巻第20-4401~4403
4401 韓衣(からころむ)裾(すそ)に取り付き泣く子らを置きてぞ来(き)ぬや母(おも)なしにして 4402 ちはやぶる神の御坂(みさか)に幣(ぬさ)奉(まつ)り斎(いは)ふ命(いのち)は母父(おもちち)がため 4403 大君(おほきみ)の命(みこと)畏(かしこ)み青雲(あをくむ)のとのびく山を越よて来(き)ぬかむ |
【意味】
〈4401〉私の裾に取りすがって泣く子らを置いて来た。子には母親もいないというのに。
〈4402〉神様のいらっしゃる御坂にお供えをし、わが命の無事をお祈りするのは母と父のためなのだ。
〈4403〉大君のご命令を畏んで、青雲のたなびく山を越えてやって来た。
【説明】
信濃国の防人の歌。作者は、4401が国造、小県郡(ちいさがたのこおり)の他田舎人大島(おさだのとねりおおしま)。4402は埴科郡(はにしなのこおり)の主帳、神人部子忍男(みわひとべのこおしお)。4403が小長谷部笠麻呂(おはつせべのかさまろ)。
4401の「韓衣」は大陸風の衣服で、横幅の裾がついていたところから「裾」の枕詞。「子ら」の「ら」は複数の意ではなく接尾語(複数の子と考える向きもある)。子の母、彼の妻は死んだのでしょうか。「母なしにして」と、何気ないように付け加えられたこの7文字が、この悲劇を重層化しています。一方、これとは全く異なる解釈があります。子の母は死んではおらず、また韓衣は枕詞ではなく子の母が着ている衣であって、「夫の見送りに出ようとする妻(母)の韓衣に取りすがって泣く幼児を家に置いてきたことだ、母無しの状態にして」というふうに解するものです。
4402の「ちはやぶる」は「神」の枕詞。「神の御坂」は、東山道を美濃へ越える神坂峠(岐阜県中津川市と長野県下伊那郡阿智村の間にある)か。「幣」は、神に祈るときに捧げるもの。「斎ふ」は、身を慎んで吉事を祈る。4403の「青雲(あをくむ)」は「あをくも」の方言。「越よて」は「越えて」の方言。「かむ」は「かも」の方言。
なお、4403の後に「部領使が、途中病を得て難波へは来なかったが、歌は進(たてまつ)った」旨の記載があり、防人の歌は、部領使がその職責として必ず進上しなければならなかったことが分かります。そのようにして進上された歌は合計166首と記録されています。ただし、国ごとにまとめられた歌の末尾に「進上された歌の数は〇〇首。但し、拙き歌△△首は取り載せず」というような注記があり、採録されたのは84首で、半数近くが拙劣歌として除かれています。和歌作りはなかなか厳しい世界だったようですが、「拙き歌」と判断されたのがどのような歌だったのか、むしろそちらの方が気にかかるところであり、今となっては、何と余計なことをしてくれたと思わざるを得ません。
10か国それぞれの部領使を通じて兵部省に提出された日付は、国ごとに付された左注によって明らかになっており、遠江が2月6日、相模が2月7日、駿河が2月7日(実際は9日)、上総が2月9日、常陸と下野が2月14日、下総が2月16日、信濃が2月22日、上野が2月23日、最後の武蔵が2月29日となっています。こうした防人歌収集が、それまでにも行われていたかどうかは不明です。
提出された防人歌は、国ごとに同一の場で作られ、その場での歌の流れを意識して作歌されたものと考えられています。かつては一般農民と捉えられていた防人たちですが、むしろ歌の様式を理解し、その場で詠まれた歌の内容を理解し、求められる歌を作るだけの技量や知識を持つ階層の人だったことが窺えます。しかし、決して全員がそうだったのではなく、中には技量や知識が乏しいままに詠んだ防人もいたのでしょう。
巻第20-4404~4407
