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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

大伴家持と大伴坂上大嬢の歌

巻第4-581~584

581
生きてあらば見まくも知らず何(なに)しかも死なむよ妹(いも)と夢に見えつる
582
ますらをもかく恋ひけるをたわやめの恋ふる心にたぐひあらめやも
583
月草(つきくさ)のうつろひやすく思へかも我(あ)が思ふ人の言(こと)も告げ来(こ)ぬ
584
春日山(かすがやま)朝立つ雲の居(ゐ)ぬ日なく見まくの欲しき君にもあるかも
 

【意味】
〈581〉生きてさえいればお逢いするかも知れないのに、どうして「死んで逢おう」などと言って夢に出てこられるのですか。

〈582〉立派な男子のあなたも、そのように恋するのですね。でも、弱い女の私が恋する苦しさに立ち並ぶことができましょうか、できはしません。

〈583〉私を露草のように移り気な女とお思いになっているからでしょうか。あなたから何の便りも届かないのは。

〈584〉春日山に朝立つ雲は、かからない日はなく、その雲のようにいつも見ていたいあなたです。

【説明】
 題詞に「大伴坂上家(おおとものさかのうえのいえ)の大嬢(おおいらつめ)が、大伴宿祢家持に報(こた)へ贈った歌」とあります。大伴坂上大嬢は家持の従妹にあたり、のち家持の正妻になった女性で、妹に坂上二嬢がいます。また、大嬢を「おほひめ」「おほをとめ」などと訓む説もあります。家持が贈った歌は載っていませんが、ここの歌は天平4年(732年)頃のもので、大嬢の歌としては初出。大嬢は10歳くらい(家持は15歳)ですので、母の坂上郎女の代作とみられています。
 
 581の「何しかも」は、どうして。582の「ますらを」は、立派な男子。「たわやめ」は、か弱い女性。「たぐひあらめやも」の「やも」は反語で、立ち並ぶことができようか、できはしないの意。583の「月草の」は「うつろふ」の枕詞。月草は今の露草(つゆくさ)で、その花で布を染めていましたが、すぐに色褪せてしまうことから、移ろいやすく、はかない恋心の譬えに使われています。584の上2句は「居ぬ日なく」を導く序詞。「春日山」は、奈良市の東部にある春日山、御蓋山、若草山などの山の総称。

巻第4-727~728

727
忘れ草 我(わ)が下紐(したひも)に付けたれど醜(しこ)の醜草(しこくさ)言(こと)にしありけり
728
人もなき国もあらぬか我妹子(わぎもこ)とたづさはり行きて副(たぐ)ひて居(を)らむ
 

【意味】
〈727〉苦しみを忘れるために、忘れ草を着物の下紐につけていたけれど、役立たずのろくでなしの草だ、名ばかりであった。

〈728〉邪魔者のいない所はないものか。あなたと手を取り合って行き、二人一緒にいたいものだ。

【説明】
 大伴家持が、大伴坂上大嬢(おおとものさかのうえのおおいらつめ)に贈った歌。この歌は、二人が離絶してから数年後に再会して詠んだ歌とされます。離絶した理由ははっきりしませんが、当時の結婚には娘の母親が絶対の権力をもっていましたから、坂上郎女が関係していたか、あるいは、大嬢がまだ10歳ほどだったため、家持の心が動かず、そのまま時を経て(8年前後か)ここに再会し、よりを戻したということも考えられます。もっとも、その間、家持は別の女性を妾として迎え、子をなしたものの、その妾を亡くしています(巻第3-462ほか)。
 
 727の「忘れ草」は、ユリ科の一種ヤブカンゾウにあたり、『和名抄』に「一名、忘憂」とあり、身につけると憂いを忘れるという俗信がありました。これは『文選』などにみられる中国伝来のもののようです。「あなたを忘れるために忘れ草をつけたけれど、効果がなく忘れられなかった」と言っています。「醜の」は、醜いものや不快なものを罵る意の語で、「醜の醜草」と、それを重ねることによって意味を強めています。「言にし」の「し」は強意。
 
 728は、数年を隔てて再会できたというものの、その逢い方はさまざまな妨げがあって自由ではなかったのでしょう。他の女性に対した時のものに比べて、強い熱意を帯びている歌になっています。「国」は、ここでは狭い範囲に用いており、「所」にあたります。「副ひて居らむ」は、並んで一緒にいよう。

巻第4-729~731

729
玉ならば手にも巻(ま)かむをうつせみの世の人なれば手に巻きかたし
730
逢はむ夜(よ)はいつもあらむを何すとかその宵(よひ)逢ひて言(こと)の繁(しげ)きも
731
我(わ)が名はも千名(ちな)の五百名(いほな)に立ちぬとも君が名(な)立たば惜(を)しみこそ泣け
 

【意味】
〈729〉あなたが玉であったなら、緒に通して腕に巻き、肌身離さずいようものを。この世の人だから、手に巻くことは難しい。

〈730〉お逢いできる夜は他にいくらもあったでしょうに、何だってあの晩にお逢いしたのでしょう、ひどく噂が立ってしまったことです。

〈731〉私の名は千も五百も噂になってかまいませんけれど、あなたの名が一度でも立ってしまうと、惜しくて泣くことでしょう。

【説明】
 大伴坂上大嬢が、大伴家持に贈った歌。729の「うつせみ」は、現身(うつしみ)の転で、現世に生きている身。「うつせみの」は「世」の枕詞。730の「何すとか」は、何の必要があって、どんなつもりで、の意。731の「千名の五百名に」は、噂の激しさを誇張した表現ですが、他の用例がないので大嬢の造語かもしれません。二人が夫婦になることに、何か世間の面目を失う事情があったのでしょうか。

