本文へスキップ

南京大虐殺事件

 世に言われている「南京大虐殺事件」は、歴史問題というより外交問題と化しており、史実がどうだったかという肝心の議論や検証が憚られるような雰囲気になっています。「南京大虐殺はでっちあげ」と発言した政治家などはそれだけで内外から強い批判を浴びたりします。しかし、ここであらためてこの事件について指摘されている疑問点の確認をしていきたく思います。
 
 この事件は、日中戦争のさなかの昭和12年、日本軍が南京を陥落させた際に行った大虐殺事件とされています。実は、この事件が最初に言及されたのは、かの「東京裁判」の法廷においてでした。それまで日本人の知らなかった、降ってわいたように突如糾弾された犯罪の内容はおおよそ次のようなものです。
 
@ 南京落城直後の数日で、非戦闘員の中国人が少なくとも1万2000人殺害された。
A 占領後、1ヶ月の間に約2万件の強姦事件が起こった。
B 同じく6週間にわたって略奪・放火が続けられ、市内の3分の1が破壊された。
C 降伏した中国兵捕虜3万人以上が殺された。
D 占領後6週間で殺された一般人・捕虜の総数は20万人から30万人にのぼる。
 
 まず「おかしい」と思うのは、これほどの重大事件であるならば、戦後になるまで日本人が知らなかったのはなぜでしょうか。当時の中国には多くの欧米人も住んでおり、内外のジャーナリストたちも多数入国していたといいます。しかし、彼らがそのことをニュースとして全く採り上げなかったのはなぜでしょう。そして、何より当の被害者であるはずの中華民国(蒋介石政府)が国際的に問題にしようとすらしなかったのはなぜなのでしょう。
 
 日本人だけが知らされていなかったというなら、あり得えない話ではないでしょう。しかし、当時の日本は国際連盟を脱退した直後でもあり、反日的な立場の人はきわめて多かったはずです。そうした人たちもそうですが、何より敵国である日本の立場を貶める絶好のチャンスにあった中華民国が、何も騒いでいないのは不思議というほかありません。
 
 唯一の「南京大虐殺」の記録とされるイギリスの新聞社の特派員による『外国人の見た日本軍の暴行』という本も、実際は一度も南京に行かずに伝聞だけで書かれたといいますし、戦後、新聞で大虐殺の証拠として発表されたいくつかの写真は、いずれも事件と無関係かインチキであることが分かっています。
 
 それから、かりに本当に20万人や30万人の人たちがわずか6週間で殺されたとしたら、当時の南京市民のほぼ全員であり、原爆を落とされた広島の死者の数に匹敵します。それほどの大量殺人は、原爆のような大量破壊兵器ならともかく、ちょっとやそっとの計画や装備でできることではありません。また、不届きな誰かが衝動的にやれるものではないし、何より軍として敢えて大量の武器や装備を使用してまでそれを行わなければならないメリットが存在しません。
 
 それに、20万人や30万人を殺したとしたら、そのおびただしい数の死体をどう処分したのでしょうか。また、陥落してわずか1ヵ月後には市の人口が25万人にまで増えているという記録は、どう理解したらいいのか分かりません。ふつうに考えて、大虐殺の現場にすぐにそんなに多くの人がやってくるでしょうか。
 
 これらの矛盾の指摘に対して、南京大虐殺の存在を肯定する側の人たちの中には「人数が問題ではない」という言い方をする人もいるようです。しかし、被害者の人数を問題にしない”大虐殺”事件があるでしょうか。こうなると、もう「何が何でも」という感じです。

【PR】

A級戦犯って、何?

 靖国神社そのものは否定しない人たちのなかにも「A級戦犯の合祀だけは反対」という意見が根強くあります。しかし、そのような人たちがいう「A級戦犯」の意味が、私にはどうもよく分からないのです。そもそも「A級戦犯」とは、かの東京裁判で「平和に対する罪」として新たに定義され、有罪判決を受けた人たちを指します。

 しかしながら、A級戦犯とされている戦争指導者たちは、言ってみれば戦争に負けたから戦犯にされているのであって、勝っていれば「英雄」です。いかに卑怯であくどい勝ち方をしても、またどれほど多くの犠牲を払おうと、勝ってしまえば「戦犯」などあり得ません。過去の歴史でもそんな事実はないでしょうし、「勝てば官軍」といわれるとおり、クーデターでも何でも勝ったほうが正義であり、負けたほうが悪とされます。

 そうすると、敗戦と戦犯の存在は不可分に両立するものであり、戦犯を責めたてるのは、裏を返せば「戦争に負けたから責任がある」「勝つべきだった」、別の言い方をすれば、「勝っていれば責任を問わなかった」と主張していることにならないでしょうか。あたかも贔屓(ひいき)の野球チームの成績が悪くて、監督やコーチの責任を追及しクビに追い込んでしまうのと同じ発想に見えます。

 いや、そんなわけはない、不当な戦争を始めたからけしからん、だから戦犯だといわれても、これも負けたから不当とされるのであって、言ったが如く、勝てば正当です。それにあの戦争は、「窮鼠(きゅうそ)猫を噛む」のように、”アメリカ猫”が”日本ネズミ”をとことんまで追い詰めて、最後の最後の抵抗で噛みついてくるのを待って始まった戦争です。かのマッカーサーですら、後に日本の自衛戦争であったと認めています。戦犯とされた人たちは、明らかに日本のためを思い、祖国の自衛のために立ち上がったのです。それとも座したまま国をつぶしたほうが立派だったのでしょうか。

 いや、それでもない、非人道的な行為があったから戦犯だというのなら、通州事件で日本人住民を虐殺した中国人や、原爆を投下して何十万人もの人間を焼き殺したアメリカ人を戦犯として追及しないのは何故でしょう。まして「平和に対する罪」というなら、こちらにばかり戦犯がいるのはおかしくありませんか。

 いやいや、そういうことではなく、正当だろうが不当だろうが、あるいは先に手を出そうが出すまいが、とにかく戦争に手を染めたこと自体がけしからんといわれたら、確かにそういう捉え方はあるでしょう。しかし、これも前述の話の繰り返しで、結果として勝っていれば、いわゆる「戦犯」には決してなり得ません。「戦犯」という裏には必ず「負けたから」という存在根拠があり、やはりどうあっても両者は一体不可分の関係にあるとしか言い様がありません。

 いずれにしても、敵国からならいざ知らず、同胞から殊更にA級戦犯を責めたてる声が上がるのは不思議でなりません。東京裁判は、あろうことか、”事後”にルールを決めて裁くという、法の原則を無視した無茶苦茶な裁判だったわけですが、勝者が敗者を懲らしめるという”意趣返し”的な図式そのものは理解できないではありません。しかし、同胞からとなると、その意味や理由が分からなくなってくるのです。
 

【PR】


目次へ ↑このページの先頭へ

【PR】

日中戦争年表

1931年
9月 満州事変
12月 リットン調査団発足

1932年
1月 第一次上海事変
3月 満州国成立
9月 日満議定書を締結

1933年
1月 日華両軍が衝突
3月 国際連盟を脱退
11月 中華共和国成立

1934年
3月 溥儀が満州国皇帝に

1936年
ロンドン軍縮会議を脱退

1937年
7月 盧溝橋事件
7月 通州事件
8月 第二次上海事変
8月 陸軍が中国派兵
9月 対日民族統一戦線
12月 日本軍、南京入城

1938年
1月 国民政府を相手にせずと近衛声明

 

【PR】

デアゴスティーニ

ノートンストア

目次へ