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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

宴会の歌

巻第6-1011~1012

1011
我(わ)が宿(やど)の梅咲きたりと告げ遣(や)らば来(こ)と言ふに似たり散りぬともよし
1012
春さればををりにををり鴬(うぐひす)の鳴く我(わ)が山斎(しま)ぞやまず通はせ
  

【意味】
〈1011〉我が家の庭に梅が咲いたとお知らせすれば、お出で下さいと言っているようなものだ。散ってもどうということはないのに。

〈1012〉春になると枝がたわむばかりに梅の花が咲き、ウグイスが来て鳴く我が家の庭です。いつでも通って下さい。

【説明】
 天平8年(736年)冬12月12日に、歌儛所(かぶしょ)の諸王や臣下たちが、葛井連広成(ふじいのむらじひろなり)の家に集まって宴会をした時の歌2首。「歌儛所」は、歌舞音楽を掌る役所。前文に、広成による次のような言葉が載せられています。「近ごろ古い舞が盛んになっていますが、今年も暮れようとしています。当然、古い情をもって古い歌を歌うのがよいでしょう。ですからこの趣に寄せて古い歌を二つ献上します。もしこの中に風流で意気のある人がいたなら、競い合って思いを述べ、それぞれ古い歌に和してください」

 葛井広成(生没年不詳)は、渡来人系で、はじめ白猪史(しらいのふびと)を称し、養老3年(719年)に遣新羅使に任ぜられましたが、これを辞しています。翌年、葛井連(ふじいのむらじ)の姓を賜り、以後歴官して正五位上中務少輔に至りました。『万葉集』には、短歌3首(あと1首は巻第6-962)を残しています。
 
 1011の「宿」は、家の敷地、庭先。「告げ遣らば」は、使いに伝えさせたならば。「来と言ふに似たり」は、来いと言っているようなものだ。1012の「春されば」は、春になったならば。「ををり」は(枝が)撓み曲がる意。「ををりにををり」は、枝が撓むほどしきりに芽を出して生長する意ですが、ここでは花が咲き乱れるさま。「山斎」は、池や小山のある庭園。「通はせ」は通うの敬語で命令形で、客一同に言っています。なお、ここには広成の前文の言葉と歌があるのみで、客人たちが和した歌は載っていません。

 宴会は、もともとは神を招き迎える祭りに起源をもち、神の時間である夜に行われるものとされました。また、祭りの場に迎えた神の心を慰めるため、酒宴が開かれ、さまざまな歌舞音曲が演じられました。そのため、宴会は夜通し行われました。宴会は「遊び」の一つであり、宴会の担い手である遊女が「遊び」と呼ばれるのも、そこに理由があるとされます。 8世紀初頭の前後から、専門的な歌人だけでなく、一般の多くの官人が短歌づくりをたしなむようになると、宴席ではさかんに短歌が詠まれるようになりました。なお、当ページで「宴会の歌」という分類をしましたが、実は『万葉集』の多くの歌は「宴(うたげ)」で詠まれたものと考えられています。

巻第6-1013~1015

1013
あらかじめ君(きみ)来(き)まさむと知らませば門(かど)に宿(やど)にも玉敷かましを
1014
一昨日(をとつひ)も昨日(きのふ)も今日(けふ)も見つれども明日(あす)さへ見まく欲(ほ)しき君かも
1015
玉敷きて待たましよりはたけそかに来(きた)る今夜(こよひ)し楽しく思ほゆ
 

【意味】
〈1013〉前もってあなたがいらっしゃると分かっていれば、門にも庭にも玉を敷き詰めておいたのに。

〈1014〉一昨日、昨日、そして今日もお逢いしていますが、明日もまたお逢いしたいと思うあなたです。

〈1015〉玉を敷いて今か今かとお待ちするより、不意に来て下さった今夜の方が、かえって楽しく思われます。

【説明】
 天平9年(737年)春正月に、橘少卿(たちばなのしょうきょう)と諸大夫が弾正台の長官、門部王(かどべのおおきみ)の家に集まって宴会をした時の歌。橘少卿は、橘諸兄の弟。弾正台は、風俗を粛清し、役人の罪悪をただす機関。門部王は、長皇子の孫で、後に大原真人(おおはらのまひと)の姓を賜りました。

 1013は、主人の門部王の歌。「君」は橘少卿を指しています。「ませば~ましを」は反実仮想。「宿」は、家の敷地、庭先。1014は、少卿の子の橘宿祢文成(たちばなのすくねあやなり)の歌。1015は、榎井王(えのいのおおきみ)があとで追和した歌。榎井王は、志貴皇子の子。「待たましよりは」の「まし」は、仮想の助動詞。「たけそかに」は語義未詳ながら、歌の前後の関係から、突然に、不意に、の意ではないかとされます。「今夜し」の「し」は、強意。

