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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

大伴家持の歌(巻第20)

巻第20-4297

をみなへし秋萩(あきはぎ)しのぎさを鹿(しか)の露(つゆ)別(わ)け鳴かむ高円(たかまと)の野ぞ

【意味】
 おみなえしや秋萩を踏みしだき、牡鹿が露を散らして鳴き立てる季節なのだろう、ここ高円の野は。

【説明】
 天平勝宝5年(753年)8月12日に、2、3人の大夫らがそれぞれ壺酒を提げて高円の野に登り、思いを述べて作った歌の中の家持の歌。「高円の野」は、奈良の高円山山麓の野で、官人たちの有楽地でした。「しのぎ」は、踏みつけて、押し分けて進み。「さを鹿」の「さ」は、接頭語。なお、同行した2人の歌も載っています。

〈4295〉高円の尾花(をばな)吹き越す秋風に紐(ひも)解き開(あ)けな直(ただ)ならずとも
 ・・・高円のすすきの穂に吹いてくる秋風に、さあ着物の紐を解いてくつろぎましょう、いい人にじかに逢うのではないけれど。~大伴池主

〈4296〉天雲(あまくも)に雁(かり)ぞ鳴くなる高円の萩の下葉(したば)はもみちあへむかも
 ・・・天雲の彼方に雁が鳴く声が聞こえる。ここ高円の萩の下葉は美しく紅葉に染まるだろうか。~中臣清麻呂

 中臣清麻呂は家持より16歳年上で、史書には、清く慎み深く尽力し、朝廷の儀式や書籍に精通したと伝えられる人です。天平宝字6年(762年)に参議となって後、中納言、大納言を経て右大臣となって政務を担当。清麻呂が右大臣だったころの宝亀11年(780年)に家持は参議に加わっており、晩年の家持が政界中枢へ復帰できた背景には、清麻呂の存在が大きかったのではないかといわれます。

巻第20-4304~4305

4304
山吹(やまぶき)の花の盛りにかくのごと君を見まくは千年(ちとせ)にもがも
4305
木(こ)の暗(くれ)の茂(しげ)き峰(を)の上(へ)を霍公鳥(ほととぎす)鳴きて越ゆなり今し来(く)らしも
 

【意味】
〈4304〉山吹の花の盛りの時に、このように我が君にお目にかかることは、千年の先まで続いてほしいものです。

〈4305〉木々のうっそうと繁る峰の上を、ホトトギスが鳴きながら越えている。今にもこちらまでやって来そうだ。

【説明】
 4304は、同じ月に左大臣橘諸兄が山田御母(やまだのみおも:孝謙天皇の乳母)の宅で宴を開いたときに、家持が時の花を観て作った歌。ただし、差し出さないうちに大臣が宴を終了したので、誦詠しなかった、とあります。「もがも」は、願望。4305は、4月に霍公鳥を詠んだ歌。「木の暗」は、木が茂って暗いところ。「今し」の「し」は強意。「来らしも」の「らし」は、確かな根拠にもとづく推定。「も」は詠嘆。

 4305について斎藤茂吉は、「気軽に作った独詠歌だが、流石に練れていて旨いところがある。それは、『鳴きて越ゆなり』と現在をいって、それに主点を置いたかと思うと、おのずからそれに続くべき、第二の現在『今し来らしも』と置いて、一首の一番大切な感慨をそれに寓せしめたところが旨いのである」と評しています。また、やや自在境に入りかかっている、とも。

 この年の4月5日に新人事の発表があり、従五位上の家持は兵部少輔(ひょうぶのしょうふ)に任命されました。兵部少輔は、武官人事や兵馬、兵器、駅制など軍政全般を管轄する兵部省の卿・大輔に次ぐ官職です。このころは、序列3位の大納言・藤原仲麻呂が発言権を強めていた時期にあたりますが、いまだ最上位に左大臣の橘諸兄がおり、参議に橘奈良麻呂、藤原八束が名を連ねるなど、家持をとりまく政治環境は維持されていました。

巻第20-4306~4309

4306
初秋風(はつあきかぜ)涼しき夕(ゆふへ)解(と)かむとぞ紐(ひも)は結びし妹(いも)に逢はむため
4307
秋と言へば心ぞ痛きうたて異(け)に花になそへて見まく欲(ほ)りかも
4308
初尾花(はつをばな)花に見むとし天の川 隔(へな)りにけらし年の緒(を)長く
4309
秋風に靡(なび)く川傍(かはび)の和草(にこぐさ)のにこよかにしも思ほゆるかも
  

【意味】
〈4306〉初めて秋風の吹く七日の夕方になったら解こうと誓い、この着物の紐を固く結んだのだった。彼女にまた逢うために。

〈4307〉秋と言えば心が痛む。花を見るとなぜかしら、あなたになぞらえて逢いたくなるからだろうか。

〈4308〉いつも花のように新鮮な気持ちで逢おうと、天の川を隔てて住んでいるらしい、一年もの長い間。
 
〈4309〉秋風になびく川辺の和草(にこぐさ)ではないが、待ちに待った時が来たかとにこやかな気分がこみあげてくる。

【説明】
 天平勝宝6年(749年)7月7日に詠んだ「七夕」の歌8首のうちの4首。4307の「うたて異に」は、なぜかいよいよ。「なそへて」は、なぞらへて。4308は、1年に一度しか逢えない残念さを、むしろ「ずっと新鮮な気持ちでいられる」とポジティブに捉えて詠んでいます。「初尾花」は、薄の初めて穂に出たもので「花」の枕詞。「花に見むとし」の「し」は強意。「年の緒」は、年の長く続くことを緒に喩えた語。ここでは逢瀬までの月日。
 
 4309の上3句は「にこよか」を導く序詞。「和草」は何を指すのか分かっていませんが、単に柔らかい草のことではないかともいわれます。「にこよかにしも」の「にこよか」は、にこやかと同じ。「しも」は、強意の助詞。

巻第20-4310~4313

4310
秋されば霧(きり)立ちわたる天の川 石並(いしなみ)置かば継(つ)ぎて見むかも
4311
秋風に今か今かと紐(ひも)解きてうら待ち居(を)るに月かたぶきぬ
4312
秋草(あきくさ)に置く白露(しらつゆ)の飽(あ)かずのみ相(あひ)見るものを月をし待たむ
4313
青波(あをなみ)に袖(そで)さへ濡(ぬ)れて漕(こ)ぐ舟のかし振るほとにさ夜更(よふ)けなむか
  

【意味】
〈4310〉秋になると霧が一面に立ちこめる天の川、ここに飛び石を並べれば、毎夜続けて逢えるのに。

〈4311〉秋風の吹かれながら、今か今かと着物の紐を解いて心待ちしているうちに、月が傾いてきた。

〈4312〉秋草に輝く白露のように飽きもしない美しいあなたを相見られる。今夜の月の出が待ち遠しい。

〈4313〉青波に着物の袖さえ濡らしながら漕ぐ舟を、杭を振り下ろして水中に立て、つなぎとめている間に夜が更けてしまうだろうか。

【説明】
 天平勝宝6年(749年)7月7日に詠んだ「七夕」の歌8首のうちの4首。4310の「秋されば」は秋が来ると。「石並み」は、川の浅瀬に石を並べて橋に代えたもの。「継ぎて」は、続けて。4311の「うら待つ」は、心待ちに待つ。4312の上2句は「飽かず」を導く序詞。4313の「かし」は、舟をつなぐために川の中に立てる杭。「ほと」は、間。

