江戸幕府は、年貢収入を安定的に確保するため、新田開発や農業技術の発展に積極的に力を注ぎました。その結果、耕地面積や収穫高は飛躍的に伸びていき、江戸時代初期に約165万町歩だった耕地面積は末期には約350万町歩にまで拡大し、石高も約1850万石から約3200万石に増えました。なかなかの実績です。
新田開発のパターンとしては、土着した武士による土豪開発新田、藩の主導による藩営新田、村役人が村全体として開発していく村請新田、幕府の代官が主導する代官見立新田、商人が資金を拠出して開発する町人請負新田などがありました。農業技術においては、民間で宮崎安貞の『農業全書』や大蔵永常の『広益国産考』などの農書が普及し、大原幽学、田中丘隅といった農政家が活躍、なかでも二宮尊徳が国内の農業の発展にあたえた影響は突出しています。
二宮尊徳といえば、何といっても小学校の校庭などにあった銅像を思い出します。薪を背負い、本を読みながら歩く少年像です。二宮金次郎像、すなわち尊徳の少年時代の姿で、戦前から勤労少年の模範とされてきました。しかし、近ごろでは学校の建て直しなどに伴い、この銅像はどんどん撤去されつつあるといいます。その理由は「児童の教育方針にそぐわない」「子供が働く姿を勧められない」「戦時教育の名残である」「歩きながら本を読むのは危険」などだそうです。
二宮尊徳は、江戸後期の1787年、今の神奈川県小田原市の比較的裕福な農家の長男として生まれました。しかし、川の氾濫で田畑を失い、さらに病弱な父親を早く亡くしたため、家は没落します。尊徳は家の再興に向けて、農業だけでなく、日雇いの仕事や草履作りなどの夜なべ仕事に精を出して蓄財し、徐々に土地を増やして地主になるかたわら、読書と算術の独習、さらに農政を研究して、周囲に農業技術を伝授するようになりました。
また、近親者の家政を再建したほか、小田原藩の家老・服部家に奉公していた時分に、「五常講」という金融互助制度(のちの信用組合のはしり)を起こし、さらに家政の立て直しを依頼されるなど、その才覚を表してきました。やがて尊徳の特異な発想と実践力が藩主の目にとまり、桜町領(栃木県芳賀郡)の復興を任されることになります。そこで尊徳は、同領の年貢を10年間軽減してもらったうえで、他国から百姓を招いたり、分家を新規に取り立てたりして耕作人口の不足を補い、農道や用水路を整備し、干鰯(ほしか)などの効率のよい肥料を導入しました。そして毎日のように朝から晩まで領内の農村を巡回し、勤勉、節約、積善を説いてまわるという教化政策を行ったのです。
はじめのうちは農民らの理解を得られず反発もされましたが、やがて桜町領の農業を見事に復活させました。このころの逸話として次のようなものがあります。尊徳がナスを食べたところ、まだ夏にならないのに秋のナスの味がしたことから、その年は冷夏になると予測。農民らに指示して冷害に強いヒエを大量に植えさせました。尊徳の予測通りにその年は冷夏となり、天保の飢饉が発生しました。しかし、桜町ではヒエの蓄えが十分にあったため、餓死者を出さなかったばかりか、余ったヒエを周辺の村々にも分け与えたといいます。
こうした尊徳の功績が広く知れわたり、各地から農村復興の依頼が相次ぎました。尊徳は可能なかぎりそれに応え、精力的に農村を再興してまわりました。幕府もこうした動きを高く評価し、1843年、尊徳が56歳のとき、幕臣に取り立て、天領の復興を任せました。尊徳が70歳で亡くなるまで、生涯に再興した土地は、現在の9県と北海道にまたがり、その数は600以上にも及ぶといわれています。
のちに尊徳の再建手法は「報徳仕法」と呼ばれ、弟子で娘婿だった富田高慶が尊徳の徳行や言論を記録した『報徳記』をまとめました。明治になり、『報徳記』を読んだ明治天皇は、それを宮内省に印刷させて県知事などに配付しました。これにより「報徳仕法」が全国に普及し、多くの農村が救われました。また、尊徳の思想を報じる「報徳社」が結成され、明治国家の農村発展策や国民教化策と密接に結びついて拡大していきました。
尊徳による「報徳」とは、「万物にはすべて良い点(徳)があり、それを活用する(報いる)」という思想です。なお、かの勝海舟は、尊徳について次のような言葉を残しています。「二宮尊徳には一度会ったが、至って正直な人だったよ。全体あんな時勢には、あんな人物が沢山できるものだ。時勢が人を作る例はおれはたしかに見たよ」
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