巻第6-1016

海原(うなはら)の遠き渡りを風流士(みやびを)の遊ぶを見むとなづさひぞ来(こ)し 

【意味】
 広い海のはるばる遠い海路を、この国の風流人たちの遊ぶさまを見ようと、苦労しながらやって来ました。

【説明】
 天平9年(737年)春2月に、大夫たちが左少弁巨勢宿奈麻呂朝臣(さしょうべんこせのすくなまろあそみ)の家に集まって宴会したときの歌。左少弁は太政官左弁局の判官。巨勢宿奈麻呂は神亀5年(728年)に外従五位下、天平元年(729年)に、長屋王の糾問にあたった人。
 
 左注に「この一首は、白い紙に書いて部屋の壁に掛けた。その題に『蓬莱(ほうらい)の仙媛(やまびめ)が化身した嚢縵(ふくろかずら)は、風流秀才の士のためのものだ。これは凡俗の客の目には見えないだろう』という」旨の記載があり、主人の宿奈麻呂が作ったものとされます。「蓬莱の仙媛」は、常世の国に住む仙姫。「遠き渡り」の「渡り」は、航路。「風流士」は、風流を解する男子。「なづさひ」は、波にもまれ難渋しながら。憧れの存在である仙姫が、風流才子らの遊ぶさまを見ようと苦労してやって来たといって、集った客人らを喜ばせています。

巻第6-1041

我がやどの君(きみ)松の木に降る雪の行きには行かじ待ちにし待たむ 

【意味】
 我が家の庭の、貴方を待つという松の木に降る雪のように、むやみにお迎えには行きません、じっとお待ちすることにいたしましょう。

【説明】
 天平16年(744年)の春正月5日に、諸卿大夫(しょきょうだいぶ)が安倍虫麻呂朝臣(あべのむしまろあそみ)の家に集まって宴会をした歌。「卿」は三位以上、「大夫」は四位五位。安倍虫麻呂は、大伴坂上郎女の従姉弟にあたり、この歌は、播磨国守として赴任していた虫麻呂が、何らかの用事で都の邸に戻った時の宴で詠われたものです。作者名は記されていませんが、主人役の虫麻呂が、あいにくの雪に客人が来られるかどうかを危ぶんでいる歌とみられます。上3句は「行き」を導く序詞。女の立場で詠んでおり、「松」と「待つ」、「雪」と「行き」を掛けた言葉遊びになっています。

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巻第8-1581~1585

1581
手折(たを)らずて散りなば惜(を)しと我(あ)が思ひし秋の黄葉(もみち)をかざしつるかも
1582
めづらしき人に見せむと黄葉(もみちば)を手折(たを)りぞ我(わ)が来(こ)し雨の降らくに
1583
黄葉(もみちば)を散らす時雨(しぐれ)に濡(ぬ)れて来て君が黄葉(もみち)をかざしつるかも
1584
めづらしと我(あ)が思ふ君は秋山の初黄葉(はつもみちば)に似てこそありけれ
1585
奈良山の嶺(みね)の黄葉(もみちば)取れば散る時雨(しぐれ)の雨し間(ま)なく降るらし
  

【意味】
〈1581〉手折らずに散らしてしまうのは惜しいと思った秋の黄葉を、今日はこのようにかざしました。

〈1582〉珍しい方たちにお見せしようと、黄葉を手折って来ました。雨が降っているのも構わずに。

〈1583〉黄葉を散らす時雨に濡れながらやって参りましたが、その甲斐あって、あなたが手折って下さった黄葉をかざすことができました。

〈1584〉私がお慕い申し上げているあなた様は、秋の山に色づき始めた黄葉に、本当によく似ていらっしゃいます。

〈1585〉奈良山の嶺の黄葉は、手に取ればはらはらと散る。山には時雨が絶え間なく降っているのだろう。

【説明】
 天平10年(738年)10月17日、橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)が宴会を催したときの歌11首のうちの前半の5首。作者は、1581・1582が橘朝臣奈良麻呂。1583が久米女王(くめのおおきみ)、1584が長忌寸娘(ながのいみきのおとめ)、1585が内舎人(うちどねり)の県犬養宿祢吉男(あがたのいぬかいのすくねよしお)。橘奈良麻呂は諸兄の子で、この時17、8歳。

 雨の日の宴で、黄葉のかざしを用意してくれた奈良麻呂に対し、主賓の久米女王ほかの来客が挨拶歌を詠んでいます。「かざし」は、冠に挿し、あるいは髪に飾るもので、儀式や宴席で用いられていました。久米女王は生没年未詳ながら、奈良麻呂と同世代の皇女だったと想像されます。また、女王の歌に続けて長忌寸の娘の歌があり、会する10名のうちただ2人の女性であることから、長忌寸娘は女王の侍女だったかもしれません。