巻第20-4314

八千種(やちくさ)に草木を植ゑて時ごとに咲かむ花をし見つつ偲(しの)はな

【意味】
 色々な草木を庭に植えて、季節ごとに咲く花を見ながら愛でたいものだ。

【説明】
 天平勝宝6年(749年)7月28日に作った歌。「八千種」は、多くの種類。

巻第20-4315~4320

4315
宮人(みやひと)の袖(そで)付け衣(ごろも)秋萩(あきはぎ)ににほひよろしき高円(たかまど)の宮(みや)
4316
高円の宮の裾廻(すそみ)の野づかさに今咲けるらむをみなへしはも
4317
秋野には今こそ行かめもののふの男女(をとこをみな)の花にほひ見に
4318
秋の野に露(つゆ)負(お)へる萩(はぎ)を手折(たを)らずてあたら盛りを過ぐしてむとか
4319
高円の秋野の上(うへ)の朝霧(あさぎり)に妻呼ぶ壮鹿(をしか)出(い)で立つらむか
4320
大夫(ますらを)の呼び立てしかばさを鹿(しか)の胸(むね)別(わ)け行かむ秋野萩原(あきのはぎはら)
 

【意味】
〈4315〉宮仕えの女官たちが着飾っている長袖の着物が、秋萩の花に照り映えてよく似合う、高円の宮は。

〈4316〉高円の宮の裾野のあちらこちらの高みに、今ごろ盛んに咲いているのだろう、オミナエシの花は。

〈4317〉秋の野に今こそ出かけよう。宮仕えの官人や官女たちの装いが花に染まるのを見るために。

〈4318〉秋の野に露を浴びて咲く萩の花を手折りもせず、いたずらに美しい盛りを見過ごしてしまおうというのか。

〈4319〉高円の秋の野に立ち込める朝霧の中、今ごろ妻を呼ぶ牡鹿が立ち現れて鳴いていることだろうか。

〈4320〉男子たちが呼び立てるので、牡鹿は胸で押し分けながら去って行くだろう、萩が咲き匂う秋の野を。

【説明】
 ひとり秋の野を思い、かりそめに心境を述べて作った歌。4315の「宮人の袖付け衣」は、女官たちの長袖の衣。「高円の宮」は、高円山にあった聖武天皇の離宮。4316の「裾廻」は、麓の周囲。「野づかさ」は、野の高み。4317の「もののふ」は、朝廷に仕える文武百官。「花にほひ」は、花の色に衣が映えるさま。4318の「あたら」は、せっかくの、惜しくも。

巻第20-4360~4362

4360
皇祖(すめろき)の 遠き御代(みよ)にも おしてる 難波(なには)の国に 天(あめ)の下 知らしめしきと 今の緒(を)に 絶えず言ひつつ かけまくも あやに畏(かしこ)し 神(かむ)ながら わご大君(おほきみ)の うち靡(なび)く 春の初めは 八千種(やちくさ)に 花咲きにほひ 山見れば 見のともしく 川見れば 見のさやけく ものごとに 栄(さか)ゆる時と 見(め)したまひ 明(あき)らめたまひ 敷きませる 難波(なには)の宮は 聞こしをす 四方(よも)の国より 奉(たてまつ)る 御調(みつき)の船は 堀江(ほりえ)より 水脈引(みをび)きしつつ 朝なぎに 楫(かぢ)引き上(のぼ)り 夕潮(ゆふしほ)に 棹(さを)さし下(くだ)り あぢ群(むら)の 騒(さわ)き競(きほ)ひて 浜に出でて 海原(うなはら)見れば 白波(しらなみ)の 八重(やへ)折るが上(うへ)に 海人小舟(あまをぶね) はららに浮きて 大御食(おほみけ)に 仕(つか)へ奉(まつ)ると をちこちに 漁(いざ)り釣りけり そきだくも おぎろなきかも こきばくも ゆたけきかも ここ見れば うべし神代(かみよ)ゆ 始めけらしも
4361
桜花(さくらばな)今盛りなり難波(なには)の海(うみ)押し照る宮に聞こしめすなへ
4362
海原(うなはら)のゆたけき見つつ葦(あし)が散る難波(なには)に年は経(へ)ぬべく思ほゆ
  

【意味】
〈4360〉天皇の遠い御代にも、この難波の国で天下をお治めになってきたと、今日に至るまでずっと言い伝えられてきた。口にするのもまことに恐れ多い、神そのままにいらせられるわが大君には、春の初めは色とりどりの花々が咲き誇り、山を見れば見るからに心惹かれ、川を見れば眺めがさわやかであるとして、それらを御覧になり、御心をお晴らしになり、都となさっている難波の宮には、お治めになっている四方の国々からの貢ぎ物を運ぶ船が堀江を通って水路を漕ぎ続けてやってくる。朝なぎには梶を操って遡り、夕潮には棹を海底にさして下って、水夫たちは味鴨の群れのように騒ぎ競っていて、浜に出て海原を見ると、白波が幾重にも重なる上に、海人の小舟がぽつりぽつりと浮かび、大君の御膳の用に差し上げようと、あちらこちらで魚を釣っている。ああ、何と広大なことか。ああ、何と豊かなことか。こんな光景を目にすると、神代の昔から今日まで都をこの地に営まれたのも、まことにもっともなことに思われる。

〈4361〉桜の花は今真っ盛りだ。難波の海に照り輝く宮で、天下をお治めになられるとともに。

〈4362〉海原の豊かなさまを眺めながら、蘆の花が広がるここ難波の地でいつまでも過ごしていたく思われる。

【説明】
 防人の歌群にあって「私の拙き懐を述べる」と題された、天平勝宝7年(750年)2月13日作の歌。難波の離宮を讃えて詠んでおり、防人とは直接関係のないものの、当時、兵部少輔(兵部省の次席次官)として防人交替業務を担っていた家持が、防人らの望郷の念を痛む気持ちの裏腹にあるひそやかな思いを述べたとも、あるいは、近く天皇の難波行幸があるのを予想して作った賀歌であるともいわれます。

 4360の「おしてる」は「難波」の枕詞。「知らしめす」は、お治めになる。「かけまく」は口に出して言うこと。「うち靡く」は「春」の枕詞。「八千種」は、多くの種類。「敷きませる」は、ご領有になっている。「聞こしをす」は、お治めになる。「御調」は貢物、租税。「堀江」は、人工の水路。難波の地の掘割で、現在の大川とされます。「水脈引き」は水路に従って漕ぎ進むこと。「あぢ群の」は「騒き」の枕詞。「はららに」は、ばらばらに。「大御食」は、天皇の食事の尊称。「そきだく」は、非常に。「おぎろなき」は、非常に広大な。「こきばく」は、たいそう、甚だしく。「うべし」は、いかにも、なるほど。4361の「なへ」は、とともに、と同時に。4362の「葦が散る」は「難波」の枕詞。

巻第20-4395~4397

4395
龍田山(たつたやま)見つつ越え来(き)し桜花(さくらばな)散りか過ぎなむ我(わ)が帰るとに
4396
堀江(ほりえ)より朝潮(あさしほ)満ちに寄る木屑(こつみ)貝にありせばつとにせましを
4397
見わたせば向(むか)つ峰(を)の上(へ)の花にほひ照りて立てるは愛(は)しき誰(た)が妻
  

