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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

東歌(巻第14)~その2

巻第14-3410~3414

3410
伊香保(いかほ)ろの沿(そ)ひの榛原(はりはら)ねもころに奥(おく)をな兼(か)ねそまさかしよかば
3411
多胡(たご)の嶺(ね)に寄(よ)せ綱(づな)延(は)へて寄すれどもあに来(く)やしづしその顔(かほ)よきに
3412
上(かみ)つ毛野(けの)久路保(くろほ)の嶺(ね)ろの葛葉(くずは)がた愛(かな)しけ子らにいや離(ざか)り来(く)も
3413
利根川(とねがは)の川瀬も知らず直(ただ)渡り波にあふのす逢へる君かも
3414
伊香保(いかほ)ろの夜左可(やさか)のゐでに立つ虹(のじ)の現(あら)はろまでもさ寝(ね)をさ寝てば
  

【意味】
〈3410〉伊香保の山裾の榛原、その榛(はん)の木の入り組んだ根のように、くよくよと二人の先のことまで心配しなくていい。今の今が幸せならそれでいいではないか。

〈3411〉多胡の嶺に綱をかけて引き寄せようとしても、ああ悔しい、びくともしない、その顔が美人ゆえに。

〈3412〉久路保の嶺の葛葉の蔓が別れて伸びていくように、愛しい妻といよいよ遠ざかって行くことだ。

〈3413〉利根川を渡る浅瀬の場所も分からないままむやみに渡り、だしぬけに波に遭ったように、思いがけずも逢っているあなたであるよ。
 
〈3414〉伊香保の夜左可の堰(せき)に立つ虹がはっきり見えるように、明るくなって皆にばれるほどになるまで一緒に共寝できたらなあ。

【説明】
 上野(かみつけの)の国の歌。3410は、将来に不安を抱いている女に対して、男が、「くよくよしなくていい」と説得している歌。「伊香保ろ」の「伊香保」は、群馬県の榛名山、「ろ」は接尾語。「沿ひ」は、傍ら。「榛原」はハンノキの生えている原。上2句は「ねもころに」を導く序詞。「ねもころに」は、熱心に。「奥」は、将来の意。「な兼ねそ」の「な~そ」は禁止。「兼ぬ」は先のことを前もって心配すること。「まさか」は、現在。上代の人々が「将来」のことを「奥」といっているのには、将来は向こうにあるものでも、向こうから来るものでもない、現在の奥にあるのが将来だという考え方があったのかもしれません。現在を掘るように生きるならば、将来はおのずからそこに現れてくるという哲学でしょうか。

 3411の「多胡の嶺」は、多胡の地の山ながら所在未詳。「寄綱延へて」は、重い物を引き寄せる綱をかけて。「あに来や」は、どうして寄って来ようか、来はしない。「しづし」は語義未詳ながら、「静し」で「静けし」の方言と見る説があります。山がじっとして動かない意。「その顔よきに」は、その顔がよいことによって。男が、無理と思いつつ美貌の女に言い寄ったものの、まったく相手にされなかったことを自嘲しています。
 
 3412の「久路保の嶺」は、黒檜岳を最高峰とする赤城山の古名とされます。「葛葉がた」は、葛葉の蔓。「愛しけ」は「かなしき」の東語。「いや離り来も」の「いや」は、いよいよ。愛する女を後に残し、防人などで、信濃路のほうへ向かって行く男が、途中、赤城の山を振り返り、その遠ざかったのを見て、別離の感を新たにしている歌です。

 3413は、利根川の上流地域で詠まれた歌。利根川の名が出てくる唯一の「東歌」です。「川瀬も知らず」は、川の深いのも浅いのも弁えず、考慮せず。「あふのす」の「のす」は「なす」の東語。~のように。初めて女の許へ通って行った男が、思いがけずも女と結ばれたことを喜んでいる歌です。上4句は「思いがけず」の比喩となっていますが、女に逢う直前に、男が実際に経験したことでもあるようです。一方、無謀と知りつつあなたに身を任せたのよ、と訴える女の歌との見方もあります。

 3414の上3句は「現はろ」を導く序詞。「ゐで」は、水を堰き止めてあるところ。「虹」は蛇神の顕現として畏怖の対象とされていたことから、神的なものが目に見える形で現れ出ることを意味する「立つ」という言葉が使われています。なお、「虹」を詠った歌は『万葉集』中ではこの1首のみです。

巻第14-3415~3420

3415
上(かみ)つ毛野(けの)伊香保(いかほ)の沼(ぬま)に植(う)ゑ小水葱(こなぎ)かく恋ひむとや種(たね)求めけむ
3416
上(かみ)つ毛野(けの)可保夜(かほや)が沼(ぬま)のいはゐつら引かばぬれつつ我(あ)をな絶えそね
3417
上(かみ)つ毛野(けの)伊奈良(いなら)の沼(ぬま)の大藺草(おほゐぐさ)外(よそ)に見しよは今こそまされ
3418
上(かみ)つ毛野(けの)佐野田(さのだ)の苗(なへ)の群苗(むらなへ)に事(こと)は定めつ今はいかにせも
3419
伊香保(いかほ)せよ奈可中次下 思(おも)ひどろくまこそしつと忘れせなふも
3420
上(かみ)つ毛野(けの)佐野(さの)の舟橋(ふなはし)取り離(はな)し親は放(さ)くれど我(わ)は離(さか)るがへ
  

【意味】
〈3415〉上野の伊香保の沼に植えてある小水葱。こんなに恋に苦しむことになろうと思って種を求めたわけでもないのに。

〈3416〉上野の可保夜が沼に生えるいわい葛(づら)のように、引き寄せたらほどけて私に寄り添い、決して私との仲を絶やさないでおくれ。

〈3417〉上野の伊奈良の沼に生える大藺草(おおいぐさ)ではないが、遠くから見ていた時より、我がものとした今の方が恋しさがまさる。

〈3418〉上野の佐野の田の苗の、群苗でする占いによって結婚相手が決められたので、今さらどうにもなりません。
 
〈3419〉伊香保の山の川瀬よ、[奈可中次下 思(おも)ひどろくまこそしつと]、忘れようにも忘れられない。

〈3420〉上野の佐野の舟橋を取りはずすように、親は私たちの仲を引き割こうとするけれど、私は離れようか、離れはしない。

【説明】
 上野の国の歌。3415の「伊香保の沼」は、榛名湖。「小水葱」はミズアオイで、愛する女の譬え。「種求む」は、共寝することの譬え。3416の「可保夜が沼」は、所在未詳。「いはゐつら」は、岩に生える蔓草か。「ぬれつつ」の「ぬる」は、ほどける。「我をな絶えそね」の「な~そ」は、禁止。3417は『柿本人麻呂歌集』に出ているとの注がある歌。上3句は「外に」を導く序詞。「大藺草」は、カヤツリグサ科の多年草のフトイ。3418の「佐野」は、高崎市の東南一帯。「群苗」は「占ひ」を掛けたもの。3419の「奈可中次下思ひどろくまこそしつと」は、訓義不明。

 3420の上3句は「放く」を導く序詞。「佐野の舟橋」について、『枕草子』第65段に「橋は」とある中に、当時有名だった橋の名が18列挙されており、その6番目に「佐野の舟橋」が出てきます。「舟橋」というのは、舟を何艘か横に並べ、その上に丸太や板を渡した橋のこと。その所在は、群馬県高崎市の烏川流域または栃木県佐野市などとする説があります。「がへ」は、反語を表す「かは」の東国方言。母親に恋人との交際をさしとめられた娘が詠んだものと見えます。
 
 東歌には、大きな地名に小さな地名を重ねた言い方をしているものが数多く見られます。ここにある「上つ毛野」で始まる歌もそうですし、他にも「葛飾の真間」「信濃なる千曲の川」「足柄の刀比」「鎌倉の見越の崎」など、くどいとも言える地名表現が多々あります。地元の人たちが詠む歌の物言いとしてはかなり不自然であり、いかにも説明的であるところから、中央の関係者によって手が加えられたものと想像できます。方言が含まれていない歌もたくさんあります。