1581の「かざしつるかも」の「かも」は、詠嘆。1582の「降らく」は「降る」の名詞形。

巻第8-1586~1591

1586
黄葉(もみちば)を散らまく惜(を)しみ手折(たを)り来て今夜かざしつ何か思はむ
1587
あしひきの山の黄葉(もみちば)今夜(こよひ)もか浮かび行くらむ山川(やまがは)の瀬に
1588
奈良山をにほはす黄葉(もみち)手折(たを)り来て今夜(こよひ)かざしつ散らば散るとも
1589
露霜(つゆしも)にあへる黄葉(もみち)を手折(たを)り来て妹(いも)とかざしつ後(のち)は散るとも
1590
十月(かみなづき)時雨(しぐれ)にあへる黄葉(もみちば)の吹かば散りなむ風のまにまに
1591
黄葉(もみちば)の過ぎまく惜(を)しみ思ふどち遊ぶ今夜(こよひ)は明けずもあらぬか
  

【意味】
〈1586〉黄葉が散るのを惜しみ、手折ってきて今夜かざしにしました。もう思い残すことはありません。

〈1587〉この山の黄葉は、今夜もまた、はらはら散っては浮かんでいくことだろうか、この山川の瀬に。

〈1588〉奈良山を彩る黄葉を手折ってきて、今夜かざしにしました。もう散るなら散っても構わない。

〈1589〉露霜に当たって深く染まった黄葉を手折ってきて、妻とともにかざした。この散っても構わない。

〈1590〉十月の時雨にあった黄葉は、風が吹けば、風の吹くままに散ってしまうことだろう。

〈1591〉黄葉が散ってゆくのを惜しんで、気の合う者同士で遊ぶ今夜は、このまま明けずにいてくれないものか。

【説明】
 天平10年(738年)10月17日、橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)が宴会を催したときの歌11首のうちの後半の6首。作者は、1586が県犬養宿祢持男(あがたのいぬかいのすくねもちお)、1587が大伴宿祢書持(おおとものすくねふみもち:家持の弟)、1588が三手代人名(みてしろのひとな:伝未詳)、1589が秦許遍麻呂(はたのこへまろ:伝未詳)、1590が大伴宿祢池主(おおとものすくねいけぬし)、1591が内舎人の大伴宿祢家持。

 1586の「散らまく惜しみ」は、散ることが惜しいので。「何か思はむ」は、何を思うことがあろうか、思い残すことはない。1587の「あしひきの」は、山の枕詞。1588の「にほはす」は、美しい色に染める意。1590の「まにまに」は、なりゆきに任せて。1591の「過ぎまく」は「過ぎむ」の名詞形。「明けずもあらぬか」の「ぬか」は、打消の願望。

巻第19-4279~4281

4279
能登川(のとがは)の後(のち)には逢はむしましくも別るといへば悲しくもあるか
4280
立ち別れ君がいまさば磯城島(しきしま)の人は我(わ)れじく斎(いは)ひて待たむ
4281
白雪(しらゆき)の降り敷く山を越え行かむ君をぞもとな息(いき)の緒(を)に思ふ
 

【意味】
〈4279〉後にはお逢いできましょうが、しばらくの別れと分かっていても、やはり悲しいものですね。

〈4280〉別れてあなたが行かれたなれば、大和の国の人々は、私と同じように神にお祈りしてお待ちするでしょう。

〈4281〉白雪の降り敷く山を越えて行かれるあなたを、無性に息も絶えるばかりに思っています。

【説明】
 天平勝宝4年(752年)11月27日、林王(はやしのおおきみ)の家での、按察使(あんせつし)として但馬に出立する橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)朝臣の送別の宴の歌。按察使は地方行政の監察官のこと。橘奈良麻呂は諸兄の子で、但馬・因幡按察使に任じられ、あわせて伯耆・出雲・石見国などの非違を取り締まることを命じられたのでした。

 4279は、治部卿(じぶのきょう)船王(ふねのおおきみ)の歌。「能登川」は高円山と三笠山の間を流れ、佐保川に注ぐ細流。「能登川の」は「後」の枕詞。4280は、右京少進(うきょうのしょうしん)大伴宿祢黒麻呂(おおとものすくねくろまろ)の歌。「いまさば」は「行く」の尊敬語。「磯城島」は「大和」の意。「我れじく」は、自分と同じように。「斎ふ」は、神に祈って身を慎む。

 4281は、少納言大伴宿祢家持の歌。「もとな」は、無性に。「息の緒に」は、命を懸けて。なお、左注に「左大臣(橘諸兄)は、結句を換えた『息の緒にする』と言う。しかし、また取り消して『前の通りに詠め』と言った」との記載があり、諸兄も宴に同席していたことが分かります。また、このやり取りから、作歌に際しては先輩の評を受けての改作が行われていたことが窺えます。

