新幹線の列車愛称
1964年に開業した東海道新幹線の「ひかり」「こだま」の列車愛称は、国民への公募によって決まったんですってね。「ひかり」の投票が第1位で、以下「はやぶさ」「いなづま」「はやて」と続き、「こだま」は第10位だったそうです。こうした公募では、投票結果の順位どおりに決まらないケースはままありますが、なぜ10位の「こだま」が採用されたのでしょうか。
それは、光速を意味する「ひかり」に対し、音速を意味する「こだま」を対比させたいという意図からだったそうです。つまり先に決定した「ひかり」との抱き合わせで考えて決められた名称ということ。なるほどです。深謀と配慮が利いた、めちゃくちゃ分かりやすい名づけだったと感心させられます。
ところで、このあと1992年に「ひかり」よりさらにスピードアップされた列車が導入されることになったときは、どのような配慮がなされたのでしょうか。「ひかり」より速いものは世の中にありませんからね。仕方ないので、抽象的な言葉から選ぶことになり、候補にあがっていた「希望」を大和言葉に言い換えて「のぞみ」と決まったそうです。
まーそれぞれにいろんな経緯があるもんですが、初めて「のぞみ」の名称を目にしたとき、あーいいなーって思いましたね。女の子の名前にもあるような、とても優しい響きながら、実はめちゃくちゃ強くて速い。素敵でカッコいいですよね。
ディスカバー・ジャパン
東洋初、また有色人種国家で初めての「東京オリンピック」が開催されたのが1964年(昭和39年)のこと。開催に合わせて東海道新幹線が開通、1970年には大阪で万博が開催され、このころは、日本全体がまっしぐらに前に突き進んでいた時期です。都会では、街の景色もどんどん変わりつつありました。
そんななか、19歳でデビューした小柳ルミ子さんの『私の城下町』という曲が、大ヒットしました(昭和46年)。同じころ流行っていた「ディスカバー・ジャパン」という言葉とともに、忘れかけていた古き良き日本の情緒を思い起こそうというムードが、にわかに沸き立ったのでした。たしかに当時、『私の城下町』の歌詞やメロディーの持つ雰囲気は、とても新鮮かつ衝撃的だったと記憶しています。
日本のあちこちで進んでいくスクラップ・アンド・ビルドの凄まじい勢いに、多くの人たちが一様に「ちょっと待てよ」という雰囲気になったのでしょう。しかし、結局はそれも情緒的な反応にとどまり、社会が前進するペースはゆるみはしませんでした。そうした動きが、公害などの社会の様々な歪みとなって現れたのだと思いますが、しかし、当時の大人の人たちは、みんなガムシャラに頑張っていたんですね。
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『新しい歴史教科書』から
市販本『新しい歴史教科書』からの引用です。
―― 歴史を学ぶのは、過去の事実を知ることだと考えている人がおそらく多いだろう。しかし、必ずしもそうではない。歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことなのである。
今の中学生にとって、中学校に通うことは空気を吸うように当たり前のことであり、義務であるが、ほんの半世紀前までの日本人の中には、中学校に行きたくても行けない人がたくさんいた。それより前の時代には、小学校にも行けず、7、8歳で大きな商店の丁稚(でっち)や豊かな家庭の使用人として働く子どもが少なくなかった。どんなに勉強がよくできる子どもであっても、教育は権利だと法律に書かれていても、国の生産が低く富が限られていた時代に、公平は単なる理想にとどまっていた。(中略)
そのような不公平が実際にまかりとおっていた社会に不快を覚え、ときにひそかにいきどおりを感じて、なぜもっと社会的公正が早くから行われなかったかという疑問や同情をいだく人もおそらくいるだろう。しかし歴史を知るとは、そういうこととは少し別のことなのである。
当時の若い人は、今の中学生よりひょっとすると快活に生きていたかも知れないではないか。条件が変われば、人間の価値観も変わる。王の巨大墳墓の建設に、多数の人間が強制的にかり出された古代の事実に、現代の善悪の尺度を当てはめることは、歴史を考える立場からはあまり大きな意味がない。
歴史を学ぶとは、今の時代の基準からみて、過去の不正や不公平を裁いたり、告発したりすることと同じではない。過去のそれぞれの時代には、それぞれの時代に特有の善悪があり、特有の幸福があった。――
「歴史を学ぶ」ときに私たちが留意しなくてはならないのは、まさしくそういうことだろうと感じる次第です。決して今の基準や価値観だけで過去を評価してはならない、まして古い時代のことだからといって、単純に後れているとか、見下すような態度があってはならない、と強く肝に銘じておるところであります。
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