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韓国代表に反論したムルトポ将軍

 昭和48年(1973年)4月のこと、フィリピンの首都マニラで開かれたASEAN諸国を中心とした安全保障の国際会議での席上、韓国代表がこのように演説しました。

「日本帝国主義が30数年間にわたり韓国を侵略したために、韓国は防衛体制が確立できなかった。その責任は日本にある」

 これに対し、日本代表は黙っているばかりで、何の反論もしようとはしませんでした。すると、インドネシアのムルトポ将軍が、憤然として席から立ち上がります。ムルトポ将軍は、自らインドネシア独立戦争を戦ってきた人物です。将軍は、韓国は日本の庇護のもとに日本人として生きてきたにも関わらず、日本が戦争に負けた途端に戦勝国民であるかのようにふるまい、平気で独立戦争を戦ってきたと言う、その態度に我慢ならず、次のように発言したのです。

「朝鮮人は自ら戦わなかったにも関わらず、責任だけを日本に押しつけるとは何事か。もしアジアに日本という国がなかったらと仮定してみよ。1899年の義和団事件以来、ロシアは満州に大量の軍隊を駐留させ、朝鮮侵略を狙っていた。朝鮮が戦わないから、日本が戦ったのであり、これが日露戦争だ。

 朝鮮は、日本が負けると予想して、裏でロシアと繋がっていたではないか。もし日本が戦わなかったら、間違いなく朝鮮はロシアの領土になっていた。朝鮮だけではなく、中国も北半分はロシアが支配し、揚子江以南はイギリスとフランスが支配しただろう。遅れて進出したアメリカは、いかにして中国大陸に食い込もうかと企んでいた。

 そもそもアジア混迷の遠因は、中国にある。中国はアヘン戦争でイギリスの不当な要求に屈して簡単に降参してしまった。あの時、中国はなぜ徹底して戦わなかったのか。イギリスやフランスを大陸に引き込んで、蒋介石のように戦えば勝てたかもしれない。”中華”と誇る中国がふがいなく負けたから、日本が大東亜戦争を戦わざるを得なくなったのではないのか。その責任は中国にある。そもそもアジアで戦ったのは、日本だけだ。もし日本という国がなかったら、アジアは半永久的に欧米勢力の植民地として支配されていたはずである。戦後、アジア諸国は、日本から、経済、技術、資金面でどれほど多くの支援を受けてきたのか、よくよく考えてみよ」


 また、別の機会に、例によって日本へのバッシング発言をする韓国代表に対して、将軍は次のように反論したといわれます。

「日本はアジアの光である。大東亜戦争は、欧米人にアジア人の勇敢さを示したもので、チンギス・ハンとともにアジア人の誇りである。ここで、インドネシアによる日本民族の価値についての見解を申し上げる。

 たとえば今、忽然として日本民族がこの地球上から消えてしまったら、アジアとアフリカは非常に困ることになるだろう。なかでも、韓国がいちばん困ると思う。韓国は工業大国である日本と競争したから、立派な工業国になれたのだ。もし、日本がシンガポールの地点にあったとしたら、わがインドネシア人は、少なくとも100万人が日本国内に移住し、日本人と同等の教育を受け、その人的関係から日本の技術、市場、金融、スタッフ等を活用することができる。だから、企業が成功するのは極めて容易である。

 つまり、日本の近いところに位置していることは実に幸運なことなのだ。経済的支援を連続的に受けていると言ってもよいくらいだ。もしインドネシアが日本の近くにあったなら、今のような貧弱なインドネシアにはなっていなかっただろう。要するに、我々インドネシア人は、『日本は何もしてくれなくてもよい』と考えている。日本は欧米と肩を並べて進歩しているだけで、十分アジアとアフリカに尽くしていると考えている。

 だから、我々アジア人は、外交面に弱い日本を応援したいと思っている。日本から援助をもらうだけで応援しないのでは、決して運命共同体とは言えないし、対等のパートナーとも言えないのではないか」

財閥を育成した朴大統領

 明治・大正期の日本経済は、およそ資本主義国家とはほど遠い状況でした。日本が何とか工業国の仲間入りをしたのは明治18年ころ。といっても、その主力は紡績などの軽工業であり、重工業はまだよちよち歩きのレベルでした。日本の重工業が一人前になったのは、それから約半世紀もたった昭和8年ころです。

 そんな状況でしたから、日本にとっては資本をできるだけ集中させることが何よりの優先事項でした。いくら資本があっても分散していては、大きな事業に利用することはできません。一つのところに資本が集中しているほうが、有効かつ大規模に活用できます。そこで三井や三菱、住友といった財閥が生まれたわけで、当時の日本としては絶対に不可欠なものでした。欧米に追いつくためには、いくら中小企業がたくさんあっても意味がなかったのです。

 よく歴史教科書などで、財閥は悪の権化のような書かれ方をされていますが、大きな見当違いというものです。その点、財閥の効用をきちんと見抜いていたのが、韓国の朴正熙大統領でした。朴大統領が就任したのは1963年ですが、当時の韓国の1人あたりGNPは世界最貧国圏にあり、アフリカ並みでした。それが今日のような発展を見せたのも、朴大統領が財閥を熱心に育成したからです。

 朴大統領は「維新革命」と名づけた政策ビジョンを示しました。日本の陸軍士官学校への留学経験がある朴大統領は、明治維新の意義をよく理解していました。だから、韓国の近代化には日本の真似をするのがいちばんだと考えました。その積極的な経済政策によって、彼の時代から約30年間にわたって、韓国は国民所得にして10倍の「漢江の奇跡」を成し遂げたのです。
 

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インドネシア独立戦争

1596年
オランダがジャワに艦隊を派遣
1602年
オランダがジャワに「東インド会社」を設立、植民地化を推進
1830年
オランダがジャワで強制栽培制度を実施
1849年
オランダがバリ島を植民地化
1873年
オランダがスマトラに侵攻
1904年
オランダがスマトラ島を占領
1941年
日本が米英に宣戦布告
1942年
日本軍がジャワに侵攻、オランダ全面降伏
1943年
日本軍が祖国防衛義勇軍の養成を開始
1944年
小磯内閣がインドネシア独立の方針を発表
1945年
日本敗戦、インドネシア共和国独立宣言、英蘭と独立戦争が勃発
1949年
独立戦争に勝利、インドネシア共和国成立

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