 なお、この5年後の757年に諸兄が亡くなり、奈良麻呂は、権勢を強める藤原仲麻呂を排除しようとして失敗(橘奈良麻呂の乱)、あえなく獄死することとなります。また、この翌年に家持は因幡国守に左遷されてしまいますが、家持にとって、奈良麻呂が監察に向かう因幡国にやがて自分が赴任するとは、夢にも思わなかったでしょう。

巻第19-4282~4284

4282
言(こと)繁(しげ)み相(あひ)問はなくに梅の花雪にしをれてうつろはむかも
4283
梅の花咲けるが中にふふめるは恋や隠(こも)れる雪を待つとか
4284
新(あらた)しき年の初めに思ふどちい群れて居(を)れば嬉(うれ)しくもあるか
 

【意味】
〈4282〉人の噂がうるさいので訪問しないでいるうちに、梅の花と思うあの女は、雪に萎れるように散って、心変わりをするのではないかと思い、気が気ではない。

〈4283〉梅の花が咲いている中に、まだ蕾のものがあるのは、その内に恋が隠れているのだろうか、それとも雪を待って咲こうとしているのだろうか。

〈4284〉新しい年を迎え、気の合った者同士がこうして集まって過ごしているのは、何とも嬉しいことだ。

【説明】
 天平勝宝5年(753年)1月4日、治部少輔(じぶのしょうふ)石上朝臣宅嗣(いそのかみのあそみやかつぐ)の家で宴をした歌。治部少輔は、治部省の次官。石上宅嗣は中納言・乙麿の子で、昇進して正三位大納言となり、また、私宅に芸亭(うんてい)という多数の漢籍を置いた書庫を設け、公開したとして名高い人です。芸亭は、日本で最初の図書館ともいわれます。

 4282は、主人の石上宅嗣の歌。「言繁み」は、人の噂がうるさいので。「梅の花」は、女性の譬喩。「うつろふ」は、花が散る、心変わりする意。4283は、中務大輔(なかつかさのたいふ)茨田王(まんだのおおきみ)の歌。中務大輔は中務省の次官。「ふふめる」は、蕾でいる。「恋や」の「や」は、疑問。梅の花を女性に、雪を男性に譬えています。4284は、大膳大夫(だいぜんのだいぶ)道祖王(ふなどのおおきみ)の歌。大膳大夫は、天皇の食事や宮廷の食糧調達を掌る役所の長官。「思ふどち」は、気の合った者同士。「い群れて」の「い」は、接頭語。

 なお、道祖王は天武天皇の孫にあたる人で、この時は30代前後。その3年後に、聖武上皇の遺詔によって孝謙天皇の皇太子に立てられましたから、王としては意気軒高の時期だったかもしれません。しかし、聖武上皇が崩ずると、たちまち廃せられ、翌年の橘奈良麻呂の乱に連座したとして処刑されてしまいます。ここの歌が詠まれ、意気高く仲間と杯をあげた時には、そんな非常な運命が待ち受けているとは予想もしなかったことでしょう。爛熟したかのようにみえる天平の世ですが、一方では陰謀と疑心暗鬼が渦巻く苛烈な時代でもありました。

巻第20-4302~4303

4302
山吹(やまぶき)は撫(な)でつつ生(お)ほさむありつつも君(きみ)来(き)ましつつ挿頭(かざ)したりけり
4303
我(わ)が背子(せこ)が宿(やど)の山吹(やまぶき)咲きてあらばやまず通はむいや年の端(は)に
 

【意味】
〈4302〉この山吹は撫でながら大切に育てましょう。私は生き長らえつつ、わが君はいらっしゃりつつ、髪飾りになさっておられるのだから。

〈4303〉あなたの庭の山吹がいつもこんなに美しく咲いているのなら、やまずに通って来ましょう、来る年も来る年も。

【説明】
 天平勝宝5年(753年)3月19日、家持の荘園の槻(けやき)の木の下で宴飲(うたげ)をした時の歌。上代には、樹下で酒宴をするのは習わしとなっており、多くの例があります。4302は、置始連長谷(おきそめのむらじはつせ)の歌。長谷は荘園の番人ではないかとされます。「撫でつつ生ほさむ」は、撫でながら育てよう。「ありつつも」は、生き長らえつつも。4303は、長谷が花を折り取り、酒壺を提げてやって来たので、家持が作った歌。「宿」は、家の敷地、庭先。「年の端」は、毎年。

巻第20-4472~4473

4472
大君(おほきみ)の命(みこと)畏(かしこ)み於保(おほ)の浦(うら)をそがひに見つつ都(みやこ)へ上る
4473
うちひさす都の人に告げまくは見し日のごとくありと告げこそ
 