【意味】
〈4395〉龍田山を越えながら見てきた桜の花は、私が帰る頃には散ってしまうのではなかろうか。

〈4396〉難波の堀江に朝潮が満ちてきて木屑が流れてきた。これがもし玉のような貝だったら、家への手みやげにできるのに。

〈4397〉見わたすと、向こうの岡の上の花々が咲いていて、その花に照り映えて立っている人は美しく可愛い。いったい誰の妻だろうか。

【説明】
 いずれも天平勝宝7年(750年)2月17日作で、4395は「独り龍田山の桜花を惜しむ」歌、4396は「独り江水に浮かび漂う木屑を見、貝玉でないことを恨んで作る」歌、4397は「館の門から江南の美女を見て作る」歌。これらも上の歌(4360~4362)と同じく防人の歌群にあり防人に関係しない歌ですが、防人らが抱く望郷の念を意識したようでもあります。
 
 4395の「龍田山」は奈良県三郷町と大阪府柏原市の間の山地で、南麓の龍田道は大和と難波を結ぶ要路でした。4396の「堀江」は、難波の地の掘割。現在の大川とされ、揚子江に擬しています。4397の題詞にある「館」は、兵部省役人の難波の官舎のこと。当時、兵部少輔(兵部省の次席次官)として防人交替業務を担っていた家持も、ここに詰めていたようです。「江南」は、揚子江南部。堀江の南側の景色を江南に見立てています。

巻第20-4443・4445

4443
ひさかたの雨は降りしくなでしこがいや初花(はつはな)に恋(こひ)しき我が背(せ)
4445
鴬(うぐひす)の声(こゑ)は過ぎぬと思へども染(し)みにし心なほ恋ひにけり
 

【意味】
〈4443〉雨が降り続いていますが、ナデシコの花は今咲いたかのように初々しく、その花のようにいとしいあなたです。

〈4445〉ウグイスの鳴く時期はもう過ぎたとは思ってはいても、心に染みついたその声を聞くと、依然として恋しい。

【説明】
 天平勝宝7年(755年)5月9日、兵部少輔(ひょうぶのしょうふ)の家持の邸宅で催された宴で詠んだ歌。4443の「ひさかたの」は「雨」の枕詞。なお、4442・4444に、客の大原真人今城(おおはらのまひといまき)が詠んだ歌があり、4443・4445は家持がそれぞれに和した歌です。

〈4442〉我が背子がやどのなでしこ日並(ひなら)べて雨は降れども色も変はらず
 ・・・あなたのお庭のなでしこは、毎日のように雨に降られていますが、色一つ変わりませんね。
 

〈4444〉我が背子がやどなる萩の花咲かむ秋の夕(ゆふへ)は我れを偲(しの)はせ
 ・・・あなたのお庭の萩の花が咲く秋の夕べには、私のことを思い出してください。
 
 今城は、上総国から朝集使として上京し、近日中に帰任することになっていたらしく、この宴は今城の歓送会だったとみられます。今城は、別れても私を忘れないでくださいと言ったのに対し、家持は、心にしみた鶯の声はいつでも恋しいと、鶯を今城に譬えて答えています。今城は、はじめ今城王を名乗っていましたが、臣籍降下して大原真人の姓を賜わった人です。母方が大伴一族だったため、大伴家の人々と深く関わる立場にあり、家持とも幼少のころから親しかったようです。

巻第20-4450~4451

4450
我が背子(せこ)が宿(やど)のなでしこ散らめやもいや初花(はつはな)に咲きは増すとも
4451
うるはしみ我(あ)が思(も)ふ君はなでしこが花になそへて見れど飽(あ)かぬかも
 

【意味】
〈4450〉あなたのお庭のナデシコは、散ることなどありましょうか。今咲き出した初花のように、いよいよ輝きを増すことがあっても。

〈4451〉すばらしいお方だと私が思うあなた様は、咲き誇るナデシコの花のようで、見ても見ても見飽きることがありません。

【説明】
 天平勝宝7年(755年)5月18日、左大臣・橘諸兄が、兵部卿(ひょうぶのきょう)橘奈良麻呂朝臣(たちばなのならまろあそみ)の家で宴を開いたときの歌。4450の「初花」は、その年に初めて咲く花。4451の「うるはしみ」は、気高く立派なお方だと。「なそふ」は、なぞらえる。
 
 この時期は、藤原仲麻呂が台頭しつつあり、もう一方の実力者である橘諸兄が老齢になるにつれて、露骨に諸兄の力をそぐ手段を講じつつありました。諸兄を頼みとする家持にとっては、前途に希望を失いつつある日々だったとみられます。この点について、日本古典文学全集『萬葉集 四』には、次のような解説があります。
 
 ――(難波から)帰京した家持はまた緊張した政争の場に引き戻された。老獪な仲麻呂の眼を憚って韜晦しているのかもしれない。家持にとっては身内のような大原今城が屈託なげな歌を披露しても、月並みな挨拶で答え(4443)、まして反仲麻呂派の中心的存在の橘奈良麻呂邸の宴ではいっそう慎重にふるまい、歌を詠んでも(4450)、先の今城を讃めた挨拶歌の「いや初花に」を繰り返して、ことさらに平凡に作ったのではないかと思うほどである。――

 この年の11月に、橘諸兄が、不敬の発言があったと近侍によって密告される事件が起きました。聖武太上天皇は取り合いませんでしたが、翌年2月に左大臣を辞職して致仕せざる得なくなりました。その翌年に諸兄は亡くなりますが、これが死の遠因になったともいわれます。 また、長い間、諸兄を頼りにし、庇いもしてきた聖武太上天皇も、諸兄が辞職したわずか3か月後に崩じました。仲麻呂にとって憚りのある人物が、相次いで世を去ったのです。

巻第20-4460~4462

4460
堀江(ほりえ)漕(こ)ぐ伊豆手(いづて)の舟の楫(かぢ)つくめ音(おと)しば立ちぬ水脈(みを)早みかも
4461
堀江(ほりえ)より水脈(みを)さかのぼる楫(かぢ)の音(おと)の間(ま)なくぞ奈良は恋しかりける
4462
舟競(ふなぎほ)ふ堀江(ほりえ)の川の水際(みを)に来居(きゐ)つつ鳴くは都鳥(みやこどり)かも
  

【意味】
〈4460〉堀江を漕ぐ伊豆造りの舟の、楫つくめがしばしば音を立てる。水脈の流れが速いからだろうか。

〈4461〉堀江の流れを逆のぼる舟の梶の音、その音の絶えないように、絶え間もなく奈良が恋しくてならない。

〈4462〉舟が競うように行き交う堀江の水際に、降りて来て鳴いているのは都鳥であろうか。

【説明】
 天平勝宝8年(756年)3月、聖武太上天皇の難波行幸に随行し、難波滞在中の3月20日に一人で堀江の景色を眺めて詠んだ歌。「堀江」は、難波の地の掘割で、現在の大川とされます。4460の「伊豆手の舟」は伊豆造りの舟。「楫つくめ」は、艪が舟からはずれないように舷に結び付ける部分とされますが、異説もあります。「水脈」は、水の流れる筋、水路。4461の上3句は「間なく」を導く序詞。4462の「都鳥」は、ミヤミヤと鳴く声が都を連想させるところから、ユリカモメではないかとされます。

