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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

山部赤人の歌

巻第6-933~934

933
天地(あめつち)の 遠きがごとく 日月(ひつき)の 長きがごとく おしてる 難波(なには)の宮に わご大君(おほきみ) 国知らすらし 御食(みけ)つ国 日の御調(みつき)と 淡路(あはぢ)の 野島(のしま)の海人(あま)の 海(わた)の底 沖(おき)つ海石(いくり)に 鮑玉(あわびたま) さはに潜(かず)き出(で) 船(ふね)並(な)めて 仕へ奉(まつ)るし 尊(とうと)し見れば
934
朝なぎに梶(かぢ)の音(おと)聞こゆ御食(みけ)つ国(くに)野島(のしま)の海人(あま)の船にしあるらし
 

【意味】
〈933〉天地が限りなく広がっているように、また日月が長久であるように、ここ難波の宮で、われらが大君はとこしえに国々をお治めになるらしい。その大君の御食料を献る国の日ごとの貢物として、淡路の野島の海人たちが、沖の深い岩礁に潜って鮑玉を数多く採り出しては、舟を並べてお仕えいるのは、見るとまことに貴い。

〈934〉朝なぎに舟を漕ぐ櫓の音が聞こえてくる。あれは大君の御食料を献る、野島の海人が操る舟であるらしい。

【説明】
 天皇の難波の宮行幸に供奉していた赤人が作った歌。933の「おしてる」は「難波」の枕詞。「国知らす」は、国をお治めになる。「御食つ国」は、海産物など、天皇の御謄の物を奉る国。若狭国・近江国・和泉国・紀伊国・志摩国・淡路国などがそれと定められていました。「日に御調」は、その日の天皇への献上品、租税(租庸調の調)。「海の底」は「沖」の枕詞。「海石」は、海中にある岩礁。「鮑玉」は、真珠。ここでは、御謄の物としての鮑を尊んでこのように言っているようです。

巻第6-938~941

938
やすみしし 我が大君(おほきみ)の 神(かむ)ながら 高(たか)知らせる 印南野(いなみの)の 邑美(おふみ)の原の 荒たへの 藤井の浦に 鮪(しび)釣ると 海人船(あまぶね)騒(さわ)き 塩焼くと 人ぞ多(さは)にある 浦を吉(よ)み うべも釣りはす 浜を吉み うべも塩焼く あり通ひ 見(め)さくも著(しる)し 清き白浜
939
沖つ波(なみ)辺波(へなみ)静(しづ)けみ漁(いさり)すと藤江(ふぢえ)の浦に船そ動ける
940
印南野(いなみの)の浅茅(あさぢ)押しなべさ寝(ぬ)る夜の日(け)長くしあれば家し偲(しの)はゆ
941
明石潟(あかしがた)潮干(しほひ)の道を明日よりは下笑(したゑ)ましけむ家近づけば
  

【意味】
〈938〉わが天皇が安らかにお治めになる印南野の邑美の原にある藤井の浦に、鮪を釣ろうと海人の船があちらこちらに行き交い、海水から塩を焼こうと人がたくさん集まっている、浦がよいのでなるほど釣りをする、浜がよいのでなるほど海水から塩を焼く。たびたび通い御覧になるのも当然だ、この清らかな白浜よ。
 
〈939〉沖の波も岸辺の波も静かなので、漁をしようと藤江の浦に舟を出し、賑やかに行き交っている。
 
〈940〉印南野の原で浅茅を敷いて旅寝する夜が幾日も続いたので、故郷の家が懐かしく思われてならない。
 
〈941〉明石潟の潮が引いた道を、明日からは心うれしく歩いて行くだろう。妻の待つ家が近づくから。

【説明】
 聖武天皇が播磨国の印南野に行幸された時に赤人が作った歌。「印南野」は、兵庫県加古川市から明石市にかけての丘陵地。938の「やすみしし」は「我が大君」の枕詞。「神ながら」は、神そのままに。「高知らせる」は、立派にお治めになっている。「邑美の原」は、明石市の西北部の大久保町あたりか。「荒たへの」は「藤井」の枕詞。「藤井の浦」は、明石市藤江あたり。「鮪」は、マグロの類。「吉み」は、よいので。「うべも」は、なるほど、もっともなことに。「見さくも著し」は、ご覧になるのはもっともだ。