【意味】
〈4472〉大君の仰せを承って、於保の浦を背後に見ながら都へ上って行く。

〈4473〉上京されたら都の人に告げて下さるなら、前にお逢いした日と変わらずにいると伝えて下さい。

【説明】
 天平勝宝8年(756年)11月8日、讃岐守(さぬきのかみ)安宿王(あすかべのおおきみ)らが、出雲掾(いずものじょう:出雲国の三等官)安宿奈杼麻呂(あすかべのなどまろ)の家に集まって宴会をしたときの歌。安宿王は長屋王の子。729年に起こった長屋王の変では、母が藤原不比等の娘であったことから同母弟の黄文王・山背王とともに罪を免れましたが、757年の橘奈良麻呂の乱に加わり、佐渡に流されました。

 4472は、安宿奈杼麻呂が朝集使に任命され、都に出立する際の別れを惜しむ心を詠んだ歌。「朝集使」は、諸国の国司から一年間の管内の行政報告をしるした文書を太政官に提出する使いのこと。「於保の浦」は所在未詳ながら、出雲の国庁近くの浦か。「そがひ」は、後方。4473は、安宿王の弟の出雲守・山背王(やましろのおおきみ)が奈杼麻呂に贈った歌。この翌年に起きた橘奈良麻呂の反乱を朝廷に密告した功績で出世。「うちひさす」は「都」の枕詞。「告げまく」は「告げむ」の名詞形。「告げこそ」の「こそ」は、願望の助詞。
 
 なお、この歌の次に、兵部少輔(ひょうぶのしょうふ)大伴宿祢家持が、後日、出雲守山背王の歌に追和して作ったという歌が載っています。

〈4474〉群鳥(むらとり)の朝立ち去(い)にし君が上はさやかに聞きつ思ひしごとく
 ・・・群鳥のように、朝早く旅立って行かれたあなたのご様子は、はっきりと聞きました。思っていたように無事であると。

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巻第20-4488~4491

4488
み雪降る冬は今日(けふ)のみ鴬(うぐひす)の鳴かむ春へは明日(あす)にしあるらし
4489
うち靡(なび)く春を近みかぬばたまの今夜(こよひ)の月夜(つくよ)霞(かす)みたるらむ
4490
あらたまの年行き返(がへ)り春立たばまづ我(わ)が宿(やど)に鴬(うぐひす)は鳴け
4491
大き海の水底(みなそこ)深く思ひつつ裳引(もび)き平(なら)しし菅原(すがはら)の里
 

【意味】
〈4488〉雪の降る冬は今日が限り。ウグイスが鳴く春は、もう明日に迫っているに違いない。

〈4489〉春が近いからか、今夜の月には霞がかっているようだ。

〈4490〉年が改まって春がやってきたら、まっ先に、我が家の庭に来てウグイスよ鳴け。

〈4491〉大海の海底のように深くあなたを思いながら、裳を長く引いて楽しく歩いて住んだ、あの菅原の里よ。

【説明】
 天平宝字2年(757年)12月18日、大監物(だいけんもつ)三形王(みかたのおおきみ)の家で宴会をしたときの歌。「大監物」は、官物出納を司る中務省監物の長官、従五位下相当。三形王は系譜未詳、舎人親王の孫か。
 
 4488は、主人の三形王の歌。「春へ」の「へ」は、大体そのころの意。「あるらし」の「らし」は、確かな根拠に基づく推定。違いない。この宴会当日は節分に当たっており、明日が立春ということで、年のうちに春になったのでした。4489は、大蔵大輔(おおくらのだいふ)甘南備伊香真人(かむなびのいかごまひと)の歌。「大蔵大輔」は、大蔵省の次官、正五位下相当。甘南備伊香真人は、はじめ伊香王で臣籍降下した人。「うち靡く」は「春」の枕詞。「春を近みか」は、春が近いからか。「ぬばたまの」は「夜」の枕詞。「月夜」は月。4490は、右中弁(うちゅうべん)大伴家持の歌。「右中弁」は、太政官所属の右弁官局の次官、正五位上相当。「あらたまの」は「年」の枕詞。「行き返り」は、年月や季節があらたまること。

 4491は、左注に「藤原宿奈麻呂朝臣の妻、石川女郎が夫の愛が薄れ離別させられ、悲しみ恨んで作った。年月は未詳」の旨の記載があり、家持が披露した歌のようです。藤原宿奈麻呂(ふじわらのすくなまろ)は藤原宇合の子で、奈良朝の政争に数多く参加したのち内大臣にまで昇った人物、石川女郎は未詳(他に出ている石川女郎または石川郎女とは別人)。「大き海の水底」は、譬喩として「深く」を導く序詞。「裳引き平す」は、裳の裾を後ろへ長く引いて地面が平らになるほど頻繁に往き来する意。「菅原の里」は、奈良市菅原町の一帯。

