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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

大伴坂上郎女の歌

巻第6-979

我が背子が着(け)る衣(きぬ)薄し佐保風(さほかぜ)はいたくな吹きそ家に至るまで 

【意味】
 私のあの人の着ている衣は薄いので、佐保の風はきつく吹かないでください、家にあの人が帰りつくまでは。

【説明】
 天平5年(733年)のある日、大伴坂上郎女を、甥の家持が訪ねてきました。帰り際に、家持にあたえた歌がこの歌です。まるで一夜を共にした恋人を送り出す風情で、「我が背子」は、一般には「わたしの夫」とか「わたしの恋人」ということになりますが、あえてユーモラスに表現したのでしょうか。郎女の、甥の身を慈しみ労わるやさしさが滲み出ています。この時の家持は15、6歳です。

 この当時に坂上郎女が住んでいたのは、大伴旅人の父、安麻呂の代以来の「佐保大納言卿」の家、つまり本邸です。大宰府から帰京後、天平3年(731年)7月に異母兄の旅人が亡くなって後は、坂上郎女が坂上里から移り住み、ここを主な活動の場とするようになっていました。また、この家には、安麻呂の妻で坂上郎女の母でもある大刀自(おおとじ:老主婦)の石川郎女も住んでいました。

 一方、家持は、父旅人の喪明けとなった天平4年(732年)7月以降に、大伴家の所有する別宅に移り住んだとみられています。佐保の家の西の方角にあったので、「西宅」とも呼ばれます。後の天平11年(739年)6月に、家持が亡くなった妾を偲んだ歌(巻第3-462ほか)を詠んでいますが、妾や子らと住んでいたのは、この別宅(西宅)だったとされます。

 「佐保風」は、佐保に吹く風という意味で、明日香風、泊瀬風など、同じような言い方の語が他にあります。「佐保」は、平城京の北の佐保川上流の一帯で、ここに大伴氏の邸宅がありました。「な~そ」は、禁止を表現する語。

巻第6-981~983

981
猟高(かりたか)の高円山(たかまとやま)を高みかも出(い)で来る月の遅く照るらむ
982
ぬばたまの夜霧(よぎり)の立ちておほほしく照れる月夜(つくよ)の見れば悲しさ
983
山の端(は)のささら愛壮士(えをとこ)天(あま)の原(はら)門(と)渡る光(ひかり)見らくし好(よ)しも
 

【意味】
〈981〉猟高の高円山が高いからでしょうか、月がこんな遅くに山の端から出てきて照ってします。

〈982〉夜霧が立ちこめるなか、ぼんやり照っている月の姿を見るのは悲しいものです。

〈983〉山の端に出てきた小さな月の美男子が、天の原を渡りつつ照らす光の何とすばらしい眺めでしょう。

【説明】
 「月の歌」3首。981の「猟高」は、高円山周辺の旧地名か。「高円山」は、奈良市春日山の南の丘陵地帯。「高みかも」は、高いゆえでろうか。高円山を東に臨む地にいての歌であるので、佐保の邸で詠んだものとみられます。982の「ぬばたまの」は「夜」の枕詞。「おほほしく」は、物のはっきりしない意、ぼんやり。「月夜」は、月、月の光。

 983の「ささら愛壮士」の「ささら」は天上の地名、「愛壮士」は小さく愛らしい男の意で、月を譬えています。左注に、ある人が郎女に、月の別名をささらえ壮子というと話すと、郎女はその名に興味をもち、それを詠み込む形で一首にしようとした、とあります。「ささら愛壮士」を詠んだ歌は、集中この1首しかなく、月の中でも特に上弦の月をいったのではないかとする説もあります。「門渡る」の「門」は、ここでは山が両側にあって門のように空が狭くなっている所。「見らくし好しも」の「見らく」は「見る」の名詞形。「し」は強意。「好しも」の「も」は詠歎。