 939の「沖つ波辺波」は、沖の波も岸辺の波も。「静けみ」は、静かなので。「藤江の浦」は、明石市藤江の海岸。長歌では「藤井の浦」と言っており、二通りに呼んでいたもののようです。940の「浅茅」は、丈の低い茅(ちがや:イネ科の多年草)。「さ寝る」の「さ」は、接頭語。941の「明石潟」は、明石の海岸。「下笑ましけむ」の「下」は、心の中で。「笑ましけむ」は、うれしく思うことだろう。

 941について、窪田空穂は次のように述べています。「明日は都へ向って発足できるとわかった日の心うれしさを言ったものである。漠然とした取りとめのないうれしさで、言葉ともなり難いものであるのに、赤人は静かに帰路を辿る自身を想像の中に浮かべ、路の中でも最も風景のよい明石渇の潮干の道を歩ませ、しかも一歩一歩家の近づくことを思って、心中ひそかに笑ましくしている自身を捉えている。実際に即してのこの心細かい想像力は、驚嘆に値するものである。この時代の心細かい歌風の先縦をなすもので、特色ある歌である」。

巻第6-942~945

942
あぢさはふ 妹が目(め)離(か)れて しきたへの 枕も巻かず 桜皮(かには)巻き 作れる舟に 真楫(まかぢ)貫(ぬ)き 我(わ)が榜(こ)ぎ来れば 淡路の 野島(のしま)も過ぎ 印南都麻(いなみつま) 辛荷(からに)の島の 島の際(ま)ゆ 我家(わぎへ)を見れば 青山の そことも見えず 白雲も 千重(ちへ)になり来ぬ 榜(こ)ぎたむる 浦のことごと 行き隠る 島の崎々 隈(くま)も置かず 思ひぞ我(わ)が来る 旅の日(け)長み
943
玉藻(たまも)刈る辛荷(からに)の島に島廻(しまみ)する鵜(う)にしもあれや家思はざらむ
944
島隠(しまがく)り吾(わ)が榜(こ)ぎ来れば羨(とも)しかも大和へのぼる真熊野(まくま)の船
945
風吹けば浪か立たむと伺候(さもらひ)に都多(つだ)の細江(ほそへ)に浦(うら)隠(がく)り居(を)り
 

【意味】
〈942〉遠く離れて妻を見ることもできず、枕を交わすこともなく、桜の樹皮を巻いて造った船に櫂を取り付け、漕いで来ると、淡路島の野島が崎も過ぎ、印南都麻も過ぎて、辛荷の島のそばにやって来た。そこから我が家の方を見やれば、青々と重なる山のどのあたりとも見当がつかず、白雲が幾重にも重なるほど遠くなってしまった。漕ぎ巡ってきた浦々のどこでも、行き隠れる島の崎々のどこでも、一時も欠かすことなく、私は妻のことばかり思いながらやって来た、旅の日々が長くなってきたので。
 
〈943〉美しい藻を刈る辛荷の島をめぐり飛ぶ鵜だって、家にいる妻を思わないことがあろうか。

〈944〉島に隠れるように船を漕いでくると、羨ましいことに、大和へ上る熊野仕立ての船とすれちがったよ。

〈945〉風が吹くので沖の波は高いだろうと、様子をうかがい、都太の細江に一時退避していることだよ。

【説明】
 難波津を船出し、辛荷の島を過ぎる時に赤人が作った歌。瀬戸内海を西に進み、播磨国の室津沖にある辛荷島へ着くまでの旅愁を詠んでいます。942の「あぢさはふ」は「目」の枕詞。「しきたへの」は「枕」の枕詞。「真楫貫き」は櫂を船の両舷に通して。「野島」は、淡路島北端の岬。「印南都麻」は、加古川河口の高砂市あたりか。「榜ぎたむる」は、榜ぎめぐる。「隈も置かず」は、残すところなく。「旅の日長み」とあるのは、行幸に供奉する赤人が、奈良を離れ、難波宮での相応期間の奉仕を経てのこととされます。