巻第14-3421~3425

3421
伊香保嶺(いかほね)に雷(かみ)な鳴りそね我(わ)が上(へ)には故(ゆゑ)はなけども子らによりてぞ
3422
伊香保風(いかほかぜ)吹く日吹かぬ日ありと言へど我(あ)が恋のみし時なかりけり
3423
上(かみ)つ毛野(けの)伊香保の嶺(ね)ろに降ろ雪(よき)の行き過ぎかてぬ妹(いも)が家のあたり
3424
下(しも)つ毛野(けの)三毳(みかも)の山の小楢(こなら)のす目(ま)ぐはし児(こ)ろは誰(た)が笥(け)か持たむ
3425
下(しも)つ毛野(けの)安蘇(あそ)の川原(かはら)よ石踏まず空(そら)ゆと来(き)ぬよ汝(な)が心 告(の)れ
  

【意味】
〈3421〉伊香保の嶺に雷が鳴らないでくれ。私には差し支えないが、あの子のために。
 
〈3422〉伊香保の風は吹く日も吹かぬ日もあるというが、私の恋心はやむときがない。

〈3423〉伊香保のあの嶺に降る雪ではないが、とても行き過ぎ難い、あの子の家のあたりは。

〈3424〉下野の三毳の山の小楢のように美しいあの子は、将来いったい誰のために食物の器を差し出すことになるのだろう。
 
〈3425〉下野の安蘇の川原の石を踏まずに、空を飛ぶ思いでやってきたのだ。さあ、お前の本当の気持ちを言ってくれ。

【説明】
 3421~3423は上野(かみつけの)の国の歌。3421の「伊香保嶺」は、群馬県の榛名山。「な鳴りそね」の「な~そね」は禁止の願望。「故はなけども」は、支障はないが。群馬県の山間部は雷の名所として知られており、国文学者の折口信夫は、「雷鳴を遠ざける呪文の様に用ゐられたものだらう」という解釈をしています。3422の「時なかりけり」は、絶え間がない。3423の上3句は「行き」を導く序詞。「降ろ雪」の「ふろ」「よき」は東語。同じく上州名物の空っ風と雪がこの2首で歌われています。
 
 3424・3425は下野(しもつけの)の国の歌。下野国は栃木県一帯。3424の「三毳の山」は、栃木県佐野市東方の標高223mの山。「小楢」は、楢の若木。「のす」は「なす」の東国語形。「目ぐはし」は、目に見えて美しい。「くはし」は、完璧な美しさ、霊妙さをいう賛美表現で、『万葉集』では「細」「麗」「妙」の字があてられています。「児ろ」は女の愛称の東国方言。「笥」は飯を盛る容器。妻にしたい女を笥という語で表現しており、万葉学者の伊藤博は、「愛すべき魅力ある歌。男の深い懸念を活写して、すこぶる新鮮、集中でも特記すべき表現」と評しています。また、佐佐木幸綱は、「山の木を女性にたとえるのは、大和の感覚あるいは後世の感覚では不自然かもしれないが、このあたりの比喩の無骨さこそ、『東歌』の愛すべきところなのではないか」と言っています。

 3425の「安蘇の川原」は栃木県佐野市を流れ、渡良瀬川に合流する秋山川。「川原よ」の「よ」および「空ゆと」の「ゆ」は、いずれも、~を通っての意。なお、前出の3404では上つ毛野の安蘇となっているのに対し、こちらは下つ毛野の安蘇となっていますが、水島義治『校註万葉集東歌・防人歌』によれば、「上野国と隣接する下野国の足利、安蘇の二郡のあたりは渡良瀬川の流水変遷により、その所属に異動があったか、あるいは安蘇郡はもともと両国に跨って呼ばれたものであろう」と説明されています。
 
 斎藤茂吉は3424・3425について次のように評しています。「こういう歌は、当時の人々は楽々と作り、快く相伝えていたものとおもうが、現在の吾々は、ただそれを珍しいと思うばかりでなく、技巧的にもひどく感心するのである。小樽の若葉の日光に透きとおるような柔らかさと、女の膚膩(ふじ)の健康な血をとおしている具合とを合体せしめる感覚にも感心せしめられるし、『誰が笥か持たむ』という簡潔で、女の行為が男に接触する程な鮮明を保持せしめているいい方も、石も踏まずとことわって、さて虚空を飛んで来たという云い方も、一体どこにこういう技法力があるのだろうとおもう程である」。作家の田辺聖子も、3425について「何とも楽しい、線の太い歌。こう、むきつけに迫られては、男が可愛くなって、女も『否(いや)よ』とはいえないのではないか」と述べています。

巻第14-3426~3430

3426
会津嶺(あひづね)の国をさ遠(とほ)み逢(あ)はなはば偲(しの)ひにせもと紐(ひも)結ばさね
3427
筑紫(つくし)なるにほふ子ゆゑに陸奥(みちのく)の可刀利娘子(かとりをとめ)の結(ゆ)ひし紐(ひも)解く
3428
安達太良(あだたら)の嶺(ね)に臥(ふ)す鹿猪(しし)のありつつも我(あ)れは至らむ寝処(ねど)な去りそね
3429
遠江(とほつあふみ)引佐細江(いなさほそえ)の水脈(みを)つくし我(あ)れを頼(たの)めてあさましものを
3430
志太(しだ)の浦を朝(あさ)漕(こ)ぐ船は由(よし)なしに漕ぐらめかもよ由(よし)こさるらめ
  

【意味】
〈3426〉会津嶺のある国、そのふるさとが遠くなってしまえば簡単に逢えなくなる。互いを偲ぶよすがにしたいので、着物の紐をしっかり結び合っておくれ。

〈3427〉筑紫の美しい娘のおかげで、陸奥の可刀利の娘が結んだ着物の紐を解いてしまったよ。
 
〈3428〉安達太良山の鹿猪(しし)がいつも同じねぐらに帰って寝るように、私も毎晩通ってきて共寝をしようと思うから、そのまま寝床を変えないでほしい。

〈3429〉遠江の引佐細江に作られたみおつくしのように、私に頼りにさせておいて、でも本当は浅い気持ちだったのですね。

〈3430〉志太の浦を朝早く漕いで行く舟は、わけもなくあんなに急いで漕いでいるのだろうか。そんな筈はない、きっとわけがあって漕いでいるに違いない。

【説明】
 3426~3428は、陸奥(みちのく)の国の歌。陸奥は東山道の奥の国で、大和朝廷の時代には「道奥(みちのおく)」と呼ばれました。ほぼ今の福島県にあたります。ここの3首が万葉歌のほぼ北限と考えられます。これより北の「陸奥の小田なる山(宮城県涌谷町)」(巻第18-4094)も見えますが、これは越中国(富山県)で詠まれた歌です。3426の「会津嶺」は、福島県の磐梯山。「さ遠み」の「さ」は接頭語。「遠み」は、遠いので。「逢はなはば」の「なは」は打消しの助動詞「ぬ」の東語「なふ」の未然形。逢わないならば。「せも」は「せむ」の東語。

 3427の「筑紫」は、九州北部。「にほふ」は美しい、色っぽい。「可刀利娘子」の「可刀利」は、東国の地名とみられるものの所在未詳、あるいは縑(かとり)、すなわち固織りの意味で、織物の一種のこととして、「可刀利娘子」はこれを織る乙女と見る説もあります。「結ひし紐解く」は、再会するまで他の女とは接触しないと誓って結んだ下着の紐を解くこと。この歌は、防人あるいは俘囚の部領使(ことりづかい)などとして筑紫に行った男の歌とされますが、心変わりをした男を恨んで作った女の歌とする解釈もあります。大宰府が置かれた筑紫は、東国から見ればいわば先進地域であり、洗練された女性に目を奪われたことでしょう。
 
 3428の「安達太良の嶺」は、福島県二本松市の西方にある安達太良山。「臥す鹿猪の」は、そこを臥所としている鹿猪で、猪鹿は一たび臥所と定めたところは、けっして他に移さない習性を持っているところから、譬喩として「ありつつ」を導く序詞となっています。「ありつつも」は、いつまでも。「な去りそね」の「な~そね」は禁止。男が女に対し、自分の変わらぬ愛を誓い、女にもそうあってほしいと言っています。
 