巻第6-992

故郷(ふるさと)の飛鳥(あすか)はあれどあをによし奈良の明日香(あすか)を見らくしよしも 

【意味】
 古い飛鳥の里もよいけれど、今が盛りの奈良の明日香を見るのはすばらしいものです。

【説明】
 元興寺の里を詠んだ歌。「元興寺」は、崇峻天皇の元年(588年)に蘇我馬子が建てた飛鳥の元興寺(法興寺)を、平城京遷都後に奈良に移転した寺です。そのため、歌にあるように「奈良の明日香」と呼ばれました。「故郷」とあるのは、奈良に対させての古都、旧住地の意。「あをによし」は「奈良」の枕詞。「見らく」は「見る」の名詞形。「し」は、強意。郎女の兄の旅人は、生まれ故郷の明日香を訪れることをひたすら望んでいましたが(巻第3-333)、若い郎女は、新しい奈良の元興寺のほうがいいと歌っています。

巻第6-995

かくしつつ遊び飲みこそ草木(くさき)すら春は咲きつつ秋は散りゆく 

【意味】
 こうして、ずっと楽しみ飲みたいものです。変わらず見える草木ですら、秋にははかなく散ってしまうのですから。

【説明】
 題詞は「親族(うがら)を宴(うたげ)する歌」。大伴氏一族の者が集まって酒宴を催すことが恒例となっていたようで、天平3年(731年)に氏の上(かみ)だった旅人が没した後は、本来家持が跡を継ぐべきところ、まだ年若なので、郎女が家刀自として一族の祭祀や集会の行事を仕切っていました。この歌は、天平5年(733年)11月に「大伴氏神」を祭った際の親族との宴で、主人として酒を勧める歌を詠んだとみえます。「こそ」は願望の終助詞。

 ただ、この歌の調べに投げやりで捨て鉢な雰囲気もただようところから、その後の大伴氏の凋落を予期しているようにも感じるという人もいます。この時の家持は16歳にあたります。

巻第6-1017

木綿畳(ゆふたたみ)手向(たむ)けの山を今日(けふ)越えていづれの野辺(のへ)に廬(いほ)りせむ我(わ)れ 

【意味】
 木綿畳を手向ける、その手向けの山(逢坂山)を越えて行き、いったいどこの野辺で仮の宿りをすることになるのだろう。

【説明】
 天平9(737年)年夏4月、坂上郎女が賀茂神社に参拝し、そのまま逢坂山を越え、近江の海を臨み見て、夕方に帰って来て作った歌。逢坂山は、大津市と京都市の境の山。「木綿畳」は、木綿を畳んだ幣帛で、神に手向けることから「手向けの山」にかかる枕詞。「手向けの山」は、旅の無事を祈って手向けをする山で、ここは逢坂山のこと。「廬りせむ」は、廬を結ぼうというのか。当時の旅は、旅館などありませんから、行く先々で野に廬を結んで宿るのがふつうでした。ここでは、久しぶりの遠出の参詣に、あたかも野宿をしたかのように詠っています。

巻第6-1028

ますらをの高円山(たかまとやま)に迫(せ)めたれば里(さと)に下り来(け)るむざさびぞこれ

【意味】
 勇士たちが高円山で追い詰めましたので、里に下りてきたムササビでございます、これは。

【説明】
 題詞に次のような説明があります。「天平11年(739年)、聖武天皇が高円の野で狩猟をなさった時に、小さな獣が都の市中に逃げ込んだ。その時たまたま勇士に見つかって、生きたまま捕らえられた。そこで、この獣を天皇の御在所に献上するのに添えた歌。獣の名は俗にむざさびという」。ところが、左注に「まだ奏上を経ないうちに小さな獣は死んでしまった。そのため、歌を献上するのを中止した」。巻第4にも郎女が天皇に献上した歌(721・725・726)がありますが、郎女がどのような立場から天皇に歌を献上しようとしたものかは分かっていません。母の石川郎女と同じように命婦として宮廷に仕えた時期があるのかも不明ですが、731年に旅人が亡くなった後は大伴氏嫡流の大納言家を取り仕切る立場にありましたから、天皇に歌を献上する役割もあったとみえます。

