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哲学に親しむがんばれ高校生!

ニーチェ

ドイツの哲学者(1844年~1900年)。 初め文献学を志しバーゼル大学古典文献学教授となったが、音楽家ワーグナー、歴史家ブルクハルト、哲学者ショーペンハウエルに傾倒。1870年普仏戦争に志願従軍したが、健康を害し同大学の教授を辞任。以後著述に専念した。1889年精神病が昂じ、1900年に没した。
実存哲学の先駆者とされ、キリスト教的・民主主義的倫理を弱者の奴隷道徳とみなし、強者の自律的道徳すなわち君主道徳を説き、その具現者を「超人」とした。機械時代・大衆支配時代に対する批判は、一面ファシズムの支柱ともなった。

 ニーチェが残した言葉で有名な「神は死んだ」。これは彼が書いた『ツァラトゥストラはかく語りき』のなかで、主人公のツァラトゥストラに語らせた台詞です。この著作はキリスト教の聖書に対抗して書かれたといわれ、後期ニーチェの思想の集大成とされますが、主人公に「神の死」と言わしめたニーチェは、「神」をどのようにとらえ、また何を訴えたかったのでしょうか。
 
 まずニーチェは、「神とは、弱者のルサンチマンが作り出したものにすぎない」と述べます。ルサンチマンというのは「弱者の強者に対する妬み、恨み」のことで、神や神への信仰は、決して人々の崇高な意志から生まれたのではなく、むしろ、現実から逃れた敗者や弱者の歪んだ負の感情から生み出されたのだというのです。さらにニーチェは、そのようにして生まれた「神への信仰が、人間本来の生を押し殺してしまっている」とも主張します。
 
 ニーチェによれば、人間は古来、狼や鷹のように力のある強者を「善い」とする価値観をもっていたのに、あるときから(ユダヤ教に始まるキリスト教という宗教や道徳が発生してから)その価値観が逆転してしまったといいます。つまり、強者ではなく、羊のように大人しく弱い者を「善い」とする価値観に変わってしまった。これは人間本来の自然な価値観では決してあり得ず、あとから宗教家などによって人工的に作られた偽物の価値観だというのです。
 
 たとえば、「強くなりたい」「お金持ちになりたい」「権力を得たい」といった欲求が人間本来の素直な気持ちであり、また自然な価値観であったはずなのに、それがいつの間にか「弱いことは素晴らしい」「お金や権力を求めるのは邪悪だ」というように歪められてしまった。なぜなら、殆どの人はそれらを得たくともなかなか得られない、あるいは自信がないから。だからといって負けを認めて惨めになるのは嫌だ。神の存在を信じ、神を信仰するのは、そうした発想に基づくというのです。
 
 またたとえば、『イソップ寓話』に出てくるキツネが、取ろうとしたブドウが取れないのに「あのブドウは酸っぱい」と言ったのと同じで、欲しくてたまらなかったモノの価値を自らの都合で勝手に貶める。さらには「ブドウを欲しがらないことは善いことだ」という考え方につなげてくる。つまり外面的な敗北を、内面的な勝利にすり変える。ニーチェは、そうした思考をただの欺瞞に過ぎないと断言します。なぜなら、もしブドウに手が届けば、必ず喜んで食べただろうし、権力やお金も得られれば必ず手にしようとするからです。
 
 ニーチェは、そうした不自然な発想からくる弱者救済の仕組みこそが、神への信仰あるいは宗教が説く道徳の正体であるとし、そうしたものに頼るのではなく、現実の存在(実存)に目を向けた生き方をせよと強く訴えかけます。そして、どうすれば善い生き方として自己を肯定できるか。その答えは「権力への意志」だといいます。
 
 ただし、ここでいう「権力」は、政治権力や国家権力のような権力ではありません。「能力」や「可能性」と読み替えるべきもので、それらを秘めた高い目標を自ら掲げ、困難や問題にぶつかりながらも、努力によってそれを乗り越えて達成する。それは一種の支配になりますから、そういう意味での「権力」です。私たちの人生には、それぞれ成し遂げて支配すべきことがある。戦わなければならないときは、相手を打ち負かしてでも勝ち取るべきものがある。
 