巻第20-4463~4464

4463
霍公鳥(ほととぎす)まづ鳴く朝明(あさけ)いかにせば我(わ)が門(かど)過ぎじ語り継(つ)ぐまで
4464
霍公鳥(ほととぎす)懸(か)けつつ君が松蔭(まつかげ)に紐(ひも)解き放(さ)くる月近づきぬ
  

【意味】
〈4463〉ホトトギスが最初に鳴く夜明け、いったいどうしたら、我が家の門を素通りさせずにいられるのだろうか、後々に語り草になるほどに。

〈4464〉ホトトギスの鳴き声を気にかけながらあなたが待ち焦がれる、その松の木陰で着物の紐を解いて遊べるほどの時が近づいてきた。

【説明】
 上の歌に続き、難波滞在中の3月20日に詠んだ歌。霍公鳥が鳴き始めるのは立夏(旧暦の4月5日)のころとされていたので、その時期を思い浮かべて詠んだもののようです。4463の「朝明」は「あさあけ」の略で、早朝。4464の「懸けつつ」は、心にかけつつ。「松陰」は「待つ」に掛けています。「君」は誰を指しているのかは分かりません。「紐解き放くる」は衣の紐を解き放つで、ここでは、くつろいで宴などを行う意。

 聖武太上天皇は、間もない5月2日に崩御、19日に佐保山稜に葬られました。上皇の死去は、その後の政局に大きな影響を及ぼす画期となります。

巻第20-4465~4467

4465
ひさかたの 天(あま)の門(と)開き 高千穂(たかちほ)の 岳(たけ)に天降(あも)りし 皇祖(すめろき)の 神の御代(みよ)より はじ弓を 手握(たにぎ)り持たし 真鹿児矢(まかごや)を 手挟(たばさ)み添(そ)へて 大久米(おほくめ)の ますら健男(たけを)を 先に立て 靫(ゆき)取り負(お)ほせ 山川(やまかは)を 岩根(いはね)さくみて 踏み通り 国(くに)求(ま)ぎしつつ ちはやぶる 神を言(こと)向け まつろはぬ 人をも和(やは)し 掃(は)き清め 仕(つか)へ奉(まつ)りて 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国の 橿原(かしはら)の 畝傍(うねび)の宮に 宮柱(みやばしら) 太(ふと)知り立てて 天(あめ)の下(した) 知らしめしける 皇祖(すめろき)の 天(あま)の日継(ひつぎ)と 継(つ)ぎて来る 君の御代(みよ)御代(みよ) 隠(かく)さはぬ 明(あか)き心を 皇辺(すめらへ)に 極(きは)め尽くして 仕(つか)へ来る 祖(おや)の官(つかさ)と 言立(ことだ)てて 授けたまへる 子孫(うみのこ)の いや継ぎ継ぎに 見る人の 語り次(つぎ)てて 聞く人の 鑑(かがみ)にせむを あたらしき 清きその名ぞ おぼろかに 心思ひて 空言(むなこと)も 祖(おや)の名(な)絶(た)つな 大伴(おおとも)の 氏(うぢ)と名に負(お)へる ますらをの伴(とも)
4466
磯城島(しきしま)の大和の国に明らけき名に負ふ伴(とも)の男(を)心(こころ)つとめよ
4467
剣太刀(つるぎたち)いよよ磨(と)ぐべし古(いにしへ)ゆさやけく負ひて来(き)にしその名ぞ
  

【意味】
〈4465〉高天原の門を押し開き、高千穂の岳に天降られた皇祖の神の御代から、はじ木の弓を手にお持ちになり、真鹿子矢を手挟み添え、大久米の勇士を先頭に立てて靫を背に負わせ、山や川の岩々を押し分けて踏み通り、居つくべき国を探し求めては、荒ぶる神々を鎮め、従わない人々をも和らげられ、国土を掃き清めてお仕え申し上げて、蜻蛉島なる大和の国の橿原の畝傍の山に宮柱を太々と構えて天下を治められた天皇、その皇位の継承者として継いでこられた天皇の御代御代に、曇りのない忠誠の心を極め尽くしてきた祖先の官であると、特に言葉にして授けて下さった子孫の、いよいよ代々に伝える家柄であることを、見る人が語り継ぎ、聞く人が手本にで耳にする人々の鏡にしようものを、貶めてはもったいない清らかな名である。おろそかに考えて、かりそめにも祖先の名を絶やしてはならない。大伴という氏と名を背負っている一族の者たちよ。

〈4466〉大和の国に知れ渡る名を負っている一族の者たちよ。心を尽くして務めを果たせ。
 
〈4467〉剣太刀を磨ぐように、心をいよいよ磨いていくべきだ。いにしえの昔から、清らかに保ってきた由緒ある名なのだから。

【説明】
 聖武太上天皇崩御後の天平勝宝8年(756年)5月10日、淡海真人三船(おうみのまひとみふね)の讒言によって出雲守(いずものかみ)大伴古慈斐宿祢(おおとものこしびのすくね)が、朝廷を誹謗したかどで解任される事件が起きました。大伴古慈斐宿祢は、当時の大伴氏の年長者で、家持の曾祖父である長徳の弟・吹負(ふけい)の孫にあたります。三船は藤原仲麻呂に強要されて讒言したとされ、新興勢力の藤原氏が、旧勢力の大伴氏などの追い落としを図った策略でした。

 そうした藤原一族の勢力が強まる不穏な空気のなか、家持は、皇室の股肱の武の家たる大伴宗家のあるじとして、この「族(うがら)を喩(さと)す歌」を作り、一族の軽挙を戒めました。しかしながら、武の家であることを誇示するのに、武の力ではなく歌の力をもってしなければならないところに、もはや勢いの衰えは隠せなくなっています。大伴氏が隆盛を極めたのは、この時代から約200年前の西暦500年代に大連(おおむらじ)として朝廷を取り仕切った頃であり、その後は物部氏・蘇我氏の後塵を拝し、大化改新以降は藤原氏の台頭で、ますます影が薄くなってしまいます。この歌は、そうした悲痛の響きがあり、家持の最後の長反歌となっています。

 4465の「ひさかたの」は「天」の枕詞。「天の門」は、高天原の門、天の岩戸。「高千穂の岳」は、天孫降臨伝説の地。鹿児島県の霧島山または宮崎県高千穂町。「皇祖の 神」は、天照大神のこと。「真鹿児矢」は、大きな獣を射る弓。「大久米のますら健男」は、久米部(久米氏に属した武人)の勇士。「靫」は、矢を入れて背負う武具。「さくみて」は、踏み破って。「ちはやぶる」は、暴威をふるう。「まつろへぬ」は、従わない。「明き心」は、忠誠心。「言立てて」は、特に言い立てて。「あたらしき」は、惜しい、もったいない。「おぼろかに」は、いい加減に。4466の「磯城島の」は「大和」の枕詞。4467の「剣太刀」は「磨ぐ」の枕詞。

巻第20-4468~4471

4468
うつせみは数なき身なり山川(やまかは)のさやけき見つつ道を尋(たづ)ねな
4469
渡る日の影に競(きほ)ひて尋ねてな清(きよ)きその道またもあはむため
4470
水泡(みつぼ)なす仮(か)れる身ぞとは知れれどもなほし願ひつ千年(ちとせ)の命(いのち)を
4471
消残(けのこ)りの雪にあへ照るあしひきの山橘(やまたちばな)をつとに摘(つ)み来(こ)な
   