 「高円の野」は、奈良市東南部の丘陵地帯。そこに聖武天皇の離宮がありました。「里」は、山地に対しての称。「むざさび」は、ムササビのこと。この時、坂上郎女ら女官は麓に控えていたようで、逃げ回るムササビに大騒ぎになったといいます。なお、『万葉集』でムササビを取り上げた歌は3首あります。

巻第8-1432~1433

1432
我(わ)が背子が見らむ佐保道(さほぢ)の青柳(あをやぎ)を手折(たを)りてだにも見むよしもがも
1433
打ち上(のぼ)る佐保の川原(かはら)の青柳(あをやぎ)は今は春へとなりにけるかも
  

【意味】
〈1432〉あなたがご覧になるであろう佐保道の青柳を、たとえ枝の一本を手折ってでも眺めることができる方法はないでしょうか。
 
〈1433〉上っている佐保川の川原に立ち並ぶ美しい青柳は、すっかり春の装いになってきたのだな。

【説明】
 異母兄・旅人が、長年連れ添った妻の大伴郎女を伴い太宰帥として着任したのが神亀5年(728年)春、しかし、着いて1か月ほどで大伴郎女が亡くなってしまいます。都にいた坂上郎女が一人はるばると大宰府に向かったのは、その翌年(729年)のはじめ頃だったと思われます。ここの歌は「柳の歌」とある2首で、大宰府にいる郎女が、都へ上ろうとする近親の男に向かって詠んだ歌のようです。「佐保」は、郎女の家があった奈良の地で、故郷の恋しさから、そこへ行く川原に生えている青柳を思い浮かべています。「青柳」は、青く芽吹いた柳。1432の「もがも」は、願望。1433の「打ち上る」の「打ち」は接頭語では、高地に向かって上りになっている佐保の地勢を言っているもの。「春へ」は、春らしい様子。

巻第8-1445・1447・1450

1445
風(かぜ)交(まじ)り雪は降るとも実にならぬ我家(わぎへ)の梅を花に散らすな
1447
世の常(つね)に聞けば苦しき呼子鳥(よぶこどり)声なつかしき時にはなりぬ
1450
心ぐきものにぞありける春霞(はるかすみ)たなびく時に恋の繁(しげ)きは
  

【意味】
〈1445〉風交りの雪が降ることもあろうが、私の家の、まだ実になっていない梅の花を散らさないでおくれ。
 
〈1447〉ふだんは切なく苦しく聞こえる呼子鳥の、その鳴き声もなつかしく聞かれる春になってきた。

〈1450〉心が鬱々として晴れない。春霞のたなびくこの季節に、しきりに恋心がつのるというのは。

【説明】
 1445は、題詞に「大伴坂上郎女の歌一首」とあるだけで、作歌事情が不明ですが、娘(坂上大嬢)のことを喩えた歌といわれます。坂上大嬢は家持の従妹にあたり、のち家持の正妻になった女性です。「実に」は、確かな夫婦関係を喩える語でもあり、この歌は、娘に求婚している者のあるのを知って、それに対して腕曲に警戒を求めたもののようです。また、この歌は、山上憶良の貧窮問答歌「風交じり雨降る夜の・・・」(巻第5-892)や、旅人の「沫雪のほどろほどろに降り敷けば・・・」(巻第8-1639)、さらに梅花の歌32首(巻第5-815~846)の全容に連動しているようにも感じられます。

 1447も「大伴坂上郎女の歌一首」の題詞ですが、左注に「天平四年三月一日、佐保の宅にて作れる」とあり、春の到来を特別な時としてうたっています。「呼子鳥」は、カッコウとされます。斎藤茂吉はこの歌を評し、奇もなく鋭いところもないが、季節の変化に対する感じも出ており、春の女心に触れることもできるようなところがある、「時にはなりぬ」だけで詠嘆がこもっている、と言っています。

