巻第7-1068
天(あめ)の海に雲の波立ち月の船(ふね)星の林に漕(こ)ぎ隠(かく)る見ゆ |
【意味】
天の海に雲の白波が立ち、その海を月の船が漕ぎ渡り、星の林に隠れていくのが見える。
【説明】
巻第7の雑歌の冒頭に収められている「天(あめ)を詠む歌」です。天を海に、雲を波に、三日月を船に、星を林に見立てています。このような趣向は漢詩に多くみられるもので、その影響が濃いとされます。七夕の歌であると思われますが、月の船を漕いでいるのは月人壮士(つきひとおとこ)。壮大で、ロマンチックなメルヘンの世界の歌であり、巻頭に置かれているのは、当時も高く評価されていたことが窺えます。現代の私たちにもお馴染みの月見の風習は、中国盛唐の時代に起こり、日本に伝わったのは平安期になってからです。万葉時代には、月は神秘の対象だったのです。
なお、この歌は海外でも人気が高く、その英訳は次のようなものです。「On the sea of heaven the waves of clouds
rise, and I can see the moon ship disappearing as it is rowed into the
forest of stars.」
『柿本人麻呂歌集』は、『万葉集』編纂の際に材料となった歌集の一つで、人麻呂自身の作のほか、他の作者の歌や民謡などを集めています。この歌も作者ははっきりしませんが、漢詩の趣向が見られるところから、当時の先端を行く文化に触れる機会のあった人物が詠んだものと想像され、やはり人麻呂の作ではないかとされます。同歌集の歌は、巻第2・3・7・9・10・11・12・13・14の各巻に採録されており、うち巻第7・9・10・11・12の編者は、人麻呂歌集を尊重する態度で採録しています。
巻第7-1087~1088
1087 穴師川(あなしがは)川波立ちぬ巻向(まきむく)の弓月(ゆつき)が岳に雲居(くもゐ)立てるらし 1088 あしひきの山川の瀬の響(なる)なへに弓月(ゆつき)が嶽(たけ)に雲立ち渡る |
【意味】
〈1087〉穴師川に川波が立っている。巻向の弓月が岳に、雲がわき立っているらしい。
〈1088〉山中を流れる川の瀬音が高まるにつれて、弓月が岳一面に雲が湧き立ちのぼっていく。
【説明】
題詞に「雲を詠む」とある2首。1087の「穴師川」は、巻向川の別名。「痛足川」「痛背川」と表記する例もあり、それぞれ「ああ、足が痛い」「ああ、背中が痛い」の意から来ているようです。「巻向」は、奈良県桜井市北部の地。「弓月が岳」は、巻向山の最高峰(標高567m)で、三輪山の東北に連なります。「雲居」は、雲。「立てるらし」の「らし」は、確かな根拠よる推定の助動詞。穴師川の水量が増し川波の立ち騒ぐのを見て、源流の弓月が岳に湧き立っている雲が雨を降らせているからだろうと推定し、その雲が豊かな水をもたらすことを褒め称えている歌です。
1088の「あしひきの」は「山」の枕詞。「山川」は、山の中を流れる川で、上の歌の穴師川のこと。さらに山中を遡った感じで言うとともに、川の名を削り枕詞を用いて単純化しています。「なへに」は、~と同時に、~につれて。「雲立ち渡る」の「渡る」は、一面に~する意で、いっせいに雨雲が湧き立つさまを言っているもの。前歌では川波が立った現象から弓月が岳の姿を推定し、この歌では穴師川から離れて弓月が岳を目前にしています。
1087について斎藤茂吉は、「第2句に『立ちぬ』、結句に『立てるらし』と云っても、別に耳障りしないのみならず、1首に3つも固有名詞を入れている点なども、大胆なわざだが、作者はただ心のままにそれを実行して毫もこだわることがない。そしてこの単純な内容をば、荘重な響きをもって統一している点は実に驚くべきで、おそらくこの1首は人麻呂自身の作だろうと推測することができる」と評しています。また、1088も同様に人麻呂作だろうとして、「この歌もなかなか大きな歌だが、天然現象が、そういう荒々しい強い相として現出しているのを、その儘(まま)さながらに表現したのが、写生の極致ともいうべき優れた歌を成就したのである」と言っており、詩人の大岡信も「わずか一首の中で、これだけ大きな景観を詠み込み、一種深沈たる自然界の働きを感じさせる手腕は、並みの歌人のものではない」と評しています。
人麻呂はこの辺りに妻があったらしく、人麻呂歌集歌には、穴師、巻向、三輪などを詠んだ歌が多くあります。
巻第7-1092~1094
1092 鳴る神の音(おと)のみ聞きし巻向(まきむく)の桧原(ひはら)の山を今日(けふ)見つるかも 1093 三諸(みもろ)のその山なみに子らが手を巻向山(まきむくやま)は継ぎしよろしも 1094 我(わ)が衣(ころも)色取り染(そ)めむ味酒(うまさけ)三室(みもろ)の山は黄葉(もみち)しにけり |
【意味】
〈1092〉噂にだけ聞いていた巻向の桧原の山を、今日見ましたよ。
〈1093〉三輪山の山続きに美しい山が見える。それがあの可愛い人の手を巻くという名の巻向山なのか、うまくつながっていることだ。
〈1094〉私の衣にも色を付けて染めたいものだ。三輪山はすっかり紅葉している。
【説明】
「山を詠む」歌。1092の「鳴る神の」は雷のことで、「音」に掛かる枕詞。「鳴る神」の原文「動神」は、音を伴う動きを表しています。「音のみ聞きし」は、評判・噂にだけ聞いていた。「巻向」は、奈良県桜井市北部の地。「桧原の山」は、巻向山のことで、二等辺三角形の整然たる姿の桧(ひのき)の生える原は立派で名高く、それが林をなす山の様は極めて美しいとされます。「今日見つるかも」は、今日この目で見ることができた喜びをいう言葉。同じ句が集中ほかに6例ありますが、いずれも短歌の結句に用いられています。
1093の「三諸」は、神の来臨する盛り上がった土地の意で、ここでは「三輪山」を指します。三輪山は、桜井市の南東にそびえる山で、別に真穂御諸山(まほみもろやま)といいます。ここに来臨するという三輪の神は、大和国に斎く神々のうち、皇室の守護神としてもっとも尊崇されていた神であり、巻向山がその山に続いていることを讃えている歌です。「山なみ」は、山の並び。「子らが手を」は、愛しい人の手を枕にする意で、「枕(ま)き」と同音の「巻向山」に掛かる枕詞。「継ぎ」は「継ぐ」の名詞形で、続き具合の意。「し」は、強意の副助詞。「よろしも」の「も」は、詠嘆の終助詞。
1094の「色取り染めむ」は、原文「色服染」で、色服(いろぎぬ)に染めむ、にほはし染めむなどの訓みもなされています。「味酒」は、神に供える酒をみわといったので、同音の「三室(三輪山)」にかかる枕詞。衣を黄葉に染めたいというのは、三室の山の霊力を授かりたいとの呪術的な意味が込められています。