4404 難波道(なにはぢ)を行きて来(く)までと我妹子(わぎもこ)が付けし紐(ひも)が緒(を)絶えにけるかも 4405 我(わ)が妹子(いもこ)が偲(しぬ)ひにせよと付(つ)けし紐(ひも)糸になるとも我(わ)は解(と)かじとよ 4406 我(わ)が家(いは)ろに行かも人もが草枕(くさまくら)旅は苦しと告(つ)げ遣(や)らまくも 4407 ひな曇(くも)り碓氷(うすひ)の坂を越えしだに妹(いも)が恋しく忘らえぬかも |
【意味】
〈4404〉難波道を行って帰ってくるまではと、妻が縫い付けてくれた着物の紐が切れてしまった。
〈4405〉わが妻が、私を偲ぶよすがにして下さいと付けてくれた着物の紐、たとえ糸のように細くなろうとも、解いたりなんかしない。
〈4406〉我が家のある故郷に行く人がいたらよいのに。旅は苦しくてならないと家の人に告げてもらうのに。
〈4407〉日が曇って薄日がさすという碓氷の坂、まだこの坂を越えたばかりなのに、無性に妻が恋しくて忘れられない。
【説明】
上野国の防人の歌。作者は、4404が助丁、上毛野牛甘(かみつけののうしかい)、4405が朝倉益人(あさくらますひと)、4406が大伴部節麻呂(おおともべのふしまろ)、4407が他田部子磐前(おさだべのこいわさき)。
4404の「難波道を行きて来まで」は、難波へ行く道を通って、またここへ帰って来るまで。切れないだろうと思っていた紐が切れてしまい、何か不吉なことが起きなければいいが、と心配している歌です。4405の「我が妹子」は「わぎもこ」の約音になる前の原形で、他には用例のないもの。4406の「家(いは)」は「いへ」の方言。「ろ」は接尾語。「行かも」は「行かむ」の方言。「もが」は、願望の助詞。「草枕」は「旅」の枕詞。「遣らまく」は「遣らむ」の名詞形。
4407の「ひな曇り」は、曇り日の薄日の意味で、同音の「碓氷」にかかる枕詞。「碓氷の坂」は、上野と信濃の国境の碓氷峠。その険しい山道は、東山道随一の難所とされていました。当時は、上野からは碓氷峠を越して信濃に入り、それから美濃へ出たようです。「しだに」は、だけでも、時に。
徴発された防人は、難波津までの道のりを、防人部領使(さきもりのことりづかい)によって引率されますが、部領使は馬や従者を連れていますから、当人は馬に乗り、荷物も従者に持たせています。しかし、防人たちは自ら荷物を抱えての徒歩のみで、夜は寺院などに泊まることができなければ野宿させられました。4406で言っている旅の苦難は容易に想像できるところです。
巻第20-4408~4412
4408 大君(おほきみ)の 任(ま)けのまにまに 島守(しまもり)に 我(わ)が立ち来れば ははそ葉(ば)の 母の命(みこと)は み裳(も)の裾(すそ) 摘(つ)み上げ掻(か)き撫で ちちの実(み)の 父の命(みこと)は 栲(たく)づのの 白(しら)ひげの上ゆ 涙(なみだ)垂(た)り 嘆きのたばく 鹿子(かこ)じもの ただひとりして 朝戸出(あさとで)の 愛(かな)しき我(あ)が子 あらたまの 年の緒(を)長く 相(あひ)見ずは 恋しくあるべし 今日(けふ)だにも 言問(ことど)ひせむと 惜(を)しみつつ 悲しびませば 若草の 妻も子どもも をちこちに さはに囲(かく)み居(ゐ) 春鳥(はるとり)の 声のさまよひ 白栲(しろたへ)の 袖(そで)泣き濡(ぬ)らし 携(たづさ)はり 別れかてにと 引き留(とど)め 慕(した)ひしものを 大君の 命(みこと)畏(かしこ)み 玉桙(たまほこ)の 道に出で立ち 岡の先 い廻(た)むるごとに 万度(よろづたび) 顧(かへり)みしつつ はろはろに 別れし来れば 思ふそら 安くもあらず 恋ふるそら 苦しきものを うつせみの 世の人なれば たまきはる 命(いのち)も知らず 海原(うなはら)の 畏(かしこ)き道を 島伝(しまづた)ひ い漕(こ)ぎ渡りて あり巡(めぐ)り 我(わ)が来るまでに 平(たひ)らけく 親はいまさね つつみなく 妻は待たせと 