巻第6-917~919
917 やすみしし わご大君(おほきみ)の 常営(とこみや)と 仕へまつれる 雑賀野(さひかの)ゆ 背向(そがひ)に見ゆる 沖つ島 清き渚(なぎさ)に 風吹けば 白波(しらなみ)騒(さわ)き 潮(しほ)干(ふ)れば 玉藻(たまも)刈りつつ 神代(かみよ)より 然(しか)ぞ貴(たふと)き 玉津島山(たまつしまやま) 918 沖つ島 荒磯(ありそ)の玉藻(たまも)潮干(しほひ)満ちい隠(かく)れゆかば思ほえむかも 919 若の浦に潮(しほ)満ち来れば潟(かた)を無(な)み葦辺(あしへ)をさして鶴(たづ)鳴き渡る |
【意味】
〈917〉安らかに天下をお治めになるわが大君の、永遠の宮殿としてお仕えする、雑賀野から背後に、沖の島々が見える清らかな海岸に、風が吹けば白波が立ち騒ぎ、潮が引けば美しい藻を刈りつづけてきた、神代からこのように貴い所だったのだ、ここ玉津島山は。
〈918〉沖の島の荒磯に生えている玉藻よ、今に潮が満ちてきて荒磯が隠れてしまえば、心残りがして恋しく思われることだろう。
〈919〉若の浦に潮が満ちてくると、干潟がなくなり、葦が生えた岸辺をさして、鶴が鳴きながら渡っていく。
【説明】
神亀元年(724年)冬10月、聖武天皇の紀伊国(和歌山県および三重県南部)行幸の際に、供奉した山部赤人が詠んだ長歌と反歌2首です。同じ年の2月に即位したばかりの若き聖武天皇は、ことのほか紀伊の和歌の浦の風光を愛し、13日間も滞在したといわれ、この時に次のような詔を出しています。「山に登って海を望むに、この間最も好し。遠行を労せずして以って遊覧するに足れり。故に弱浜(わかのはま)の名を改めて明光浦(あかのうら)となし、宜しく守戸を置きて荒穢(こうわい)せしむることなかるべし。春秋の二時に官人を差遣して、玉津島の神・明光浦の霊を奠祭(てんさい)せしむ」
赤人は、奈良時代の初期から中期にかけて作歌がみとめられる宮廷歌人(生没年未詳)で、大伴旅人・山上憶良より少しおくれ、高橋虫麻呂とほぼ同時期の人です。もともと山守部(やまもりべ)という伴造(とものみやっこ)の子孫らしく、また伊予の豪族、久米氏の末裔とも言われています。古くから人麻呂と並び称せられ、とくに自然を詠じた叙景歌に定評があります。持統期を飾った人麻呂に対し、赤人は、聖武天皇即位の前後から736年までの歌(長歌13首、短歌37首)を『万葉集』に残しています。
917の「やすみしし」は「わご大君」の枕詞。「わご」は「わが」の転音。「常宮」は、永久の宮。造営した離宮のことで、実際は短期間の頓宮に過ぎないのですが、尊んで称しています。「雑賀野ゆ」の「雑賀野」は、今の和歌山市雑賀崎あたりの野。「ゆ」は、~より。「背向」は、背後。「玉藻」は、藻を讃えての称。「沖つ島」は、沖の島。「然ぞ」は、このように。「玉津島山」は、雑賀野にあった離宮から沖に見えた島々。当時の和歌浦一帯は大半が海中にあり、いくつかの小山は島だったといいます。赤人は、玉津島の神に畏敬を奉じ、天皇の新しい離宮への寿詞を示すとともに、威力ある神霊を天皇に憑けさせて賞賛しています。
918の「沖つ島」は、沖にある島。「荒磯」は、岩石が露わに連なっている海岸。「潮干」は、干潟。「い隠れ」の「い」は、接頭語。「思ほえむ」は、思うことだろう。詩人の大岡信は、この歌を、その微妙な味わいによって意表をつく歌であるとして、次のように評しています。「作者が想像しているその相手は、荒磯に生える藻であり、自然界の実にありふれた草に対して、ほとんど人間に対するような感情を歌っている。いわば『かすかなるもの』へのこの染み入るような親しい眼差しは、詩人の自然界を見る見方が、時代の変遷とともに変化してきたことを示している」。ただ、藻は単なる海藻ではなく、海の祭りに不可欠な神饌(しんせん)であるため、赤人は、波になびく玉藻を神聖なものと捉え、それが隠れいくことを憂慮しているのです。