 3429は遠江の国(静岡県西部)の歌。古代、浜名湖を「遠つ淡海」、琵琶湖を「近つ淡海」と呼んでいました。「遠つ」「近つ」は都から遠い、近いの意で、その後それぞれ国名になったものです。「水脈つくし」は、水路の目印として立てた杭。「あさまし」は浅いだろう。女が男を恨んでいる歌です。

 3430は駿河の国(静岡県中部)の歌。「志太の浦」は、大井川の河口とされます。男が、朝早くから、何処へ行くともなく舟を漕ぎ回っているのは、そこに好きな女の家があるからで、その不自然な動きを見て、「由こさるらめ(きっとわけがあるのだろう)」と言ってからかっている歌です。

巻第14-3431~3435

3431
足柄(あしがり)の安伎奈(あきな)の山に引(ひ)こ船の後(しり)引かしもよここば児(こ)がたに
3432
足柄(あしがり)の吾(わ)を可鶏山(かけやま)のかづの木の吾(わ)をかづさねも門(かづ)さかずとも
3433
薪(たきぎ)伐(こ)る鎌倉山(かまくらやま)の木垂(こだ)る木をまつと汝(な)が言はば恋ひつつやあらむ
3434
上(かみ)つ毛野(けの)阿蘇山(あそやま)つづら野を広み延(は)ひにしものをあぜか絶えせむ
3435
伊香保(いかほ)ろの沿(そ)ひの榛原(はりはら)我(わ)が衣(きぬ)に着(つ)きよらしもよひたへと思へば
  

【意味】
〈3431〉足柄の安伎奈の山で作った舟を後ろに引きながら下ろすのが難しいように、後ろ髪を引かれるようだ、こんなにひどく、あの子のゆえに。

〈3432〉足柄の、私に心を懸けているという可鶏山のように、私をかどわかして下さい、門(かど)を閉ざしていようとも。

〈3433〉薪を伐る鎌、その鎌倉山の枝をしならせている木を、松(待つ)とさえお前が言うならば、こんなに恋い焦がれてばかりいずに、すぐに帰って来ようよ。

〈3434〉上野の阿蘇山のつづらは、野が広いので伸び放題に伸びて広がる。そんな思いがどうして絶えることがありましょう。

〈3435〉伊香保の山沿いに広がる榛の木は、私の着物を染めるとちょうどいい具合だ。一重(ひとえ)で裏がないから。

【説明】
 3431~3433は、相模の国の歌。3431の「足柄」は、神奈川県と静岡県の県境。「安伎奈の山」は所在未詳。「引こ船」の「引こ」は「引く」の東語で、山で作った舟を、綱を引いて制御しながら川まで運ぶこと。「後引かしもよ」は、後ろ髪を引かれるようだ。「ここば」は、たいそう、甚だしく。「児がたに」は、児がために。

 3432の「吾を可鶏山」は、所在未詳。「かづの木」は「かぢの木」の東北訛りで、ウルシの一種であるヌレデを指すといわれます。上3句が「かづさねも」を導く序詞か。「かづさねも」の意味が分からず、誘う意の「かどふ」と同じ意味ともいわれます。「門(かづ)」は東語。難解な歌ですが、女が男を口説き、自分を盗み出してくれと訴えている歌と解するほかないようです。3433の「薪伐る」は、鎌を用いるところから「鎌倉」の枕詞。上3句は「まつ」を導く序詞。「まつ」は「松」と「待つ」の掛詞。「木垂る木」は、枝葉が垂れるほど茂った木。賀茂真淵は、防人出立の折の男の歌かもしれないとの説を唱えています。

 3434~3435は、上野の国の歌。3434の上3句は「延ひにし」を導く序詞。「阿蘇山」は所在未詳。「つづら」は、蔓草の総称。「野を広み」は、野が広いので。3435の「伊香保ろ」は、榛名山。「榛原」は、ハンノキが生えている原。「ひたへ」は、一重。

巻第14-3436~3440

3436
しらとほふ小新田山(をにひたやま)の守(も)る山のうら枯(が)れ為(せ)なな常葉(とこは)にもがも
3437
陸奥(みちのく)の安達太良(あだたら)真弓(まゆみ)はじき置きて反(せ)らしめきなば弦(つら)はかめかも
3438
都武賀野(つむがの)に鈴(すず)が音(おと)聞こゆ可牟思太(かみしだ)の殿(との)の中(なか)ちし鳥猟(とがり)すらしも
[或本の歌に曰く、美都我野に、また曰く、若子し]]
3439
鈴が音(ね)の早馬駅家(はゆまうまや)の堤井(つつみゐ)の水を賜(たま)へな妹(いも)が直手(ただて)よ
3440
この川に朝菜(あさな)洗ふ子 汝(な)れも我(あ)れも よちをぞ持てるいで子 給(たば)りに [一云に汝( まし)も我れも]
  

【意味】
〈3436〉新田山の山守に大切に守られている木々のように、梢が枯れることなく、ずっと青葉でいてほしい。

〈3437〉陸奥の安達太良山の真弓の弦をはずして反らせたまにして来たら、もう二度と弦は張れません。

〈3438〉都武賀の野から鈴の音が聞こえる。可牟思太のお屋敷に住む若様が鷹狩りをなさっているらしい。

〈3439〉駅鈴(えきれい)の音が聞こえる早馬のいる駅家の、湧き井戸の水を下さい、娘さん、あなたの素手で直接に。
 
〈3440〉この川で朝菜を洗う娘さん、あなたも私も互いによちを持っていますよね。私にあなたのよちを下さいな。

【説明】
 3436は、上野の国の歌。「しらとほふ」は語義未詳ながら、「小新田山」の枕詞。「小新田山」の「小」は美称。「新田山」は、太田市北方の金山(かなやま)で、3408でもうたわれています。「守る山」、つまり番人を置いて盗伐を禁止した山だったようです。「末枯れ」は、枝先が枯れること。男女いずれの歌か不明で、また夫婦間の相聞、あるいは親、子どもに対して言っているようにも受け取れます。

 3437は、陸奥の国(福島、宮城、岩手、秋田、青森の各県)の歌。「安達太良」は、福島県二本松市の安達太良山。「真弓」は、マユミの木で作った弓。「はじき置きて」は、弓の用が済んでそのままにしておくこと。「弦はかめかも」は、弦を元の通り張ることができない。弓は、通常、使用しない時は弦をはずして弾力を弱らせないようにするものの、そのまま長く放置すると弓が曲がったままになり弦が張れなくなる、と言っています。男から甚だしく疎遠にされている女の訴えの歌です。
 
 3438から、未勘国歌(国名のない歌)140首(或本歌を除く)が並びます。3438の「都武賀野」「可牟思太」は、所在未詳。「中ち」は、次男か。「し」は強意。「らしも」の「らし」は強い推量、「も」は感動の助詞。3439の「鈴が音の」は、公用の時に馬に鈴を付けたところから「早馬」の枕詞。「早馬駅家」は官吏が利用する公用の馬を置く駅舎で、宮道のおよそ30里(約16km:江戸時代に定められた1里=約4kmとは異なる)ごとに設けられ、官人の宿所と食糧を提供する施設も兼ねていました。「堤井」は、湧水の周りを石や木で囲った井。「直手」は、手でじかにの意。この歌は、井で働く女、あるいは通りかかった遊行女婦に声をかけたという、宿場の宴での戯れ歌とされますが、作家の大嶽洋子は、「鈴の音、早馬、つつみ井、水を渡す美少女の白い手と言葉の躍動感とともに視覚的にも美しい」と評しています。

 3440の「よち」は、似合いの物、同じ年頃の子。ここでは互いの性器を隠喩しているといわれます。これも3439と同様に宿場の女に戯れかけた歌のようですが、このようなあからさまな歌も堂々と収録されているのが『万葉集』です。