住吉(すみのえ)の 我(あ)が皇神(すめかみ)に 幣(ぬさ)奉(まつ)り 祈(いの)り申(まを)して 難波津(なにはつ)に 船を浮け据(す)ゑ 八十楫(やそか)貫(ぬ)き 水手(かこ)整へて 朝開(あさびら)き 我(わ)は漕(こ)ぎ出(で)ぬと 家に告げこそ 4409 家人(いへびと)の斎(いは)へにかあらむ平(たひら)けく船出(ふなで)はしぬと親に申(まを)さね 4410 み空行く雲も使(つかひ)と人は言へど家づと遣(や)らむたづき知らずも 4411 家づとに貝ぞ拾(ひり)へる浜波(はまなみ)はいやしくしくに高く寄すれど 4412 島蔭(しまかげ)に我が船(ふね)泊(は)てて告げ遣(や)らむ使を無(な)みや恋ひつつ行かむ |
【意味】
〈4408〉大君のご任命のままに、島守として家を出た時、ははそ葉の母上は裳の裾をつまみ上げて私の顔を撫で、ちちの実の父上は白い髭の上に涙を流されておっしゃった。「たった一人で朝戸を開けて旅立つ愛しい我が子よ、長い年月逢えなくなったら恋しくてやりきれないだろう。せめて今日だけでも存分に語り合おう」と。名残を惜しんで悲しまれると、妻も子もあちこちから寄ってきて私を取り囲み、春鳥のように声をあげ、着物の袖を泣き濡らし、手にとりすがって別れが辛いと私を引き留め追って来たのに、大君のご命令の恐れ多さに旅路に出立し、丘の向こうを回るたびに幾度も振り返りながら、はるばる別れてやってきたが、心は安からず、恋い焦がれる心も苦しい。この世に生きている生身の人間である以上、明日の命も計り難いとはいえ、どうか、恐ろしい海原の道を島伝いに漕ぎ回って行き、私が無事に帰って来るまで、両親は平穏でいてほしい、妻は達者でいてほしいと、住吉の神様に供え物をしてお祈りした。
難波津に船を浮かべ、船に櫂をびっしり取り付け、水夫をそろえて、朝早く漕ぎ出していったと、家の者にお伝え下さい。
〈4409〉家の者がみんな身を浄めて祈ってくれているからだろう。無事に船出して筑紫に向かったと親に伝えて下さい。
〈4410〉大空を行く雲も使いだと人は言うが、家へみやげを送る手だてが分からない。
〈4411〉家へのみやげにしようと貝を拾っている。浜辺の波は、しきりに高く押し寄せてくるけれど。
〈4412〉島陰に我らの船が停泊したが、そのことを知らせる使いは無く、このまま家恋しさに暮れながら航海を続けるのだろう。
【説明】
大伴家持による、防人の悲別の心を述べた歌。4408の「任け」は任命して派遣すること。「まにまに」は、従って。「島守」は、島を守る人。ここでは防人。「ははそ葉の」「ちちの実の」は、それぞれ「母」「父」の枕詞。「母(父)の命」は敬意を込めた語。「栲づのの」は「白ひげ」の枕詞。「のたばく」は「のたまはく」と同じ。「鹿子じもの」は、鹿の子のように。鹿は初夏に一匹だけ子を生むことから、次句の比喩。「あらたまの」「若草の」「春鳥の」は、それぞれ「年」「妻」「声のさまよひ」の枕詞。「さまよひ」は悲しみ嘆いて。「白栲の」「玉桙の」は、それぞれ「袖」「道」の枕詞。「思ふそら」の「そら」は心。
4409の「斎へにかあらむ」は「斎へばにかあらむ」の意。「斎ふ」は禁忌を守って吉事を祈ること。4410の「家づと」は、家へのみやげ。「たづき」は、方法、手段。4411の「いやしくしくに」は、いよいよますます。
2月8日と19日に作った長歌(4331・4398)に続き、2月23日に作ったもので、各国の防人歌が順次提出され、家持はそれらの総覧と選択に追われているさなかにありましたが、上野国の防人歌まで読んだ段階で、再び彼らの心情に対する同情共感を禁じ得ず、この歌を作ったとみられます。作意も構成も同じようなものですが、家持は黙ってはおれなかったのでしょう。そこには、あくまで防人の心になりきろうとする執念が感じられます。それでも、防人たちの読み手の心臓をぐさっと刺すような悲しみに比べれば、家持の哀愁は手ぬるいとの批判があります。しかし、そうした評価は、家持に対して酷といえましょう。彼はその繊細な感性で、精いっぱい防人の真情を汲み上げ、かたがた、自身の歌境を深めたのです。