巻第20-4496~4500

4496
恨(うら)めしく君はもあるか宿(やど)の梅の散り過ぐるまで見しめずありける
4497
見むと言はば否(いな)と言はめや梅の花散り過ぐるまで君が来まさぬ
4498
はしきよし今日(けふ)の主人(あるじ)は礒松(いそまつ)の常(つね)にいまさね今も見るごと
4499
我(わ)が背子(せこ)しかくし聞こさば天地(あめつち)の神を乞(こ)ひ祷(の)み長くとぞ思ふ
4500
梅の花(はな)香(か)をかぐはしみ遠けども心もしのに君をしぞ思ふ
 

【意味】
〈4496〉何と恨めしいお方であることか。お庭の梅が散りすぎるまで、見せて下さらなかったとは。

〈4497〉見たいと言ってくだされば、否と言うはずがありません。梅の花が散りすぎるまで、あなたがおいでにならなかっただけです。

〈4498〉慕わしい今日のご主人は、お庭の磯の松のようにいつも変わらずいて下さい。今こうして拝見しているままに。

〈4499〉あなたがそんなにおっしゃって下さるのなら、天地の神々に祈って、長生きしようと思います。

〈4500〉お庭の梅の花の香り高さに、遠く離れていますが、心一途にあなたのことをお慕いしています。

【説明】
 天平宝字2年(758年)2月、式部大輔(しきぶのだいぶ)中臣清麻呂朝臣(なかとみのきよまろあそみ)の家で宴会をしたときの歌15首のうちの5首。式部大輔は、式部省の次官。清麻呂は、その後の宝亀2年(771年)に右大臣従二位、同3年に正二位にまで昇任した人です。朝廷の儀式のことをよく知る老臣であり、高位の官職にあって、年老いても精勤で怠ることがなかったといいます。そんな清麻呂を敬愛する家持をはじめとした文雅の士が、平城京右京二坊二条(平城京の西南)にある邸宅に集まりました。ときに、清麻呂57歳、家持は41歳だったとされます。
 
 4496は、治部少輔(じぶのしょうふ)大原今城真人(おおはらのいまきまひと)の歌。治部少輔は、治部省の二等官。「君はもあるか」の「君」は清麻呂のこと、「か」は感動の助詞。「見しめ」の「しめ」は、使役の助動詞。4497は、それに応じた主人の中臣清麻呂の歌。「否と言はめや」の「や」は、反語。「来まさぬ」の「来ます」は、おいでになる、「ぬ」は打消・連体形。列席者の中でいちばん身分の低い今城が最初に歌っており、しかも主人を「恨めしい」といって咎めているのは興味深いところです。

 4498は、右中弁(うちゅうべん)大伴家持の歌。右中弁は、太政官右弁官局の次官。「はしきよし」は、ああ慕わしい。「磯松」は、磯の上に生えている松。おそらく清麻呂の邸宅の庭には池があり、その池に岩が配されて、松が植えられていたと見られます。4499は、それに答えた主人の中臣清麻呂の歌。「聞こさば」は「言はば」の敬語で、おっしゃってくださるのなら。「乞ひ祷み」は、神仏に身の無事を乞い祈って。この宴は、清麻呂の長寿を寿ぐ宴会だったのかもしれません。

 4500は、治部大輔(じぶのだいふ)市原王(いちはらのおおきみ)の歌。治部大輔は、治部省の次官。上2句は、梅の花の香りがよいので遠くまで匂う意で、「遠けども」を導く序詞。「心もしのに」は、心も萎えるほど一途に。梅の香に寄せて主人の徳を賛美している歌で、『万葉集』には「梅の花」を詠んだ歌は数多くありますが、「梅の香」を詠んだのは唯一の例だといいます。

巻第20-4501~4505

4501
八千種(やちくさ)の花は移ろふ常盤なる松のさ枝(えだ)を我(わ)れは結ばな
4502
梅の花咲き散る春の長き日を見れども飽(あ)かぬ礒(いそ)にもあるかも
4503
君が家(いへ)の池の白波(しらなみ)礒(いそ)に寄せしばしば見とも飽(あ)かむ君かも
4504
うるはしと我(あ)が思(も)ふ君はいや日異(ひけ)に来ませ我(わ)が背子(せこ)絶ゆる日なしに
4505
礒(いそ)の浦に常(つね)呼(よ)び来(き)住(す)む鴛鴦(をしどり)の惜(を)しき我(あ)が身は君がまにまに
 