巻第4-732~734

732
今しはし名の惜(を)しけくも我(わ)れはなし妹(いも)によりては千(ち)たび立つとも
733
うつせみの世やも二行(ふたゆ)く何すとか妹(いも)に逢はずて我(わ)がひとり寝(ね)む
734
我(わ)が思ひかくてあらずは玉にもがまことも妹(いも)が手に巻かれなむ
 

【意味】
〈732〉今はもう私の名を惜しむ気持ちなどありません。あなたのせいなら千度の浮き名立とうとも。

〈733〉二度あることのないこの世なのに、かけがえのないこの夜に、どうしてあなたに逢わずに一人で寝られましょうか。

〈734〉こんな苦しい思いをするくらいなら、いっそ玉にでもなって、仰せの通りあなたの手に巻かれていたい。

【説明】
 家持が、大伴坂上大嬢に答えた歌。732の「今しはし」の「今し」は「今」の強調で、あとの「し」も、強意。今という今は。「惜しけく」は「惜し」の未然形に「く」を添えて名詞形にしたもの。733の「うつせみの」は「世」の枕詞。「世やも二行く」の「やも」は反語。この世が繰り返されることなどあろうか。「何すとか」は、どうして、何とて。「逢はずて」は、逢わずして。734の「あらずは」は、あらずに。「玉にもが」の「もが」は、願望。わが身が玉であってほしい。絶えず一緒にいたいという気持ちを表しています。

巻第4-735~736

735
春日山(かすがやま)霞(かすみ)たなびき心ぐく照れる月夜(つくよ)にひとりかも寝む
736
月夜(つくよ)には門(かど)に出で立ち夕占(ゆふけ)問ひ足占(あしうら)をそせし行かまくを欲(ほ)り
 

【意味】
〈735〉春日山に霞がかかって気の詰まってくるように、照っている月を見ながら、今夜は独りで寝るのでしょうか。

〈736〉月夜には門のところに出て行って、夕占で吉凶を問い、また足占いで正否を占いました、あなたのもとへ行きたくて。

【説明】
 735は、大伴坂上大嬢が家持に贈った歌。736は、それに家持が答えた歌。735の「春日山」は、平城京の東にある山で、大嬢の家の近く。上2句は「心ぐく」を導く序詞。「心ぐく」は、心が晴れない、悩ましいの意。「ひとりかも寝む」の「かも」は、疑問。736の「夕占」は、夕方、往来に立ち、道行く人の言葉を聞いてわが吉凶を占うもの。「足占」は、目標地点に左右どちらの足で到着するかなどによって吉凶を占うもの。大嬢が月の夜なのに一人寝しなければならない嘆きをうたっているのに対し、家持は、月の夜だからあなたに逢いに行こうと占いをしたと弁解しています。ここの贈答からは、逢引は月の照る夜にしたことが窺えます。

巻第4-737~740

737
かにかくに人は言ふとも若狭道(わかさぢ)の後瀬(のちせ)の山の後(のち)も逢はむ君
738
世の中の苦しきものにありけらし恋にあへずて死ぬべき思へば
739
後瀬山(のちせやま)後も逢はむと思へこそ死ぬべきものを今日(けふ)までも生(い)けれ
740
言(こと)のみを後(のち)も逢はむとねもころに我(わ)れを頼(たの)めて逢はざらむかも
 

【意味】
〈737〉いろいろと人は言いますが、若狭道の後瀬山のように、後にきっとあなたとお逢いしましょうね。
 
〈738〉世の中は本当に苦しくてならないものなのですね。恋が死ぬほど苦しいものだとは思いませんでした。

〈739〉後瀬山のように、後に逢おうと思うからこそ、死ぬことなく今日まで生きているのです。
 
〈740〉言葉では私を頼って逢おうねと丁重に言うのに、本当は逢って下さらないつもりなのでは。

【説明】
 737・738は、大伴坂上大嬢が家持に贈った歌。739・740は、家持が答えた歌。737・739の「後瀬山」は、福井県小浜市の南にある山。737の「かにかくに」は、とやかく。「若狭道の後瀬の山の」の2句は「後」を導く序詞。738の「世の中し」の「し」は、強意。世の中は実に。「ありけらし」は、あったことだなあ。739の「後瀬山」は、大嬢の語を取って、同じく「後」の枕詞としたもの。740の「言のみを」は、言葉でのみ。「ねもころに」は、心を込めて、丁寧に、の意。

巻第4-741~746

741
夢(いめ)の逢ひは苦しかりけりおどろきて掻(か)き探(さぐ)れども手にも触(ふ)れねば
742
一重(ひとへ)のみ妹(いも)が結ばむ帯(おび)をすら三重(みへ)結ぶべく我(あ)が身はなりぬ
743
我(あ)が恋は千引(ちびき)の石(いし)を七(なな)ばかり首に懸(か)けむも神のまにまに
744
夕さらば屋戸(やど)開(あ)け設(ま)けて我(あ)れ待たむ夢(いめ)に相(あひ)見に来(こ)むといふ人を
745
朝夕(あさよひ)に見む時さへや我妹子(わぎもこ)が見れど見ぬごとなほ恋(こほ)しけむ
  