巻第20-4413~4416
4413 枕太刀(まくらたし)腰に取り佩(は)きま愛(かな)しき背(せ)ろが罷(ま)き来(こ)む月(つく)の知らなく 4414 大君(おほきみ)の命(みこと)畏(かしこ)み愛(うつく)しけ真子(まこ)が手(て)離(はな)り島伝(しまづた)ひ行く 4415 白玉(しらたま)を手に取り持(も)して見るのすも家(いへ)なる妹(いも)をまた見てももや 4416 草枕(くさまくら)旅行く背(せ)なが丸寝(まるね)せば家(いは)なる我(わ)れは紐(ひも)解かず寝(ね)む |
【意味】
〈4413〉枕元に置いていた太刀を腰に帯び、愛しい夫が、任の解けて帰ってくる月が知られないことよ。
〈4414〉大君の仰せの恐れ多さに、愛しい妻の手を離れ、島から島へ伝って行く。
〈4415〉真珠を手にとってじっと見つめるように、家で待つ妻をじっと見たいものだ。
〈4416〉旅行くあなたがごろ寝するのなら、家にいる私は、衣の紐を解かずにそのまま寝ましょう。
【説明】
武蔵の国の防人の歌。作者は、4413が上丁、那珂郡(なかのこおり)の檜前舎人石前(ひのくまのとねりいわさき)の妻、大伴部真足女(おおともべのまかりめ)、4414が助丁、秩父郡(ちちぶのこおり)の大伴部小歳(おおともべのおとし)、4415が主帳、荏原郡(えばらのこおり)の物部歳徳(もののべのとしとこ)、4416が妻の椋椅部刀自売(くらはしべのとじめ)。このように夫婦の歌が共に載っているのもあれば、4413のように妻の歌しか載っていないのもあります。夫の歌はおそらく拙劣として採用されなかったのでしょう。他国には見られなかった、この夫婦一対の歌の出現の理由について、日本史学者の北山茂夫は、「国司が、カップルで歌を出すことをすすめたのであろう」と言っています。
4413の「枕太刀」は、寝る時も枕元に置く愛刀の意。「たし」は「たち」の方言。「ま愛しき」の「ま」は接頭語。「罷き来む」は、任が解けて帰ってくる。4414の「愛しけ」は「愛しき」の方言。「真子」の「真」は、接頭語。「子」は、妻の愛称。4415の「白玉」は真珠。「持して」は「持ちて」の方言。「見るのす」の「のす」は「なす」の方言。のように。「見てももや」の「ても」は「てむ」の方言。「もや」は、詠嘆。4416の「草枕」は「旅」の枕詞。「丸寝」は、帯も解かず衣服を着たまま寝ること。「家(いは)」は「いへ」の方言。
彼らが旅した時期は旧暦2月(今の3月半ばから末頃)でしたから、かなり寒かったはずですが、寒を防ぐのに衣を重ねて着るほかはありません。しかも、旅館があるわけではないので、仮設の小屋、木の根元、石の陰などで休んだのです。
巻第20-4417~4420
4417 赤駒(あかごま)を山野(やまの)に放(はか)し捕(と)りかにて多摩(たま)の横山(よこやま)徒歩(かし)ゆか遣(や)らむ 4418 我が門(かど)の片山椿(かたやまつばき)まこと汝(な)れ我が手触れなな土に落ちもかも 4419 家(いは)ろには葦火(あしぶ)焚(た)けども住みよけを筑紫(つくし)に至りて恋しけ思はも 4420 草枕(くさまくら)旅の丸寝(まるね)の紐(ひも)絶えば我(あ)が手と付けろこれの針(はる)持(も)し |
【意味】
〈4417〉赤駒を山野に放ってしまって捕えかね、夫に多摩の山並みを歩いて行かせることになるのかしら。
〈4418〉わが家の門の傍らに咲く椿の花よ。まことお前は私が手を触れない間に、地面に落ちてしまうのだろうか。