これら3首は、歌の中心を、桧原の山、巻向山、三室の山(三輪山)と順に変えて詠んでいるので、同時に作った一連の作とみられています。人麻呂のことを「愛の歌人」といっていた作歌の田辺聖子は、また次のようにも述べています。「(人麻呂は)愛の歌人ではあるが、また叙景歌にみなぎる彼の緊張感にも特徴がある。人麻呂は自然を詠むときも、相聞や挽歌を詠むときと同じような濃密な情感を、塗りこめずにはいられないらしい。その点、清新な自然を、清新に素直にうたいあげる赤人とはちがうようである。しかし人麻呂の力づよい叙景歌も、それはそれで躍動感があって美しい」
巻第7-1100~1101
1100 巻向(まきむく)の穴師(あなし)の川ゆ行く水の絶ゆることなくまたかへり見む 1101 ぬばたまの夜さり来れば巻向(まきむく)の川音(かはと)高しも嵐(あらし)かも疾(と)き |
【意味】
〈1100〉巻向の穴師を流れ行く水がとぎれないように、自分もこれきりでなく、また見に来よう。
〈1101〉暗闇の夜がやってくると、巻向川の川音が高くなった。嵐が来ているのだろうか。
【説明】
1100を人麻呂作とみて、このころに穴師川(巻向川の別名)のほとりに新たに通い始めた妻がおり、その妻に宛てた歌ではないかとする見方があります。光景への感動だけでは飽き足らない感があるのに加え、上3句が「絶ゆることなく」に譬喩として序詞の形になって続いているため、「かへり見む」の主格が明らかでない、などの理由によります。また、その妻とは、人麻呂が巻第1-42で「妹」と詠んだ、宮中の女官だった女性ではないか、と。「川ゆ」の「ゆ」は、起点・経由点を示す格助詞。
1101の「ぬばたまの」は「夜」の枕詞。「夜さり来れば」の「さり来る」は、時が到来することの意。「巻向川」は、巻向山から三輪山の北を西流し、初瀬川にそそぐ川。「嵐かも疾き」」の「かも」は、疑問の係助詞。嵐の風が激しいからだろうか。「嵐」の原文は「荒足」で、「荒」は、本来は、始原的で霊力が強く発動している状態をあらわす言葉とされ、そういった意味がここにも感じ取られます。前歌が昼間、こちらは夜の歌で、巻向の山中に宿り、夜更けの室内にあって河の瀬の音の高さを想像している趣の歌です。
この歌について斎藤茂吉は、「無理なくありのままに歌われているが、無理がないといっても、『ぬばたまの夜さるくれば』が一段、『巻向の川音高しも』が一段、共に伸々とした調べであるが、結句の『嵐かも疾き』は、強く緊(し)まって、厳密とでもいうべき語句である」と言い、「人麿を彷彿せしむるものである」とも言っています。
巻第7-1118~1119
1118 いにしへにありけむ人も吾(わ)が如(ごと)か三輪(みわ)の檜原(ひはら)に挿頭(かざし)折(を)りけむ 1119 行く川の過ぎにし人の手折(たを)らねばうらぶれ立てり三輪の桧原(ひはら)は |
【意味】
〈1118〉昔の人も今の私と同じように、三輪の桧原(ひばら)の檜(ひのき)を手折って、山葛(やまかずら)として頭にかざしていたのだろうか。
〈1119〉行く川の流れのように過ぎ去った昔の人たちが手折ってくれないので、力なく立っている、三輪の桧原は。
【説明】
「葉を詠める」歌。1118の「吾が如か」は、吾がするがごとくにか。「か」は、疑問の係助詞で、第5句で結んでいます。「桧原」は桧(ひのき)の生えている原。桧の枝葉をかざすというのは、単なる髪飾りではなく、三輪の神への信仰の行為とされました。昔から多くの人々が三輪の桧原の霊力にすがろうとしていたのだろうと言って、その神聖さを讃えています。「吾が」の原文が「吾等」と複数表現になっていることから、妻と二人でいたことを思わせ、窪田空穂は、「それだとこの場合、最も自然であり、また情味深いことである」と述べています。
1119は上の歌との連作であり、「行く川の」は、流れる川の水が元に戻らない、そのように、の意で「過ぎ」に掛かる枕詞。「過ぎにし人」は、亡くなった人。「死ぬ」を忌避した表現。「うらぶれ」は、しょんぼりして、わびしく思って。今では手折る人も少なくなり、うらぶれて立つ三輪の桧原の神を慰めています。窪田空穂は、「この歌は上の歌とは異なって複雑した心を気分化して詠んでいるものであるが、しかし言葉つづきは直線的で、沈痛な気分の籠もっているものである。人麿の信仰心を濃厚に示している歌である」と述べています。
一方、古代文学研究者の橋本達雄も、同じく1118の「吾が如」は妻と二人での意を込めているのであろうとしながら、「いにしへの人も私たちと同じように、ここで挿頭を折ったのだが、今は世になく、ともにかざした妻もまた、という感慨なのではないかと思う。やや深読みのようだが、1119およびあとに掲げる1268・1269は一連と考えられるので、このように解しうる。1119は流れゆく川のように世を去った人、すなわち妻を指すが、1118の『いにしへ』人も包みこんだ述べ方であろう。すでに折りかざす人もなく、三輪の檜原がしょんぼり立っているのであって、人麻呂の心をそのまま感情移入したものである。個人的な沈痛な悲しみを人世一般に拡げ、普遍化して嘆くのも人麻呂らしい手法」と述べています。
巻第7-1187
網引(あびき)する海人(あま)とか見らむ飽(あく)の浦(うら)の清き荒磯(ありそ)を見に来(こ)し我(わ)れを |
【意味】
人は、私を網を引く漁師だと思って見るだろうか。実際は、飽の浦の清い荒磯を見に来た私たちであるのに。
【説明】
「覊旅(たび)にして作れる」歌。「網引(あびき)」はアミヒキの約で、魚をとるために陸から大勢で網を引くこと。「海人とか見らむ」の「か」は疑問、「らむ」は現在推量で、人は我々を漁師だと思って見るだろうか、の意。「飽の浦」は、所在未詳ながら、岡山市飽浦または和歌山市の西北端の田倉崎あたりかともいわれます。「荒磯(ありそ)」は、アライソの約。石の多い海岸。「見に来し我を」の「を」は「なるを・なのに」の意。都から磯見に来た旅人である我々なのに。人麻呂の歌に「荒栲(あらたへ)の藤江の浦に鱸(すずき)釣る白水郎(あま)とか見らむ旅行くわれを」(巻第3-252)があり、似通っています。
海辺の漁師は海人(あま)とよばれ、元来、一族で集団的な力を持っていて、大和朝廷がわの人間からは、かなり特異な目で見られていました。支配階級に属する官人たる都人が、第三者から卑しい海人と見られることは辛いことであったようで、「海人とか見らむ」は、都人の誇り、あるいは旅愁(嘆き・怒り・自嘲)を示す類型表現となっています。