【意味】
〈4501〉さまざまの花は移ろうものですが、不変である松の木の枝を、私は結ぼうと思います。

〈4502〉梅の花がしきりに散っていく春の長い一日、ずっと見ていても見飽きない、お庭の池の磯です。

〈4503〉あなたのお庭の池に、白波がしばしば磯に寄せるように、繰り返しお逢いしても、見飽きるようなお方ではありません。

〈4504〉すばらしいと私が思っているあなた方は、毎日でもお越しください。絶える日などないように。

〈4505〉お池の磯の浦で、いつも呼び合いながらやって来て住むおしどりではないが、その惜しい命はあなたのお心のままです。

【説明】
 上に続き、式部大輔(しきぶのだいぶ)中臣清麻呂朝臣(なかとみのきよまろあそみ)の家で宴会をしたときの歌15首のうちの5首。4501は、大伴家持の歌。「八千種」は、多くの種類。「移ろふ」は、花が散る。市原王の歌を受けて、「花というものは移ろうものであり、私は永遠に移ろうことのない松の枝を結んで、清麻呂様のご長寿をお祈りします」と切り返しています。4502は、大蔵大輔(おおくらのだいふ)甘南備伊香真人(かむなびのいかごまひと)の歌。「磯」は、池のほとりの岩。家持が採り上げた松に対し、もっと不変な磯(岩)を歌っています。4503は、これを受けた家持が「ならば」と歌った歌。上3句は「しばしば」を導く序詞。各自が競って清麻呂の長寿を寿ぎ、まるで、その寵愛を競っているかのようです。

 4504は、ご満悦の清麻呂の歌。「いや日異に」は、日ごとに。4505は、再び大原今城真人の歌。上3句は「惜しき」を導く序詞。梅から始まった話題が、磯(岩)から池、波などに移っていくのを受けて、最後には「一命を預けるお方は、清麻呂様しかございません」とまで言っています。諧謔味のあるセリフに、気の置けない同士たちとの楽しい宴会のひとときが目に浮かぶようです。

 もっとも、この時期の朝廷は、藤原仲麻呂が内相として政権を牛耳っていた時であり、その中、清麻呂は、宴に参加した人たちからは全幅の信頼を得ていた人とみえます。4501の家持の歌には、仲麻呂の専横を憎みながらも、奈良麻呂の変で身を滅ぼした人のように過激な行動には出ず、中道を歩み、命長らえて悪の自滅を待とうという意が込められているとする見方がありますが、如何でしょう。

 ここまでが第1ラウンドであり、この続きの5首についてはこちら(4506~4510)

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宴席のありかた
 当時の宴には一定の約束があり、原則として主人(あるじ)と正客(主賓)がいて、他の客はいわば正客のお相伴にあずかるような形でした。そして、基本的に宴は夜通し行われました。このような宴のありかたは、その起源と関係しています。宴の起源は神祭りであり、神を迎えて神に饗応するところに祭りの本質がありました。宴の正客は、祭りの場に迎える神に対応し、主人は祀り手の位置に重ねられています。宴が夜通し行われるのも、祭りのありかたを踏襲するからです。
 宴の次第についても原則があったらしく、主人が歓迎の言葉を述べ、客もまた招かれたことへの感謝の意を表します。酒杯の取り交わしにも、それぞれの挨拶が求められ、宴が果てれば、もてなしに対する礼と辞去の言葉が客から、また引き留めの言葉が主人から述べられます。客は名残を惜しみつつ帰途につくことになります。それらの挨拶は、歌をともなうのが通例でした。

古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。

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平城京

710年に藤原京から遷都された平城京のモデルになったのは、唐の都である長安だったとされます。都の範囲は東西約4.3km、南北約4.8km にわたり、外京を加えた総面積は約2,500haに及びます。

平城京の中心は、政治・儀式の場である大極殿・朝堂院、天皇の住居である内裏、役所の日常的業務を行う官衙や宴会を行う庭園など、都を治める官公庁が集まった平城宮でした。周囲には大垣がめぐらされ、朱雀門をはじめ12の門が置かれました。平城宮に入ることができたのは、皇族や貴族、役人や使用人など、ごく限られた人々でした。

都の南端にある羅城門から朱雀門までまっすぐ伸びるメインストリートの朱雀大路は、幅72m、2番目に広い二条大路でも38mにも及ぶ規模でした。その両側に貴族たちの邸があり、唐招提寺、薬師寺、大安寺といった大寺の屋根がのぞめます。そうした道を、貴族や高級官僚の男女が往き来していました。

平城京の当時の人口は5万~10万といわれています。そのうち貴族と高級官人は150人くらい、中下級官人は7千~8千人くらい、そしてその家族たち。あとは商人や職人、農民等の庶民たちでした。そして、短歌を楽しんだのは貴族、高級官人、中下級官人とその家族たちのみです。