巻第14-3441~3445

3441
ま遠くの雲居(くもゐ)に見ゆる妹(いも)が家(へ)にいつか至らむ歩め我(あ)が駒(こま)
3442
東道(あづまぢ)の手児(てご)の呼坂(よびさか)越えがねて山にか寝(ね)むも宿りはなしに
3443
うらもなく我(わ)が行く道に青柳(あをやぎ)の張りて立てれば物思(ものも)ひ出(で)つも
3444
伎波都久(きはつく)の岡(をか)の茎韮(くくみら)我(わ)れ摘(つ)めど籠(こ)にも満たなふ背(せ)なと摘まさね
3445
港(みなと)の葦(あし)が中なる玉小菅(たまこすげ)刈(か)り来(こ)我(わ)が背子(せこ)床(とこ)の隔(へだ)しに
  

【意味】
〈3441〉はるか遠くの雲の彼方にあの娘(こ)の家が見える。早くたどり着きたいと思う。さあ、しっかり歩め、わが馬よ。

〈3442〉東国へ行く道にある手児の呼坂は越えられず、この分だと山中に寝ることになりそうだ。宿を貸してくれる家もないままに。

〈3443〉何の気なしに歩いていたら、行く道に青柳が芽吹いていたので、我が家の庭を思い出してしまった。

〈3444〉伎波都久の岡のくくみらは、いくら摘んでも籠にいっぱいにならない。あなたのいい人と二人でお摘みなさい。

〈3445〉河口の葦に交じって生い茂る小菅を刈り取って来てよ、あなた。寝床の目隠しのために。

【説明】
 3441の「ま遠く」の「ま」は接頭語。「雲居」は、雲のあるところ。なお、左注には『柿本人麻呂歌集』では「遠くして」、また「歩め黒駒」というとの指摘がありますが、その歌は巻第7-1271に出ており、注に誤りがあります。なお、東歌には、馬を詠んだ歌が15首あり、うち8首は馬に乗って出歩く歌です。この時代、高価な馬を飼育して乗り回すことができたのは、一握りの豪族層、最低でも下級官人クラスであっただろうとみられています。

 3442の「手児の呼坂」は、かわいい女が呼びかける坂の意で、所在は諸説あり不明ですが、静岡市駿河区や富士市の原田公園には「手児の呼坂」の歌碑が建てられています。この名は、男が、急峻な山坂を恐ろしい神に妨げられて越えられないので、女が男の名を呼び叫んだという伝説に基づくとされます。かつては東国への官道だった東道の「手児の呼坂」は、江戸時代初期に東海道が開通してからは、次第に知る人も少なくなっていったようです。
 
 3443の「うらもなく」は、何の気なしに、ぼんやりと。「張りて立てれば」は、芽吹いて立っているので。3444の「伎波都久」は所在未詳。「茎韮」は、花茎の立ったニラ。女二人で茎韮を摘みに行き、二人で一つの籠に摘んでためているものの、容易に一杯にならない時に、一人の女がもう一人の女に、あなたの男と一緒にお摘みなさいといったもの。3445の「港」は、河口。「玉小菅」の「玉」は美称。「隔し」は「隔て」の東語。

巻第14-3446~3450

3446
妹(いも)なろが使(つか)ふ川津(かはづ)のささら荻(をぎ)葦(あし)と人言(ひとごと)語(かた)りよらしも
3447
草蔭(くさかげ)の安努(あの)な行かむと墾(は)りし道(みち)安努は行かずて荒草(あらくさ)立(だ)ちぬ
3448
花散(はなぢ)らふこの向(むか)つ峰(を)の乎那(をな)の峰(を)の洲(ひじ)につくまで君が代(よ)もがも
3449
白栲(しろたへ)の衣(ころも)の袖(そで)を麻久良我(まくらが)よ海人(あま)漕ぎ来(く)見(み)ゆ波立つなゆめ
3450
乎久佐壮丁(をくさを)と乎具佐助丁(をぐさずけを)と潮舟(しほふね)の並(なら)べて見れば乎具佐(をぐさ)勝ちめり
  

【意味】
〈3446〉あの子が使う川の渡し場に茂る、気持ちのよいささら萩。それを人々は、葦、悪い草だと寄ってきて言うことだ。

〈3447〉安努へ通じさせようと、新たに切り開いた道は、安努には達せず、雑草で荒れ放題になっている。

〈3448〉花が散り続けている向かいの峰の乎那の山が摩滅して、砂州になり水に漬かるようになるまで、あなたに生きていてほしい。

〈3449〉衣の袖を枕にするという麻久良我の方から、海人が舟を漕いでくるのが見える。波よ、立つな、決して。

〈3450〉乎久佐の壮丁と乎具佐の助丁とを、潮舟のように二人並べて見ると、乎具佐のほうが勝っているようだ。

【説明】
 3446の「妹なろ」の「なろ」は親愛の接尾語。「ささら萩」は小さな萩で、共寝の床を意味するか。「葦」に「悪し」を掛けています。「人言」は、世間の評判。3447の「草蔭の」は「安努」の枕詞。「安努」は所在未詳。「墾りし道」は、切り開いた道。3448の「花散らふ」の「ふ」は継続。「向つ峰」は、向かいの峰。「乎那の峰」は所在未詳ながら、浜名湖北西の山とみる説があります。「洲」は、海中の洲。峰が平らになり、さらに海の洲となるまで、と、君の永い齢を祝っている歌です。いわゆる賀歌であり、殆どが恋の歌である「東歌」の中では異色の存在となっています。酒宴の場で、国守クラスの主賓に献じた歌でしょうか。

 3449の「白栲の」は「衣」の枕詞。上2句は「麻久良我」を導く序詞。「麻久良我」は所在未詳。3450の「乎久佐壮丁」は、乎久佐の地の壮丁、「乎具佐助丁」は乎具佐の地の助丁で、いずれも所在未詳ながら、「壮丁」は21歳以上、「助丁」は20歳以下の男子の称であることが、防人の歌で知られます。「潮舟の」は、海上の舟で、「並べ」の枕詞。女が若い男二人の優劣を定めようとし、より若い方を勝っていると言っている歌のようです。

巻第14-3451~3455

3451
左奈都良(さなつら)の岡に粟(あは)蒔(ま)き愛(かな)しきが駒(こま)は食(た)ぐとも我(わ)はそとも追(は)じ
3452
おもしろき野をばな焼きそ古草(ふるくさ)に新草(にひくさ)交(まじ)り生(お)ひは生(お)ふるがに
3453
風の音(と)の遠き我妹(わぎも)が着せし衣(きぬ)手本(たもと)のくだりまよひ来(き)にけり
3454
庭に立つ麻手小衾(あさでこぶすま)今夜(こよひ)だに夫(つま)寄しこせね麻手小衾
3455
恋(こひ)しけば来ませ我が背子(せこ)垣(かき)つ柳(やぎ)末(うれ)摘(つ)み枯らし我(わ)れ立ち待たむ
  

【意味】
〈3451〉左奈都良の岡に粟を蒔いて育てているけれど、愛しい人の馬が来て、実った粟を食べたとしても、私は追い立てたりはしません。

〈3452〉趣のあるこの野を焼かないでおくれ。冬枯れの古草に、春の新草が混じって生えるだけ生えるように。

〈3453〉遠くに住む妻が着せてくれた、着物の袖口のあたりがほつれてきてしまった。

〈3454〉庭に植えた麻で作った夜着よ、せめて今夜だけでも夫を呼び寄せてください、この麻の夜着よ。
 
〈3455〉私が恋しいと言うのなら、いらして下さい、あなた。垣根の柳の枝先を枯れてしまうほど摘みながら、立ち続けてお待ちしています。

【説明】
 3451の「左奈都良の岡」は、所在未詳。「愛しき」は、愛しい人で名詞形。「食ぐとも」は、たとい食おうとも。「そとも追じ」の「そ」は、馬を追い払う声。今でいえば「しっ」。「追(は)じ」は「追はじ」の転。3452の「おもしろき」は、趣きのある。「な焼きそ」の「な~そ」は、禁止。「がに」は「がね」が訛った語で、~となるように。

 3453の「風の音の」は「遠き」の枕詞。「手本のくだり」は、袖のあたり。「まよひ」は、ほつれる意。3454の「庭に立つ」は「麻」の枕詞。「麻手」は、麻の織物。「小衾」の「小」は美称、「衾」は、夜具、夜着。3455の「恋しけ」は、形容詞の「恋し」の未然形。「ば」は、仮定条件。「垣つ柳」は、垣根の柳。「末」は、草木の枝や葉の先。