919の「若の浦」は、和歌山市の南岸、今は「和歌の浦」と記します。「潟を無み」の「無み」は、無くなるので。和歌の浦に満潮が訪れ、葦辺をさして鶴が鳴き渡っていく動的情景が美しく詠まれていますが、一方では、鶴は威力のある霊魂の運搬者という神霊を憑けて、皇統の恒久を願っているものです。斎藤茂吉は、「この歌は、古来有名で、叙景歌の極地とも云われ、遂には男波・女波・片男波の聯想にまで拡大して通俗化せられたが、そういう俗説を洗い去って見て、依然として後にのこる歌である。万葉集を通読して来て、注意すべき歌に標(しるし)をつけるとしたら、従来の評判などを全く知らずにいるとしても、標のつかる性質のものである。一般にいってもそういういいところが赤人の歌に存じているのである。ただこの歌に先行したのに、黒人の歌があるから黒人の影響乃至模倣ということを否定するわけには行かない」と述べています。茂吉が「黒人の歌」と言っているのは、巻第3-271の「桜田へ鶴(たづ)鳴き渡る年魚市潟(あゆちがた)潮(しほ)干(ひ)にけらし鶴鳴き渡る」の歌です。赤人は黒人の満潮を干潮に変え、さらに鶴の群れが、黒人では干潟を求めて飛んで行くのに対し、赤人は干潟がないので飛んで行くと表現しています。明らかに黒人の歌を意識して詠んだものと思われます。
巻第6-923~925
923 やすみしし わご大君(おほきみ)の 高知らす 吉野の宮は 畳(たたな)づく 青垣(あをかき)隠(ごも)り 川波の 清き河内(かふち)ぞ 春へは 花咲きををり 秋されば 霧(きり)立ち渡る その山の いやますますに この川の 絶ゆることなく ももしきの 大宮人(おほみやびと)は 常に通はむ 924 み吉野の象山(きさやま)の際(ま)の木末(こぬれ)にはここだもさわく鳥の声かも 925 ぬばたまの夜の更(ふ)けゆけば久木(ひさき)生(お)ふる清き川原(かはら)に千鳥(ちどり)しば鳴く |
【意味】
〈923〉安らかに天下をお治めになるわが天皇が、高々とお造りになった吉野の離宮は、幾重にも重なる青い垣のような山々に囲まれた、川の流れの清らかな河内だ。春になると花が咲き誇り、秋が来れば霧が一面に立ちこめる。その山がずっと重なるように、また、この川がいつまでも絶えないように、大宮人はいつまでも行きかうであろう。
〈924〉神聖な吉野の象山のなかの木々の梢(こずえ)には、しきりに鳴き騒ぐ鳥の声がする。
〈925〉夜が更けて、久木の生い茂る清らかな川原で、千鳥がしきりに鳴いている。
【説明】
聖武天皇の吉野離宮への行幸の際に、山部赤人が作った長歌1首と反歌2首。年月の記載はありませんが、笠金村が作った吉野離宮行幸従駕の歌(巻第6-920~922)に神亀2年(725年)5月との記載があり、同じ時の作とされます。
923の「やすみしし」は「わご大君」の枕詞。「高知らす」の「高」は讃え詞で、「知らす」は、御支配になる。「畳づく」は、(山々が)幾重にも重なる。「春へ」は、春ごろ。「咲きををり」は、枝もたわむほど咲き。「ももしきの」は「大宮人」の枕詞。924の「象山」は、奈良県吉野郡吉野町宮滝の下流南岸に見える山。「木末」は、木の枝先。「ここだ」は、数多く、たくさん。925の「ぬばたまの」は「夜」の枕詞。「久木」は木の名前で、今の何の木にあたるかは不明ながら、一説にはアカメガシワとされ、成長が早く、他の木に先んじて育つ強い生命力があることから、吉野の宮を讃える歌に詠まれたと考えられています。
赤人のこの長歌は、笠金村が時代の新風に乗っているのに対し、構想のみならず語句表現に至るまで、柿本人麻呂が吉野の宮に従駕したときの作(巻第1-36)に強く影響されており、宮廷賛歌の伝統的な形式を厳格に守って作られたことを物語っています。一方では、これを人麻呂の単なる模倣だとして批判する向きがあります。しかしながら、この時の聖武天皇の吉野行幸は、かつて壬申の乱で終始行動をともにした天武と持統の皇統の、正統な後継者であることの宣言であったわけです。人麻呂の吉野賛歌は、天武と持統を一体化して神格化するべく詠まれたものであり、赤人は、ここに聖武天皇をも一体化して人々に意識させるものとして、あえて人麻呂の歌を踏襲した賛歌を詠んだと考えられます。むしろ赤人の識見というべきです。
