江戸城開城後、大奥の女性たちは・・・
1868年、15代将軍・徳川慶喜によって大政奉還され、その2日後には、大奥の女性たちに里帰りが命じられました。江戸城の大奥には、多いときで1000人を超える女性たちが暮らしていましたが、主がいなくなれば、大奥の女性たちは用なしとなります。そのため、彼女たちは大奥を出て実家へ帰りました。嫁に行ったり、そのまま実家のやっかいになったりして、ふつうの女性に戻ったのです。
ところが、そのまま江戸に残った数人の女性がいました。13代家定の未亡人の天璋院、14代家茂の未亡人の静寛院宮、それに慶喜夫人の美賀子です。そしてそれぞれのお付きの女中たちが、江戸城開城後も実家には帰りませんでした。彼女たちは田安家に移り、田安家達の教育に当たりました。家達は田安家の7代当主であり、徳川慶喜の隠退謹慎後の1868年に徳川宗家16代当主となった人です。
田安家は、一橋家、清水家とともに「御三卿(ごさんきょう)」と呼ばれ、御三家と同じく、将軍の後継者がいないときに将軍家を継ぐという家柄でした。彼女たちが田安家に移ったのには、いつまた徳川幕府が復活するかもしれないため、世継ぎを教育しておこうという狙いもあったようです。その思惑通りにはならなかったものの、明治初期に静岡藩主(知藩事)となり、後に貴族院議員、貴族院議長になった家達は、世間からは「十六代様」と呼ばれました。
ところで、慶喜夫人の美賀子の晩年は寂しいものでした。夫の慶喜が静岡に移り住んでも、彼女は東京に残り、1894年(明治27年)に病死しました。慶喜との間に一女をもうけましたがすぐに亡くし、その後は子供ができませんでした。慶喜には、男10人、女11人の子供がいましたが、みな静岡生まれで、側室が産んだ子でした。
廃仏毀釈運動
明治維新の直後、1868年に新政府によって発せられた一連の「神仏分離令」を機に、全国的に寺院、仏像、仏具などの破壊活動や、藩による寺領の没収が続出しました。今ではちょっと考えられないような出来事ですが、これを廃仏毀釈運動(廃仏運動)といいます。しかし、なぜこんなことが起きたのでしょうか。
江戸時代には朱子学、国学や水戸学から仏教排撃の思想が広まり、明治政府の宗教政策にも受け継がれました。元々の「神仏分離令」の目的は、神社から仏教的要素を一掃し、全国の神社を直接の支配下において、国家神道政策を進めることにありました。決して仏教排斥を意図したものではなかったのです。
ところが、江戸時代に檀家制度により威勢をふるっていた仏教に対する反感は根強くあり、低い地位に追いやられていた神官や、僧侶から収奪され続けていた民衆は、これを機に、徹底的な破壊活動を展開しだしたのです。あまりの激しさと仏教教団からの反対運動のため、明治政府はこの運動の行き過ぎを禁止する通達を出さねばならない事態になりました。
地域により運動の程度の差はありましたが、1876年ごろまで寺院の破却は続き、全国で半分近くの寺院が廃絶され、数多くの古文書や文化財が失われたといいます。たとえば、大阪住吉大社の神宮寺の大伽藍はほとんどが壊され、奈良興福寺では食堂が壊されたうえに、五重塔が25円で売りに出されて薪にされようとしていました。
また伊勢国(三重県)では、伊勢神宮のお膝元ということもあって激しい廃仏毀釈があり、かつて神宮との関係が深かった慶光院など100か所以上が廃寺となり、特に、神宮がある宇治山田(伊勢市)では、わずか4か月の間に196の寺が廃寺となりました。もっとも激しかった薩摩藩では、藩内の寺院1,616寺すべてが消え、僧侶2,964人すべてが還俗させられました。
それほどに、藩政時代に寺院が有していた特権は民衆の大きな恨みを買っていたということでしょうか。しかしこれらの廃仏運動による危機的状況は、むしろ仏教覚醒の好機となり、日本近代仏教が形成される契機になったともいわれます。一方で、廃仏毀釈は、神道を国教化する運動へと結びついていき、神道を国家統合の基幹にしようとした政府の動きにかなったものになったようです。
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版籍奉還
明治2年(1869年)に戊辰戦争が終結し、新政府が全国を平定しましたが、実際に権力を握って中央集権国家を建設するには、旧幕藩体制時代の”藩”を大名の手から政府へ移管する必要がありました。そこで大久保利通、木戸孝允らが根回しを行い、1月に薩長土肥の4藩が見本を示す形で、領地と領民を朝廷に奉還する「版籍奉還」の建白書を提出しました。版籍の「版」が土地、「籍」が人民の意味です。
全国の藩主も薩長土肥にならい、6月までに274藩すべての版籍奉還が完了しました。旧藩主には家禄が与えられ、そのまま「知藩事」に任命されました。結局、封建藩主が藩を治める形に変わりはありませんでしたが、藩主が政府によって任命される一行政官となった点に大きな意味がありました。
しかしながら、この時期、民衆の不満はピークに達することとなりました。財力の乏しい新政府は農民に厳しい年貢を課し、徳川時代以上の重税となったのに加え、凶作に見舞われた農民たちは各地でたびたび一揆を起こしました。また急激な近代化に批判的な士族は、新政府の要人暗殺に走りました。幕末、松平春嶽のもとで活躍し新政府の参与となっていた横井小楠や、近代軍隊の基礎を作り上げた大村益次郎ら有用な人材が、相次いで暗殺されてしまいます。
長州藩では奇兵隊を始めとする諸隊が解体、新軍制への移行に不満を募らせ、約2千人が脱走、農民の一揆勢力などと手を組んで反乱を起こし、翌年1月には山口藩庁を包囲する事態となりました。維新の原動力となった彼らは反乱軍に成り下がり、同年2月に維新とともに戦った木戸孝允の手で鎮圧され、多くの刑死者を出す事態となりました。
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