【意味】
〈741〉夢の中で逢うのは苦しいものです。あなたに逢えたと思って目を覚まして手探りしても、何にも触れることができないので。

〈742〉あなたが結んでくれる時には一回り結べばちょうどよかったこの帯も、今では三回りに結ぶほどに、私の身はやせ細ってしまいました。

〈743〉私の恋は、千人がかりで引く巨岩を七つも首にかけているほど苦しく重い。それも神の思し召しとあれば耐えなければならない。

〈744〉夕方になったら、あらかじめ戸を開けて私は待とう。夢で逢いに来ようというあの人を。

〈745〉たとえ朝夕逢えるようになったとしても、あなたは、逢っていても逢っていないように恋しく思うに違いありません。

【説明】
 家持が、「坂上大嬢に贈る歌15首」のうちの5首。741・742・744は、奈良時代に伝来した唐代の伝奇小説『遊仙窟』の影響を受けているとされます。主人公の男が黄河の源流を訪れる途中、神仙の岩窟に迷い込み、仙女の崔十娘(さいじゅうじょう)と兄嫁の王五嫂(おうごそう)の二人の戦争未亡人に一夜の歓待を受け、翌朝、名残を惜しんで別れるという筋です。741は、その中の「夢ニ十娘ヲ見ル。驚キ覚メテ之ヲ攬(カイサグ)ルニ、忽然(タチマチ)手ヲ空シウセリ」の文章に拠っています。当時は神仙思想が盛んに行なわれていたらしく、家持はその作中の主人公に擬する気持ちで歌を詠んだようです。

 741の「おどろきて」は、目を覚まして。742の、帯を「三重に結ぶ」は、身が衰えて痩せたことを具象化したもの。この表現は、集中の他の歌にもみられます。743の「千引の石」は、千人で引いて運ぶ石で、『古事記』にも登場する、黄泉の国の入り口をふさいで、イザナギとイザナミを隔てた巨大な石のこと。大嬢への重い恋心を喩えていますが、あまりに大仰な表現であるため、歌の解釈として、真剣な訴えなのか、あるいは仲のよい恋人同士がじゃれ合うような遊び心の歌なのか、判断に迷うところです。744の「夕さらば」は、夕方になったら。「設けて」は、準備して。

巻第4-746~750

746
生ける世に我(あ)はいまだ見ず言(こと)絶えてかくおもしろく縫(ぬ)へる袋(ふくろ)は
747
我妹子(わぎもこ)が形見(かたみ)の衣(ころも)下に着て直(ただ)に逢ふまでは我(わ)れ脱(ぬ)かめやも
748
恋ひ死なむそこも同(おな)じぞ何せむに人目(ひとめ)人言(ひとごと)言痛(こちた)み我(あ)れせむ
749
夢(いめ)にだに見えばこそあらめかくばかり見えずしあるは恋ひて死ねとか
750
思ひ絶えわびにしものを中々(なかなか)に何か苦しく相(あひ)見そめけむ
  

【意味】
〈746〉この世に生まれて以来、私は見たことがりません、言葉にできないほど、こんなに見事に縫った袋は。

〈747〉あなたが贈ってくれた形見の着物を下に着て、じかに逢うまでどうして私は脱いだりしましょうか。

〈748〉恋焦がれて死んでしまうことは、人目を憚って逢えない苦しみと同じこと、どうして今さら、人目やの噂を煩わしく思って逢うのをためらったりするものですか。

〈749〉せめて夢にでもあなたが見えれば生きてもいられよう。これほど見えないということは、恋に死ねというのでしょうか。

〈750〉あなたへの思いが一度は断たれて、気が抜けたように暮らしていたものを、どうして私は、なまじ逢い始めてしまい、再び苦しい思いをしているのだろうか。

【説明】
 家持が、「坂上大嬢に贈る歌15首」のうちの5首。746の「言絶えて」は、言葉にできないほど。747はその人の身代わりとなる物。夫婦関係の者が別れている時に、形見として衣を贈り、贈られた衣を下に着ることは、当時はふつうのことでした。749の「夢にだに」は、夢にだけなりとも、の意。「見えこそあらめ」の「あらめ」は、生きてもいられよう、の意。750の「中々に」は、なまじっか、中途半端に、の意。

巻第4-751~755

751
相(あひ)見ては幾日(いくか)も経(へ)ぬを幾許(ここだ)くもくるひにくるひ思ほゆるかも
752
かくばかり面影(おもかげ)にのみ思ほえばいかにかもせむ人目(ひとめ)繁(しげ)くて
753
相(あひ)見てはしましも恋はなぎむかと思へどいよよ恋ひまさりけり
754
夜(よ)のほどろ我(わ)が出(い)でて来れば我妹子(わぎもこ)が思へりしくし面影(おもかげ)に見ゆ
755
夜(よ)のほどろ出(い)でつつ来(く)らく度(たび)数多(まね)くなれば我(あ)が胸(むね)断ち焼くごとし
 