万葉時代の年表

629年
舒明天皇が即位
古代万葉を除く万葉時代の始まり
630年
第1回遣唐使
645年
大化の改新
652年
班田収授法を制定
658年
有馬皇子が謀反
660年
唐・新羅連合軍が百済を滅ぼす
663年
白村江の戦いで敗退
664年
大宰府を設置。防人を置く
667年
大津宮に都を遷す
668年
中大兄皇子が即位、天智天皇となる
670年
「庚午年籍」を作成
671年
藤原鎌足が死去
天智天皇崩御
672年
壬申の乱
大海人皇子が即位、天武天皇となる
680年
柿本人麻呂歌集の七夕歌
681年
草壁皇子が皇太子に
686年
天武天皇崩御
大津皇子の変
689年
草壁皇子が薨去
690年
持統天皇が即位
694年
持統天皇が藤原京に都を遷す
701年
大宝律令の制定
708年
和同開珎鋳造
このころ柿本人麻呂死去か
710年
平城京に都を遷す
712年
『古事記』ができる
716年
藤原光明子が首皇子(聖武天皇)の皇太子妃に
718年
大伴家持が生まれる
720年
『日本書紀』ができる
723年
三世一身法が出される
724年
聖武天皇が即位
726年
山上憶良が筑前守に
727年
大伴旅人が大宰帥に
729年
長屋王の変
731年
大伴旅人が死去
733年
山上憶良が死去
736年
遣新羅使人の歌
737年
藤原四兄弟が相次いで死去
740年
藤原広嗣の乱
恭仁京に都を移す
745年
平城京に都を戻す
746年
大伴家持が越中守に任じられる
751年
家持、少納言に
越中国を去り、帰京
752年
東大寺の大仏ができる
756年
聖武天皇崩御
754年
鑑真が来日
755年
家持が防人歌を収集
757年
橘奈良麻呂の変
758年
家持、因幡守に任じられる
759年
万葉終歌

万葉の植物

ウツギ
花が「卯の花」と呼ばれるウツギは、日本と中国に分布するアジサイ科の落葉低木です。 花が旧暦の4月「卯月」に咲くのでその名が付いたと言われる一方、卯の花が咲く季節だから旧暦の4月を卯月と言うようになったとする説もあり、どちらが本当か分かりません。ウツギは漢字で「空木」と書き、茎が中空なのでこの字が当てられています。

ウメ
バラ科の落葉低木。中国原産で、遣唐使によって 日本に持ち込まれたと考えられています(弥生時代に渡ってきたとの説も)。当時のウメは白梅だったとされ、『万葉集』では萩に次いで多い119首が詠まれています。雪や鶯(うぐいす)と一緒に詠まれた歌が目立ちます。

オミナエシ
秋の七草のひとつに数えられ、小さな黄色い花が集まった房と、枝まで黄色に染まった姿が特徴。『万葉集』の時代にはまだ「女郎花」の字はあてられておらず、「姫押」「姫部志」「佳人部志」などと書かれていました。いずれも美しい女性を想起させるもので、「姫押」は「美人(姫)を圧倒する(押)ほど美しい」意を語源とする説があります。

ナデシコ
ナデシコ科の多年草(一年草も)で、秋の七草の一つで、夏にピンク色の可憐な花を咲かせ、我が子を撫でるように可愛らしい花であるところから「撫子(撫でし子)」の文字が当てられています。数多くの種類があり、ヒメハマナデシコとシナノナデシコは日本固有種です。

ヌバタマ
アヤメ科の多年草。平安時代になると檜扇(ひおうぎ)と呼ばれるようになりました。花が終わると真っ黒い実がなるので、名前は、黒色をあらわす古語「ぬば」に由来します。そこから、和歌で詠まれる「ぬばたまの」は、夜、黒髪などにかかる枕詞になっています。

モミジ
「もみじ」は具体的な木の名前ではなく、赤や黄色に紅葉する植物を「もみじ」と呼んでいます。現代では「紅葉」と書くのが一般的ですが、『万葉集』では殆どの場合「黄葉」となっています。これは、古代には黄色く変色する植物が多かったということではなく、中国文学に倣った書き方だと考えられています。さらに「もみじ」ではなく「もみち」と濁らずに発音していたようで、葉が紅や黄に変色する意味の動詞「もみつ」から生まれた名だといいます。

ヤナギ
ヤナギ科の樹木の総称で、ふつうに指すのは落葉高木のシダレヤナギです。。細長い枝がしなやかに垂れ下がり、春早く芽吹くので、生命力のあるめでたい木とされます。シダレヤナギに「柳」の字を使い、ネコヤナギのように上向かって立つヤナギには「楊」を用いて区別することもあります。

ヤブコウジ
『万葉集』では「山橘」と呼ばれる ヤブコウジは、サクラソウ科の常緑低木。別名「十両」。夏に咲く小さな白い花はまったく目立たないのですが、冬になると真っ赤な実をつけます。この実を食べた鳥によって、種子を遠くまで運んでもらいます。

ヤマブキ
バラ科の落葉低木。山野でふつうに見られ、春の終わりごろにかけて黄金色に近い黄色の花をつけます。そのため「日本の春は梅に始まり、山吹で終わる」といわれることがあります。 万葉人は、 ヤマブキの花を、生命の泉のほとりに咲く永遠の命を象徴する花と見ていました。ヤマブキの花の色は黄泉の国の色ともされます。

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