【意味】
〈4468〉生きてこの世にあるのは取るに足らない身。清らかな山や川を眺めながら悟りの道を尋ねてみたいものだ。
 
〈4469〉空を渡る日の光が早く過ぎ行くのに負けないよう、悟りの道を尋ね求めたいものだ。再びあの佳き世に出逢うために。

〈4470〉水の泡のようにはかない命とは承知しているけれど、それでもやはり願わずにいられない。千年の長い命を。

〈4471〉消えずに残った雪に山橘の実が照り映えて輝いている。家への手みやげにするため摘んで来よう。

【説明】
 4468~4470は、天平勝宝8年(756年)6月の作。4468・4469は、家持が「病に臥して無常を悲しみ、修道を欲する」歌。人間というものはそう長生きをするものではないのだから、俗世から離れ、自然の風光に接しながら、仏道を修めたいと言っています。4468の「うつせみ」は、この世の人。「数なき」は、取るに足らない。「道」は仏道。4469の「渡る日のかげ」の「かげ」は、光。「またもあはむため」は、聖武天皇の在世を意識しています。4470は、「寿(いのち)を願ひて作る」歌。「水泡なす」は、水の泡のようにで「仮れる」の枕詞。

 この時、家持を覆った深刻さは、病に臥した嘆きとともに、政界で最も頼りにしていた橘諸兄が引退、死去し、将来への展望が見い出し難くなったことです。諸兄が亡くなったあとの中央政界の要職は、右大臣に藤原豊成、大納言に藤原仲麻呂、権中納言に藤原永手、参議に藤原清河、藤原八束らが名を連ね、他氏では中納言に紀麻呂、多治比広足、参議に大伴兄麻呂、石川年足、橘奈良麻呂らが在職したのみでした。家持はこの時期、従五位上・兵部少輔の位にありました。

 4471は、冬11月5日の夜、小さな雷が鳴り、雪が降って庭を覆ったので、にわかに感憐(かんれん)をだいて作った歌。 「あへ照る」は、それぞれ照り映えるさま、または調和して照るさま。「あしひきの」は「山」の枕詞。「山橘」は、ヤブコウジ。「つと」は、みやげ。「来な」の「な」は、意志・希望。

 なお、奈良時代は積極的に中国文化を受け入れ、聖武天皇の東大寺大仏建立に代表されるような仏教国家となったにもかかわらず、『万葉集』には仏教の浸透は多く見られません。山上憶良などによる漢文には仏教思想が見られ、ことばとしては「寺」「法師」「檀越(檀家のこと)」「餓鬼」などが現れるものの、思想的な歌には乏しく、後世の釈教歌(仏教の教えを説く歌)のようなものは殆どありません。その中で目立つのが家持の、仏道修行を願う4468・4469の歌です。まだこの時代、仏は万葉びとの心を支える「神」とはなり得えていなかったようなのです。

巻第20-4481

あしひきの八(や)つ峰(を)の椿(つばき)つらつらに見とも飽(あ)かめや植ゑてける君

【意味】
 山の峰々に咲く椿を見飽きることがないように、どんなに見ても飽くことがないあなたです。

【説明】
 天平勝宝9年(757年)3月4日、兵部大丞(ひょうぶのだいじょう)大原真人今城(おおはらのまひといまき)の家で宴会をしたときに、植木の椿に寄せて作った歌。大原真人今城は、もと今城王、臣籍降下して大原真人姓となった人で、母方が大伴一族だったため、大伴家の人々と深く関わる立場にあり、家持とも幼少のころから親しかったようです。上2句は「つらつら」を導く序詞。「つらつらに」は、念を入れて、よくよく。

 なお、この歌の次に主人の今城が読んで伝えた歌があります。もとは播磨介(はりまのすけ)藤原朝臣執弓(ふじわらのあそみとりゆみ)が赴任するときに別れを悲しんで詠んだ歌であり、家持に対する謝意を古歌に託したものです。

〈4482〉堀江(ほりえ)越え遠き里まで送り来(け)る君が心は忘らゆましじ
 ・・・難波の堀江を越えて、この遠いこの里まで送ってくださった、あなたのお心遣いは忘れようにも忘れられないでしょう。

巻第20-4483~4485

4483
移り行く時(とき)見るごとに心痛く昔の人し思ほゆるかも
4484
咲く花は移(うつ)ろふ時ありあしひきの山菅(やますが)の根(ね)し長くはありけり
4485
時の花いやめづらしもかくしこそ見(め)し明(あき)らめめ秋立つごとに
  

【意味】
〈4483〉移りゆく時を見るたびに心が痛み、昔の人が思い起こされてならない。

〈4484〉美しく咲く花々は色移り、やがて散る時を迎える。山に自生する菅の根こそは、長く変わらない。

〈4485〉季節の花々はなんと美しいことだろう。ご覧になって気持ちを晴らしてください。秋がやって来るたびに。

【説明】
 4483は、天平勝宝9年(757年)6月23日に大監物(だいけんもつ)三形王(みかたのおおきみ)邸で催された宴で詠んだ歌。大監物は大蔵省・内蔵省の出納を管理する役人。

 この日は、橘諸兄の遺児・奈良麻呂による反藤原のクーデターが発覚する事件(橘奈良麻呂の変)の5日前にあたります。奈良麻呂には大伴一門の多くが与しており、家持の歌友だった池主もその一人です。この時の家持は軍事担当の兵部省の大輔に昇進したばかりで、むしろクーデターを鎮圧する側の立場にありました。そうした動きを事前に察知していたと思われますが、家持はこれには加わりませんでした。結果、計画は藤原仲麻呂によって鎮圧され、奈良麻呂ほか多くが捕縛されることとなり、池主も同じ運命だったようで、その後の消息が分からなくなっています。奈良時代有数の政変となった事件です。

 家持自身が、これら緊迫した政治情勢に直接深く関わるようなことはなかったものの、自分の命運がいつどのように激変してもおかしくないという、立場の危うさを自覚しながら生きていたことでしょう。そうしたことから、ここの歌には意味深長なものを感じざるを得ません。「昔の人」とは橘諸兄のことでしょうか。
 
 4484・4485は別の時の作で、事件が発覚し、池主ほか多くの知人を失って以降の作とされますが、巻第20の編集に関わった家持が意識的にこの3首を並べたようです。4484の「あしひきの」は「山」の枕詞。「咲く花」を事を起こして成らなかった人々に見立て、「山菅の根」を自身の動かぬ決意と解する説があります。4485の「時の花」は、季節に応じて咲く花。「見し」は「見る」の敬語。

 また、これらの歌の次に、奈良麻呂の変の後の11月18日に内裏で行われた宴で、皇太子(後の淳仁天皇)と藤原仲麻呂が奏上した歌が載っています。

皇太子の歌
〈4486〉天地(あめつち)を照らす日月(ひつき)の極みなくあるべきものを何をか思はむ
 ・・・天地を照らす日月のように、天皇陛下のご治世は無窮であり、何を思い患うことがありましょう。

藤原仲麻呂の歌
〈4487〉いざ子ども狂業(たはわざ)なせそ天地(あめつち)の堅めし国ぞ大和島根は
 ・・・さあ、お前たち、たわけたことをしてはいけない。天地の神が固めた国ぞ、この大和の国は。