巻第14-3456~3460

3456
うつせみの八十言(やそこと)のへは繁(しげ)くとも争ひかねて我(あ)を言(こと)なすな
3457
うち日さす宮の我が背は大和女(やまとめ)の膝(ひざ)まくごとに我(あ)を忘らすな
3458
汝背(なせ)の子や等里(とり)の岡道(をかち)しなかだ折(を)れ我(あ)を音(ね)し泣くよ息(いく)づくまでに
3459
稲つけば皹(かか)る我(あ)が手を今夜(こよひ)もか殿(との)の若子(わくご)が取りて嘆かむ
3460
誰(た)れぞこの屋の戸(と)押(お)そぶる新嘗(にふなみ)に我(わ)が背(せ)を遣(や)りて斎(いは)ふこの戸を
  

【意味】
〈3456〉世間の噂は激しいでしょうが、それに負けて、私のことは口に出さないでください。

〈3457〉宮に仕える愛しいあなたは、大和の女の膝を枕にすることもありましょう。でも私のことは決して忘れないでください。

〈3458〉私のいとしい人よ、等里の岡道が途中で折れ曲がってすぐにお姿が見えなくなるので、私を声をあげて泣かせます、ため息が出るほどに。
 
〈3459〉稲をついて赤くひび割れた私の手を、今夜もまたお屋敷の若様がお取りになって、かわいそうにとお嘆きになるのでしょうか。
 
〈3460〉いったい誰なの、この家の戸をがたがた押し揺さぶるのは。新嘗祭を迎えて夫を遠ざけ、家内で身を清めているこの戸を。

【説明】
 3456の「八十言のへ」の「八十」は多いこと。「言のへ」は「言のは」か。「争ひかねて」は抵抗できないで。「言なす」は言葉にする。女が男に対し、たとえどんなに噂が多かろうとも、私たちの関係を口外するなと戒めたもので、類想の多い歌です。3457の「うち日さす」は「宮」の枕詞。夫が運脚か衛士として召され都へ出かけていく時の別れの歌です。一定期間の奉仕であるため、「大和の女を抱くのは仕方ないけれど・・・」と、半ばあきらめきった気持ちを吐露しています。3458の「等里」は所在未詳。

 3459の「稲つけば」は、籾殻を除くために籾を臼でつくことで、当時は食物の貯蔵が難しかったために、一食ごとにこの作業を行っていました。「皹る」は、アカギレが切れること。「殿の若子」は、お屋敷の若様。下働きの娘と若様の、人目を忍ぶ身分違いの恋の歌ですが、実際の個人の歌というより、作業する女たちの労働歌だったとみられています。斎藤茂吉は、「この歌には、身分のいい青年に接近している若い農小婦の純粋なつつましい語気が聞かれるので、それで吾々は感にたえぬ程になるのだが、とく味わえばやはり一般民謡の特質に触れるのである。併しこれだけの民謡を生んだのは、まさに世界一流の民謡国だという証拠である」と言っています。

 なお、当時の地方は中央から派遣された国司(守のほか介・掾・目)によって一国が経営されましたが、実際に庶民と接するのは当地の有力者から任命される郡司でした。郡の役所である郡家(ぐうけ)には、長官の大領の下に少領・主政・主典がいて、各村の里長をとおして村人たちを統括していました。東歌に見られる「殿」や「殿の若子」というのは、この郡家の役人やその子供をさすものとみられています。

 ただ、この歌を、支配被支配の関係の中でこの娘を捉え、その労働環境の厳しさ、貧しさ、悲惨さが窺い知れることを強調する向きがありますが、如何なものでしょう。それはあくまで第三者的な見方であり、比較の対象を見出してのものです。村の生活そのものが全てであった人々にとっては、稲つきの労働も水汲みの仕事も、布を織ったり晒したりすることも、日常の当たり前のことだったはずです。東国には東国の精神生活があったのであり、そうした環境の中に東国の人をおいてみれば、浮かんでくるのは健康な村娘の歌声のはずです。
 
 3460の「押そぶる」は、押し揺さぶる。五穀豊穣を祈り、神に秋の初穂を捧げる新嘗の夜の歌で、神を迎える巫女の役目を、民家では主婦が担いました。巫女は独身でなければならないため、夫を外へ出して独身を装います。この夜は夫の不在が明らかなので、日ごろ目をつけていた人妻に言い寄ろうとする不届きな男が、チャンスとばかりに忍び込もうとするのです。しかし、新嘗の祭りの日のこのタブーは厳しくて、この歌のようなことはまず現実にはありえなかっただろう、というのが一般的な見方です。折口信夫は、「信仰と現実生活の矛盾を詠んだもの。勿論、信仰衰へた時代には、さうした忍び男も出たであらうが、まづ、かうしたことは空想であらう。切実な恋愛を考へた、一種の戯曲的な歌と見てよからう」と述べています。なお、東歌の中にはもう1首この新嘗の祭りの歌があり(3386)、そこでも夫が家を出されたことがうたわれています。

巻第14-3461~3465

3461
何(あぜ)といへかさ寝(ね)に逢はなくに真日(まひ)暮れて宵(よひ)なは来(こ)なに明けぬ時(しだ)来(く)る
3462
あしひきの山沢人(やまさはびと)の人さはにまなと言ふ子があやに愛(かな)しさ
3463
ま遠くの野にも逢はなむ心なく里のみ中(なか)に逢へる背(せ)なかも
3464
人言(ひとごと)の繁(しげ)きによりて真小薦(まをごも)の同じ枕は我(わ)はまかじやも
3465
高麗錦(こまにしき)紐(ひも)解き放(さ)けて寝(ぬ)るがへに何(あ)どせろとかもあやに愛(かな)しき
  

【意味】
〈3461〉何ということよ、日が暮れた夕方には来てくれず、共寝できなくなった夜明けのころに来るなんて。

〈3462〉山沢の人たちの多くが手出しをしてはいけないという子が、むしょうに愛しくてならない。
 
〈3463〉遠く離れた野ででも逢ってくださればいいのに、思慮もなく、こんな里のど真ん中で逢って下さるのですね、あなたは。
 
〈3464〉人の噂が激しいからといって、まお薦の一つ枕を、二度と使わないなんてことがありましょうか。

〈3465〉華麗な高麗錦の紐を解き放って共寝をしたけれど、この上どうしろというのだ。無性に可愛いくてたまらない。

【説明】
 3461の「何といへか」は、どうして、なぜの意。「さ寝」の「さ」は接頭語。「真日」の「真」は接頭語。朝方になって、申し訳程度に顔を出した男に激しく怒りをぶつけています。男としては、浮気相手の家からの帰り道、罪の意識にさいなまれての行動でしょうか。

 3462の「あしひきの」は「山」の枕詞。「山沢人」は、山沢に住んでいる人。上2句は「人さは」を導く序詞。「人さはに」は、多くの人が。「まな」の解釈を「いけない」ではなく可愛い子とする説もあり、それによれば解釈はがらりと変わってきます。「あやに」は無性に。3463の「ま遠くの野にも逢はなむ」は、遠くの野での具体的な逢引を意味しています。ただ「逢えればよいのに」というのではありません。

 3465の「高麗錦」は、高麗から渡来した錦で、衣の紐としたことから「紐」の枕詞。「何どせろ」は「何とせよ」の東語で、どうしろというのか。「あやに」は、無性に。なお、高麗錦は在来の技術では作れない豪華な模様の織物であるため、東国でこのような高級品を知っていた、あるいは持っていたのは、一握りの豪族層であったと考えられます。それとも、恋を理想化した表現だったのかもしれません。

巻第14-3466~3470

3466
ま愛(かな)しみ寝(ぬ)れば言(こと)に出(づ)さ寝(ね)なへば心の緒(を)ろに乗りて愛しも
3467
奥山の真木(まき)の板戸をとどと押(し)て我(わ)が開かむに入(い)り来て寝(な)さね
3468
山鳥(やまどり)の尾ろの初麻(はつを)に鏡(かがみ)懸(か)け唱(とな)ふべみこそ汝(な)に寄そりけめ
3469
夕占(ゆふけ)にも今夜(こよひ)と告(の)らろ我(わ)が背(せ)なはあぜぞも今夜(こよひ)寄(よ)しろ来まさぬ
3470
相(あひ)見ては千年(ちとせ)や去(い)ぬるいなをかも我(わ)れや然(しか)思ふ君待ちがてに
 