 1450は、題詞に「大伴宿祢坂上郎が歌」とあり、坂上郎女に姓(かばね)を付した唯一の例となっています。そのため、「宿祢」の下に「家持贈」の三字が脱しているとして、家持の歌と見る説があります。窪田空穂もこれに従い、この歌は、郎女の心細かく、冴えて、何らかの屈折を帯びている歌風とは明らかに距離が感じられ、年若い日の家持を思わせる、と言っています。「心ぐき」は、心が鬱々として晴れない意の形容詞。

巻第8-1474~1475ほか

1474
今もかも大城(おほき)の山に霍公鳥(ほととぎす)鳴き響(とよ)むらむ我(わ)れなけれども
1475
何しかもここだく恋ふる霍公鳥(ほととぎす)鳴く声聞けば恋こそまされ
1484
霍公鳥(ほととぎす)いたくな鳴きそひとり居(ゐ)て寐(い)の寝(ね)らえぬに聞けば苦しも
  

【意味】
〈1474〉今頃ちょうど、大城の山でホトトギスが鳴き立てているのだろう。私はもうそこにいないけれど。
 
〈1475〉何でこんなにもホトトギスを待ち焦がれているのだろう。その鳴き声を聞いたら聞いたで、人恋しさがつのるばかりなのに。

〈1484〉ホトトギスよ、そんなにひどく鳴かないでおくれ。独り眠れないでいる今の私には、お前の鳴き声を聞くのは苦しくてならない。

【説明】
 1474は「筑紫の大城の山を思ふ」歌。「大城の山」は、大宰府の背後にある大野山で、山頂に大城がありました。郎女は、妻を亡くした旅人とともに大宰府に住んでいましたが、天平2年(730年)11月、旅人より一足早く帰京し、その翌年の夏に詠んだ歌です。1475は「霍公鳥」の歌。「何しかも」は、何だって。「ここだく」は、こんなにはなはだしく。1484の「いたくな鳴きそ」の「な~そ」は、禁止。

 1484について作家の大嶽洋子は、「眠れないで苦しむ一人寝のせつなさを、夜の闇に鳴くほととぎすと分かち合っているようなこの歌は、私にはほととぎすの声をむしろ頼みとして、ずうっと鳴いて欲しいと思っている、反語のように受け取れる」と述べています。また、不眠について歌ったのは万葉も時代が下がったこの郎女の歌が初めてだそうです。

巻第8-1498・1500・1502ほか

1498
暇(いとま)なみ来まさぬ君に霍公鳥(ほととぎす)我(わ)れかく恋ふと行きて告げこそ
1500
夏の野の茂みに咲ける姫百合(ひめゆり)の知らえぬ恋は苦しきものぞ
1502
五月(さつき)の花橘(はなたちばな)を君がため玉にこそ貫(ぬ)け散らまく惜しみ
1548
咲く花もをそろはうとしおくてなる長き心になほ及(し)かずけり
  

【意味】
〈1498〉暇がないからと、あの方はいらっしゃらないので、ホトトギスよ、こんなに恋い焦がれているという私の気持ちを、行って伝えてほしい。
 
〈1500〉夏の野の繁みににひっそりと咲いている姫百合、それが人に気づいてもらえないように、あの人に知ってもらえない恋は苦しいものです。
 
〈1502〉五月に咲く橘を、あなたのために薬玉として紐を通しておきました。花が散ってしまうのが惜しいので。

〈1548〉咲く花は色々ですが、せっかちに咲く花はあまり好きになれません。ゆっくり咲く花の、息の長い変わらぬ心には及びません。

【説明】
 「夏の相聞歌」。1498の「暇なみ」は、暇がないゆえに。「来まさぬ」は、敬語。「かく恋ふ」は、このように恋うの意ですが、「カッコウ」と鳴く鳥の声にあてたものとする見方があります。ホトトギスとカッコウは違う鳥ですが、『万葉集』には両者を区別していない場合があるからといいます。「告げこそ」の「こそ」は、願望の助詞。
 