〈4419〉わが家では葦火を焚いて暖を取る貧しい暮らしだが、それでも住みよい生活だった。遠い筑紫に行ったら、家が恋しく思われてならないだろう。
〈4420〉草を枕にする旅のごろ寝で着物の紐が切れたなら、私の手が縫うと思ってこの針で付けて下さい。
【説明】
武蔵国の防人の歌。作者は、4417が豊嶋郡(としまのこほり)の椋椅部荒虫(くらはしべのあらむし)の妻、宇遅部黒女(うぢべのくろめ)。4418が荏原郡(えばらのこおり)の上丁、物部広足(もののべのひろたり)。4419が橘樹郡(たちばなのこおり)の上丁、物部真根(もののべのまね)。4420がその妻の椋椅部弟女(くらはしべのおとめ)。
4417の「赤駒」は、茶褐色の毛色の馬。「放し」は、放ち。「捕りかにて」の「かにて」は「かねて」の方言。「多摩の横山」は、東京都府中市の南に連なる丘陵。折柄、放牧の季節でもあったのか、まさか夫が防人に徴発されるとは思ってもいなかったので、黒女は飼い馬を野に放した。ところが、令状が来た。馬はなかなか捕まらない。夫に、馬なしの徒歩で行かせなければならないのか、と嘆いています。この歌からは、作者の家が馬を飼えるほどの暮らしぶりであったことが窺えます。防人に徴発されたのは、食うや食わずの貧窮の農民というよりは、なるべく生活にゆとりのある層が選抜されたとみられます。これは農村の崩壊を避けるためで、最近の研究では、かなりの部分は豪族層だっただろうといわれるようになっています。それら防人には、家人・奴婢(使用人)・牛馬を連れて行くことが許されていました。ただ、実際に家人や奴婢を連れて行く防人がいたのかどうか、防人の歌では分かりません。
4418の「片山椿」は、山の傾斜地に生えている椿のことですが、ここでは夫婦の片一方を残していくことの比喩。「触れなな」は「触れずに」の方言。「地に落ちもかも」は、留守中に周囲の若い男子のものとなりはしないだろうかとの、心配の譬喩。他にも妻の貞操のことを案じる歌がありますが、若い防人にはこんな心患いもあったようです。窪田空穂は、「隠喩仕立てにしているのは、若い防人の歌としてはふさわしくないまでの技巧であるが、女との関係がら、また場合がら、気分が複雑しているので、隠喩にするよりはかなかったものと思われる。すぐれた歌である」と評しています。
4419の「家(いは)」は「いへ」の方言。「葦火」は、葦を燃料として焚く火で、侘しい生活の意で言っています。「住みよけ」の「よけ」は「よき」の方言。「恋しけ」は「恋しく」の方言。「思はも」は「思はむ」の方言で、思わん。4420の「草枕」は「旅」の枕詞。出立する夫は、今日から男手ひとつで身のまわりのことをしなくてはならない。その身を案じつつ、夫の衣の紐を固く結び、針と糸を夫に手渡します。そして、「紐が切れたら、自分の手で縫い付けるのよ」と言い聞かせます。その心の奥底にあるのは、「決して、浮気をしないでね」ということでもあります。「針(はる)」は「はり」の方言。「持し」は「持ち」の方言。
出発が迫った夜、粗末な家の土間にしつらえたかまどの火を囲んでの若い夫婦の姿が目に見えるようです。夫の、住み慣れた家への思い、そして家同様、すすけて世帯やつれした妻への尽きせぬ愛情。弟女の、歌ともいえないような方言まるだしの歌には、形式のととのった都の女流歌人の、生活から遊離した恋や愛の歌のどれからも感じとることのできない、ひたぶるで切ない愛が息づいています。
巻第20-4421~4424
4421 我が行きの息づくしかば足柄(あしがら)の峰(みね)延(は)ほ雲を見とと偲(しの)はね 4422 我(わ)が背(せ)なを筑紫(つくし)へ遣(や)りて愛(うつく)しみ帯(おび)は解かななあやにかも寝(ね)も 4423 足柄(あしがら)の御坂(みさか)に立(た)して袖(そで)振らば家(いは)なる妹(いも)はさやに見もかも 4424 色深く背なが衣(ころも)は染めましを御坂(みさか)賜(たば)らばまさやかに見む |