巻第7-1247~1250
1247 大汝(おほなむち)少御神(すくなみかみ)の作らしし妹背(いもせ)の山を見らくしよしも 1248 我妹子(わぎもこ)と見つつ偲(しの)はむ沖つ藻(も)の花咲きたらば我(わ)れに告げこそ 1249 君がため浮沼(うきぬ)の池の菱(ひし)摘(つ)むと我(わ)が染めし袖(そで)濡(ぬ)れにけるかも 1250 妹(いも)がため菅(すが)の実(み)摘(つ)みに行きし我(わ)れ山道(やまぢ)に惑(まと)ひこの日暮らしつ |
【意味】
〈1247〉大国主命(おおくにぬしのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)がお作りになった妹と背の山、この山は見るからに素晴らしい。
〈1248〉その花を妻と思って偲ぼうと思うので、沖の藻の花が咲いたら、どうか私に知らせてほしい。
〈1249〉あなたに差し上げるために、浮沼の池の菱の実を摘み採ろうとして、私が染めて作った着物の袖が濡れてしまいました。
〈1250〉あなたに贈るために山菅の実を摘みに出かけた私は、山の中で迷い歩いて、今日一日を暮らしてしまった。
【説明】
「覊旅(たび)にして作れる」歌。1247の「大汝」は大国主神の異名で、出雲国中興の神。「少御神」は、大国主神に協力して国土経営にあたったとされる少彦名神。この伝説は諸国にあって、当時の信仰として各地に生きていたようです。「作らしし」の上のシは尊敬の助動詞、下のシは過去の助動詞。「妹背の山」は、和歌山県かつらぎ町の紀の川を挟んで向き合う背の山と妹山。「見らく」は「見る」のク語法で名詞形。「し」は、強意の副助詞。紀伊の国の旅で、背の山を目にし、夫婦仲良く並んでいる山の姿を褒めた歌です。神代の二神の作った山であると言ったのは、当地の伝承を踏まえた最大級の山褒めの賛辞となっています。
1248の「我妹子と」の「と」は、上掲のような「と思って」の意ではなく、「と共に」の意にも解されます。そうすると、「見つつ偲はむ」は、偲ぶのではなく見て賞美しよう、の意になり、さらに「我妹子」は、家郷にいる妻ではなく、旅先で親しんだ遊行女婦的な女性のことになってしまいます。「沖つ藻」は、沖の藻。「つ」は、上代のみに用いられた古い連体格助詞。「告げこそ」の「こそ」は、願望の助詞。
1249の「浮沼の池」は、泥の深い沼。池の名ともとれ、所在未詳ながら、前2首との関連では紀伊の国、あるいは島根県のほぼ中央、三瓶山(さんべさん)西南の麓にある周囲3キロほどの浮布池(うきぬいけ)ともいわれます。「菱」は、菱科の水生植物で、その実の肉は白色で食料になります。『万葉集』には2首詠まれています。作者は下級の女官とされ、主人のお供で旅に出かけ、休息の間に故郷にいる夫への土産にするために苦労して菱の実を採ったようです。あるいは、菱の実を摘んで男をもてなす宴席での女の立場の歌とも見られます。
1250の「妹」は、ここは旅先の宿を借りて出逢った女性か。「菅」は、カヤツリグサ科スゲ属の植物。ユリ科のヤブランともいわれます。女性の装飾に用いたのでしょうか。「山道に惑ひこの日暮らしつ」は、前の歌の「袖濡れにけるかも」の表現と同様、その苦労を訴えることによって情愛を示したもの。あるいは、単に山遊びの楽しさをいうものか。
なお、『人麻呂歌集』から引用された歌の多くは「略体歌」、すなわち原文の表記に自立語に相当する語あるいは自立語の語幹だけが文字化されており、助詞や助動詞などの付属語は文字化されていません。たとえば1249は「君為
浮沼池 菱採 我染袖 沾在哉」、1250は「妹為 菅實採 行吾 山路惑 此日暮」と、いずれもわずか13の正訓字でのみ表記されています。文字化されていない部分に対する補読を「訓(よ)み添え」といい、正訓字でさえ訓が定まらない場合がある中にあって、これらの歌の訓がいかに不安定で揺れやすいかが分かります。1250の歌で言えば、第3句を「行く我を」「行く我は」などと訓じる説があります。
巻第7-1268~1269・1271
1268 子らが手を巻向山(まきむくやま)は常にあれど過ぎにし人に行き巻(ま)かめやも 1269 巻向の山辺(やまへ)響(とよ)みて行く水の水沫(みなわ)のごとし世の人(ひと)我(わ)れは 1271 遠くありて雲居(くもゐ)に見ゆる妹(いも)が家に早く至らむ歩(あゆ)め黒駒(くろこま) |
【意味】
〈1268〉巻向山は昔と変わらずあそこにあるが、死んでしまった妻を訪ねていって手枕を交わし、彼女を巻くことができようか、もうできない。
〈1269〉巻向山の麓を鳴り響かせて流れ行く水は、いくら激しくても、泡沫のように消えてあとかたもなくなってしまう。この世の我らも、すべてこんなふうになるのだ。
〈1271〉遠くにあって雲の彼方にあるとも見える愛しい妻の家、あの家にに早く着きたい。しっかり歩め、黒駒よ。
【説明】
1268の「子らが手を」は、愛しい妻の手を巻く(枕にする)意から「巻向山」にかかる枕詞。「巻向」は、奈良県桜井市北部の地。巻向山は、三輪山の東北の斎槻が岳を最高峰とし、三輪山の北方の穴師の山を含む一帯の山の総称。「常に」は、昔と変わらず。「過ぎにし人」は、死んでしまった妻。「行き巻かめやも」は、行ってその手を枕にすることができようか、できはしないの反語。
1269の「山辺」は、山の周辺。「響みて」は、鳴り響いて。「行く水」は、巻向山の麓を流れる痛足川(穴師川:あなしがわ)の水。「水沫」は、水面に浮く泡。人の世の無常を水泡にたとえるのは仏説にもとづいています。「世の人」は、現世の人。「我れは」の原文「吾等者」で、複数の我々の意。亡き妻に思いを馳せつつ、人の命のはかなさを痛感して詠んだ連作で、古代文学研究者の橋本達雄は、上の1118・1119と一連と考えられるとしています。
1271は「行路」と題しており、「路を行く」と訓んで、妻の家に行く道の途中の思いを述べた歌と見えます。「雲居」は、雲のかかっているところ、雲。「雲居に見ゆる」は、写実的な実景というより、「早く至らむ」という、馬の歩みすらもどかしく思う心理からの表現とされます。「歩め黒駒」は、歩めよ黒駒よ、と乗馬に命じたもの。黒駒は、黒毛の馬。なお、巻第14-3441に、同じ『柿本人麻呂歌集』の歌として、「ま遠くの雲居に見ゆる妹が家にいつか至らむ歩め我が駒」があります。巻第14は東国の歌(東歌)を集めた巻であり、『人麻呂歌集』が東国の歌も収めているということなのか、あるいは同歌集の歌が東国にまで流布していたのかは分かりません。
巻第7-1272~1273