 1500の上3句は「知らえぬ」を導く序詞。「知らえぬ」は、姫百合が人に知られない意と、恋の相手に知ってもらえない意を掛けています。「姫百合」は百合の一種で、鬼百合に比べると茎も花も小さく、夏に朱色または黄色の花が咲きます。小さいながらも、鮮やかに咲く姫百合の姿を、恋心の強さに重ねています。詩人の大岡信は、「坂上郎女の歌としてはやや意外な感じがするくらい純情可憐な恋歌であり、ひょっとしてまだ年若い親族の女に代わって作ってやった歌かもしれない、などと想像もされる」と言っています。

 1502の「玉」は、5月の節句に邪気を払うために作られた、錦の袋に香料を入れ、5色の紐を垂らした飾りのこと。1548の「をそろ」は、せっかち、早熟、軽率、ここでは早咲き。「うとし」は、親しくない。「おくて」は、遅咲き、晩生。遅咲きの萩を讃えて詠んだ歌ですが、ただちに男女関係が連想される歌であり、窪田空穂は「ある年齢に達した聡明な女性の心というべきである。安らかで、冴えた歌である」と評しています。

巻第8-1560~1561

1560
妹(いも)が目を始見(はつみ)の崎の秋萩(あきはぎ)はこの月ごろは散りこすなゆめ
1561
吉隠(よなばり)の猪養(ゐかひ)の山に伏(ふ)す鹿(しか)の妻呼ぶ声を聞くが羨(とも)しさ
 

【意味】
〈1560〉始見(はつみ)の崎に咲いている萩の花は、この月の間は散らないでおくれ、決して。
 
〈1561〉吉隠の猪養(いかい)の山をねぐらにしている鹿が、妻を呼んで鳴く声を聞くとうらやましく思われる。

【説明】
 「跡見(とみ)の田庄(たどころ)にして作る」歌。「跡見」は、奈良県桜井市外山のあたりか。「田庄」は、豪族の私有地。1560の「妹が目を」は、妹が姿をで、「始見」に意味で続く枕詞。「始見の崎」は所在未詳ながら「跡見の崎」の誤りとする説もあります。「散りこすなゆめ」の「ゆめ」は、決して。1561の「吉隠」は、桜井市吉隠。「猪養の山」は、吉隠の東北方の山。「羨しさ」は、うらやましく感じること。

巻第8-1592~1593

1592
しかとあらぬ五百代(いほしろ)小田(をだ)を刈り乱り田廬(たぶせ)に居(を)れば都し思ほゆ
1593
隠口(こもりく)の泊瀬(はつせ)の山は色づきぬ時雨(しぐれ)の雨は降りにけらしも
 

【意味】
〈1592〉わずかばかりの五百代の田を、慣れない手つきでうまく刈れずに番小屋にいると、都のことが思い出される。
 
〈1593〉泊瀬の山は色づいてきたところです。山ではもう時雨が降ったのでしょうね。

【説明】
 天平11年(739年)9月、竹田の庄で作った歌2首。「竹田の庄」は、大伴氏が有していた荘園の一つで、奈良県橿原市東竹田町、耳成山の北東の地にあったとされます。ふだんは都の邸宅に住んでいるので、管理人を置いて日常の管理をさせ、春の作付けと秋の収穫には出向いて立ち会ったのです。この時は秋の収穫時で、実際に自身が稲刈りしたかどうかは分かりませんが、使用している農民の監督方々、番小屋に寝泊りしたのは事実のようです。巻第8-1619~1620には、その郎女のもとを、家持が訪ねた時の歌が載っています。

 1592の「しかとあらぬ」は、さほどでもない、たいしたことない。「五百代」は、田の面積を表しており、1町(約1ヘクタール)の広さ。貴族の荘園としては確かに広くありませんが、あるいは郎女の謙遜かもしれません。「刈り乱り」は、刈り散らして。「田廬」は、番小屋のこと。1593の「隠口の」は「泊瀬」の枕詞。「泊瀬の山」は、竹田の庄から東に見える三輪山や巻向山。「降りにけらしも」の「けらし」は、過去の事柄の根拠に基づく推定。「も」は、詠嘆。当時の人々は、時雨によって紅葉の色が増すと考えていました。

