妙な感じがします。3942の「花数にしも」の「し」は、強意の副助詞。「思へらなくに」は「思ひあらなくに」の約。「もとな」は、わけもなく、心もとなくも。家持に顧みられることのない自分を嘆き、目立たず地味な松の花に喩えています。
一連の平群女郎の歌については、古歌との類同表現が多い、また表現がこなれていない印象がある等の理由から、必ずしも高く評価されていないものの、ままならない恋にひっそり悩む乙女心の動揺がしみじみと感じられます。そのたどたどしさからは、かえって女郎の真摯さ、ひたむきさが感じられないではありません。詩人の大岡信は、「平群女郎の歌には、笠女郎の捨て身の激しさがなく、相手の優位性を意識している教養豊かな女性が、つつましやかに恋歌を詠んでいるという感じがする」と述べています。
なお、ここには女郎の歌があるのみで、家持の歌はありません。家持の冷淡な態度が指摘されるところですが、女性からの贈歌に対する家持のこたえがない、あるいは殆どない例は、他にも笠郎女や中臣女郎などの場合にも見られます。作家の大嶽洋子などは「(家持の)ドン・ファンぶりが気に入らない」と言っていますが、実際に家持のこたえた歌がなかったとは考えられず、あえて女性の側の歌だけを一括してまとめ、現実に贈答されたことを捨て去ることによって、一人の女性の恋の様相を浮き彫りにしようとする意図があると考えられます。つまり、一つの作品としての達成を捉えようとしているのです。むしろ、編集の”妙”といえなくもありません。実際、読み手の我々には、ここの平群女郎の歌もそうですが、とくに笠郎女の情熱的なまとまった歌からは、その女性像がありありと浮かんで来るのであります。
巻第18-4080~4081
| 4080 常人(つねひと)の恋ふといふよりはあまりにて我(わ)れは死ぬべくなりにたらずや 4081 片思ひを馬にふつまに負(お)ほせ持て越辺(こしへ)に遣(や)らば人かたはむかも |
【意味】
〈4080〉世の一般の人がいう恋を通り越して、私は死ぬ思いでいるではありませんか。
〈4081〉私の片思いを、すっかり馬に背負わせて越の国へ遣わせば、誰かが手助けしてくれるでしょうか。
【説明】
天平20年(748年)3月、京にいる叔母の坂上郎女が、越中に国守として赴任している家持に贈った歌。4080の「常人」は、世間一般の人。「あまりにて」は、度が過ぎて、通り越して。「なりにたらずや」はナリニテアラズヤの約で、なったではありませんか。4081の「ふつまに」は、すべて、悉く。「負はせ持て」は、背負わせて。「人かたはむかも」の「人」は、暗に家持を指しています。「かたふ」の語義未詳で、上掲の解釈のほか、心を寄せて親しむ、欺き奪う、などの解釈もあります。「かも」は、疑問的詠嘆。これに対して家持が答えた歌が、4082~4084にあります。
〈4082〉天離(あまざか)る鄙(ひな)の奴(やつこ)に天人(あめひと)しかく恋すらば生ける験(しるし)あり
・・・都から遠く離れた片田舎の私ごときに、天の人がこんなに恋して下さるなんて、生きている甲斐があるというものです。
〈4083〉常(つね)の恋いまだやまぬに都より馬に恋(こひ)来(こ)ば担(にな)ひ堪(あ)へむかも
・・・平常のあなたに対する恋が未だやまないのに、都から馬でどっさり恋の荷物がやって来たら、私なんかに荷いきれるでしょうか。
〈4084〉暁(あかとき)に名告(なの)り鳴くなる霍公鳥(ほととぎす)いやめづらしく思ほゆるかも
・・・暁に、自分の名を告げながら鳴くホトトギスの声を聞くように、いよいよ懐かしく思われてなりません。
4082の「天離る」は「鄙」の枕詞。「鄙」は、都から遠い地方、田舎。「鄙の都に」は、戯れて越中国府をこう言ったもの。「奴」は、ここでは自分を卑下して言った語。「天人」は、天上界の人。ここでは郎女のことで、4080の「常人」を承けて戯れに言っています。「生ける験」は、生きている甲斐。4083の「常の恋」は、平常、郎女に対して持っている恋心。「担ひ堪へむかも」は、担いきれるでしょうか。4084の「名告り鳴くなる霍公鳥」は、自分の名を言って鳴くホトトギス。「いやめづらしく」の「いや」は、いよいよ。なお、郎女の娘で家持の妻の大嬢は、家持の越中赴任中に同地へ下ったことは確かなようですが、少なくともこの時点では、まだ越中に着いておらず、母の坂上郎女とともに奈良に住んでいます。