1272 大刀(たち)の後(しり)鞘(さや)に入野(いりの)に葛(くず)引く我妹(わぎも) 真袖(まそで)もち着せてむとかも夏草(なつくさ)刈(か)るも 1273 住吉(すみのえ)の波豆麻(はづま)の君が馬乗衣(うまのりころも) さひづらふ漢女(あやめ)を据(す)ゑて縫へる衣ぞ |
【意味】
〈1272〉太刀の切っ先を鞘に入れる、その入野で葛を刈り取っている妻は、両袖のついた葛の着物を私に着せようと思って夏草を刈っているのか。
〈1273〉住吉の波豆麻のあの方の乗馬服は、わざわざ中国の女性を雇って縫わせた服なのですよ。
【説明】
旋頭歌(5・7・7・5・7・7)。『万葉集』には62首の旋頭歌があり、うち35首が『柿本人麻呂歌集』に収められています。これらは作者未詳歌と考えられており、万葉の前期に属する歌とされます。旋頭歌の名称の由来は、上3句と下3句を同じ旋律に乗せて、あたかも頭(こうべ)を旋(めぐ)らすように繰り返すところからの命名とする説がありますが、はっきりしていません。その多くが、上3句と下3句とで詠み手の立場が異なる、あるいは、上3句である状況を大きく提示し、下3句で説明や解釈を加えるかたちになっています。
1272の「太刀の後鞘に」は、太刀を鞘に通して収める意で「入り」と続き、地名「入野」を導く8音の序詞。「入野」は、所在未詳。「真袖もち」は、両袖を付けて。「葛引く」は、織物の繊維にするための葛を取る意。「着せてむとかも」の「てむ」は、意志の強め。「かも」は、疑問。「夏草刈るも」は「葛引く」を言い換えたもの。葛布を作るために夏の葛を引き刈る作業をしている女たちに歌いかけた戯れ歌とされます。
1273の「住吉」は、現在の大阪市住吉区を中心とした一帯で、万葉時代から港として知られ、また渡来人が多く住んでいました。「波豆麻」は不明で、人名または地名。「馬乗衣」は、乗馬服。「君」と呼ばれる男は、その地の領主というべき人か あるいは洒落男か、さぞや豪華な乗馬服を着ていたのでしょう。「さひづらふ」は、鳥がさえずるように意味の分からないことをしゃべる意で、「漢」の枕詞。「漢女」は、中国から朝鮮半島を経て渡来した漢(あや)氏の女性で、先進技術としての機織りや裁縫、染色にすぐれていました。他人からこれはどういう衣かと尋ねられたのに対し、誇りをもって自慢した歌のようです。
巻第7-1274~1276
1274 住吉(すみのえ)の出見(いでみ)の浜の柴な刈りそね 娘子(おとめ)らが赤裳(あかも)の裾(すそ)の濡れて行(ゆ)かむ見む 1275 住吉(すみのえ)の小田(をだ)を刈らす子(こ)奴(やつこ)かもなき 奴あれど妹がみためと私田(わたくしだ)刈る 1276 池の辺(へ)の小槻(をつき)の下の細竹(しの)な刈りそね 其(それ)をだに君が形見に見つつ偲(しの)はむ |
【意味】
〈1274〉住吉の出見の浜の柴は刈らないでくれ。乙女らが赤い裳裾を濡らしたまま行くのをそっと見たいと思うから。
〈1275〉「住吉の田を刈っているそこのお若いの、働かせる奴(やっこ)はいないのかね」「奴はいますが、でも今は愛する人のためと思い、私自身で刈っているのです」
〈1276〉池のほとりに生えているけやきの木のかげの篠は刈らないでください。せめてそれだけでも、あなたの形見として見て偲びたいから。
【説明】
旋頭歌(5・7・7・5・7・7)。1274の「住吉」は、現在の大阪市の住吉。「出見の浜」は住吉神社の西の海岸とされますが、今は埋め立てられていて具体的な所在は分かりません。「な~そね」は、禁止。「裳」は、女性が腰から下に着た衣装。赤色がふつうで、赤裳はもともとは官女の装いだったようです。男が、出見の浜で柴を苅っている人に言いかけた形ですが、実際にそうしたというわけでなく、そう思ったというにすぎないもので、いわゆるスケベ心の吐露です。乙女らが裳裾を濡らして下半身にまとわりつかせながら歩く姿は肌が透けて見え、ずいぶん色っぽく見えたのでしょう。
1275の「小田」の「小」は、接頭語。「刈らす」は「刈る」の敬語。「子」は、親しみを持って若い男や女を呼ぶ語で、多くは女への愛称ですが、ここでは稲を刈る青年を指しています。「奴」は、個人の家に隷属している下部(しもべ)。「私田」は、私有の田地。位田、賜田、口分田、墾田など。公の許可を得て開墾した田は、一定期間その人の私有とすることができました。ただし、それができるのは有力者で、そのような家には奴もいました。この歌は、通りかかった人が、身分ある若い人が自ら稲苅りをしているのを見て、奴はいないのかと訝かりながら問いかけた片歌と、それに対して、恋人の為に、奴を使わず自分がしているのだと答えた若い人との片歌を組み合わせ、その問答を一首としている戯笑歌です。
1276の「小槻が下」の「小」は接頭語で、けやきの木の下のかげ。けやきは神聖な樹木で、斎槻(ゆつき)とも呼ばれます。「細竹」は、篠(ささ)。「な~そね」は、~しないでほしい。「其れをだに」は、それだけでも。「形見」は、近くにいない人の身代わりに見る物。池の辺の細竹を形見にするというのは、それまで人目を避けて密会したことの記念にするという意味です。男に逢えなくなったのは、疎遠になったのか、遠くに去ったのか、あるいは死んだのか、その理由は分かりません。
巻第7-1277~1280
1277 天(あめ)にある日売菅原(ひめすがはら)の草な刈りそね 蜷(みな)の腸(わた)か黒(ぐろ)き髪に芥(あくた)し付くも 1278 夏蔭(なつかげ)の妻屋(つまや)の下(した)に衣(きぬ)裁(た)つ我妹(わぎも) うら設(ま)けて我(あ)がため裁(た)たばやや大(おほ)に裁て 1279 梓弓(あづさゆみ)引津(ひきつ)の辺(へ)なる名告藻(なのりそ)の花 摘(つ)むまでに逢はずあらめやも名告藻の花 1280 うちひさす宮道(みやぢ)を行くに我(わ)が裳(も)は破(や)れぬ 玉の緒(を)の思ひ乱れて家にあらましを |
【意味】
〈1277〉天にある日に因む、この日賣菅原の草を刈らないでくれ。美しいあの子の黒髪にゴミが付いてしまうではないか。
〈1278〉夏の繁った木陰にある妻屋の下で衣を裁っているわが妻よ。私のために心づもりして裁っているのなら、もう少し大きめに裁ってくれ。
〈1279〉この引津の辺りに咲いているという名告藻の花よ。その花を摘むまで逢わないということがあろうか、いつか必ずある、名告藻の花よ。
〈1280〉あの人に逢えるかと都大路を行き来しているうちに、私の裳裾はすり切れてしまった。こんなことなら、思い乱れても家にじっとしていればよかった。