【意味】
〈3466〉可愛く思って共寝をすれば噂が立つ。だからといって共寝をしなければ心に乗りかかってくる。切なくてならない。
 
〈3467〉奥山の真木で作った板戸、その板戸をごとごとと押して私が開けるから、さっと部屋に入って来て私と寝て下さいね。

〈3468〉山鳥の尾のような初麻を鏡を懸けて神様に唱えたからこそ、あなたに身を寄せるようになったのでしょうか。
 
〈3469〉夕占いに「今夜」と出た愛しいあの方は、その今夜になってもどうして逢いに来て下さらないのだろう。

〈3470〉あなたとお逢いしてからもう千年が過ぎたのでしょうか。そうではなく、私だけがそう思っているだけなのかな。あなたを待ちかねて。

【説明】
 3466の「ま愛しみ」の「ま」は接頭語で、可愛いので。「さ寝なへば」の「さ」は接頭語、「なへ」は打消しの助動詞「なふ」の已然形。共寝せずにいれば。「言に出」は、評判になる。「心の緒ろ」は、心を緒にたとえた表現、「ろ」は接尾語。

 3467の「奥山の」は「真木」の枕詞。「真木の板戸」は、檜などの立派な木で作られた板戸。「とどと」は、高い音の形容。女から男に贈った歌で、それまでは秘密にしていた男との関係を、母に打ち明けて承認を得たので、堂々と板戸を開けることができると、喜んで報告しています。真木の板戸があるというのは、かなり大きな家だったとみられます。

 3468は難解とされ諸説ある歌ですが、『全注釈』の解釈に従います。「山鳥の」は、山鳥の尾が長いことから「尾」と続き、「初麻(はつを)」にかかる枕詞。「初麻」は、その年に初めて収穫された麻。「唱ふべみこそ」は、唱うべき状態のゆえに。「汝」は、男の代名詞。「けめ」は、過去推量。新嘗祭で新穀を捧げるように、初麻を鏡に懸け、神に感謝する祭りのやり方があったのでしょうか。その効果があって、一緒にいられるようになったと、喜びの気持ちをうたっています。

 3469の「夕占」は、夕方道端に立ち、一定の区域を定めて米をまき、呪文を唱えなどして、そこを通る通行人のことばを聞いて吉凶禍福を占ったもの。「占」の語源は裏表(うらおもて)の「裏」で、裏に隠れている神意を表に現わすことを占(うら)と呼んだものです。また「告(の)る」の原意は、呪力ある言葉を発することであることから、占いの判断を「告る」と表現しています。

 3470は、巻第11に重出(2539)。ただし、巻第11では作者未詳の歌として扱っており、ここでは『柿本人麻呂歌集』に出ているとあります。

巻第14-3471~3475

3471
しまらくは寝(ね)つつもあらむを夢(いめ)のみにもとな見えつつ我(あ)を音(ね)し泣くる
3472
人妻(ひとづま)とあぜかそを言はむ然(しか)らばか隣(となり)の衣(きぬ)を借りて着なはも
3473
左努山(さのやま)に打つや斧音(をのと)の遠(とほ)かども寝(ね)もとか子ろが面(おも)に見えつる
3474
植ゑ竹(だけ)の本(もと)さへ響(とよ)み出(い)でて去(い)なばいづし向きてか妹(いも)が嘆かむ
3475
恋ひつつも居(を)らむとすれど遊布麻山(ゆふやま)隠(かく)れし君を思ひかねつも
 

【意味】
〈3471〉しばらくの間ぐっすり寝たいと思うのに、あなたはいつも夢にだけわけもなく出てきては、私を泣かせる。

〈3472〉人妻には何で手出しするなと言うのか。それならば、隣の人の着物を借りて着ることだってあるではないか。

〈3473〉佐野山で打つ斧の音のように遠いけれど、共寝してもいいわよとあの子が言うのか、はっきりと面影に現れる。
 
〈3474〉竹の林の根元さえ鳴り響くほど騒ぎ立てて旅に出たなら、私の妻はどちらを向いて嘆くだろう。

〈3475〉恋い焦がれながらも、じっと耐えていようと思うけれど、遊布麻山の向こう側に隠れていったあの方を思うと、堪え切れません。

【説明】
 3471の「しまらく」は、しばらく。「寝つつもあらむを」は、このまま寝ていたいのに。「もとな」は、わけもなく。「音し泣くる」の「し」は強意で、泣かせる。3472の「あぜか」は、どうして~か。「然らばか」は、それなら~か。「借りて着なはも」は、借りて着なかろうか、着ているではないか。人妻に言い寄った男が、女から人妻だからといって断られたのに対し押し返した歌ととれますが、実際、このような言葉で真面目に人妻を誘うはずもなく、男同士の酒宴のような場で哄笑とともに詠まれた歌と思われます。「然らばか」という、歌の世界にはふさわしくない言葉で、いかにも理屈めいて言っているのが利いています。またこの歌からは、当時は隣の着物を借りることが普通に行われていたことが察せられます。
 
 3473の「左努山」は、所在未詳。「遠かども」は「遠けども」の東語。「寝もとか」の「も」は「む」の東国語形で、寝たいというので~か。3474の「植ゑ竹」は、植えた竹。野の竹に対比させた語で、門のあたりにある竹。「本」は、根元。「いぢし向きて」の「いづし」は「いづち」の東語で、どちらを向いて。防人などに出立の時の歌であろうとされます。3475の「遊布麻山」は、所在未詳。「思ひかねつも」は、思うと堪えられないことだ。こちらも旅立つ夫を見送る歌です。

巻第14-3476~3480

3476
うべ子なは我(わ)ぬに恋(こ)ふなも立(た)と月のぬがなへ行けば恋しかるなも
[或本の歌の下の句には、ぬがな行けどわぬがゆのへは]
3477
東道(あづまぢ)の手児(てご)の呼坂(よびさか)越えて去(い)なば我(あ)れは恋(こ)ひむな後は逢ひぬとも
3478
遠しとふ故奈(こな)の白嶺(しらね)に逢(あ)ほしだも逢はのへしだも汝(な)にこそ寄(よ)され
3479
安可見山(あかみやま)草根(くさね)刈り除(そ)け逢はすがへ争ふ妹(いも)しあやにかなしも
3480
大君(おほきみ)の命(みこと)畏(かしこ)み愛(かな)し妹(いも)が手枕(たまくら)離れ夜立(よだ)ち来(き)のかも
 

【意味】
〈3476〉なるほど、あの子は私のことを恋しく思っているのだろう。月が過ぎていけばいくほど恋しくなるだろう。

〈3477〉あの人が東路の手児の呼坂を越えて行ってしまったら、私は恋い焦がれてならないでしょう。たとえ後に逢うことができようとも。

〈3478〉遠いという故奈の白嶺のようになかなか逢えないが、逢う時も逢わない時も、いつも私はお前といい仲だと噂されている。
 
〈3479〉安可見山の草を刈り取って、逢うには逢ってくれたけど、いざという時にいやだと言ったあの娘が無性にいとおしい。

〈3480〉大君(天皇)のご命令を恐れ畏み、愛しいあの子の手枕を離れ、夜の夜中に、出立してきた。

【説明】
 3476の「我ぬ」は「われ」の東語。「なも」は「らむ」の東語。「立と月のぬがなへ」は、「立つ月の流らへ」の意。3477の「手児の呼坂」は、かわいい女が呼びかける坂の意で、所在は諸説あり不明ですが、静岡市駿河区や富士市の原田公園には「手児の呼坂」の歌碑が建てられています。この名は、男が、急峻な山坂を恐ろしい神に妨げられて越えられないので、女が男の名を呼び叫んだという伝説に基づくとされます。かつては東国への官道だった東道の「手児の呼坂」は、江戸時代初期に東海道が開通してからは、次第に知る人も少なくなっていったようです。