 944の「真熊野の船」の「真」は、接頭語。紀伊の熊野の船のことで、船の型からそう称されました。熊野は良質の木材の産地であると共に、外海に面しているので造船が盛んで、その高い技術によって造られた熊野船は全国的に知れ渡っていたようです。同様の語に、松浦(まつら)船、足柄小舟(あしがりおぶね)、伊豆手(いずて)船などがあります。945の「伺候」は、様子を見ながら待機すること。「都多の細江」は、姫路市飾磨区の沿岸。斎藤茂吉は、「読過のすえに眼前に光景の鮮かに浮んで来る特徴は赤人一流のもので、古来赤人を以て叙景歌人の最大なものと称したのも偶然ではない」と言っています。

巻第6-946~947

946
御食(みけ)向(むか)ふ 淡路の島に 直(ただ)向ふ 敏馬(みぬめ)の浦の 沖辺(おきへ)には 深海松(ふかみる)摘み 浦廻(うらみ)には 名告藻(なのりそ)刈る 深海松(ふかみる)の 見まく欲しけど 名告藻の おのが名(な)惜(を)しみ 間使(まつか)ひも 遣(や)らずて我(われ)は 生けりともなし
947
須磨(すま)の海女(あま)の塩焼き衣(きぬ)の慣れなばか一日も君を忘れて思はむ
 

【意味】
〈946〉淡路島の真向かいの敏馬の浦の沖合いでは、海底深く生えている海松(みる)を摘み取り、浦のあたりでは名告藻を刈っている。その深海松の名のように、あの人を見ることを欲するけれど、名告藻(なのりそ)の名のように、浮名が立つのが惜しいので、使いの者をやることもできず、私は生きている心地になれない。
 
〈947〉須磨の海女の塩焼き衣を着慣れるように、あなたに慣れ親しんだら、一日でもあなたのことを忘れることができるでしょうか。

【説明】
 難波津から船出をして、敏馬(みぬめ)の浦を過ぎる時に、赤人が作った歌。「敏馬の浦」は、神戸市灘区岩屋あたりの海岸。左注には、この歌の作歌年月が未詳ながら、前の歌と似ているのでこの順序で載せる、とあります。946の「御食向ふ」は「淡路」の枕詞。「深海松」は、海底深く生えている海松(みる)で、食用の海藻。動詞の「見る」を掛けています。「名告藻」は、ホンダワラとされます。947の「須磨の海女の塩焼き衣の」は「慣れ」を導く序詞。「塩焼き衣」は、海女が浜で海水を取り、塩焼きをするときの作業服。

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巻第6-1001

大夫(ますらを)は御猟(みかり)に立たし娘子(をとめ)らは赤裳(あかも)裾(すそ)引く清き浜廻(はまび)を 

【意味】
 廷臣たちは狩をしにお発ちになり、官女らは赤い着物の裾を引きながら、きれいな浜で海の物を求めている。

【説明】
 春の3月、聖武天皇の難波行幸に際し詠んだ歌。「大夫」は、供奉の廷臣を尊んでの称。「立たし」は「立つ」の敬語。「娘子ら」は、女官ら。「浜廻」は、浜辺。行幸に供奉していた男女が、楽しく長閑に過ごしている風景を、眼前の女官たちを主にして歌っています。

 なお、同じく従駕した人たちによる歌が、997~1000・1002に載っています。

作者未詳
〈997〉住吉(すみのえ)の粉浜(こはま)のしじみ開けも見ず隠(こも)りてのみや恋ひわたりなむ
 ・・・住吉の粉浜のしじみが殻を閉じているように、私は思いをを打ち明けることもせず、じっと胸中に秘めたまま恋い続けることだろうか。

船王(ふねのおおきみ)
〈998〉眉(まよ)のごと雲居(くもゐ)に見ゆる阿波(あは)の山かけて漕ぐ舟 泊(とま)り知らずも
 ・・・長い眉のように、はるか雲の向こうに横たわる阿波の山々。そこに向かって漕いでいく舟は、今夜はどこに泊まるのか分からないけれども。