【意味】
〈751〉逢瀬の日から幾日も経っていないのに、どうしてこれほど狂わんばかりに心が乱れるのだろうか。

〈752〉このように、面影にばかり見えて嘆いているのをどうしたらいいのか、人目が繁くてなかなか逢えないというのに。

〈753〉お逢いしたらしばらくは心が和むかと思ってみましたが、かえってますます恋しさが募ります。

〈754〉夜がほのぼのと明けるころ、別れて私が出てくるとき、名残惜しそうにしていたあなたの姿が面影に見えてなりません。

〈755〉夜が白み始めたころにお別れすることが度重なるにつれ、私の胸は名残惜しさに張り裂けそうです。

【説明】
 家持が、「坂上大嬢に贈る歌15首」のうちの5首。751の「幾許くも」は、甚だしく。753の「しましく」は、しばらく。「なぎむ」は、なごむ。754の「夜のほどろ」の「ほどろ」は、ほどく・ほとばしるの「ほと」と同根で、緊密な状態が散じて緩むことを表す語。『万葉集』では雪が完全に解けていない状態を表現していますが、ここでは、夜がほのぼのと明けるころ。「思へりしく」は「思へりし」に「く」を添えて名詞形にしたもの。次の「し」は強意。「面影」は、目に浮かぶ人の姿。見ようと思って見るものではなく、向こうから勝手にやってきて仕方がないもの。755の「来らく」は、「く」を添えて名詞形にしたもの。「我が胸断ち焼くごとし」は『遊仙窟』の語から引いています。

 741~755の「坂上大嬢に贈る歌15首」の題詞にまとめられた歌群は、741~745、746~750、751~755の3群に構成されており、それらが「夢の逢い」「現(うつつ)の逢い」「逢って後の恋」を主題として作られているとされます。1群と3群に『遊仙窟』の表現をふまえることで、全体に物語的な色合いを添えられています。窪田空穂は、「この中国の小説を重んずるのは一般の風であったとみえるが、家持は、父旅人についで、ことにその念が深かったことと思える」と言っています。

巻第4-765・767・768

765
一重(ひとへ)山隔れるものを月夜(つくよ)よみ門(かど)に出で立ち妹(いも)か待つらむ
767
都路(みやこぢ)を遠(とほ)みか妹(いも)がこのころは祈(うけ)ひて寝(ぬ)れど夢(いめ)に見え来(こ)ぬ
768
今知らす久迩(くに)の都に妹(いも)に逢はず久しくなりぬ行きて早(はや)見な
 

【意味】
〈765〉山一つ隔てて異郷の地にあるというのに、あまりによい月夜だから、愛しいあの人は今ごろ門口に立って私を待っていることだろう。
 
〈767〉都の道は遠く離れているせいか、いくら祈って寝ても、あなたは夢に出てきません。

〈768〉新たに天皇がお治めになる久邇の都にあり、あなたと逢えなくなって久しくなりました。行って早く顔が見たい。

【説明】
 天平12年8月、太宰少弐の藤原広嗣が、政界で急速に発言権を増す唐帰りの僧正玄昉と吉備真備を排斥するよう朝廷に上表しましたが、受容れられず、9月に筑紫で反乱を起こす事件が起きました。10月、都に異変が勃発するのを恐れた聖武天皇は避難のため東国へ出発し、伊賀・伊勢・美濃・近江を経て山背国に入り、12月15日に恭仁宮へ行幸、そこで新都の造営を始めました。家持は、内舎人として行幸に従っていました。

 ここの歌は、その恭仁京(くにのみやこ)に在って、奈良の都に留まる坂上大嬢を思って詠んだ歌です。恭仁京は天平17年5月まで帝都とされ、大嬢は、恭仁に都があったこの時期に家持の正妻になったとみられていますが、まだ新京に宅ができておらず、大嬢は奈良に留まっていました。765の「一重山」は、恭仁京と奈良の故京との間に奈良山が横たわっており、それをいったもの。767の「都路」は、奈良から恭仁京までの道。768の「知らす」は、お治めになる。「早見な」の「な」は、願望。
 
 なお、765の歌を聞いて、藤原郎女(ふじわらのいらつめ)が和した歌が766に載っています。藤原郎女は伝未詳で、坂上大嬢の養育にかかわっていた女性かともいわれます。

〈766〉道遠み来じとは知れるものからにしかぞ待つらむ君が目を欲り
 ・・・道が遠いのでとても来られないと分かっていながら、それでもお待ちになっていらっしゃるのでしょう、君にお目にかかりたくて。

巻第4-770~774

770
人目(ひとめ)多み逢はなくのみぞ心さへ妹(いも)を忘れて我(あ)が思はなくに
771
偽(いつは)りも似つきてぞする現(うつ)しくもまこと我妹子(わぎもこ)我(わ)れに恋ひめや
772
夢(いめ)にだに見えむと我(あ)れはほどけども相(あひ)し思はねばうべ見えずあらむ
773
言(こと)とはぬ木すらあじさゐ諸弟(もろと)らが練(ね)りのむらとにあざむかえけり
774
百千(ものち)たび恋ふと言ふとも諸弟(もろと)らが練(ね)りのことばは我(あ)れは頼(たの)まじ
 

【意味】
〈770〉人目が多いから逢いに行けないだけです。あなたから心が離れたわけではないのです。
 
〈771〉嘘でも本当らしく言うものです。あなたは本当に私に恋焦がれているのだろうか。

〈772〉せめて夢にでも見えてくれるだろうと、着物の紐をほどいて寝てみたけれど、私ほど思っていてくれないのだから、あなたの姿が見えないのはもっともです。

〈773〉物言わぬ木にさえ、紫陽花のように色の変わるものがある。そんな諸弟(もろと)の巧みな言葉にまんまとだまされてしまった。

〈774〉百度も千度もあなたが私に恋焦がれていると言っても、諸弟めのうまい言葉は、もう二度と当てにすまい。

【説明】
 恭仁京(くにのみやこ)から、坂上大嬢に贈った歌5首。大嬢が、時折は帰ってきてほしいと言ってきたことを踏まえる歌とされます。770の「人目多み」は、人目が多いので。771の「偽りも似つきてぞする」は、偽りを言うにも似つかわしく言うものだ。「現しく」は、正気で。772の「うべ」は、なるほど、もっともだ。773の「諸弟」は、二人の間を往復していた使者の名か。「練りのむらと」は、語義未詳。774の「頼まじ」は、信用しない。
 