【意味】
〈4421〉おれが旅に出て嘆かわしくなったら、足柄山の峰を這う雲を見ながら、このおれを偲んでおくれ。
〈4422〉うちの人を筑紫へ送り出してしまったら、愛しみながら、帯は解かずにもやもやしながら一人寝ることになるのかな。
〈4423〉足柄山の足柄峠に立って袖を振ったならば、家の妻がはっきりと見るだろうか。
〈4424〉夫の着物を濃い色に染めればよかった。そうしたら足柄峠を通していただくときに、はっきりと見えることだろうに。
【説明】
武蔵の国の防人の歌。作者は、4421が都筑郡(つつくのこおり)の上丁、服部於由(はとりべのおゆ)。4422が妻の服部呰女(はとりべのあざめ)。4423・4424は、埼玉郡(さきたまのこおり)の上丁、藤原部等母麻呂(ふじはらべのともまろ)とその妻の贈答歌。
4421の「行き」は旅。「息づくし」は「息づかし」の方言で、嘆かわしの意。「足柄の峰」は、神奈川県と静岡県の境にある足柄山。「延ほ」は「延ふ」の方言。「見とと」は「見つつ」の方言。4422の「背な」は「背(夫)」の方言。「解かなな」の「なな」は、ないで、の意の東国語。「あやに」は、何とも言いようがなく。「寝も」は「寝む」の方言。
4423の「足柄の御坂」は、相模国から駿河国へ越える足柄峠。急峻な坂として恐れられ、そのため神のいます坂とされたようです。この時代、東国から西の方に行くには、東山道なら碓氷の坂(碓氷峠)、東海道なら足柄の坂(足柄峠)のいずれかを越えて行かねばなりませんでした。箱根路が開かれるのは後の時代のことです。「立して」は「立ちて」の方言。「家(いは)」は「いへ」の方言。「見も」は「見む」の方言。袖を振るのは、衣服の袖には魂が宿っていると信じられており、離れた者との間で相手の魂を呼び招く呪術的行為でした。4424の「御坂賜らば」は、御坂の神がそこを越えることをお許しくださったならば。「まさやか」の「ま」は、接頭語。はっきりと。
なお、武蔵国の防人の歌12首のうち、4413・4416・4417・4420・4422・4424の6首が、防人の妻の歌とされています。女性ならではの立場らしく、日常生活の切り取り方に一層の細やかさがあり、優れた歌が多くなっています。
ただ、天平勝宝7年(755年)に収集された防人歌のなかで、防人本人以外の歌が載っている例は珍しく、他国の歌では、上総国防人の父が詠んだとされる1首(4347)が見られるのみです。また、武蔵国の防人歌の全体に特徴的なのが、夫婦の別れを主題に歌ったものばかりで、他に多くある親子の歌が全く見られないことです。武蔵国のみ、進上の際にあえてそのような歌や妻の歌を集めるよう指示があったのか、あるいは、武蔵国の防人は夫が防人に徴発されるとき、妻も足柄山の御坂まで同道できる風習があったようであり、その影響ではないかとする見方があります。
以上で、天平勝宝7年(755年)に交替した防人の歌は終わっています。集められた歌は、故郷を出てから難波に着き、筑紫に向けて出航するまでの間に詠まれたものばかりで、現地で任に就いてからの歌は1首もありません。その後の彼らの境遇がどのようなものであったかは想像するよりほかないのですが、ただ、軍防令に「凡そ防人、防に在らば十日に一日の休暇放せ、病せらば皆医薬給え、火内の一人を遣りて、専ら静養をせしめよ」との規定も見え、少しばかりほっとさせられるところです。なお、これ以降4436までは「昔年の防人の歌」とあり、類歌を集めたものとなっています。
巻第20-4425
防人に行くは誰(た)が背(せ)と問ふ人を見るが羨(とも)しさ物思(ものも)ひもせず |
【意味】
防人に行くのはどなたのご主人と、問いかけている人を見ると羨ましい。何の物思いもしないで。
【説明】