巻第8-1651・1654・1656

1651
淡雪(あわゆき)のこのころ継(つ)ぎてかく降らば梅の初花(はつはな)散りか過ぎなむ
1654
松蔭(まつかげ)の浅茅(あさぢ)の上の白雪(しらゆき)を消(け)たずて置かむことはかもなき
1656
酒杯(さかづき)に梅の花浮かべ思ふどち飲みての後(のち)は散りぬともよし
 

【意味】
〈1651〉淡雪がこのごろのように降り続いていると、せっかく咲いた梅の花も散ってしまうのではなかろうか。

〈1654〉松の木陰の浅茅の上にある白雪を、消さずにそのまま残しておく手立てがないものだろうか。
 
〈1656〉盃(さかずき)に梅の花を浮かべ、気心の知れた仲間と飲み交わした後ならば、梅の花は散ってもかまわない。

【説明】
 1651の「継ぎて」は、続いて。「散りか過ぎなむ」の「か」は疑問、「な」は強意、「む」は推量。散ってしまうのではなかろうか。1654は、わずかに残っている雪に心を留めた歌で、「かもなき」の「かも」は疑問で、ないだろうか。窪田空穂は「消え残った雪と説明せず、具体的に描いて暗示しているところに味わいがある」「郎女の鋭敏な感性のあらわれている歌である」と評しています。

 1656について、天平4年(732年)に禁酒令が出され、左注に、お役所からの禁制で、「都や村里で集まって宴を催してはならない。ただし、親しい者同士が一、二人と飲んで楽しむことは許す」というので、この歌を作ったとあります。禁酒令の例外だとばかりに数人が集まって、酒宴を開いたようです。「思ふどち」は、親しい者同士の意。「散りぬともよし」という句は、巻第5-821や巻第6-1011などにも見え、当時流行した詩句だったかもしれません。なお、これに答えた作者未詳歌が次に載っています。

〈1657〉官(つかさ)にも許したまへり今夜のみ飲まむ酒かも散りこすなゆめ
 ・・・お役所は許してくださった。これなら今夜だけの飲酒とは限らない。梅花よ、次の宴まで決して散らないでおくれ。
 
 作家の吉川英治は、郎女の1656の歌を評し、「何か心象に沁みてくるような香があってわすれられない。王朝自由主義の中の明るい女性たちが、男どちと打ち交じって、杯を唇にあてている姿が目に見えるようだ」と言っています。

 この時代、禁酒令は何度か公布されており、その目的は、集会を禁止し、無用な政治批判を抑えるためだったとされます。この時の禁酒令はかなり厳しかったようで、王公以下に適用され、罰則は五位以上は1年間の給与停止、六位以下は免職、それ以外の者は杖で80叩きだったといいます。

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大伴坂上郎女の略年譜

大伴安麻呂と石川内命婦の間に生まれるが、生年未詳(696年前後、あるいは701年か)

16~17歳頃に穂積皇子に嫁す

714年、父・安麻呂が死去

715年、穂積皇子が死去。その後、宮廷に留まり命婦として仕えたか

721年、藤原麻呂が左京大夫となる。麻呂の恋人になるが、しばらくして別れる

724年頃、異母兄の大伴宿奈麻呂に嫁す

坂上大嬢と坂上二嬢を生む

727年、異母兄の大伴旅人が太宰帥になる

728年頃、旅人の妻が死去。坂上郎女が大宰府に赴き、家持と書持を養育

730年 旅人が大納言となり帰郷。郎女も帰京

731年、旅人が死去。郎女は本宅の佐保邸で刀自として家政を取り仕切る

746年、娘婿となった家持が国守として越中国に赴任

750年、越中国の家持に同行していた娘の大嬢に歌を贈る(郎女の最後の歌)