【説明】
旋頭歌(5・7・7・5・7・7)。1277の「天にある」は、天上にある日の意で「日売菅原」にかかる枕詞。「日売菅原」は、地名か、あるいは姫菅(ひめすげ:カヤツリグサ科の多年草)の生える野原の意か。ここでは共寝をする場所として言っています。「草な刈りそね」の「な~そね」は、願望的な禁止。「蜷の腸」は「か黒き」の枕詞。蜷は、食用のタニシ、カワニナなどの淡水生の巻貝のことで、その腸(はらわた)が黒いのでかかります。「か黒き」の「か」は、接頭語。「芥」は、ごみ。「し」は、強意の副助詞。前句で「天にある日売菅原」といって天上世界の聖婚の場を想起させながら、後句では草を刈ってはならない理由を、共寝する女の髪に芥、すなわちゴミがつくからと卑俗的なことを言っており、前句と後句の落差に面白さのある歌となっています。
1278の「夏蔭の」は、夏の枝葉の繁った木陰にある。「妻屋」は、夫婦の寝室。母屋の脇に建てた別棟の部屋。「うら設けて」の「うら」は心で、心づもりしての意。「我がため裁たば」は、我が着るために裁つならば。「やや大に裁て」は、もう少し大きめに裁ってくれ。夫のために衣を仕立てている妻へ呼びかけたもので、若い夫婦間のやさしい情愛が漂っています。ただ、違った解釈もあり、新婚らしい女の裁縫仕事を見た第三者の男が、夫を気取って、「私のためならもう少し大きめに裁ってくれ」と、からかった歌だとするものもあります。とすると、この男の体は夫より少し大柄だったのでしょう。「裁つ・裁た・裁て」の反復が快い歌となっています。
1279の「梓弓」は、引くと続いて「引津」にかかる枕詞。「引津」は、福岡県糸島市の入海。天平8年の遣新羅使たちも、そこの港に停泊して歌を作っています。「辺なる」は、辺りにある。「名告藻の花」の「名告藻」は、ホンダワラ。ここは、軽率に名を告(の)るなと親から言い含められている女を譬えています。「摘むまでに」と、名告藻は花は咲かないのにこのように言っているのは、ありえないことで、いつの日にかはという意の譬喩。「逢はずあらやも」は反語で、逢わないということがあろうか、逢う。窪田空穂は、「旅人としてその土地の女と関係を結んだ男が、女と別れる際、別れかねる心をもっていったものである。『莫告藻の花』は、含蓄をもった巧妙な譬喩である。一見平凡にみえるが、すぐれた歌才を示しているものである」と述べています。
1280の「うちひさす」は、日の光の輝きに満ちたという意で「宮」にかかる枕詞。「うち」は、一面にの意の接頭語か。「宮道」は、皇居へ通う道。「玉の緒の」は「乱れ」の枕詞。玉を貫き通した緒が絶えて玉が乱れる意でかかります。「思ひ乱れて」は、愛する男性(大宮人)に恋い焦がれるあまり心が千々に乱れて、の意。前半の「宮道を行く」のが、その男性に逢いたい気持ちからだったことが分かります。「あらましを」の「まし」は反実仮想で、いればよかったのに。
巻第7-1281~1284
1281 君がため手力(たぢから)疲れ織りたる衣(きぬ)ぞ 春さらばいかなる色に摺(す)りてば良けむ 1282 梯立(はしたて)の倉橋山(くらはしがは)に立てる白雲 見まく欲(ほ)り我(わ)がするなへに立てる白雲 1283 梯立(はしたて)の倉橋川(くらはしがは)の石(いし)の橋はも 男盛(をざか)りに我(わ)が渡りてし石の橋はも 1284 梯立(はしたて)の倉橋川(くらはしがは)の川の静菅(しづすげ) 我(わ)が刈りて笠にも編(あ)まぬ川の静菅 |
【意味】
〈1281〉あなたのために腕も疲れて織った着物です、春になったらどんな色に染めたらよいでしょう。
〈1282〉倉橋山にわき立つ白雲を見たいなあと思っていたら、ちょうど白雲がわき立ってきたよ。
〈1283〉倉橋川の飛び石の橋はなあ、私が若い頃に、あの子の家に通うために渡ったあの飛び石の橋はなあ。
〈1284〉倉橋川の川のほとりに生えている静菅よ、私が刈って笠も編まずにそのままにした川の静菅よ。
【説明】
旋頭歌(5・7・7・5・7・7)。1281はの「手力」は、腕の力。「疲れ」は、労苦を訴えるものではなく、愛する人のために骨折って織り上げた女性の楽しい気持ちを表現したものです。「春さらば」は、春になったら。「さる」は、物が移動することを表し、遠のく場合にも近づく場合にも用いられます。「摺り」は、摺り染め。「良けむ」は、良いであろうか。若い妻が夫のために機を織り上げた時の歌、あるいは機織りをしながら女が歌った労働歌謡でしょうか、春になったらこう染めようかしら、ああしようかしらという計画も、明るい希望に満ちています。
なお、「いかなる色に」の原文は「何々」で、本居宣長が「何色」の誤りだと指摘するまでは「いかにいかに」と訓読していました。これについて詩人の大岡信は、「旧訓のほうがこの若い女の胸躍らせて言う口調にふさわしいように思われ、魅力を感じる。『いかなる色に』は、論理的で、その分、心躍りそのものの表現としては『いかにいかに』に劣っているように思われる」と言っています。
1282~1284の「梯立の」は、高床式の倉に梯子(はしご)を立てたところから「倉」にかかる枕詞。1282の「倉橋山」は、奈良県桜井市にある音羽山(標高852m)。「立てる白雲」は、わき立つ白雲よ、の意。「見まく欲り」は、見たいと思って。「なへに」は、~と同時に、ちょうどその時。見たいと思っていた自然現象を、希望通りに目にした時の感動の歌と解しましたが、一方で、今は逢うことのできない人を偲んで白雲に呼びかけた歌とする見方もあります。古代には雲は霊魂の象徴とされ、雲を見て人を偲ぶ歌が多くあります。
1283の「倉橋川」は、桜井市の多武峰から倉橋を経て初瀬川に合流する川。「石の橋」は、川の浅い場所に石を並べて橋にした踏み石。「はも」は、ここでは回想の意を持つ終助詞。「男盛り」は、若い盛りの時。昔、自分が軽々と飛んで渡った石橋は、今はもうなくなってしまった、あるいは、今は若さを失って飛べなくなったという、いずれかの感慨の歌と見えます。
1284の「静菅」は、菅の一種ながら、どういう特色のあるものかは不明。あるいは静かに生えている菅のことか。ここは女の喩えで、しかも、お高くとまって乱れることなくとり澄ましている女を譬えているとされます。「我が刈りて笠にも編まず」の、菅を刈ることは女を我が物にする意の譬え、編むことは女と夫婦になることの譬え。以前、この土地の女で、妻にしようと思いながらそのままにしてしまったことを譬えて思い出している歌とされますが、そんなにお高くとまっていると結婚相手ができないぞと揶揄している歌にも感じられます。
巻第7-1285~1289