 3478の「故奈の白嶺」は所在未詳。「故奈」は来ない、「白嶺」は、知らないという意味を含むとも解されます。「逢はのへしだ」は、逢わないとき。「寄され」は、関係があるように噂される。3479の「安可見山」は、栃木県佐野市赤見町にある山か。「草根刈り除け」は、野合(ひそかに結び交わる)の場所をもうける意。「逢はすがへ」の「逢はす」は「逢ふ」の尊敬語。「がへ」は、~の上。情事の経験のない女が、いざとなると羞恥を感じて拒むようすを言っています。3480の「大君の命畏み」は、天皇への畏敬を表現する常套句で、天皇の命令で行動する(多くは旅の場合)文脈に用いられています。この巻の終わり近くに「防人の歌」として5首(3567~3571)が載っていますが、この歌も防人の作と考えても不自然ではありません。

巻第14-3481~3485

3481
あり衣(きぬ)のさゑさゑしづみ家(いへ)の妹(いも)に物言はず来(き)にて思ひ苦しも
3482
韓衣(からころも)裾(すそ)のうち交(か)へ逢はねども異(け)しき心を我(あ)が思はなくに
[或本の歌に曰く]
韓衣(からころも)裾(すそ)のうち交(か)ひ逢はなへば寝なへのからに言痛(ことた)かりつも
3483
昼解けば解けなへ紐(ひも)の我(わ)が背(せ)なに相(あひ)寄るとかも夜(よる)解けやすけ
3484
麻苧(あさを)らを麻笥(をけ)にふすさに績(う)まずとも明日(あす)着せさめやいざせ小床(をどこ)に
3485
剣大刀(つるぎたち)身に添ふ妹(いも)を取り見がね音(ね)をぞ泣きつる手児(てご)にあらなくに
 

【意味】
〈3481〉絹の衣のさえさえしずみ、家の妻にろくに物も言わずに出てきてしまい、胸が苦しい。

〈3482〉韓衣の裾の合せ目が合わせられないように、あなたに逢わないでいますが、決してほかの男に心惹かれているわけではありません。

〈3483〉昼間に解こうとしても解けない着物の紐も、あなたに逢える兆しなのか、夜になると解けやすいこと。

〈3484〉麻の繊維を裂いて糸にして麻笥いっぱいにしなくとも、明日お召しになるわけでもあるまいに。早く切り上げて寝床に行かないか。
 
〈3485〉剣大刀のようにいつも身に添ってきた子、その子を抱いて可愛がることもできなくなり、私は声をあげて泣いてしまった、幼い子でもないのに。

【説明】
 3481の「あり衣の」は「さゑさゑ」の枕詞、または絹の衣。「さゑさゑ」の語義未詳。左注に「柿本人麻呂歌集に出ている。上に見えていることが、すでに見た通りである」の意の説明があり、巻第4-503の「珠衣のさゐさゐしづみ家の妹に物語はず来て思ひかねつも」の類歌を指しています。巻第4の歌は「柿本人麻呂の歌」と題しており、伝誦のうちに小異を生じたとみえ、また、そうした題詞の歌も同歌集から採っていることが窺えます。3482の上2句は「逢はねども」を導く序詞。韓衣(唐風の衣服)は、膝丈より長い裾を合わせずに着ました。「異しき心」は、変わった心。3483の「解けやすけ」は「解けやすき」の東語。

 3484の「麻苧」は、紡ぐ前の麻の繊維。「麻笥」は、それを入れる笥(け)。「ふすさに」は、たくさんに。「着せさめや」の「着せす」は「着る」の敬語、「や」は反語。「小床」の「小」は接頭語。女奴の労働で、お屋敷の人に着せる衣なのでしょうか、夜なべ仕事に精を出している妻を見ながら、まだ終わらないか、まだ終わらないかと、いらいらして「早くしようよ」と床に誘っている夫の歌、あるいは同居の夫にしては丁寧なので、妻問いの男の歌とも取れます。この歌に「小床」が出てきましたが、東国の男女の愛の歌には、この「床」につらなる「寝る」という露わな言葉が頻繁に使われています。上品な言葉を知らなかったといえばそれまでですが、気どりのない、慎みを忘れた、生への激しい叫びがここにあります。

 3485の「剣大刀」は「身に添ふ」の枕詞。3489の「梓弓」は「欲良」の枕詞。「欲良」は所在未詳。女の手を引いて人目につかない藪に入ったものの、そのままでは横たわって抱くことができないので、せっせと藪を払っています。

巻第14-3486~3490

3486
愛(かな)し妹(いも)を弓束(ゆづか)並(な)べ巻きもころ男(を)のこととし言はばいや勝たましに
3487
梓弓(あづさゆみ)末(すゑ)に玉巻きかくすすぞ寝(ね)なななりにし奥(おく)を兼(か)ぬ兼ぬ
3488
生(お)ふ楉(しもと)この本山(もとやま)のましばにも告(の)らぬ妹(いも)が名(な)象(かた)に出(い)でむかも
3489
梓弓(あづさゆみ)欲良(よら)の山辺(やまへ)の茂(しげ)かくに妹(いも)ろを立ててさ寝処(ねど)払ふも
3490
梓弓(あづさゆみ)末(すゑ)は寄り寝む正香(まさか)こそ人目(ひとめ)を多(おほ)み汝(な)をはしに置けれ
 

【意味】
〈3486〉愛しい子よ。弓束を並べて巻くようにしっかり抱いて寝るが、恋敵の力と変わらないというなら、もっともっと強く抱いてやる。

〈3487〉梓弓の弓末に玉を巻いて飾り立てるように大切にしてきたのに、共寝しないままになってしまった。先々のことまでいろいろと考えてきたのに。

〈3488〉この本山の真柴のように、しばしばもも口に出さない妻の名が、占いの形象(かた)に出てしまうのだろうか。
 
〈3489〉欲良の山辺の茂みにあの子を立たせたままにして、共寝の場所の準備のため、せっせと草を刈っている。

〈3490〉ゆくゆくは寄り添って寝ようと思っているのだが、今は人目が多いのであなたを中途半端にしているのだ。

【説明】
 3486の「弓束」は、弓の中央の手で握る部分。「もころ男」は恋敵の男。「こととし言はば」は語義未詳。3487の「奥」は将来。「兼ぬ」は、将来のことを考える。3488の上2句は「ましばにも」を導く序詞。3488の「生ふ楉」は「この本」の枕詞。「楉」は若い枝。「ましば」の「ま」は接頭語。「象」は、鹿などの動物の骨を焼き、ひびの具合で吉凶を占う「象焼き」のひびの形。「象焼き」による卜占は東国地方に限らず広く行われたものらしく、『古事記』にも登場します。3489の「梓弓」は「欲良」の枕詞。「欲良の山」は所在不明。「妹ろ」の「ろ」は接尾語。「さ寝処」の「さ」は接頭語。3490の「梓弓」は「末」の枕詞。「末」は、将来。「正香」は、現在。「はしに置けれ」は、中途半端なところに置いているが。この歌には『柿本人麻呂歌集』に出ているとの注釈があります。

巻第14-3491~3495

3491
柳(やなぎ)こそ伐(き)れば生(は)えすれ世の人の恋に死なむをいかにせよとぞ
3492
小山田(をやまだ)の池の堤(つつみ)にさす柳(やなぎ)成りも成らずも汝(な)と二人はも
3493
遅速(おそはや)も汝(な)をこそ待ため向(むか)つ峰(を)の椎(しひ)の小枝(こやで)の逢ひは違(たが)はじ
[或る本の歌] 遅速(おそはや)も君をし待たむ向(むか)つ峰(を)の椎(しひ)の小枝(さえだ)の時は過ぐとも
3494
子持山(こもちやま)若(わか)かへるでのもみつまで寝(ね)もと我(わ)は思(も)ふ汝(な)はあどか思(も)ふ
3495
巌(いはほ)ろの沿(そ)ひの若松(わかまつ)限(かぎ)りとや君が来まさぬうらもとなくも
 