「昔年(さきつとし)の防人の歌」、つまり天平勝宝7年に家持が収集したものより以前に作られていた防人歌です。防人が歌を奉ることは過去にもあり、この歌を含む8首(4425~4432)が、磐余伊美吉諸君(いわれのいみきもろきみ)という官人によって写され、家持に贈られています。磐余伊美吉諸君の経歴などは分からず、この時の官位は主典刑部小録正七位上だったことが分かるだけです。贈られた8首はすべて無記名です。
国庁に集まった防人とその家族は、そこで防人編成の式に臨み、そのあと部領使に引率されて、陸路難波をめざしたのでした。この歌は作者未詳ながら、防人として旅立つ夫を見送る妻が詠んだ歌で、他人事として話している他の女と自分を対照させることで、なおいっそう心の苦衷があらわれています。「物思ひもせず」と止めた結句も不思議によい、と斎藤茂吉は言っています。秀歌として高く評価されている歌で、ただ、古いだけに、かなり都の人の手が入っており、方言もなく、都風になっています。
巻第20-4426~4428
4426 天地(あめつし)の神に幣(ぬさ)置き斎(いは)ひつついませ我(わ)が背(せ)な我(あ)れをし思はば 4427 家(いは)の妹(いも)ろ我を偲ふらし真結(まゆす)ひに結(ゆす)ひし紐(ひも)の解くらく思へば 4428 我が背(せ)なを筑紫(つくし)は遣(や)りて愛(うつくし)しみえひは解かななあやにかも寝(ね)む |
【意味】
〈4426〉天地の神々にお供え物をして、お祈りしながらいらっしゃい、あなた。私のことを思って下さるならば。
〈4427〉家にいる妻は私のことをしきりに偲んでいるらしい、しっかり結んだ着物の紐が解けてくるのを思うと。
〈4428〉うちの人を筑紫へ遣って、いとしいので、帯を解かずに悩ましく寝ることになるのでしょうか。
【説明】
昔年の防人の歌。4426の「天地(あめつし)」は「あめつち」の方言。「幣」は、神に祈るときに捧げるもの。4427の「家(いは)」は「いへ」の方言。「妹ろ」の「ろ」は接尾語。「真結ひ」は、本式にしっかり結んだこと。衣の紐が解けるのは、人が自分のことを恋しているしるしだという俗信を踏まえています。4428の「えひ」は「おび」の方言。「解かなな」の「なな」は、ないで。「あやに」は、何とも言いようがなく。
巻第20-4429~4432
4429 馬屋(うまや)なる縄(なは)絶(た)つ駒(こま)の後(おく)るがへ妹(いも)が言ひしを置きて悲しも 4430 荒(あら)し男(を)のいをさ手挟(たはさ)み向ひ立ちかなるましづみ出(い)でてと我(あ)が来る 4431 笹(ささ)が葉(は)のさやぐ霜夜(しもよ)に七重(ななへ)かる衣(ころも)に増(ま)せる子ろが肌(はだ)はも 4432 障(さ)へなへぬ命(みこと)にあれば愛(かな)し妹(いも)が手枕(たまくら)離(はな)れあやに悲しも |
【意味】
〈4429〉馬屋の縄を切って飛び出す馬のように、私も一緒に行くと言ってすがった妻を置いてきたのが悲しい。
〈4430〉勇ましい男が矢を手挟んで狙いを定めて待つように、見送りの騒ぎが静まるのを待って、私は旅立ってきた。
〈4431〉笹の葉がそよぐ寒い霜夜に、七重も重ねて衣を着るけれど、妻の肌の暖かさにはかなわない。
〈4432〉拒むことのできない大君のご命令なので、いとしい妻の手枕を離れてやってきたが、切なく悲しい。
【説明】
昔年の防人の歌。4429の「馬屋なる縄絶つ駒の」は、飼い馬は飼い主が出かけると自分も出ようとして逸る習性があることから、比喩として「後るがへ」に掛けたもの。「がへ」は「かは」の意の反語の訛り。4430の「いをさ」の「い」「を」は接頭語。「さ」は「矢」の古語。「かなるかしづみ」は語義未詳ながら、鳴りをひそめて、騒ぎが静まるのを待って、などと解されています。古来さまざまな解釈のある歌です。4431の「七重かる」の「かる」は「着(け)る」の方言で、着ているという意。「増せる」は「増さる」の方言。4432の「障へなへぬ」は、拒むことのできない。「あやに」は、何とも言いようがなく。