没年未詳

おもな歌人の収録歌数

市原王 8
大津皇子 4
大伴池主 29
大伴坂上大嬢 11
大伴書持 12
大伴旅人 78
大伴坂上郎女 83
大伴百代 7
大伴家持 477
小野老 3
柿本人麻呂 84
 (重出歌7)
笠金村 45
笠女郎 29
紀女郎 11
久米広縄 9
車持千年 8
元正天皇 5
光明皇后 3
狭野茅上娘子 23
沙弥満誓 7
志貴皇子 6
持統天皇 6
聖武天皇 11
高市黒人 18
高橋虫麻呂 35
橘諸兄 7
田辺福麻呂 44
天智天皇 4
中臣宅守 40
長意吉麻呂 14 
長屋王 5
額田王 12
藤原宇合 6
平群女王 12
山上憶良 75
山部赤人 49
湯原王 16


(光明皇后)

万葉の植物

ウメ
バラ科の落葉低木。中国原産で、遣唐使によって 日本に持ち込まれたと考えられています(弥生時代に渡ってきたとの説も)。当時のウメは白梅だったとされ、『万葉集』では萩に次いで多い119首が詠まれています。雪や鶯(うぐいす)と一緒に詠まれた歌が目立ちます。

サネカズラ
常緑のつる性植物で、夏に薄黄色の花を咲かせ、秋に赤い実がたくさん固まった面白い形の実がなります。別名ビナンカズラといい、ビナンは「美男」のこと。昔、この植物から採れる粘液を男性の整髪料として用いたので、この名前がついています。

ショウブ
『万葉集』では菖蒲草(あやめぐさ)と呼ばれている菖蒲(しょうぶ)はショウブ科の多年草で、初夏に長い葉の途中から、棒状の黄緑色の小花をびっしりとつけます。葉は香り高く薬効があり、昔から邪気を払い疫病を除くと云い伝えられてきました。アヤメ科の菖蒲(あやめ)や花菖蒲(はなしょうぶ)とは異なります。

スミレ
スミレ科の多年草で、濃い赤紫色の可憐な花をつけ、日本各地の野原や山道に自生しています。スミレの名前は、花を横から見た形が大工道具の墨入れ(墨壺)に似ているからとされます。スミレ属は世界に約500種あり、そのうち約50種が日本に分布しています。

ツゲ
ツゲ科の常緑低木ないし小高木で、主に西日本の暖かい地域に分布しています。材がきめ細かくて加工しやすく、仕上がりもきれいなので、昔から色々な細工物の材木として利用されてきました。垣根や庭木の植栽にもよく使われています。漢字では「柘植」や「黄楊」と書きます。

ツユクサ
ツユクサ科の1年草で、道ばたなどでよく見られます。秋に可憐な青花を咲かせますが、朝に咲いて、昼過ぎにはしぼんでしまう短い命です。また、昔はツユクサで布を染めましたが、すぐに色褪せるため、移ろう恋心に例えられました。「月草」はツユクサの古名です。

ハギ
マメ科の低木で、夏から秋にかけて咲く赤紫色の花は、古くから日本人に愛され、『万葉集』には141首もの萩を詠んだ歌が収められています。名前の由来は、毎年よく芽吹くことから「生え木」と呼ばれ、それが「ハギ」に変化したといわれます。

ヒメユリ
ユリ科の多年草。山地に自生し、高さは約50センチ。夏に数個の赤い6弁花を上向きにつけます。 ヒメユリの名は、他のユリに比べてやや小ぶりで可憐な花姿に由来するといわれます。

ヤブコウジ
『万葉集』では「山橘」と呼ばれる ヤブコウジは、サクラソウ科の常緑低木。別名「十両」。夏に咲く小さな白い花はまったく目立たないのですが、冬になると真っ赤な実をつけます。この実を食べた鳥によって、種子を遠くまで運んでもらいます。

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