1285 春日(はるひ)すら田に立ち疲(つか)る君は悲しも 若草(わかくさ)の妻なき君が田に立ち疲る 1286 山背(やましろ)の久世(くせ)の社(やしろ)の草な手折(たを)りそ 我(わ)が時と立ち栄(さか)ゆとも草な手折りそ 1287 青みづら依網(よさみ)の原に人も逢はぬかも 石走(いはばし)る近江県(あふみがた)の物語(ものがた)りせむ 1288 水門(みなと)の葦(あし)の末葉(うらば)を誰(た)れか手折(たを)りし 我(わ)が背子が振る手を見むと我(わ)れぞ手折りし 1289 垣越(かきご)しに犬呼び越(こ)して鳥猟(とがり)する君(きみ) 青山(あおやま)の茂(しげ)き山辺(やまへ)に馬(うま)休め君 |
【意味】
〈1285〉村人がみんなで遊ぶこんな日にさえ、田に立って働き、疲れ切ったあんたは哀れなことよ。かわいい妻もいないあんたは、一人っきりで立ち働いて疲れきっている。
〈1286〉山背の久世の神社の草は手折ってはならない。たとえあなたが我が世の盛りとばかり栄えていても、神社の草だけは手折ってはならない。
〈1287〉この依網の原で、誰か人に出くわさないものか。そしたら、近江の国の物語りをしように。
〈1288〉港の葦の葉先を誰が手折ったのか。いとしいあの人が振る手を見ようと思って、私が手折ったのです。
〈1289〉垣根の外から犬を呼び寄せて鷹狩をする若君よ、青山の葉が茂る山のほとりで馬を休めなさい、君よ。
【説明】
旋頭歌(5・7・7・5・7・7)。旋頭歌は『万葉集』全体で62首あり、うち35首が『人麻呂歌集』から採られています。『人麻呂歌集』の旋頭歌には、ここの歌のように庶民的な生活を詠んだ歌が多くあります。
1285の「春日」は、豊作を予祝し、村中が農事を休んで春山の歌垣で遊ぶ日。「田に立ち疲れ」は、田で労働して疲れ、の意ですが、「立つ」という語は、歌垣における一種の慣用語でもありましたから、「歌垣に立つ」ことをせずに「田に立つ」という意味が込められています。「若草の」は「妻」の枕詞。若草の柔らかく初々しいさまを「妻」に譬えたもの。「妻なき君し」の「し」は、強意の副助詞。春の歌垣に参加しない(節句働きの?)独身の農夫をからかっている、あるいは同情している歌謡風の歌です。
1286の「久世」は、京都府城陽市久世。「社の草」は、神域にある草で、神に仕える巫女あるいは人妻の譬え。「草な手折りそ」の「な~そ」は、禁止。「手折る」には、自分のものにする、の意があります。「我が時と立ち栄ゆとも」は、我が盛りの時と栄えていようとも。上掲の解釈ではこの主語を、草を手折ろうとする男としましたが、草(女)を主語として、たとい美しく栄えていようとも、と解するものもあります。
1287の「青みづら」は、語義に諸説あるものの、地名「依網」の枕詞で、掛かり方は未詳。「依網」は、諸所にあり未詳。「人も逢はぬかも」は、誰か人が来合わせないものか。「石走る」は「近江」の枕詞ながら。掛かり方未詳。「物語せむ」は、物語をしよう。男が誰かに話したいという物語の内容は不明ですが、詩人の大岡信は、そこがまた魅力だと言っています。窪田空穂も、「怪しいまでに印象が強く魅力的であるために、何事かを連想せずにはいられないような歌である」と言っています。
1288の「水門」は、水の出入り口の意で、河口のこと。船の停泊する港でもあります。「葦の末葉」は、葦の葉の先端。「誰か手折りし」の「か」は、疑問の係助詞。「見むと」は、見ようと思って。旋頭歌の原始形態である男女のかけ合いの形を残す歌であり、港から旅立つ男と、名残を惜しみながら男を見送る女との唱和だろうとされます。
1289の「鳥猟」は、トリカリの縮まった語で、鷹狩りのこと。土地の豪族の若君が犬を連れて鷹狩をしており、その犬が主人より先に走って行き、どこかの家の敷地内に入り込んでしまったのでしょう。追いかけてきた主人は垣根越しに犬を呼び戻そうとしています。その家に住んでいたのが作者の女性だったらしく、憧れの若君にお近づきになれる絶好のチャンスと見て、この辺で休憩されてはいかがですか、と呼びかけている誘い歌です。もともとは女集団の労働歌に近いものだったようです。なお、人間にとってもっとも身近な動物だったはずの犬は、『万葉集』には3例しか見えません。うち1例は単なる喩えに歌われているだけなので、犬そのものを歌っているのはこの歌を含めて2例しかありません。
巻第7-1290~1294
1290 海(わた)の底(そこ)沖つ玉藻(たまも)の名告藻(なのりそ)の花 妹(いも)と我(あ)れとここにしありと名告藻の花 1291 この岡に草刈る童児(わらは)然(しか)な刈りそね ありつつも君が来(き)まさむ御馬草(みまくさ)にせむ 1292 江林(えばやし)に宿(やど)る猪鹿(しし)やも求むるによき 白栲(しろたへ)の袖(そで)巻き上げて獣(しし)待つ我(わ)が背 1293 霰(あられ)降り遠つ淡海(あふみ)の吾跡川楊(あとかはやなぎ) 刈れどもまたも生(お)ふといふ吾跡川楊 1294 朝づく日(ひ)向(むか)ひの山に月立てり見ゆ 遠妻(とほづま)を待ちたる人し見つつ偲(しの)はむ |
【意味】
〈1290〉沖の彼方に靡く美しい名告藻の花よ、愛しいあの子と私とがここにいたとは人には言うなという名の花よ。
〈1291〉この岡で草を刈っている童子(わらべ)よ。そんなふうに根こそぎ刈らないでおくれ。そのままにしておけば、あの方がいらっしゃった時に馬が食べるから。
〈1292〉入江の林にひそむ猪や鹿は捕らえやすいというのですか。袖をたくし上げて勇ましく鹿を待っている我が夫よ。
〈1293〉遠江の吾跡川の岸辺の柳よ、刈っても刈ってもまた生い茂るという吾跡川の柳よ。
〈1294〉次第に朝になる向かいの山に新月が出ているのが見える。遠くに妻のある旅人は、その月を見ながら妻をしのんでいるのだろうか。
【説明】
旋頭歌(5・7・7・5・7・7)。1290の「海の底」は「沖」の枕詞。「沖つ玉藻の」の「つ」は、上代のみに用いられた古い連体格助詞。「玉」は美称。沖に生える玉藻の。以上2句は「名告藻」の修飾。「名告藻」は、ホンダワラの古名。「なのりそ」の「なのり」は「名告り」の意にも用いますが、ここでは(二人がここで逢ったことを)人には言うな、の意に用いています。