「昔年の防人の歌」とされるこれら8首が、都の人の好みによって非常に都風に変わってしまっているのに対し、家持が選んだ歌は、彼の好みであり、また彼の手が加えられているとはいうものの、防人の生の声が、よりいっそう伝わるものになっています。
なお、これら8首はすべて武蔵国の防人歌と同様、夫婦の別れを主題に歌ったものばかりとなっています。両者の歌群が近接して載せられていることからも、「昔年の防人の歌」は、そもそも武蔵国に伝わったものではないかと指摘もなされています。
巻第20-4433~4435
4433 朝(あさ)な朝(さ)な上がるひばりになりてしか都に行きて早(はや)帰り来(こ)む 4434 ひばり上がる春へとさやになりぬれば都も見えず霞(かすみ)たなびく 4435 ふふめりし花の初めに来(こ)し我(わ)れや散りなむ後(のち)に都へ行かむ |
【意味】
〈4433〉朝ごとに空高く上がる雲雀(ひばり)になりたいものだ。都に飛んで行ってすぐに帰って来るのに。
〈4434〉雲雀が上がる春にはっきりとなってきたので、霞がたなびいて都の方が見えない。
〈4435〉桜がまだつぼみだった頃にここ難波にやってきた私どもは、桜が散った後に都に帰ることになるのだろうか。
【説明】
天平勝宝7年(755年)3月3日、防人を点検する勅使と兵部の役人らともに集って宴会をした時に作った歌。すでに東国の防人たちは、筑紫に向けて出航しており、1か月余りの難波での任務を終え、いわば慰労・打ち上げの宴だったようです。4433は、勅使の紫微大弼(しびのだいひつ)安倍沙美麻呂朝臣(あべのさみまろあそみ)の歌。「紫微大弼」は、天平勝宝元年(749年)に新設された行政機関「紫微中台」の次官。4434・4435は、大伴家持の歌。
4433の「朝な朝な(あさなさな)」は「あさなあさな」の約。「なりてしか」の「てしか」は願望。4434の「さやに」は、はっきりと。4435の「ふふめりし」は、蕾んでいた。家持が兵部使少輔として難波に着任したのは2月の初めでした。難波で日を重ねているところから、都を恋しく思う気持ちをうたっています。家持が防人たちの歌から受けた衝撃が、どの程度の深さで彼の心に残ったのか、その後の彼の作には全く影が見えないため、推しはかるすべがありません。日本史学者の北山茂夫は、「兵部少輔家持は、ほぼ一か月の滞在中に、四首の長歌を作った。三首が防人たちを主題にした力作である。しかし、制作上の新しい波は、ついにそこからつづいて起こらなかった。これらの作品群が、内発的ではなかったからであろう」と述べています。
巻第20-4436
闇(やみ)の夜(よ)の行く先知らず行く我(わ)れをいつ来(き)まさむと問ひし子らはも |
【意味】
闇夜を行くようにどこに行くのか分からない私なのに、いつお帰りになりますかと尋ねた、かわいい妻よ。
【説明】
昔年に交替した防人の歌1首との題詞で、ぽつんと挿入されている歌。家持が、難波で誰かから聞いたものだったか。「闇の夜の」は「行く先知らず」の枕詞。「子ら」の「ら」は接尾語。「はも」は強い詠嘆。窪田空穂は、「防人が家を出て旅をしつつ、別れた際の妻を思い出しての憐れみである。『何時来まきむと』が中心で、防人はその妻の世間知らずの、さながら子供のようなのを、愛しあわれんだのである。防人が若いので、こうした妻もありうることである」と言っています。
4321からこの歌までの116首が、防人の歌および防人に関連する歌となっています。
【PR】
古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |
【PR】
【PR】