日清戦争と三国干渉

朝鮮で起きた東学党の乱(※)に乗じて、清が日本との条約に違反し出兵、朝鮮の統治権を奪いました。日本は抗議し、また「日清両国が協力して朝鮮の内政改革に当たろう」とする提案も拒絶されたため「事、既に茲に至る」としてやむなく宣戦布告。国内世論は「朝鮮の独立を助ける義戦」として歓迎。けっきょく日本は清に圧勝し、その結果、大韓帝国が成立しました。
下関条約で、日本は澎湖島・台湾などとともに遼東半島の領有権を得ましたが、露独仏3国の公使が、条約調印の6日後に外務省を訪れ、遼東半島の日本領有は清国の首都・北京を危うくし朝鮮の独立を有名無実とし東洋の平和を脅かすとして、その領有放棄を勧告してきたのです(三国干渉)。日本はやむなく受諾し、清国から代償として3000万両(約4500万円)を取得しました。
この干渉はロシアが主導し、ドイツとフランスが同意するかたちで行われましたが、3国にはそれぞれの思惑がありました。ロシアは極東進出のために不凍港が必要で、そのためには日本の大陸進出を阻まなければなりませんでした。ドイツは、ロシアの矛先が日本に向かえば露独国境が安全になるし、将来の清国分割に際して発言権を持てると考えました。さらにフランスには、露独の緊張緩和は自国にとっても安全なうえ露仏同盟を実行する立場からも好都合との考えがありました。
三国による勧告を受諾した政府に、国内の世論は激しく反発しました。政府は「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」をスローガンに、国民の怒りをロシアへの復讐心の高揚に振り向けました。一方、清国は発言権を強めた列国に対し、1898年、ドイツに膠州湾の租借を許したのを機に、ロシアに旅順・大連を、フランスに広州湾を、イギリスに山東半島北東端の威海衛を明渡すことになってしまいました。
※東学党の乱・・・朝鮮政府の腐敗に対し、1894年、東学(反キリスト教の民間信仰)の指導者が起こした農民反乱。
これぞ武士道!
義、勇、仁、礼、誠、名誉、忠義という7つの「徳」で成り立つとされる、日本の武士道。武人にとっては、名を惜しみ、忠誠を尊び、戦いの場にあっていかに美しくあることができるか、あるいは美しく死ねるかというのが最大のテーマだったとされます。
そうした意識は、当然に敵に対する配慮にもおよび、敵を辱めるなどという行為はタブーとされました。敵であってもきちんと礼を尽くす、不必要な強さを誇示するのではない、残酷な態度はもってのほか、倒した相手にもきちんと敬意を払い共感する、それが武士のたしなみだったのです。そして、この武士道精神は、明治時代になっても脈々と生き続けていました。
たとえば日清戦争において、北洋艦隊の敵将・丁汝昌(ていじょしょう)が戦闘に敗れて自決してしまったときのこと。彼の部下たちはその遺骸を母国へ送るため、ジャンク(中国の帆船)に乗せて運ぼうとしました。これを見た日本軍は、「敗れたとはいえ、海軍提督がジャンクのようなみすぼらしい船で帰国するのはよくない。ちゃんと軍艦に乗せて帰しなさい」と言って、軍艦を使わせました。敗者に対してもきちんと礼を尽くしたのです。
日露戦争で活躍した乃木希典大将もそうした人物だったといいます。乃木大将は第三軍司令官としてロシアの旅順要塞の攻撃を指揮しました。この戦いは、双方に多数の戦死者を出し、戦史に残る大激戦となりました。乃木大将自身も二人の息子を失い、戦車も航空機もない時代に、機関砲を配備した要塞への攻撃は困難を極めました。しかし、最後には要塞は陥落。ステッセル将軍が降伏勧告を受け容れて、戦闘は終結しました。
乃木大将とステッセル将軍の会見の場では、双方が互いの勇気と健闘を称え合いました。そして、各国の軍記者が会見の写真を撮りたいと申し出たとき、乃木大将はこう言いました。「敵の将軍にとって、後々に恥が残るような写真を撮らせることは武士道に反する。会見後に、我々が同列に並んだところを1枚だけ許そう」
そうして、ステッセル将軍以下にきちんと剣を持たせて、いっしょに写真に収まったのです。ステッセルは会見後、幕僚に対し、「自分がこの半生のうちに会った人のなかで、将軍乃木ほど感激をあたえられた人はいない」と語ったといわれます。そして、こうした乃木大将のふるまいは、旅順要塞を攻略した武功と共に世界的に報道され賞賛されました。
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土木技術者・服部長七
明治期の土木技術者で服部長七という人がいました。あるとき、築港や治水事業での多年の功績を認められて表彰されることになりました。役人が長七の家を訪れてきて、「履歴書を提出してもらいたい。これまでにしてきたことを正確、詳細に書いて出すのだ」と申し伝えると、長七は有難がるどころか、
「それは御免こうむりましょう。私はろくに読み書きもできない土方の者です。それに若い時分にゃあ、他人様の女房とついついデキてしまったことなんぞもございます。今更そんなことまで書きだすわけにはまいりません。ご勘弁を願います」
と答えたので、役人はあきれ返ってしまいます。
「いや、そんな私事まで書く必要はない。よいこと、つまり社会的に功績をあげたことだけを書きつらねればよいのだ」
「悪いことは棚に上げてしまって、よいことだけ書き並べるなんて、そんな虫のいいことは、私にはできません」
長七はこう言い張って、ついに履歴書を提出しなかったといいます。明治期ならではの律義者ではありませんか。その長七には、さらにこんなお話もあります。
長七が広島湾の宇品港の築港工事を依頼されたときのことです。内務省所属のオランダ人技師は総工費400万円を予算に計上していましたが、長七はそれを見てこう言いました。
「私ならば17万円で仕上げてみせましょう。あの湾内の流れは決して激しくはありません。オランダの技師は、十分な調査もせずに流れが急だと一人決めしているから、やたらに経費のかさむ設計や見積もりをしているのです」
そして工事に取りかかるにあたって、彼は”服部人造石”なるものを考案し、それを大量に用いて、わずか17万円で見事に宇品港を完成させたのです。400万円の見積もりが政府筋から出ていたのですから、長七がその気になれば簡単に400万円をふところに入れることもできたでしょう。こんな律儀で潔白な人、今の時代にはなかなかいないのではないでしょうか。
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