 また、『続日本紀』には、孝謙天皇の7月の詔として「狂(たぶ)れ迷へる頑なる奴の心」「人の見咎むべき事わざなせそ」、すなわち、狂い迷う奈良麻呂らの心を悟して正そう、人が咎めるようなことをするな、というお言葉が載っています。仲麻呂の歌の内容はこの詔と類似しており、居並ぶ廷臣らを恫喝、あたかも仲麻呂が天皇であるかのような歌い方になっています。

 家持は、橘奈良麻呂の乱が終結したのちに、太政官の庶務を担当する右中弁となりました。それまでの兵部大輔を上回る官職であり、乱に参画しなかったことに対する仲麻呂の限定的な「評価」とみることができます。

巻第20-4492~4495

4492
月(つき)数(よ)めばいまだ冬なりしかすがに霞(かすみ)たなびく春立ちぬとか
4493
初春(はつはる)の初子(はつね)の今日(けふ)の玉箒(たまばはき)手に取るからに揺(ゆ)らく玉の緒(を)
4494
水鳥(みづとり)の鴨(かも)の羽色(はいろ)の青馬(あをうま)を今日(けふ)見る人は限りなしといふ
4495
うち靡(なび)く春ともしるく鴬(うぐひす)は植木(うゑき)の木間(こま)を鳴き渡らなむ
  

【意味】
〈4492〉暦の上ではまだ冬なのだが、そうはいっても霞がたなびき、やはり春がやってきたのだろうか。

〈4493〉新春になって初めての子の日の今日、玉箒を手にとるとゆらゆらと揺らいで、音を立てる、この玉の緒が。

〈4494〉水鳥である鴨の羽の色をした、めでたい青馬を今日見る人は、命に限りなしといいます。

〈4495〉草木が一面になびく春が来たとはっきり分かるように、ウグイスが植木の木の間を鳴き渡っていってほしい。

【説明】
 4492は、天平宝字元年12月23日、治部少輔(じぶのしょうほ)大原今城真人(おおはらのいまきまひと)の家で宴会をしたときの歌。「しかすがに」は、そうはいうものの。

 4493は、天平宝字2年(758年)正月3日、孝謙天皇により、内裏の東屋の垣下に侍従・竪子・王臣らが召されて開かれた宴で、前もって作っていた歌。4493の「初子」は、正月の最初の子の日。当時は十二支によって日を数えていたので、子の日はその年の最初の日として祝い事をする日でした。「玉箒」は、玉を飾った儀礼用のほうき。これに付けた玉を揺らすことで邪気を払うとされました。「手に取るからに」の「からに」は、するとすぐに。

 4494は、同月7日の「白馬(あおうま)の節会」に用意した歌。「水鳥の」は「鴨」の枕詞。上2句が「青」を導く序詞。「青馬」は、灰色がかった毛色の馬。当時の「青」は、黒と白の中間色を漠然と指していたらしく、緑、藍から灰色までをも含む色とされました。4495の「うち靡く」は「春」の枕詞。「鳴き渡らなむ」の「なむ」は、願望。なお、4493~4495の歌はいずれも中途退出のため奏上されませんでした。

巻第20-4506・4509

4506
高円(たかまと)の野の上(うへ)の宮は荒れにけり立たしし君の御代(によ)遠(とほ)そけば
4509
延(は)ふ葛(くず)の絶えず偲(しの)はむ大君(おほきみ)の見しし野辺(のへ)には標(しめ)結(ゆ)ふべしも
  

【意味】
〈4506〉高円の野の上の宮はすっかり荒れてしまった。ここにお立ちになった大君(聖武天皇)の御代から遠ざかってきたので。

〈4509〉延びていく葛の蔓のように絶えることなくお慕いしていこう。大君がご覧になった野辺には標縄を張っておくべきだ。

【説明】
 天平宝字2年(758)2月、中臣清麻呂(なかとみのきよまろ)の邸宅での宴席で歌われた4496~4505の10首に続き、2年前に崩じた聖武天皇を偲んで詠んだ歌です。ここには家持のほか、中臣清麻呂、大原今城真人(おほはらのいまきのまひと)などの「興に依り、高円の離宮処を思ひて作る歌」計5首が収められており、政争の激しいさなか、気心の合った者同士が聖武天皇の佳き時代を偲んでいるものです。彼らはみな聖武天皇を強く敬慕する人たちでしたが、時代はすでに藤原仲麻呂のものとなっています。

 「高円の離宮所」は、春日山中の高円にあった聖武天皇の離宮。4506の「立たしし」は「立ちし」の敬語。「遠そけば」は「遠退けば」で、遠ざかれば。4509の「延ふ葛の」は「絶えず」の枕詞。「見しし」は「見し」の敬語。「標結ふ」は、標縄を張ることで、その場所の所有を示すもの。家持の心はすっかり過去の方に向いており、未来の希望ではなく、聖武天皇の御代への懐旧の情にひたっています。

大原今城真人の歌
〈4507〉高円の峰(を)の上の宮は荒れぬとも立たしし君の御名(みな)忘れめや
 ・・・高円山の上の宮は荒れてしまおうとも、立っておられた大君の御名を忘れようか、忘れはしない。

中臣清麻呂の歌
〈4508〉高円の野辺(のへ)延(は)ふ葛(くず)の末つひに千代(ちよ)に忘れむ我が大君(おほきみ)かも
 ・・・高円の野を延う葛がどこまでも延びて絶えないように、千年の後まで忘れられるような我が大君ではありません。

甘南備伊香真人(かむなびのいかごまひと)の歌
〈4510〉大君(おほきみ)の継ぎて見すらし高円の野辺(のへ)見るごとに音のみし泣かゆ
 ・・・大君が今も続いてご覧になっていらっしゃるらしい。高円の野辺を見るたびに泣けてきてしまう。

巻第20-4512

池水(いけみづ)に影(かげ)さへ見えて咲きにほふ馬酔木(あしび)の花を袖(そで)に扱入(こき)れな

【意味】
 庭の池の水に影までも見えて色美しく咲いている馬酔木の花、その花をしごいて、着物の袖に入れてしまおう。

【説明】
 山斎(しま)を見て作った歌。「山斎」は庭のことで、ここは、中臣清麻呂(なかとみのきよまろ)の邸宅の庭園。「馬酔木」は、まだ早春とは言い難い寒い時期に白またはややピンクがかった小さな花を咲かせます。有毒植物であり、馬が誤って食べると苦しがって、酔っぱらったような動きをするというので「馬酔木」と書きます。

 斎藤茂吉は、「馬酔木の花を袖に扱入れな」というのがこの歌の眼目で佳句としながらも、「全体として写生力がなく、暗記により手馴れた手法によって作歌する傾向が見えてきている。そしてそれに対して反省せんとする気魄は、そのころの家持にはもう衰えていたのであっただろうか。私はまだそうは思わない」と言っています。

巻第20-4515

秋風の末(すゑ)吹き靡(なび)く萩(はぎ)の花ともにかざさず相(あひ)か別れむ

【意味】
 秋の風が葉先をそよそよとなびかせている萩の花、その萩の花を共に髪にかざすことなく、お互いに別れ別れになるのだろうか。

【説明】
 題詞に「治部少輔(じぶのしょうふ)大原今城真人(おおはらのいまきのまひと)の宅にして、因幡守(いなばのかみ)大伴宿禰家持を餞する宴の歌」とある1首です。天平宝字2年(758年)7月に、因幡守となって赴任する家持のために開いてくれた別れの宴で、家持が詠んだ歌です。「末吹き靡く」の「末」は、萩の枝の先。

