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生麦事件

 江戸時代末期の1862年8月21日のこと、江戸で幕政改革を実現させた島津久光一行が京都に帰る途中、武蔵国生麦村(現在の横浜市鶴見区)に差しかかった折、前方を、イギリス商人リチャードソンら4人が騎馬で横切るという事件が起きました。彼らは横浜在住で、その日は川崎大師の見物に訪れていたのでした。

 薩摩藩士らはイギリス人4人に対し、身振り手振りで下馬し道を譲るように説明しましたが、イギリス人には意味が通じず、久光の乗る駕籠の近くまで馬を乗り入れてしまいます。これを無礼として従士の奈良原喜左衛門ら数人が切りかかりました。リチャードソンは死亡、ほかの2人は負傷してアメリカ領事館へ逃げこみ、婦人1人は無傷でしたが失神寸前で居留地へたどり着きました。

 事件の原因については、彼ら4人は藩士たちから「脇を通れ」と言われたものと思い、行列とすれ違う際に慎重に極力左端を通ろうとしたものの、道が狭かったために図らずも行列の中に馬を誤って進めてしまい、それにより乗馬が興奮して久光の列を乱したといいます。

 しかしながら、彼らの祖国イギリスでは、貴人が騎馬や馬車で通る際、下馬して道を譲り、馬が暴れないよう手綱を締め、脱帽し片膝をついて座り、敬意を示した上で見送るというのが礼儀とされていました。行列を乱さないよう気を使ったとはいえ、騎馬のまま通る行為が礼を欠いた行動であったのは事実であり、それが事件の原因と非難されても仕方ない面があります。

 事件後、イギリス側には実力報復の声もあがり、一触即発の事態に至りました。しかし、イギリス代理公使ニールは冷静を保ち、本国政府の指令にもとづいて、幕府に謝罪と賠償金10万ポンド、薩摩藩に犯人の死刑と賠償金2万5000ポンドを要求しました。幕府側では、薩摩が幕府を困らせるためにわざと外国人を傷つけたとみる幕臣が多く、またイギリスを恐れるばかりであったため、翌年これに応じました。ニールは続いて薩摩藩と直接交渉をおこないましたが拒否され、とうとう薩英戦争が始まることとなりました。

 なお、東海道筋を下る久光の行列を、民衆は「さすがは薩州さま」と歓呼して迎えたと伝えられています。また、京に戻った久光が御所に参内すると、孝明天皇がわざわざ出御し、久光の労を賞したといいます。さらにアメリカでは、『ニューヨーク・タイムズ』がこの事件を報じ、「非はリチャードソンにある。日本の最も主要な通りである東海道で、日本の主要な貴族に対し無礼な行動をとることは、外国人どころか日本臣民でさえ許されていなかった。条約は彼に在居と貿易の自由を与えたが、日本の法や慣習を犯す権利を与えたわけではない」と評しています。

伊能忠敬の超絶パワー

 江戸時代後期に、実測による初の日本地図を作成したことで有名な伊能忠敬は、もとは下総(千葉県北部)生まれの商人でした。養子に入った酒造業の商家を繁盛させて財を成し、50歳になると隠居。商売は息子に任せて、勉学のために江戸に出ました。19歳年下の幕府天文方の学者・高橋至時(たかはしよしとき)の弟子になり、そこから天体観測や測量、暦法を熱心に学んだといいます。今でいえば、定年退職後のビジネスマンが大学院で学び始めたようなものでしょうか。

 その忠敬が全国の測量に出向くきっかけになったのが、ロシアによる蝦夷地(北海道)への圧迫でした。師匠の至時は北方の緊張を憂慮し、蝦夷地の正確な地図を作る計画を立てて幕府に願い出ました。測量による地図作成のかたわら、それまで明確でなかった子午線一度の距離も求めようという狙いもあったといわれます。そこで、この事業の担当としてあてられたのが忠敬でした。高齢であるのが懸念されましたが、測量技術や指導力、財力などの点で、この事業にはふさわしい人材とされたのです。

 当初は、幕府への提案はすんなりとは受け入れられず、忠敬も信用はされていなかったようです。しかし、蝦夷地の測量と地図作成を予想外にうまく成功させたことから、その後の計画も追加され、実際に彼が全国を測量して歩いた期間は、56歳から17年間にも及びます。驚くのは、その間に彼が投じた私財が1万両以上、今の金額で数億円にもなる大金であることです。途中から幕府の援助金が出るようになったとはいえ、毎年数千万円のポケットマネーを出し続けていたことになりますから、こちらはリタイア後のビジネスマンがとうてい真似できることではありません。

 忠敬が最終的に測量のために歩いた距離の合計は、約4万3,000km。これは地球を1周以上したことになる途方もない距離です。また、実際に測量を行った日数が約3,700日だそうですから、1日平均11.6kmのペースで歩き続けたことになります。最初に蝦夷地に向かったときは、寒くなる前に終えるため急ぎに急ぎ、1日40kmも歩いたといいます。測量のための重い機材を運びながら、しかも当時の道路事情などを考慮すれば、まことに驚異的なペースというよりほかありません。

 夜には、測量結果のデータを計算し、さらに宿舎の庭に出て天文観測までしたといいますから、彼のスケジュールは超人的なハードさでした。しかも、最初に蝦夷地に赴いたときは総勢5名、やがて幕府から援助金が出るようになり、西日本をまわるころには幕府の直轄事業とされ、人数は20人ほどに増えましたが、それでも、オーバーワークによる部下たちの死亡、すなわち過労死が絶えなかったといいます。

 忠敬は、日記のなかで、自分より若い人が亡くなっていくことを幾度も嘆いていますが、本人の年齢不相応の超絶パワーには恐れ入るばかりです。何か特別な健康法でもあったのでしょうか。72歳になるまで全国測量を続け、その後は地図の作成に没頭、残念ながら地図の完成をみることなく73歳で亡くなりました。しかしながら、50歳から始まった忠敬の第二の人生は、日本史上もっとも輝いていたといっても過言ではないでしょう。とまれ、やはり何をおいても健康第一でありますね。私も随分あやかりたく思います。
 

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幕末の年表

1853年
アメリカの使節ペリーが浦賀に来航
1854年
ペリーが再び来航、日米和親条約を結ぶ
1856年
アメリカの総領事ハリスが下田に着任
1856年
吉田松陰が松下村塾を開く
1858年
井伊直弼が大老になり、米・露・英・仏と修好通商条約を結ぶ
1859年
安政の大獄
1860年
桜田門外の変
1862年
孝明天皇の妹・和宮が将軍家持と結婚
1862年
生麦事件
1863年
浪士組(のちの新撰組)が結成される
1863年
薩英戦争
1864年
長州藩士が京都御所を襲う
1864年
下関事件
1864年
新撰組による池田屋事件
1864年
第一次長州征伐
1865年
第二次長州征伐
1865年
物価が上がり、各地で打ちこわしが起こる
1866年
薩長連合
家持が死去し、徳川慶喜が第15代将軍になる
福沢諭吉が『西洋事情』を著す
1867年
大政奉還
王政復古の大号令
1868年
江戸城開城
戊辰戦争が始まる
五箇条の御誓文
江戸を東京と改称し、年号を明治とする


(井伊直弼)

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