 なお、ここまでの頻繁な相聞の合間には、家持と紀女郎(きのいらつめ)との、もっと深い関係を思わせるやり取りも挿まれており、これらの歌がもし時系列に載せられているものだとしたら、家持の恋愛事情もなかなかに複雑だったことが察せられます。

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巻第8-1624~1626

1624
我(わ)が蒔(ま)ける早稲田(わさだ)の穂立(ほたち)作りたる蘰(かづら)ぞ見つつ偲(しの)はせ我(わ)が背(せ)
1625
我妹子(わぎもこ)が業(なり)と作れる秋の田の早稲穂(わさほ)のかづら見れど飽(あ)かぬかも
1626
秋風の寒きこのころ下(した)に着む妹(いも)が形見(かたみ)とかつも偲(しの)はむ
 

【意味】
〈1624〉私が蒔いて育てた早稲田の稲穂でこしらえた蘰(かづら)をご覧になりながら、私のことをしのんで下さいね、あなた。
 
〈1625〉愛しいあなたが仕事で取り入れた秋の田の稲穂でこしらえた蘰は、いくら見ても見飽きることがありません。

〈1626〉秋風の寒さが身にしみるこのごろ、下に着て体をあたためましょう。そして、あなただと思うよすがにしましょう。

【説明】
 天平11年(739年)秋9月の贈答。1624は、坂上大嬢が稲で作った蘰(かずら)を家持に贈った時の歌。1625は、家持が答えた歌。1626は、大嬢が身に着けた衣を脱いで贈ってくれたのに家持が答えた歌。この時、家持は、坂上郎女のいる竹田の庄に招かれ、そこに一緒にいた坂上大嬢との歌の贈答が始まります。家持22歳、大嬢は10代後半の秋です。家持が「亡妾」への哀しみの歌(巻第3-462ほか)を詠んだのが、天平11年6月でしたから、それから3か月後に、生涯にわたり深い縁を結ぶこととなる女性と再会したのでした。
 
 1624の「蘰」は、草木の枝・花などを巻きつけて髪飾りにしたもの。「穂立」は、立ち揃った稲穂。「偲はせ」は「偲へ」の敬語で命令形。1625の「業」は、生業。「見れど飽かぬかも」は、最大の誉め言葉の成句。1626の「下に着む」は、下着として着ること。「形見」は、相手を偲ぶよすがとなる品のこと。「かつも」の「かつ」は一方で、「も」は強意。恋人同士や夫婦が下着を交換するのは、愛情を表現する当時の習俗だったとされます。

巻第8-1627~1628

1627
我(わ)が宿(やど)の時じき藤のめづらしく今も見てしか妹(いも)が笑(ゑ)まひを
1628
我(わ)が宿(やど)の萩(はぎ)の下葉(したば)は秋風もいまだ吹かねばかくぞもみてる
 

【意味】
〈1627〉私が家の庭に、季節はずれの藤が咲きました。珍しいその美しい藤のような、愛しいあなたの笑顔を、今すぐにも見たいものです。

〈1628〉我が家の庭の萩の下葉は、まだ秋風も吹かないのに、もうこんなに色づきました。

【説明】
 家持と坂上大嬢が竹田の庄で再会した翌年の天平12年(740年)夏6月、家持が季節はずれの藤の花と萩の黄葉をよじり折って、坂上大嬢に贈った歌。1627の上2句は「めづらしく」を導く序詞。「めづらしく」は、珍しく愛らしいものとして。1628の「みてる」は、色づいている。

巻第8-1629~1630

1629
ねもころに 物を思へば 言はむすべ 為(せ)むすべもなし 妹(いも)と我(あ)れと 手(て)携(たずさ)はりて 朝(あした)には 庭に出(い)で立ち 夕(ゆうへ)には 床(とこ)打ち払ひ 白栲(しろたへ)の 袖(そで)さし交(か)へて さ寝(ね)し夜(よ)や 常(つね)にありける あしひきの 山鳥(やまどり)こそば 峰(を)向かひに 妻問(つまど)ひすといへ うつせみの 人なる我(あ)れや 何すとか 一日(ひとひ)一夜(ひとよ)も 離(さか)り居(ゐ)て 嘆き恋ふらむ ここ思へば 胸こそ痛き そこ故(ゆゑ)に 心なぐやと 高円(たかまと)の 山にも野にも うち行きて 遊びあるけど 花のみ にほひてあれば 見るごとに まして偲(しの)はゆ いかにして 忘れむものそ 恋といふものを
1630
高円(たかまと)の野辺(のへ)の容花(かほばな)面影(おもかげ)に見えつつ妹(いも)は忘れかねつも
 

