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江戸城無血開城

 勝海舟は、幕臣として江戸無血開城の任を果たし、明治維新後は参議、海軍卿、枢密院顧問として活躍しましたが、後に福沢諭吉は、勝のことを強く批判しています。「両親が病気で死のうとしているとき、もうダメだと思っても看護の限りを尽くすのが子というものであり、それが節義ではないか」と。幕府の人間でありながら幕府を見捨ててしまった勝が許せないというのです。なるほどそういう見方もあるのでしょう。

 しかし、おそらく勝には、幕府だとか官軍だとかに拘った狭量な考えはなかったのではないでしょうか。あくまで「日本国」という高い見地に立って、新しい時代の必要を感じ、倒幕のシナリオを描いた。江戸城無血開城の直前、勝の念頭にあったのは、何とか日本人同士が血を流す愚だけは避けたいということだったはずです。その一存で官軍側の西郷隆盛との会談に臨んだのです。

 しかも、勝はただ漫然と会談に臨んだわけではありません。一方で、会談が決裂し、最悪の事態にいたった場合の準備もきっちり用意していました。というのは、品川沖に榎本軍ひきいる幕府軍艦を待機させ、町火消の頭だった新門辰五郎らを使ってのゲリラ作戦を準備していました。万一の場合には江戸市中に火を放ち、ゲリラ戦を展開、その隙をねらって幕府艦隊と旗本軍が官軍に襲いかかる作戦だったというのです。

 さらに勝は、房総の大小の舟すべてを隅田川の河口に集結させ、江戸市民を避難させる用意もしていました。また、いざというときは、将軍・慶喜をイギリス軍艦に乗せて外国へ亡命させることまで考えていました。ですから、もしこの会談が物別れとなり、幕府軍と官軍が戦っていたら、日本のその後の運命はどうなっていたか分かりません。

 西郷としても、無益な戦は避けたいという考えは同じだったはずです。ただ、官軍の主流派の勢いはとどまるところを知らず、何としても江戸を総攻撃して革命のノロシを上げたいと血気に逸っていました。したがって、西郷も勝と同様に、一触即発の緊迫した状況下での会談だったのです。しかし、西郷もまた偉大でした。このときの様子が、後に勝が著した『氷川清話』に書かれています。

「当日のおれは、羽織袴で馬に乗り、従者一人をつれて、薩摩屋敷に出かけた。(中略)いよいよ談判になると、西郷は、俺の言うことをいちいち信用してくれ、その間一点の疑念もはさまなかった。『いろいろ難しい議論もありましょうが、私が一身にかけてお引き受けします』。西郷のこの一言で、江戸百万の生霊も、その生命と財産を保つことができ、また徳川氏もその滅亡を免れたのだ。もしこれが(西郷でなく)他人であったら、(中略)いろいろうるさく責め立てたに違いない。しかし西郷はそんな野暮なことは言わない。大局観を達観し、しかも果断に富んでいたのには、おれも感心したよ」

 結局、西郷は、勝が提示した6つの降伏条件を、若干の修正を加えたもののすべて受け容れました。勝の視野の広さと誠心誠意に満ちた人柄に感服したのです。その結果、血を流さず江戸城は官軍に明け渡されることとなりました。勝と西郷という偉大な政治家が日本にいたからこそ、日本が分裂する事態を避けえたといえるのではないでしょうか。

西郷隆盛に心酔した庄内藩

 戊辰戦争で官軍に徹底抗戦した庄内藩は、三河以来の譜代の名門であり、徳川家康の四天王・酒井忠次の子孫にあたります。幕末に会津藩が京都守護職を任され、新撰組をつくったように、庄内藩も江戸市中の警備を任ぜられ、討幕派の浪士たちのアジトと目された薩摩藩の江戸屋敷を焼き討ちにしています。

 東北地方に官軍が進撃してきたときも、庄内藩は徹底抗戦し連戦連勝、一時は官軍を押し戻し、隣藩にまで攻め込む勢いを見せました。ですから、官軍にとって庄内藩は、恨みこの上ない朝敵だったのです。

 しかし、いくら一藩ががんばったところで、すでに勝敗の流れは決していました。周囲の諸藩が相次いで降伏するなか、庄内藩は最後まで抗戦しましたが、領民を巻き込むわけにはいきません。明治元年9月、ついに無敗のまま降伏しました。

 庄内藩は、当然に官軍による厳しい処罰を覚悟しました。どんな処分を受けても仕方ないと考えていました。ところが、官軍の代表として城を接収に来た黒田清隆は、藩主・酒井忠篤を前に下座に座り、きわめて謙虚な態度でした。その丁重ぶりに「いったいどちらが勝者なのか分からない」といった不満も官軍側から出たといいます。

 実はこの黒田の態度は、西郷隆盛の意を汲んだものでした。西郷は「自分がもし庄内藩士だったら、やはり同じように、最後の最後まで徳川家のために戦っていたはずだ」と考えていました。敵ながらあっぱれという思いから、庄内藩を罪人のように扱わなかったのです。

 この後、庄内藩の藩主以下みなが西郷を敬愛し、西郷の大ファンになってしまいました。今後の藩の指導を仰ぐのは西郷をおいて他にないというので、藩主自ら西郷の教えを受けるため、藩士70余名を引き連れ、はるばる薩摩まで留学したほどです。なお、西郷を顕彰し祀る南洲神社は全国に4カ所ありますが、その一つは庄内地方にあります。
 

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幕末の年表

1853年
アメリカの使節ペリーが浦賀に来航
1854年
ペリーが再び来航、日米和親条約を結ぶ
1856年
アメリカの総領事ハリスが下田に着任
1856年
吉田松陰が松下村塾を開く
1858年
井伊直弼が大老になり、米・露・英・仏と修好通商条約を結ぶ
1859年
安政の大獄
1860年
桜田門外の変
1862年
孝明天皇の妹・和宮が将軍家持と結婚
1862年
生麦事件
1863年
浪士組(のちの新撰組)が結成される
1863年
薩英戦争
1864年
長州藩士が京都御所を襲う
1864年
下関事件
1864年
新撰組による池田屋事件
1864年
第一次長州征伐
1865年
第二次長州征伐
1865年
物価が上がり、各地で打ちこわしが起こる
1866年
薩長連合
家持が死去し、徳川慶喜が第15代将軍になる
福沢諭吉が『西洋事情』を著す
1867年
大政奉還
王政復古の大号令
1868年
江戸城開城
戊辰戦争が始まる
五箇条の御誓文
江戸を東京と改称し、年号を明治とする


(井伊直弼)

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