1291の「この岡」は、作者が現に立っている岡。「童児」は、雑役をする少年。「然な刈りそね」の「な~そね」は禁止。「ありつつも」は、ずっとそのままにしておいて。童児に草を刈らせているのは農耕儀礼の場として準備するためと見られ、そこに来訪する貴公子を待つ女の歌とされます。1292の「江林」は、入江に近い林。「宿る猪鹿やも」の「宿る」は、ねぐらにする、棲みつく。「や」は反語の係助詞で、「も」は、詠嘆。「求むるにによき」は、捕えやすい。上の「や」を受けて連体形で結んでいます。「白栲の」は「袖」の枕詞。猟師の妻が、猟をする夫の勇ましい姿を讃えている歌です。
1293の「霰降り」は、霰の降る音が「とほ」と聞こえる意で、「遠江」にかかる枕詞。「遠江」は、琵琶湖のある近江に対して、浜名湖のある遠い淡海の国の意で、静岡県西部。「吾跡川」は、浜松市北区細江町の跡川か。「川楊」は、水辺に自生する落葉低木のカワヤナギ(ネコヤナギ)。川原の石の間にも強靭な根を張り、その生命力の強さを褒めた歌です。1294の「朝づく日」は、次第に朝になる日光。人がみな向かい見る意で「向かひ」にかかる枕詞。「月立てり」は、月が改まって新月が現れたことを言います。「遠妻」は、遠方に住んでいる妻。
巻第7-1296~1299
1296 今作る斑(まだら)の衣(ころも)は面影(おもかげ)に我(わ)れに思ほゆ未(いま)だ着ねども 1297 紅(くれなゐ)に衣(ころも)染めまく欲しけども着てにほはばか人の知るべき 1298 かにかくに人は言ふとも織(お)り継(つ)がむ我(わ)が機物(はたもの)の白き麻衣(あさごろも) 1299 あぢ群(むら)のとをよる海に舟(ふね)浮(う)けて白玉(しらたま)採(と)ると人に知らゆな |
【意味】
〈1296〉今作っている斑模様の美しい着物は、その美しい仕上がりが、私の目の前にちらついて見えるほどに思われる。まだ着ることはできないけれど。
〈1297〉紅に衣を染めようと思うのですが、それを着て匂い立つように照り映えたら、世間の人に知られてしまうでしょうね。
〈1298〉あれこれと人は言い騒ぐでしょうけど、私は織り続けます。私の機(はた)にかけて織っているこの白麻の着物を。
〈1299〉あじ鴨が群れて揺れ動く海なんかで、舟を浮かべて真珠を採るのはよいけれど、人に知られないように。
【説明】
1296~1298は「衣(ころも)に寄する」歌。1296の「斑の衣」は、花で摺った濃淡のある斑染めの衣。当時の晴れ着だったようで、ここでは懸想をしている年ごろ前の少女に譬えています。「面影に我れに思ほゆ」は、私には面影として目の前にちらつくほどに思われる。「未だ着ねども」は、まだ共寝をしていないが、の意の譬喩。年ごろになりかかっている美しい娘との結婚を期待している男の歌とされます。
1297は、「紅」は、ベニバナの花を染料として染めた色で、華やかな派手な色。「染めまく欲しけども」の「染めまく」は「染めむ」のク語法で名詞形。染めたいと思うけれど。「着てにほはばか」の「にほふ」は、色が美しく照り映える意。「か」は、疑問の係助詞。思う人と共寝をしてその喜びが素振りに出たら、の意を含んでいます。「人の」は、世間の人が。思う男と結ばれたいと思いながらも、世間の目を気にしている女の気持ちを歌った歌とされますが、「衣」を女の比喩と見れば、男の歌となります。
1298の「かにかくに」は、あれこれと、とやかく。「人は言ふとも」は、周囲の人が非難して言おうとも。「織り継がむ」は、関係を続けようという譬え、「白き麻衣」は男の譬えで、機を織り続けると言って、ずっと思い続けようとする女の気持ちを歌っています。「白き麻衣」と言っているのは、素朴で純粋な男を意味しているのでしょうか。結句は字余りですが、句中に単独母音アを含んで準不足音句になるので7音節となります。
1299は「玉に寄する」歌。「あぢ群」は、アジガモの群れ。「とをよる海」は、揺れ動く海のことで、あれこれ噂する世間を意味しています。「舟浮けて」は、舟を浮かべて。男が公然と女を求めることを譬えています。「白玉」は真珠で、美女の譬え。「人に知らゆな」の「人」は、世間の人。「ゆ」は、受身の助動詞。「な」は、禁止の終助詞。世間の目を憚らず、女を自分のものにしようとしている男に対して、第三者の立場から戒めている歌です。
巻第7-1300~1303
1300 をちこちの礒(いそ)の中なる白玉(しらたま)を人に知らえず見むよしもがも 1301 海神(わたつみ)の手に巻き持てる玉ゆゑに礒の浦廻(うらみ)に潜(かづ)きするかも 1302 海神(わたつみ)の持てる白玉見まく欲(ほ)り千(ち)たびぞ告(の)りし潜(かづ)きする海人(あま) 1303 潜(かづ)きする海人(あま)は告(の)れども海神(わたつみ)の心し得ねば見ゆといはなくに |
【意味】
〈1300〉あちこちの海辺の石の中にひそむ美しい玉(真珠)を、どうかして他人に知られず見ることができないだろうか。
〈1301〉海の神が手に巻き付けている美しい玉(真珠)、その美しい白玉を採りたくて、私は岩の多い海辺で水に潜っているのだ。
〈1302〉海の神が持っている白玉(真珠)をひと目見たくて、何度も何度も祝言を唱えていた。水に潜る海人よ、お前は。
〈1303〉水に潜って真珠を取ろうとする海人は、何度も告り言をするけれども、海の神のお許しが得られなければ出逢えないというではないか。
【説明】
「玉に寄する」歌。1300の「白玉(真珠)」は、尊く美しい女、「をちこちの磯」は、その白玉を厳しく取り巻いて護っている人々を意味しており、作者は近づきがたい高い身分の女に恋しています。そうした女性はずっと家の中にいたため、男は垣間見(かいまみ)、ありていに言えば「のぞき見」するよりほかなかったのです。それにしても「をちこちの」と言っていますから、ひょっとしたら「のぞき趣味」の男が詠んだ歌かもしれません。「見むよし」は、見る方法。「もがも」は、願望。
1301の「海神」は、海(わた)つ神。海の神。後にはワタツミが海を指すようになり、海の神は「わたつみの神」と言うようになります。「手に巻き持てる玉」は、腕に巻いて持っている玉(真珠)。「潜き」は、真珠を採るために海に潜ること。「かも」は、詠嘆。親が大事にしている娘に喩え、手に入れるために苦労していると言っています。1302の「見まく欲り」の「見まく」は「見む」のク語法で名詞形。「欲り」は、願い望む意の動詞「欲る」の連用形。「千たび」は、繰り返し何回も。この歌は前歌と連作の関係になっており、第三者が男の行動を解説するように歌い継いでいるものです。
1303の「告れども」は、告り言をするけれども。「海神の心し得ねば」は、親の許しが得られないので、の意。「し」は、強意の副助詞。「見ゆといはなくに」は、娘に逢うことができるとは誰も言わない、の意。「なくに」は、文末にあっての詠嘆。これも第三者の歌。