【意味】
〈1629〉つくづく物を思うと、何と言ってよいか、どうしてよいか分からない。あなたと私と手を取り合って、朝方には庭に降り立ち、夕方には床を清めては、袖を交わし合って共寝した夜が平常のことであっただろうか。あの山鳥は、谷を隔てた峰に向かって妻問いするというのに、人間である私は、何だって一日一夜を離れているだけで、あなたを思って嘆き恋うのか。これを思うと胸が痛い。心を慰めようと、高円の山や野に出かけて遊び歩くものの、花ばかりが美しく咲いていて、それを見るたびに、いっそう思いはつのる。いったいどうしたら忘れることができるのだろうか、この恋の苦しみを。

〈1630〉高円の野辺に咲くかお花を見ると、あなたの面影がちらついて、忘れようにも忘れられない。

【説明】
 家持が坂上大嬢に贈った歌。作歌の時期は不明で、すでに二人は夫婦関係になっているものの、同棲できない嘆きを訴えています。この時、家持は恭仁京におり、大嬢は平城京にいたようです。1629の「ねもころに」は、念入りに、ていねいに。「白栲の」は「袖」の枕詞。「あしひきの」は「山鳥」の枕詞。「うつせみの」は「人」の枕詞。「心なぐや」は、心を慰められるか。「高円」は、奈良市東南の高円山一帯。「にほひてあれば」は、美しく色づいているので。「偲はゆ」の「ゆ」は、自発。慕わしい気持ちになる。

 1630の「容花」はどの花であるか未詳で、昼顔、朝顔、杜若、むくげなどの説や、単に美しい花という説があります。『万葉集』に容花が詠まれた歌は4首あり、「貌花」とも書かれています。国語学者の大槻文彦が明治期に編纂した国語辞典『言海』によれば「かほ」とは「形秀(かたほ)」が略されたもので、もともとは目鼻立ちの整った表面を意味するといいます。「面影」は、目に浮かぶ人の姿。見ようと思って見るものではなく、向こうから勝手にやってきて仕方がないもの。

巻第8-1632

あしひきの山辺(やまへ)に居(を)りて秋風の日に異(け)に吹けば妹(いも)をしぞ思ふ 

【意味】
 こうして山辺に暮らしていて、日増しに秋風が吹いてくると、あなたのことが思われてなりません。

【説明】
 恭仁京から、奈良の家に留まっていた坂上大嬢に贈った歌。「あしひきの」は「山」の枕詞。「日に異に」は、日増しに。

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大伴の田村家の大嬢が妹の坂上大嬢に贈った歌

巻第4-756~759

756
外(よそ)に居(ゐ)て恋ふれば苦し我妹子(わぎもこ)を継ぎて相(あひ)見む事計(ことはか)りせよ
757
遠くあらばわびてもあらむを里近くありと聞きつつ見ぬがすべなさ
758
白雲(しらくも)のたなびく山の高々(たかだか)に我(あ)が思ふ妹(いも)を見むよしもがも
759
いかならむ時にか妹(いも)を葎生(むぐらふ)の汚(きた)なきやどに入(い)りいませてむ
 

【意味】
〈756〉離れて住んでいて恋い慕っているのは苦しい。あなたと絶えず逢うことができるように工夫してください。

〈757〉遠く離れて住んでいるのなら、あきらめてわびしく過ごせもしましょうが、この里の近くと聞いているのに逢えないのは、やるせないものです。

〈758〉白雲がたなびく山ほどに、高く爪先立つ思いで焦がれるあなたに逢えるすべはないものか。

〈759〉いつになったら、あなたを、むぐらの茂る、このむさ苦しい家にお迎えできましょうか。

【説明】
 大伴田村大嬢(おおとものたむらのおおいらつめ)が、別の邸に住んでいる異母妹の坂上大嬢に贈った歌。ともに大伴宿奈麻呂の娘で、田村大嬢は父と共に田村の里に、坂上大嬢は母の坂上郎女と共に坂上の里に住んでいたので、こう呼ばれました。田村の里は、奈良市法華寺町付近、または天理市田町ともいわれます。姉妹でありながら逢う機会のないことを嘆き、田村の家に来てほしいと言っていますが、坂上大嬢から田村大嬢への歌は残っていません。
 
 756の「継ぎて」は、続けて。「事計り」は、処置、対処。757の「わびてもあらむを」は、諦めてわびしく過ごせようが。758の上2句は「高々に」を導く序詞。「高々に」は、爪先立って待ち望むさま。「もがも」は、願望。「葎生」は、むぐら(つる草)の生えているところ。

巻第8-1449

茅花(つばな)抜(ぬ)く浅茅(あさぢ)が原(はら)のつほすみれ今盛りなり我(あ)が恋ふらくは 

【意味】
 茅花を抜き取る浅茅が原のつぼすみれは、いま真っ盛りです、私のあなたへの切ない思いのように。

【説明】
 大伴田村大嬢が、坂上大嬢に贈った歌。「茅花」は、イネ科の茅(ちがや)で、抜いて食用としました。上3句は「今盛りなり」を導く序詞。「つほすみれ」は、今のタチツボスミレ、あるいはスミレの名の原義が墨壺(墨入れ)に似ていることからきているので、スミレを強調してこう呼んだとの説もあります。田村大嬢の歌は『万葉集』に9首あり、そのすべてが坂上大嬢に贈った歌です。どの歌も、異母妹に対する愛情の深さが窺えます。