【意味】
〈3491〉柳は伐れば代わりが生えてもこよう。が、生身のこの世の人が恋い焦がれて死にそうなのに、どうしろというのか。
 
〈3492〉山あいの田の池の堤に挿し木した柳は、根づくのもあればつかないものもある。そのように、私の恋が成就しようがしまいが問題ではない。お前との仲はいつまでも変わらない。

〈3493〉遅かろうと早かろうとあなたを待ちましょう。向かいの峰の椎の小枝が重なり合っているように、逢えるのは間違いないだろうから。

〈3494〉子持山の楓の若葉が紅葉するまで、ずっと寝たいと私は思う。お前さんはどう思うか。

〈3495〉大岩のそばに生える若松のように、私は待っているのに、これを限りに、あの方が来なくなってしまうのか、心もとなくてならない。

【説明】
 3491の「柳こそ伐れば生えすれ」の「すれ」は「こそ」の結びの已然形中止法で、逆接。3492の「小山田」の「小」は、美称。「山田」は、山の傾斜地や山あいに設けられた田。上3句は「成りも成らずも」を導く序詞。「さす柳」の「さす」は、挿し木をする。「はも」は、強い詠嘆。3493の「遅速も」は、遅くても早くてもの意の熟語。「向つ峰の椎の小枝の」は「逢ひ」を導く序詞。「小枝(こやで)」は「こえだ」の東語。3494の「子持山」は、群馬県渋川市北方の子持山。この歌が未勘国歌(国名のない歌)となっているのは、東歌が編纂された当時はこの山の場所が分からなかったと見えます。「若かへるで」の「かへるで」はカエデ。「もみつ」は赤くなること。「寝も」は「寝む」の東語。「あどか」は、どのように。3495の上2句は「限り」を導く序詞。「沿ひ」は、そば、ほとり。「うらもとなくも」の「うら」は心で、心もとなくも。

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旧国名比較

【南海道】
紀伊(和歌山・三重)
淡路(兵庫)
阿波(徳島)
讃岐(香川)
土佐(高知)
伊予(愛媛)
 
【西海道】
豊前(福岡・大分)
豊後(大分)
日向(宮崎)
筑前(福岡)
筑後(福岡)
肥前(佐賀・長崎)
肥後(熊本)
薩摩(鹿児島)
大隅(鹿児島)
壱岐(長崎)
対馬(長崎)
 
【山陰道】
丹波(京都・兵庫)
丹後(京都)
但馬(兵庫)
因幡(鳥取)
伯耆(鳥取)
出雲(島根)
隠岐(島根)
石見(島根)
 
【機内】
山城(京都)
大和(奈良)
河内(大阪)
和泉(大阪)
摂津(大阪・兵庫)
 
【東海道】
伊賀(三重)
伊勢(三重)
志摩(三重)
尾張(愛知)
三河(愛知)
遠江(静岡)
駿河(静岡)
伊豆(静岡・東京)
甲斐(山梨)
相模(神奈川)
武蔵(埼玉・東京・神奈川)
安房(千葉)
上総(千葉)
下総(千葉・茨城・埼玉・東京)
常陸(茨城)
 
【北陸道】
若狭(福井)
越前(福井)
加賀(石川)
能登(石川)
越中(富山)
越後(新潟)
佐渡(新潟)
 
【東山道】
近江(滋賀)
美濃(岐阜)
飛騨(岐阜)
信濃(長野)
上野(群馬)
下野(栃木)
岩代(福島)
磐城(福島・宮城)
陸前(宮城・岩手)
陸中(岩手)
羽前(山形)
羽後(秋田・山形)
陸奥(青森・秋田・岩手)

東歌の国別集計

東海 >>>
遠江 3
駿河 6
伊豆 1

中部 >>>
信濃 15

関東 >>>
相模 15
上野 25
武蔵 9
下野 2
上総 3
下総 5
常陸 12

東北 >>>
陸奥 4

不明 140

(合計 230)

東国方言の例

あしき
 →あしけ
逢ふ(あふ)
 →あほ
天地(あめつち)
 →あめつし
青雲(あをくも)
 →あをくむ
磯辺(いそへ)
 →おすひ
暇(いとま)
 →いづま
家(いへ)
 →いは/いひ
妹(いも)
 →いむ
兎(うさぎ)
 →をさぎ
うつくしき
 →うつくしけ
海原(うなはら)
 →うのはら
うらがなしき
 →うらがなしけ
帯(おび)
 →えひ
面変り(おもかはり)
 →おめかはり
思へど(おもへど)
 →おめほど
影(かげ)
 →かご
徒歩(かち)
 →かし
門(かど)
 →かつ
かなしき
 →かなしけ
帰り(かへり)
 →かひり
上(かみ)
 →かむ
鴨(かも)
 →こも
かも〈助詞〉
 →かむ
韓衣(からころも)
 →からころむ
木(き)
 →け
悔しき(くやしき)
 →くやしけ
けり〈助動詞〉
 →かり
小枝(こえだ)
 →こやで
数多(ここだ)
 →こごと
越す(こす)
 →こそ
言葉(ことば)
 →けとば
恋し(こひし)
 →こふし
子持ち(こもち)
 →こめち
幸く(さきく)
 →さく/さけく
防人(さきもり)
 →さきむり
捧げ(ささげ)
 →ささご
島陰(しまかげ)
 →しまかぎ
清水(しみづ)
 →せみど
後方(しりへ)
 →しるへ
住む(すむ)
 →すも
畳薦(たたみこも)
 →たたみけめ
立ち(たち)
 →たし
たどき
 →たづき
たなびく
 →とのびく
賜ふ(たまふ)
 →たまほ
月(つき)
 →つく
つつ〈助詞〉
 →とと
時(とき)
 →しだ
遠江(とほたふみ)
 →とへたほみ
なむ〈助詞〉
 →なも
なやましき
 →なやましけ
布(ぬの)
 →にの
野(の)
 →ぬ
放ち(はなち)
 →はなし
母(はは)
 →あも/おも/も
延ふ(はふ)
 →はほ
針(はり)
 →はる
引く(ひく)
 →ひこ
降る(ふる)
 →ふろ
真木柱(まきはしら)
 →まけはしら
待つ(まつ)
 →まと
向ける(むける)
 →むかる
共(むた)
 →みた
妻(め)
 →み
持ち(もち)
 →もし/もぢ/めち
やすき
 →やすけ
雪(ゆき)
 →よき
行く(ゆく)
 →ゆこ
百合(ゆり)
 →ゆる
寄す(よす)
 →えす
夜床(よとこ)
 →ゆとこ
より〈助詞〉
 →ゆり
我妹子(わぎもこ)
 →わぎめこ
我(われ)
 →わろ

東歌の作者

『万葉集』に収録された東歌には作者名のある歌は一つもなく、また多くの東国の方言や訛りが含まれています。全体が恋の歌であり、素朴で親しみやすい歌が多いことなどから、かつてこれらの歌は東国の民衆の生の声と見られていましたが、現在では疑問が持たれています。

そもそも土地に密着したものであれば、民謡的要素に富む歌が多かったはずで、形式も多用な歌があったはずなのに、そうした歌は1首も採られていません。『万葉集』の東歌はすべての歌が完全な短歌形式(五七五七七)であり、音仮名表記で整理されたあとが窺えることや、方言が実態を直接に反映していないとみられることなどから、中央側が何らかの手を加えて収録したものと見られています。

従って、もともとの作者は土着の豪族階級の人たちで、都の官人たちが歌を作っているのを模倣した、また彼らから手ほどきを受けたのが始まりだろうとされます。すなわち、郡司となった豪族たちと、中央から派遣された国司らとの交流の中で作られ、それらを中央に持ち帰ったのが東歌だと考えられています。

なお、「都」と「鄙」という言葉があり、「都」は「宮処」すなわち皇宮の置かれる場所であり、畿内(山城・大和・河内・和泉・摂津)を指します。「鄙」は畿外を意味しましたが、東国は含まれていません。『万葉集』でも東国は決して「鄙」とは呼ばれておらず、東国すなわち「東(あづま)」は、「都・鄙」の秩序から除外された、いわば第三の地域として認識されていたのです。東歌が特立した巻として存在する理由はそこにあります。

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