そして、924・925は、打って変わって、純粋に、素晴らしい叙景と抒情の境地に溢れています。長歌は公的な動機から作られたものですが、この2首の反歌は公的な要素を全く感じさせず分離したものになっています。この歌に関して、作家の田辺聖子は次のように述べています。「赤人は宮廷歌人らしく、宮を賛美し、天皇の御代を寿ぐところは人麻呂を踏襲しているが、自然の美をうたう声は、はや、赤人の地声である。赤人は、人麻呂のようにおのが情感を色絵具で、ぽってりと自然を塗り込めたりせず、自然の色彩をそのままにとどめる。それをうたう地声は澄んで透明である」。とくに924の歌は、上の句の「の」の音の重用によって、吉野という大地名から、次第に象山の小さな木々の梢に焦点を絞り、鳥の声を深い詠嘆として詠みあげていく技法から、自然詠の代表作と評されます。
巻第6-926~927
926 やすみしし わご大君(おほきみ)は み吉野の 秋津(あきづ)の小野の 野の上(へ)には 跡見(とみ)据(す)ゑ置きて み山には 射目(いめ)立て渡し 朝狩(あさがり)に 獣(しし)踏み起(おこ)し 夕狩(ゆふかり)に 鳥踏み立て 馬(うま)並(な)めて 御狩(みかり)ぞ立たす 春の茂野(しげの)に 927 あしひきの山にも野にも御狩人(みかりひと)さつ矢(や)手挾(たばさ)み騒(さわ)きてあり見ゆ |
【意味】
〈926〉安らかに天下をお治めになるわが天皇は、吉野の秋津野の辺に、鳥獣の足跡を探す人を置き、山にはずっと獣を待ち伏せ、弓を射る人を置き、朝狩りには寝ている鹿を踏み立たし、夕狩りにはねぐらの鳥を踏み立たし、馬を並べて狩りをなさることだ、草木の茂る春の野に。
〈927〉山にも野にもいっぱいに、天皇のお狩りの狩人が矢を手挟み、あちらこちらに入り乱れている。それがここから見える。
【説明】
当時、狩猟は男子にとって最上の趣味とされており、行幸中の聖武天皇の慰みとして催され、赤人がそれを傍観しつつ詠んだ歌とされます。
926の「やすみしし」は「わご大君」の枕詞。「秋津の小野」は、吉野離宮の周囲にあった古い狩猟地。「小野」の「小」は、美称。「跡見」は、獣の足跡をたどってその行方を捜す役。「み山」の「み」は、美称。「射目」は、獲物を射るために隠れる場所。「茂野」は、草の茂っている野。狩猟は本来は草の枯れた冬の時期が最適とされましたが、行幸中の臨時の催しとしてのことで、「春の茂野」の時期に行われました。927の「あしひきの」は「山」の枕詞。「さつ矢」は、狩りに用いる矢。
万葉集の時代区分
「万葉集」の全巻を通じて、最も古い歌は仁徳天皇の皇后・磐姫の作と伝えられているもので、最も新しい歌は天平宝字3年の大伴家持の作です。この間ざっと450年もの長い期間にわたりますが、実際は舒明天皇前後から1世紀の間に作られた歌が殆どです。
この時代は、政治的には聖徳太子の指導による大陸文化の流入、大化の改新、壬申の乱などの大変動、皇室中心の官僚社会国家の樹立など、わが国の歴史上きわめて重要な時期でもありました。
「万葉集」の時代区分にはいくつかの方法がありますが、次の4期に分けるのが普通です。
【第1期】 近江朝以前(壬申の乱・672年)まで
【第2期】 飛鳥・藤原期(平城京遷都・710年)まで
【第3期】 奈良時代前期(天平5年・733年)まで
【第4期】 奈良時代中期(天平宝字3年・759年)まで
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万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |
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(柿本人麻呂)
(山部赤人)
(大伴旅人)
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