巻第8-1506

故郷(ふるさと)の奈良思(ならし)の岡の霍公鳥(ほととぎす)言(こと)告げ遣(や)りしいかに告げきや 

【意味】
 古京の奈良思の岡で鳴くホトトギスに言伝をしてやりましたが、どのように告げてくれたでしょうか。

【説明】
 大伴田村大嬢が、坂上大嬢に贈った歌。「故郷」は、以前住んでいた地、あるいは以前から関係のある地。。「奈良思の岡」は、竜田に近い所とされますが、所在未詳。「告げ遣りし」は、告げてやったのは。「告げきや」の「や」は、疑問。大嬢からのたよりがないのを恨んで贈った歌でしょうか。

巻第8-1622~1623

1622
我(わ)が宿(やど)の秋の萩咲く夕影(ゆふかげ)に今も見てしか妹(いも)が姿を
1623
我(わ)が宿(やど)にもみつ蝦手(かへるて)見るごとに妹(いも)を懸(か)けつつ恋ひぬ日はなし
 

【意味】
〈1622〉我が家の庭の秋萩が咲いているこの夕日の中で、今すぐにでも見たい、あなたの姿を。

〈1623〉我が家の庭で色づいているカエデを見るたび、あなたを心にかけて、恋しく思われない日はありません。

【説明】
 大伴田村大嬢が、坂上大嬢に贈った歌。1622の「てしか」は、願望。1623の「もみつ」は、紅葉する。「かへるて」は、カエデの古名。葉の形が蛙の手に似ているところからきています。ふつうは「紅葉(もみじ)」と呼んでいますが、『万葉集』では殆どの場合「黄葉」となっています。これは、古代には黄色く変色する植物が多かったということではなく、中国文学に倣った書き方だと考えられています。さらに「もみじ」ではなく「もみち」と濁らずに発音していました。「紅葉」と書くようになったのは平安期以降とされます。

  なお、『万葉集』の歌では、多く男性から親愛の情を込めて女性を呼ぶ呼称として用いられる「妹」ですが、元来は姉妹をさす親族名称であり、ここでの「妹」はその原義で用いられています。

巻第8-1662

淡雪(あわゆき)の消(け)ぬべきものを今までに流らへぬるは妹(いも)に逢はむとぞ 

【意味】
 淡雪のように消えてしまいそうな命なのに、こうして生きながらえているのは、あなたに逢いたい一心からです。

【説明】
 大伴田村大嬢が、坂上大嬢に贈った歌。「淡雪の」は「消ぬ」の枕詞。「淡雪」は、泡のように消えやすい雪。「ものを」は逆接。「今までに流らへぬるは」は、今まで生き続けているのは。田村大嬢が病中に詠んだものか、あるいはまた坂上大嬢が病気見舞に行った時に、相対していて詠んだ歌でしょうか。

 異母姉妹は離れて暮らす場合が多いので疎遠になるものですが、田村大嬢と坂上大嬢は、たいそう仲がよかったようです。作家の田辺聖子は、「仲よしの情を歌で表現すると、さながら恋歌のような体裁をとる。田村も坂上も、大伴一族の女性らしく歌才があった。才たけて美しい少女同士、互いにあこがれを抱き合っていたのかもしれない。のちに坂上大嬢は、家持の正妻となるが、まだ本物の恋にめぐりあっていないころ、姉妹は仲のいい相手に疑似恋愛をしていたのかもしれない」と述べています。

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大伴家持について
 

 718?~785年。大伴旅人の長男。万葉集後期の代表的歌人で、歌数も集中もっとも多く、繊細で優美な独自の歌風を残しました。
 少壮時代に内舎人・越中守・少納言・兵部大輔・因幡守などを歴任。天平宝字3年(759)正月の歌を最後に万葉集は終わっています。その後、政治的事件に巻き込まれましたが、中納言従三位まで昇任、68歳?で没しました。
 家持の作歌時期は、大きく3期に区分されます。第1期は、年次の分かっている歌がはじめて見られる733年から、内舎人として出仕し、越中守に任じられるまでの期間。この時期は、養育係として身近な存在だった坂上郎女の影響が見受けられ、また多くの女性と恋の歌を交わしています。
 第2期は、746年から5年間におよぶ越中国守の時代。家持は越中の地に心惹かれ、盛んに歌を詠みました。生涯で最も多くの歌を詠んだのは、この時期にあたります。
 第3期は、越中から帰京した751年から、「万葉集」最後の歌を詠んだ759年までで、藤原氏の台頭に押され、しだいに衰退していく大伴氏の長としての愁いや嘆きを詠っています。 

古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。

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万葉集の時代背景

万葉集の時代である上代の歴史は、一面では宮都の発展の歴史でもありました。大和盆地の東南の飛鳥(あすか)では、6世紀末から約100年間、歴代の皇居が営まれました。持統天皇の時に北上して藤原京が営まれ、元明天皇の時に平城京に遷ります。宮都の規模は拡大され、「百官の府」となり、多くの人々が集住する都市となりました。

一方、地方政治の拠点としての国府の整備も行われ、藤原京や平城京から出土した木簡からは、地方に課された租税の内容が知られます。また、「遠(とお)の朝廷(みかど)」と呼ばれた大宰府は、北の多賀城とともに辺境の固めとなりましたが、大陸文化の門戸ともなりました。

この時期は積極的に大陸文化が吸収され、とくに仏教の伝来は政治的な変動を引き起こしつつも受容され、天平の東大寺・国分寺の造営に至ります。その間、多大の危険を冒して渡航した遣隋使・遣唐使たちは、はるか西域の文化を日本にもたらしました。