守部王(もりべのおおきみ)
〈999〉千沼廻(ちぬみ)より雨ぞ降り来(く)る四極(しはつ)の海人(あま)網手(つなで)乾(ほ)したり濡(ぬ)れあへむかも
 ・・・茅渟の浜あたりから雨が降ってくる。ここ四極の漁夫が網は干したままだ。濡れても構わないのだろうか。

〈1000〉児(こ)らしあらば二人(ふたり)聞かむを沖つ渚(す)に鳴くなる鶴(たづ)の暁(あかとき)の声
 ・・・ここにあの子がいたら、二人して聞くことができように。沖の浅瀬で鳴く鶴の明け方の声を。

安部朝臣豊継(あべのあそみとよつぐ)
〈1002〉馬の歩(あゆ)み押さへ留(とど)めよ住吉(すみのえ)の岸の黄土(はにゅう)ににほひて行かむ
 ・・・馬の歩みを抑えて止めなさい。ここ住吉の岸の美しい埴生に存分に染まっていこうではないか。

巻第6-1005~1006

1005
やすみしし 我(わ)が大王(おほきみ)の 見(め)したまふ 吉野の宮は 山高み 雲そたなびく 川速み 瀬の音(おと)ぞ清き 神(かむ)さびて 見れば貴(たふと)く 宜(よろ)しなへ 見ればさやけし この山の 尽きばのみこそ この川の 絶えばのみこそ ももしきの 大宮所(おほみやところ) 止(や)む時もあらめ
1006
神代(かみよ)より吉野の宮にあり通(がよ)ひ高(たか)知らせるは山川をよみ
 

【意味】
〈1005〉我が大君が支配なさっている吉野の宮は、山が高く雲がたなびいている。川の流れは速く、瀬の音は清らかである。山の姿は神々しくて、見れば見るほど貴く、川の姿も宮所に調和して、見れば見るほど清々しい。この吉野の山が無くなれば、この川の流れが途絶えたなら、その時はこの大宮所もなくなるだろうが、それはあるまい。

〈1006〉神代の昔から幾代にもわたってここ吉野の宮に通い続け、高々とお治めになっているのは、ひとえに山や川がよいからである。

【説明】
 天平8年(736年)の夏の6月に、聖武天皇が吉野の離宮に行幸された時に、天皇の仰せに答えて作った歌。年代の知られる、赤人最後の歌です。
 
 1005の「やすみしし」は「我が大君」の枕詞。「山高み」は、山が高いので。「神さびて」は、神々しくて。「宜しなへ」は、よい具合に、よろしさがそろって。「ももしきの」は「大宮所」の枕詞。「大宮所」は、皇居のある所。「あらめ」は、上の2つの「こそ」の結で、「あり」の未然形。1006の「高知らせる」は、立派にお治めになっている。「山川をよみ」は、山と川がよいので。

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古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。

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万葉集の代表的歌人

第1期(~壬申の乱)
磐姫皇后
雄略天皇
舒明天皇
有馬皇子
中大兄皇子(天智天皇)
大海人皇子(天武天皇)
藤原鎌足
鏡王女
額田王

第2期(白鳳時代)
持統天皇
柿本人麻呂
長意吉麻呂
高市黒人
志貴皇子
弓削皇子
大伯皇女
大津皇子
穂積皇子
但馬皇女
石川郎女

第3期(奈良時代初期)
大伴旅人
大伴坂上郎女
山上憶良
山部赤人
笠金村
高橋虫麻呂

第4期(奈良時代中期)
大伴家持
大伴池主
田辺福麻呂
笠郎女
紀郎女
狭野芽娘子
中臣宅守
湯原王


(山部赤人)

印南野

印南野(いなみの)は、兵庫県南部、東を明石川、西を加古川、北を美嚢 (みの) 川に囲まれた三角状の台地で、南に播磨灘を望みます。東西20km、南北10kmに及ぶ地域で、畿内の西の玄関口にあたります。『播磨国風土記』には印南野、『万葉集』には印南野、稲見野、稲日野(いなびの)などとして詠まれています。

台地のまわりを流れる河川と急崖で隔てられているため水利が悪く、近世初期まで開発は行われず、一つの村もない地域でした。河川からの揚水が可能になった江戸時代に水田化され、日本有数の灌漑用ため池密集地域となり、今では県下の穀倉地帯になっています。

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