 ニーチェは、そのように「権力の意志」のまま強くなることを目指す人のことを「超人」と呼びました。ニーチェのいう「超人」とは、決してスーパーマンやウルトラマンのような特別な存在ではなく、強くなりたいという意志をしっかり持ち、それを実現するために絶えざる努力をする、そういう人のことです。そして、神が死んだ世界であっても、超人であれば決して堕落することはない、と。
 
 なお、ここで注意しなくてはならないのは、ニーチェの思想はキリスト教から激しく攻撃を受け、しばしばアンチ・キリスト教的だと強調されますが、決してそのように皮相的にとらえるべきものではありません。彼の論調には過激で強い表現が多いため「毒」と表現されることもあるくらいに誤解を招きがちですが、ニーチェが示したかったのは、あくまで人間が生きる意味を肯定できる価値観の解釈にありました。
 
 さらにニーチェの思想は、自身の壮絶な人生とは裏腹に、とてもポジティブで前向きでした。「この世界には意味はない」とするニヒリズムからスタートしたものの、それから「意味がないならそれはそれでよい」と肯定し、「それでも存在しているのだから、この世界は素晴らしい」と発展し、「苦しみがあっても、それを受け容れて自分の人生を愛そう」「そうして自分の道を見出そう」という思考が根底にありました。
 
 ニーチェはまた、人生を謳歌するためには、恋愛と音楽が必要だとも説いています。音楽は生きる意志をより高めてくれる、恋愛は誰かを愛してたとえフラれたとしても、愛したという歓喜は永遠である、と。とりわけ音楽に関しては「音楽のない人生など誤謬にすぎない」との言葉を残しているほど愛し、自身が作曲した作品の数は70曲以上にものぼります。また、主著である『ツァラトゥストラはかく語りき』は全編が音楽と考えてもいいかもしれないとも語っています。
 
 さらにニーチェは、すべての価値観が崩壊した後の世界、すなわち終末の時代に生きる人々の姿をも思い描いています。どんな人々がその時代に生きているかというと、将来に対する夢も希望も持たず、健康と心地よく穏便な生活だけを求め、ただ何となく生きている人々。そうした人々をニーチェは「末人(まつじん)」と呼び、近い将来、「神が死んだ世界」が到来すれば、世の中は末人だらけになるだろうと予言しました。
 
 これを聞いて思い当たるところがありませんでしょうか。現代の私たちの社会を見回してみると、いかがでしょう、どことなくそんな雰囲気が漂っている気がしないではありません。はたしてこの先、ニーチェの予言は現実になるのでしょうか。

ニーチェの著作

  • 『ツァラトゥストラはかく語りき』
    1883年~1885年作の4部からなる散文詩で、キリスト教の聖書に対抗して書かれたものといわれる。ゾロアスター教の教祖の名を借りた主人公ツァラトゥストラの言動を通して、「神は死んだ」の言葉で表されるニヒリズム(虚無主義)の確認に始まり、キリスト教的な道徳を否定、自身の可能性を極限まで実現して権力への意志を遂行する超人の道徳および永劫回帰の思想を説いた。20世紀ヨーロッパの思想・文学・芸術に対して大きな影響を与えた。
  • 『善悪の彼岸』
    1886年刊。 副題は『将来の哲学への序曲』。前著の『ツァラトゥストラかく語りき』で掲げたいくつもの考えを取り上げ、さらに詳しく述べている。