ただし、万葉集と仏教との関係では、万葉びとたちは不思議なほど仏教信仰に関する歌を詠んでいません。仏教伝来とその信仰は、飛鳥・白鳳時代の最大の出来事だったはずですが、まったくといってよいほど無視されています。当時の人たちにとって、仏教は異端であり、彼らの精神生活の支柱にあったのはあくまで古神道的な信仰、すなわち森羅万象に存する八百万の神々をおいて他にはなかったのでしょう。

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万葉の植物

アジサイ
アジサイ(紫陽花)の原産は、日本で自生していたガクアジサイで、ヨーロッパで品種改良されて日本に渡って来たものが、西洋アジサイといわれる「手まり咲き」の紫陽花です。花の色は、土壌の性質や肥料などの影響で赤や青、紫などになり、そのような色素を持たないものは白い花になります。アジサイを詠んだ歌は『万葉集』では珍しく、わずか2首しかありません。

ウツギ
花が「卯の花」と呼ばれるウツギは、日本と中国に分布するアジサイ科の落葉低木です。 花が旧暦の4月「卯月」に咲くのでその名が付いたと言われる一方、卯の花が咲く季節だから旧暦の4月を卯月と言うようになったとする説もあり、どちらが本当か分かりません。ウツギは漢字で「空木」と書き、茎が中空なのでこの字が当てられています。

サネカズラ
常緑のつる性植物で、夏に薄黄色の花を咲かせ、秋に赤い実がたくさん固まった面白い形の実がなります。別名ビナンカズラといい、ビナンは「美男」のこと。昔、この植物から採れる粘液を男性の整髪料として用いたので、この名前がついています。

スミレ
スミレ科の多年草で、濃い赤紫色の可憐な花をつけ、日本各地の野原や山道に自生しています。スミレの名前は、花を横から見た形が大工道具の墨入れ(墨壺)に似ているからとされます。スミレ属は世界に約500種あり、そのうち約50種が日本に分布しています。

チガヤ
イネ科の草で、日当たりのよい場所に群生します。細い葉を一面に立て、白い穂を出します。新芽には糖分が豊富に含まれており、昔は食用にされていました。 チガヤの「チ」は千を表し、多く群がって生える様子から、千なる茅(カヤ)の意味で名付けられた名です。

ツユクサ
ツユクサ科の1年草で、道ばたなどでよく見られます。秋に可憐な青花を咲かせますが、朝に咲いて、昼過ぎにはしぼんでしまう短い命です。また、昔はツユクサで布を染めましたが、すぐに色褪せるため、移ろう恋心に例えられました。「月草」はツユクサの古名です。

ヌバタマ
アヤメ科の多年草。平安時代になると檜扇(ひおうぎ)と呼ばれるようになりました。花が終わると真っ黒い実がなるので、名前は、黒色をあらわす古語「ぬば」に由来します。そこから、和歌で詠まれる「ぬばたまの」は、夜、黒髪などにかかる枕詞になっています。

ハギ
マメ科の低木で、夏から秋にかけて咲く赤紫色の花は、古くから日本人に愛され、『万葉集』には141首もの萩を詠んだ歌が収められています。名前の由来は、毎年よく芽吹くことから「生え木」と呼ばれ、それが「ハギ」に変化したといわれます。

ヤブカンゾウ
中国北部が原産のススキノキ科の多年草で、初夏から夏にかけて濃いオレンジ色の花を咲かせます。ユリの花に似ており、以前はユリ科に分類されていましたが、DNA解析によって変更されました。結実はせず根で増えていくので、多く群生が見られます。古くから愛され、『万葉集』では「忘れ草」の名で登場します。

ヤブコウジ
『万葉集』では「山橘」と呼ばれる ヤブコウジは、サクラソウ科の常緑低木。別名「十両」。夏に咲く小さな白い花はまったく目立たないのですが、冬になると真っ赤な実をつけます。この実を食べた鳥によって、種子を遠くまで運んでもらいます。

『遊仙窟』

『遊仙窟』(ゆうせんくつ)は、中国唐代に書かれた伝奇小説で、作者は唐の張鷟(ちょうさく)と伝えられます。
 
ストーリーは、作者と同名の「張文成」なる主人公が、黄河の源流に使者となって行ったとき、神仙の岩窟に迷い込み、そこに住む崔十娘(さいじゅうじょう)と、その兄嫁王の五嫂(おうごそう)の二人の戦争未亡人に歓待を受けます。主人公は彼女らと情を交わし、一夜の歓を尽くしますが、明け方に外のカラスが騒がしくなり、情事が中途半端に終わらせられる、というもの。

本文の間に84首の贈答を主とする詩が挿入され、恋の手管(てくだ)が語られ、また会話には当時の口語が交じっています。唐代の伝奇小説の祖ともいわれますが、中国では早くから失われ、存在したという記録すら残っていません。日本には、遣唐使が帰途にこの本を買って帰ることによって伝来し、知識階級に愛読されました。

その影響は、大伴家持が坂上大嬢に贈った歌のなかにも見られ、山上憶良の『沈痾自哀文(ちんあじあいのぶん)』などにも引用されています。その他、『和漢朗詠集』『新撰朗詠集』『唐物語』『宝物集』などに引用され、江戸時代の滑稽本、洒落本にも影響を与えました。なお、後に魯迅によって日本から中国に再紹介されました。

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