巻第19-4220~4221
| 4220 海神(わたつみ)の 神の命(みこと)の み櫛笥(くしげ)に 貯(たくは)ひ置きて 斎(いつ)くとふ 玉にまさりて 思へりし 我(あ)が子にはあれど うつせみの 世の理(ことわり)と ますらをの 引きのまにまに しなざかる 越路(こしぢ)をさして 延(は)ふ蔦(つた)の 別れにしより 沖つ波 撓(とを)む眉引(まよび)き 大船(おほふね)の ゆくらゆくらに 面影(おもかげ)に もとな見えつつ かく恋ひば 老(お)いづく我(あ)が身 けだし堪(あ)へむかも 4221 かくばかり恋しくしあらばまそ鏡(かがみ)見ぬ日(ひ)時(とき)なくあらましものを |
【意味】
〈4220〉海神が櫛笥にしまいこんで大切にするという真珠、その真珠以上に大切な我が子ながら、この世の定めで、官人である夫の引き連れるままに、遠い越の国をさして、はるばる別れて行ったその日から、たおやかなあなたの眉がゆらゆらと面影がちらついてやりきれません。こんなに恋い慕ってばかりいたら、老いた身の私に、はたして堪えられるでしょうか。
〈4221〉こんなにも恋しく思われるのだったら、鏡のように見ない日も時もなく過ごしたでしょうに。
【説明】
題詞に「京師(みやこ)より来贈(おこ)する歌」とある、国守として越中に赴任した家持のもとにいる大嬢に宛てて、坂上郎女が与えた歌。天平勝宝2年(750年)の作。
4220の「海神」は、海を支配する神。「み櫛笥」の「み」は美称、「櫛笥」は櫛や鏡などの化粧道具を入れる箱。「斎くとふ」の「斎く」は大切にする。「とふ」は、といふ、の意。「玉」は、真珠。「うつせみの」は「世」の枕詞。「世の理と」は、妻が夫に従うのは世間の道理であるとして、の意。「ますらを」は、ここでは家持のこと。「引きのまにまに」は(夫の)引き寄せるままに。「しなざかる」は「越」の枕詞。家持の造語で、その影響と見られます。「延ふ蔦の」は、蔦の枝が延びて別れ別れにところから「別れ」にかかる枕言葉。「沖つ波」は、沖の波がうねりたわむところから「撓む」にかかる枕言葉。「撓む」は、たわむ、曲がる。「眉引」は、眉が長く引くさまで、大嬢の眉をたたえる表現。「大船の」は「ゆくらゆくら(ゆらゆらとの意)」の枕詞。「もとな」は、わけもなく、やたらに。「老いづく」は、年老いてゆく。「けだし」は、おそらくは。
4221の「恋しくしあらば」の「し」は、強意の副助詞。「まそ鏡」は、映りのよい白銅製の鏡のことで、「見」にかかる枕詞。「あらましものを」の「まし」は、反実仮想。
『万葉集』に見える坂上郎女の最後の作であり、この時の郎女は50歳くらい、大嬢は28歳くらいだったとされます。子が離れていき、母としてまた女として深い孤独を感じる年齢だったのでしょう、ずいぶん弱気になっている様子が窺えます。郎女は、やがて帰京する家持と大嬢に再会したはずですが、これ以後のことは分かりません。一方、この歌より後に、家持が何も郎女に触れることがないことなどから、郎女は間もなく没したのではないかと見る向きもあります。
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古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |
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(大伴家持)

(聖武天皇)

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