 天平勝宝3年(751年)に少納言となって越中から都に戻った家持は、その後、兵部少輔、兵部大輔、右中弁となり、宮廷内で順調に昇進を重ねていきましたが、天平字宝2年(758年)6月、突然、因幡守に任じられます。旧任地の越中国に比べても、これが左遷人事であることは明らかでした。任じた側にも、因幡というのは配流の地という意識があったかもしれません。家持は橘奈良麻呂の反乱には加わらなかったわけですが、そのためにかえって仲麻呂からは馬鹿にされてしまったのでしょうか。
 
 天平勝宝9年(757年)に、家持の庇護者だった左大臣の橘諸兄が亡くなると、政治の実権は藤原仲麻呂に移りました。諸兄の子の橘奈良麻呂がクーデターを企てるものの失敗、家持はかろうじて連座を免れましたが、大伴池主や大伴古麻呂ら一族が処罰されました。大伴氏の勢力はひどく衰えることとなり、こうしたなかでの因幡国への赴任でした。その年の2月に公布された「集会における飲酒規制」の影響もあってか、この餞の宴に出席した人の名は記録されていません。あるいは、宴を開いてくれたのは大原今城一人だったかもしれず、その今城が歌を作っていないのも、この時の雰囲気を反映しているものといえます。

巻第20-4516

新(あらた)しき年の始(はじめ)の初春(はつはる)の今日降る雪のいや重(し)け吉事(よごと)

【意味】
新しい年の初めの初春の今日、雪が降っている。この雪のように、ますます積もって行け、めでたい事が。

【説明】
 因幡国に赴任して迎えた新年の天平宝字3年(759年)の正月1日、国庁で国司郡司らを饗応した宴で作った歌とあります。この日は、暦の上の元日と立春が重なる、19年に一度の歳旦立春(さいたんりっしゅん)という特別の日でした。因幡国の国庁は、今の鳥取市の東南に位置する国府町大字庁付近にあったとされます。この歌は、御代のますますの栄えを予祝する歌ではありますが、家持のこの頃の境遇を思えば、せめて今年だけでもよいことがあってほしいとの深い祈りが込められているようです。そして家持はきっと、この雪の日に奈良の雪を思い出したのでしょう。ことに13年前の天平18年(746年)の正月、奈良でも雪が降り、元正上皇のところに左大臣の橘諸兄に率いられて御機嫌伺いに行った(巻第17-3922~3926)、そんな楽しかった日を思い出していたのではないでしょうか。

 五穀豊穣を予祝する雄略天皇の春の歌に始まった『万葉集』は、この1首で閉じられます。『万葉集』の中では年代のいちばん新しい歌です。また、家持はこの時まだ42歳で、亡くなったのは68歳ですが、この歌を最後に彼の歌は『万葉集』に残っていません。その後の26年間の家持は、よく「歌わぬ人」になったとも言われますが、ふつうに歌を作ったものの、自分が後世に残したいような歌はできなかったのかもしれません。
 
 橘奈良麻呂の乱の影響で因幡守に左遷された家持は、いったん帰京するものの、その後も謀反事件に関係したとして薩摩守に左遷されるなど、官職は都と地方をめまぐるしく行き来し、多くの困難に出遭いました。晩年の天応元年(781年)にようやく従三位に昇進し、没したのは陸奥国の多賀城とされます(在京の説も)。その直後に、造営中の長岡京で藤原種継暗殺事件が発生、家持も関与していたとして、埋葬も許されず、その遺骨は息子の永主とともに隠岐へ流されました。それから21年後の延暦25年(806年)、事件に関わった全員が許され、故家持も従三位に復しますが、その後の大伴氏は「大」を除かれ伴(ばん)氏となり、その伴氏も、伴大納言善男の失脚とともに歴史から完全に姿を消してしまいます。

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窪田空穂の感慨
 ―― 万葉集は、淳仁天皇の天平宝字二年、大伴家持が因幡守として地方にやられたことによって終わり、彼の歌を終わりとして、奈良朝末期の歌界は全く湮滅(いんめつ)に帰し、知る由のないものとなった。感慨なきを得ぬことである。本集と家持との関係は問題を残しているものであるが、巻第十七以下本巻に至るまでの四巻は、明瞭に彼の手によって成ったものであり、奈良朝末期の歌界の一面を伝え、その全貌の想像されるのも、これまた明瞭に彼のしたことである。その動機は、彼の歌に対する愛好心と、その延長としての蒐集欲とであって、それ以外の何ものでもない。この四巻は彼の備忘のためのものであったことは、自作に対して二案のある場合、その棄てた一案をも、細注の形で付記しているのをみても知られる。また、彼の収集欲のいかに強いものであり、また潔癖の伴ったものであったかは、それをした歌に対しての左注のいかに神経質なものであるかをみても知られる。彼の丹念に記録した宴歌のごときも、自身その宴飲の席に列(つらな)り親しく耳に聞き目に見たものでないと記録していないことは、最も明らかにその態度を示しているものである。
 この最後の四巻は、全く家持一人の手によって存在しているものであり、彼がなければ存しないものである。家持という人の収集欲の現われの、わが文芸の上に及ぼした結果を思うと、感深きことである。しかし歌人としての家持は、この時期には完成の域に達していて、今後の展開は多く望めない人となっていたかに思われる。彼は、知性を摂取した悟性本位の人で、調和をもった、物柔らかな生活を営んでおり、歌はその生活を母胎として生まれて来たとみえる。したがって彼の気分の及ぶ範囲も歌も限界があって、歌を中心としていえば、その生活気分が変わらない以上、歌境も変わり得なかったとみえる。この歌境を変えることは、その生活態度に意志力が加わり、積極的にならなければできないのであるが、これは彼には望み難いことに思える。家持の歌が完成の域に達していたろうというのはこの意味で、彼として行きうる所まで行き得ていたのである。この当時の政情は、彼をして入興の歌を詠ましめたかどうかは疑問である。因幡守以後の彼の歌が、宴歌の一首に終わっているのは、甚だ心残りには感じられるが、万葉集そのものよりみれば、重大なる損失ではないかのごとく思われる。―― 

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大伴家持の略年譜

718
家持生まれる(在京)
724
聖武天皇即位

728
父の旅人が 大宰帥に
731
父の旅人が死去(14歳)
738
内舎人となる(21歳)
橘諸兄との出会い
739
妾と死別(22歳)
坂上大嬢との出会い
741
恭仁京の日々(24歳)
744
安積親王が死去

745
従五位下に叙せられる(28歳)
746
越中守となる(29歳)
749
従五位上に昇叙(32歳)
751
少納言となる(34歳)
754
兵部少輔を拝命(37歳)
755
難波で防人を検校、防人歌を収集(38歳)
756
聖武太上天皇が崩御

757
橘諸兄が死去

兵部大輔に昇進(40歳)
橘奈良麻呂の乱

758
因幡守となる(41歳)
淳仁天皇即位

759
万葉集巻末の歌を詠む(42歳)
764
薩摩守となる(48歳)
恵美押勝の乱

766
称徳天皇が重祚

道鏡が法王となる

767
大宰少弐となる(50歳)
770
道鏡が下野国に配流

正五位下に昇叙(53歳)
771
光仁天皇即位

従四位下に昇叙(54歳)
774
相模守となる(57歳)
776
伊勢守となる(59歳)
777
従四位上に昇叙(60歳)
778
正四位下に昇叙(61歳)
780
参議となり、右大弁を兼ねる(63歳)
781
桓武天皇即位