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ニーチェの言葉から

  • 世界には君以外には誰も歩むことのできない唯一の道がある。その道はどこに行き着くのか、問うてはならない。ひたすら進め。
  • 一日一日を始める最良の方法は、目覚めの際に今日は少なくとも一人の人間に、一つの喜びを与えることができないだろうかと、考えることである。
  • 悪とは何か? 弱さから生じるすべてのものである。
  • 善にも強ければ、悪にも強いというのが、いちばん強力な性格である。
  • 樹木にとって最も大切なものは何かと問うたら、それは果実だと誰もが答えるだろう。しかし実際には種なのだ。
  • 毎日少なくとも1回、何か小さなことを断念しなければ、毎日は下手に使われ、翌日も駄目になるおそれがある。
  • あなたにとって最も人間的なこと。それは誰にも恥ずかしい思いをさせないことである。
  • あなたが出会う最悪の敵は、いつもあなた自身であるだろう。
  • 事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである。
  • 我々が広々とした自然にこれほどいたがるのは、自然が我々に関して何ら意見をもっていないからである。
  • 轢かれる危険が最も多いのは、ちょうど1つの車を避けた後である。
  • 人は、意見やアイデアに賛同するのではなく、相手の人柄に賛同する。
  • 人が意見に反対するときは、だいたいその伝え方が気に食わないときである。
  • 人は何を笑いの対象にするかで、その人の人格がわかる。
  • 若者を確実に堕落させる方法がある。違う思想を持つ者よりも同じ思想を持つ者を尊重するように指導することである。
  • 怪物と戦う者は、その際自分が怪物にならぬように気をつけるがいい。 長い間、深淵をのぞきこんでいると、深淵もまた、君をのぞきこむ。
  • 軽蔑すべき者を敵として選ぶな。汝の敵について誇りを感じなければならない。
  • 論争に応ずる場合には、双方にとっていちばん不愉快なやり口は、立腹して黙っていることである。というのは、攻撃者側は一般的に沈黙を軽蔑のしるしと考えるからである。
  • 孤独を味わうことで、人は自分に厳しく、他人に優しくなれる。いずれにせよ、人格が磨かれる。
  • たくさんのことを生半可に知っているよりは、何も知らないほうがよい。
  • いつまでもただの弟子でいるのは、師に報いる道ではない。
  • いつか空の飛び方を知りたいと思っている者は、まず立ちあがり、歩き、走り、登り、踊ることを学ばなければならない。その過程を飛ばして、飛ぶことはできないのだ。
  • 孤独な人間がよく笑う理由を、たぶん私はもっともよく知っている。孤独な人はあまりに深く苦しんだために笑いを発明しなくてはならなかったのだ。
  • 我々一人ひとりの気が狂うことは稀である。しかし、集団・政党・国家・時代においては、日常茶飯事なのだ。
  • いつも大きすぎる課題を負わされてきたために、才能が実際よりも乏しく見える人が少なくない。
  • 音楽なしには生は誤謬となろう。
  • 人は自分の認識を他人に伝えると、もはやその認識を前ほどには愛さなくなる。
  • 人間は恋をしている時には、他のいかなる時よりも、じっとよく耐える。つまり、すべてのことを甘受するのである。
  • 夫婦生活は長い会話である。
  • 君の魂の中にある英雄を放棄してはならぬ。

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がんばる高校生のための文系の資料・問題集。

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永劫回帰

「永劫回帰(えいごうかいき)」は、ニーチェの最晩年の思想を表す語で、ニヒリズムの究極形とされる。「永劫」は無限に続く長い年月、「回帰」は一周して元のところへ帰ること。ニーチェは『この人を見よ』で、永劫回帰を「およそ到達しうる最高の肯定の形式」と述べている。

宇宙の円環運動と同じように、あらゆる出来事は永遠に繰り返すという世界像をいい、我々の人生も永遠に繰り返すから、今の人生も何回目の人生か分からない。喜びも悲しみも含め、我々の人生はすでに決まっており、それを繰り返すから、あらゆることが無意味に感じられる。
 
しかし、 それでも勇気を持って、この永劫回帰を強く肯定することが大事だとニーチェは説く。つまり、何度同じ人生を歩むとしても、その人生を「もう一度歩んでもよい」と思えるよう生きることが重要であると主張。「これが生だったのか。よし、もう一度」と。ここからも「超人」の生き方の重要さが導かれる。

※『この人を見よ』
  ニーチェが発狂する直前の1888年11月4日に原稿が完成していた自伝。存命中に出版される予定だったが出版社が保留していて、ニーチェの死から8年後の1908年に妹のエリーザベト・フェルスター=ニーチェの合意に基づき出版された。

なぜ自身が賢明かを皮肉を交じえつつ自画自賛し、同時に『悲劇の誕生』や『ツァラトゥストラはかく語りき』など、過去の著作を自ら総括している。

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