海人(あま)を詠んだ歌は『万葉集』に66首あります。折口信夫によれば、古代日本では「天(あま)」と「海」は同一視されていたといいます。漁労民をいう「海人」と「天」が同じ「アマ」の音を持つことがその証左とされ、古代の神話的世界観では「天」と「海」が共に「国」の対とされていることからも、その共通性が窺えます。「海」は遠い沖の果てで「天」の壁のそびえ立つ場所と接しているとされていたのです。
巻第7-1304~1306
1304 天雲(あまくも)のたなびく山の隠(こも)りたる我(あ)が下心(したごころ)木(こ)の葉知るらむ 1305 見れど飽かぬ人国山(ひとくにやま)の木(こ)の葉をし我(わ)が心からなつかしみ思ふ 1306 この山の黄葉(もみち)が下の花を我(わ)れはつはつに見てなほ恋ひにけり |
【意味】
〈1304〉天雲がたなびく山のように隠れた私の本心を、木の葉は知っているだろう。
〈1305〉見飽きることのない人国山の木の葉を、心から親しく思うことだ。
〈1306〉この山の黄葉の下にひっそり咲いている花をちらりと見ただけなのに、それでかえっていっそう恋しくなったことだ。
【説明】
1304~1305は「木に寄する」歌。1304の上2句は「隠る」を導く序詞。「下心」は、内心、秘めた心の奥底。「下」は「表(うへ)」の対義語で、人に見えないところを言います。「松は知るらむ」(巻第2-145)とか「木の葉知りけむ」(巻第3-291)などとあるように、木の枝や葉は人の心を知る力を持つ人格的なものとされ、ここでも片恋の気持ちを木の葉に寄せて歌っています。窪田空穂は、「捉え難いものを鋭敏な感情をもって捉えて、素朴な形でいって、その心を暗示しているものである。目立たない作であるが、高手ということを思わせる」と評しています。
1305は前の歌との連作。「見れど飽かぬ」は、人国山を褒める言葉。「人国山」の所在は不明。木の葉をいうのに山の名をあげているのは異例ですが、人の国というので、他人のものという意味を持たせていると見られ、「人国山の木の葉」は、人妻あるいは他所の土地の女を譬えているとされます。「し」は、強意の副助詞。「なつかしみ思ふ」は、慕わしく思う。
1306は「花に寄する」歌。「はつはつに」は、ちらりと、わずかに。何の花かは言っていませんが、小さく目立たない花と見られ、その花を身分の低く存在の薄い女に譬え、黄葉をその女の周囲にいる華やかで身分のある女に譬えています。「なほ恋ひにけり」の「なほ」は、それでも、かえって。あるいは、秋山の宴席で、はかない出逢いをした女性へのつのる恋心を歌ったものかもしれません。
巻第7-1307~1310
1307 この川ゆ舟は行くべくありといへど渡り瀬(ぜ)ごとに守(も)る人あり 1308 大海(おほうみ)を候(さもら)ふ港(みなと)事(こと)しあらば何方(いづへ)ゆ君は我(わ)を率(ゐ)しのがむ 1309 風吹きて海は荒(あ)るとも明日(あす)と言はば久しくあるべし君がまにまに 1310 雲(くも)隠(がく)る小島(こしま)の神の畏(かしこ)けば目こそ隔(へだ)てれ心隔てや |
【意味】
〈1307〉この川を渡って舟は行くことができるというけれど、どの渡し場にも見張りの人がいる。
〈1308〉大海の様子をうかがっている港で、もし何か事が起こったら、どちらへあなたは私を連れていって凌いでくれるのでしょうか。
〈1309〉風が吹いて海は荒れていますが、船出を明日に延ばしましようなどと言ったら、今度はいつになるやも知れません。あなたの意のままにお任せします。
〈1310〉雲に隠れている小島の神が恐ろしいので、お逢いするのを差し控えていますが、心の方は決して離れてはいません。
【説明】
1307は「川に寄する」歌。「この川ゆ」の「ゆ」は、起点・経由点を示す格助詞。ここでは、~を渡っての意。「舟」は、男自身の譬喩。「行くべくあり」は、行くことができるようになっている。「べし」は、可能。「渡り瀬」は、舟で渡るのに都合のよい川瀬。「守る人」は、番をしている人。その川瀬を恋路に喩えており、女は自分に対して心を許しているものの、邪魔立てする者(親などの第三者)がいると言っています。
1308~1310は「海に寄する」歌。1308の「大海」は、本によっては「大船」とあります。「候ふ」は、海の様子を窺う、船出するために風や波の静まるのを待つ意。「事しあらば」の「事」は事件で、「し」は強意の副助詞。暴風などの危険な事が起こったら、の意。「何方」は、どちらの方。「ゆ」は、起点・経由点を示す格助詞。「率しのがむ」は、連れて行ってその変事を凌ぐのだろうか。女が、「大海を候ふ港」を逢引の場所に譬え、「二人のことで何か事が起こっても、私のためにそれを乗り越えてくれますか」と、相手の男に自信のほどを尋ねている歌です。荒波の危険にさらされる恋愛の航海にあっては、女は男の梶取り如何に任せるほかはないからです。
1309の「風吹きて海は荒るとも」は、親や世間の風当たりが強いことを譬えています。「海は荒るとも」の原文「海荒」で、「海こそ荒るれ」と訓むものもあります。「久しくあるべし」は、待ち遠しいことだろう。「君のまにまに」は、君の思うままに。二人の恋愛を妨げる障害が大きいけれど、明日までは待てない、今日、あなたの意志に従います、という女の決意を歌っています。前の歌との連作とされます。
1310の「雲隠る」は、雲に隠れている。「小島の神」は「海に寄する」というので、海上の神のことか。女を監視する母親、または男の背後にいる正妻を譬えています。あるいは高貴な相手のことか。「畏けば」は、恐ろしいので。「目こそ隔てれ」は、逢うことは控えているが、の意。「心隔てや」の「や」は反語で、心を隔てようか隔てはしない。男の歌とも女の歌とも取れます。
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巻第7について
巻第7は、作者・作歌事情などが不明な歌が多く、おおむね持統期から聖武朝ごろの歌からなっています。雑歌・譬喩歌・挽歌の3部立ですが、雑歌の部に相聞らしい歌があったり、譬喩歌とありながら「寄物陳思」というべき直喩の歌であるなど、その分類は必ずしも厳密ではないようです。
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古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |
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