正四位上に昇叙(64歳)
従三位に叙せられ公卿に列する
783
中納言となる(66歳)
784
持節征東将軍となる(67歳)
長岡京遷都

785
死去(68歳)

万葉の植物

アセビ
ツツジ科の常緑低木。早春にスズラン状の小さなつぼみをつけて花が咲き、この花が集まって咲くと、その周りは真っ白になります。有毒植物であり、馬が誤って食べると苦しがって、酔っぱらったような動きをするというので「馬酔木」と書きます。

ウツギ
花が「卯の花」と呼ばれるウツギは、日本と中国に分布するアジサイ科の落葉低木です。 花が旧暦の4月「卯月」に咲くのでその名が付いたと言われる一方、卯の花が咲く季節だから旧暦の4月を卯月と言うようになったとする説もあり、どちらが本当か分かりません。ウツギは漢字で「空木」と書き、茎が中空なのでこの字が当てられています。

ウメ
バラ科の落葉低木。中国原産で、遣唐使によって 日本に持ち込まれたと考えられています(弥生時代に渡ってきたとの説も)。当時のウメは白梅だったとされ、『万葉集』では萩に次いで多い119首が詠まれています。雪や鶯(うぐいす)と一緒に詠まれた歌が目立ちます。

オミナエシ
秋の七草のひとつに数えられ、小さな黄色い花が集まった房と、枝まで黄色に染まった姿が特徴。『万葉集』の時代にはまだ「女郎花」の字はあてられておらず、「姫押」「姫部志」「佳人部志」などと書かれていました。いずれも美しい女性を想起させるもので、「姫押」は「美人(姫)を圧倒する(押)ほど美しい」意を語源とする説があります。

サネカズラ
常緑のつる性植物で、夏に薄黄色の花を咲かせ、秋に赤い実がたくさん固まった面白い形の実がなります。別名ビナンカズラといい、ビナンは「美男」のこと。昔、この植物から採れる粘液を男性の整髪料として用いたので、この名前がついています。

ナデシコ
ナデシコ科の多年草(一年草も)で、秋の七草の一つで、夏にピンク色の可憐な花を咲かせ、我が子を撫でるように可愛らしい花であるところから「撫子(撫でし子)」の文字が当てられています。数多くの種類があり、ヒメハマナデシコとシナノナデシコは日本固有種です。

ハギ
マメ科の低木で、夏から秋にかけて咲く赤紫色の花は、古くから日本人に愛され、『万葉集』には141首もの萩を詠んだ歌が収められています。名前の由来は、毎年よく芽吹くことから「生え木」と呼ばれ、それが「ハギ」に変化したといわれます。

モミジ
「もみじ」は具体的な木の名前ではなく、赤や黄色に紅葉する植物を「もみじ」と呼んでいます。現代では「紅葉」と書くのが一般的ですが、『万葉集』では殆どの場合「黄葉」となっています。これは、古代には黄色く変色する植物が多かったということではなく、中国文学に倣った書き方だと考えられています。さらに「もみじ」ではなく「もみち」と濁らずに発音していたようで、葉が紅や黄に変色する意味の動詞「もみつ」から生まれた名だといいます。

ヤブコウジ
『万葉集』では「山橘」と呼ばれる ヤブコウジは、サクラソウ科の常緑低木。別名「十両」。夏に咲く小さな白い花はまったく目立たないのですが、冬になると真っ赤な実をつけます。この実を食べた鳥によって、種子を遠くまで運んでもらいます。

ヤマブキ
バラ科の落葉低木。山野でふつうに見られ、春の終わりごろにかけて黄金色に近い黄色の花をつけます。そのため「日本の春は梅に始まり、山吹で終わる」といわれることがあります。 万葉人は、 ヤマブキの花を、生命の泉のほとりに咲く永遠の命を象徴する花と見ていました。ヤマブキの花の色は黄泉の国の色ともされます。

和歌の修辞技法

枕詞
 序詞とともに万葉以来の修辞技法で、ある語句の直前に置いて、印象を強めたり、声調を整えたり、その語句に具体的なイメージを与えたりする。序詞とほぼ同じ働きをするが、枕詞は5音句からなる。
 
序詞(じょことば)
 作者の独創による修辞技法で、7音以上の語により、ある語句に具体的なイメージを与える。特定の言葉や決まりはない。
 
掛詞(かけことば)
 縁語とともに古今集時代から発達した、同音異義の2語を重ねて用いることで、独自の世界を広げる修辞技法。一方は自然物を、もう一方は人間の心情や状態を表すことが多い。
 
縁語(えんご)
 1首の中に意味上関連する語群を詠みこみ、言葉の連想力を呼び起こす修辞技法。掛詞とともに用いられる場合が多い。
 
体言止め
 歌の末尾を体言で止める技法。余情が生まれ、読み手にその後を連想させる。万葉時代にはあまり見られず、新古今時代に多く用いられた。
 
倒置法
 主語・述語や修飾語・被修飾語などの文節の順序を逆転させ、読み手の注意をひく修辞技法。
 
句切れ
 何句目で文が終わっているかを示す。万葉時代は2・4句切れが、古今集時代は3句切れが、新古今時代には初・3句切れが多い。
 
歌枕
 歌に詠まれた地名のことだが、古今集時代になると、それぞれの地名が特定の連想を促す言葉として用いられるようになった。


(大伴家持)

参考文献

『NHK日めくり万葉集』
 ~講談社
『NHK100分de名著ブックス万葉集』
 ~佐佐木幸綱/NHK出版
『大伴家持』
 ~藤井一二/中公新書
『古代史で楽しむ万葉集』
 ~中西進/KADOKAWA
『誤読された万葉集』
 ~古橋信孝/新潮社
『新版 万葉集(一~四)』
 ~伊藤博/KADOKAWA
『田辺聖子の万葉散歩』
 ~田辺聖子/中央公論新社
『超訳 万葉集』
 ~植田裕子/三交社
『日本の古典を読む 万葉集』
 ~小島憲之/小学館
『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』
 ~小名木善行/徳間書店
『万葉語誌』
 ~多田一臣/筑摩書房
『万葉集』
 ~池田彌三郎/世界文化社
『万葉秀歌』
 ~斎藤茂吉/岩波書店
『万葉語誌』
 ~多田一臣/筑摩書房
『万葉秀歌鑑賞』
 ~山本憲吉/飯塚書店
『万葉集講義』
 ~上野誠/中央公論新社
『万葉集と日本の夜明け』
 ~半藤一利/PHP研究所
『萬葉集に歴史を読む』
 ~森浩一/筑摩書房
『万葉集のこころ 日本語のこころ』
 ~渡部昇一/ワック
『万葉集の詩性』
 ~中西進/KADOKAWA
『万葉集評釈』
 ~窪田空穂/東京堂出版
『万葉樵話』
 ~多田一臣/筑摩書房
『万葉の心』
 ~中西進/毎日文庫
『万葉の旅人』
 ~清原和義/学生社
『万葉ポピュリズムを斬る』
 ~品田悦一/講談社
『ものがたりとして読む万葉集』
 ~大嶽洋子/素人舎
『私の万葉集(一~五)』
 ~大岡信/講談社
ほか

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