室町幕府の3代将軍・足利義満は甚だしく公家化しましたが、その子の4代将軍・義持は、わずか9歳で後を継いだものの、長じて将軍として活動するようになると、父とは反対のことをしました。義満が生前に望んでいた「太上法皇」の尊号が、朝廷からわざわざ下されたとき、義持はそれを辞退し、義満夫人の葬式も簡素に行い、義満の自慢だった政務中枢の北山第も、鹿苑寺(金閣)を除いてすべて取り壊しました。
また、義満が開始した明との貿易も、義持は日本にとって屈辱外交だと考え、冊封関係を否定。そのため、1411年(応永18年)にやって来た明の使者を兵庫の港から帰してしまい、入洛させなかったのです。武家の原理に戻ろうとした義持は、父の外交政策も根本的に否定し、保守的・国粋的に徹しようとしたのです。また、勢力を盛り返そうとする守護大名の中にあって調整役として機敏に立ち回り、比較的安定した政権を築き上げました。
そして1419年(応永26年)6月、「応永の外寇」なる事件が勃発します。朝鮮の将軍・柳廷顕(りゅうていけん)、李従茂(りじゅうも)らが、蒙古兵とともに(蒙古兵は誤認とする説が強い)、兵船1300余艘を率いて対馬に襲来したのです。九州と対馬の諸豪族たちとの間で壮絶な戦闘となりましたが、最後は日本軍が大勝利し、その後、朝鮮は日本襲撃を断念します。
この知らせを受けて驚愕したのが幕府です。日明関係がよろしくなかった時ですから、すわっ、元寇の再来かと思い慌てふためきました。義持も石清水八幡宮に参籠して無事を祈願しました。このとき、風もないのに八幡若宮の鳥居が倒れ、義持を仰天させたといいます。
しかし、実際のところは、元寇のような大層なものではありませんでした。朝鮮の太宗が、当時の倭寇による掠奪の激しさに閉口し、倭寇の本拠地と思われる対馬を攻撃したのであって、元寇のときのように日本を征服しようなどという意図は全くなかったのです。
しかし、そんなことは九州の武士にも足利将軍にも分かりません。明も預かり知らないことですから、事件の2、3週間後に国交を求めて使者を送ってきました。幕府は「ひとの国に攻撃をしかけながら、何という図々しさか」と怒り、明とは国交を断絶する旨を伝え、返事の国書を与えて帰国させたのです。その内容の一部は、次のようなものです。
「明国の使臣が両国往来の利をしきりに説いているのに、義持がこれに応じないのは、先君義満が病に倒れた時に占ったところ、諸神の祟りであるのが明らかになったからだ。わが国は古来、外国に向かって臣と称したことはないのに、義満は暦と印を受けた。わが過ちを認めた義満は、死に臨んで永く外国との通交を絶つことを誓った。自分は神明の意にしたがい、先君の命を奉ずるのみである。昔、元兵100万が攻め寄せてきたが、神兵の援けによりこれを海の藻屑とした。今わが態度を怒り、攻め寄せるなら、迎え撃って戦わん」
この返書をもらった明帝は、「いったい何のことやら」とずいぶん怪訝に思ったのではないでしょうか。
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