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更級日記

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我が家の庭

 五月ついたちごろ、つま近き花橘(はなたちばな)の、いと白く散りたるをながめて、

 時ならずふる雪かとぞながめまし花橘の薫らざりせば

 足柄(あしがら)といひし山の麓(ふもと)に、暗がりわたりたりし木のやうに、茂れる所なれば、十月(かみなづき)ばかりの紅葉(もみぢ)、四方(よも)の山辺(やまべ)よりもけにいみじくおもしろく、錦(にしき)を引けるやうなるに、外(ほか)より来たる人の、「今、参りつる道に、紅葉のいとおもしろき所のありつる」と言ふに、ふと、

 いづこにも劣らじものをわが宿の世をあきはつるけしきばかりは

 物語のことを、昼は日ぐらし思ひつづけ、夜も目の覚めたるかぎりは、これをのみ心にかけたるに、夢に見るやう、「このごろ、皇太后宮(くわいたいこうぐう)の一品(いつぽん)の宮の御料(ごれう)に、六角堂に遣水(やりみづ)をなむつくる」と言ふ人あるを、「そはいかに」と問へば、「天照大神(あまてるおほんかみ)を念じませ」と言ふと見て、人にも語らず、なにとも思はでやみぬる、いと言ふかひなし。春ごとに、この一品の宮をながめやりつつ、

 咲くと待ち散りぬとなげく春はただわが宿がほに春を見るかな

 三月(やよひ)つごもりがた、土忌(つちいみ)に人のもとに渡りたるに、桜さかりにおもしろく、今まで散らぬもあり。帰りて、またの日、

 あかざりし宿の桜を春暮れて散りがたにしも一目(ひとめ)見しかな

と言ひにやる。

【現代語訳】
 五月のはじめごろ、軒端近くの花橘がたいそう白く散っているのを眺めて、

 
時節はずれの雪かと見るところだった。花橘がこのように香りを放っていなければ。

 以前に越えた足柄という山の麓に暗がり渡っていた木々のように、わが家の庭は木が鬱蒼と茂っている所なので、十月ごろの紅葉は、四方の山辺よりも一段と趣深く、錦を引き渡したようであるのに、外から訪ねて来た人が、「今、こちらへ参る道すがら、紅葉のたいそう趣深い所がありました」と言うのに、ふと、

 
どこにも負けないものを。憂き世に飽きて暮らす我が家の、この秋の暮れの景色ばかりは。

 物語のことを、昼は一日中思い続け、夜も目の覚めている限りは、こればかり心にかけていると、夢に見たのは、「この頃、皇太后宮の姫君の一品の宮の御用として、六角堂に遣水を造りました」という人があるのを、「それはどういうわけですか」と尋ねると、「天照大神をご祈念なさい」と答えた、とそんな夢を見て、人にも話さず、何とも思わないでそのままにしてしまったのは、たいそう不甲斐ないことである。春が来るたびに、この一品の宮様の庭を眺めつつ、

 
いつ桜が咲くのかと待ちわび、散ってしまうといって嘆く春の間は、まるで自分の家のように宮さまのお屋敷の桜をながめています。

 三月の末頃、土忌みのために人の家に移ったところ、桜の盛りで趣深く、今まで散らないものもある。わが家に帰ってきて、翌日、

 
いくら眺めても飽きない桜を、春が暮れて散る頃に、一目拝見したことです。

と詠んで使いに持たせて贈る。

(注)皇太后宮・・・三条天皇皇后。藤原道長の二女。
(注)一品の宮・・・三条天皇の第三皇女、禎子(ていし)内親王。
(注)土忌・・・陰陽道で、「土公神(どくじん)」のいる方角を犯して工事・造作などをすることを避けること。 

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 花の咲き散るをりごとに、乳母(めのと)なくなりしをりぞかし、とのみあはれなるに、同じをり亡くなりたまひし侍従の大納言の御女(みむすめ)の手を見つつ、すずろにあはれなるに、五月(さつき)ばかりに、夜ふくるまで、物語を読みて起きゐたれば、来(き)つらむ方も見えぬに、猫のいとなごう鳴いたるを、驚きて見れば、いみじうをかしげなる猫あり。いづくより来つる猫ぞと見るに、姉なる人、「あなかま、人に聞かすな。いとをかしげなる猫なり。飼はむ」とあるに、いみじう人慣れつつ、かたはらにうち伏したり。尋ぬる人やあると、これを隠して飼ふに、すべて下衆(げす)のあたりにも寄らず、つと前にのみありて、物もきたなげなるは、ほかざまに顔を向けて食はず。

 姉おととの中につとまとはれて、をかしがりらうたがるほどに、姉の悩むことあるに、もの騒がしくて、この猫を北面(きたおもて)にのみあらせて呼ばねば、かしがましく鳴きののしれども、なほさることにてこそはと思ひてあるに、わづらふ姉驚きて、「いづら、猫は。こち率(ゐ)て来(こ)」とあるを、「など」と問へば、「夢に、この猫のかたはらに来て、『おのれは、侍従の大納言殿の御女(みむすめ)のかくなりたるなり。さるべき縁のいささかありて、この中の君のすずろにあはれと思ひ出でたまへば、ただしばしここにあるを、このごろ下衆の中にありて、いみじうわびしきこと』と言ひて、いみじう泣くさまは、あてにをかしげなる人と見えて、うち驚きたれば、この猫の声にてありつるが、いみじくあはれなるなり」と語りたまふを聞くに、いみじくあはれなり。

 その後(のち)は、この猫を北面にも出ださず、思ひかしづく。ただ一人ゐたる所に、この猫が向かひゐたれば、かいなでつつ、「侍従の大納言の姫君のおはするな。大納言殿に知らせ奉らばや」と言ひかくれば、顔をうちまもりつつ、なごう鳴くも、心のなし、目のうちつけに、例の猫にはあらず、聞き知り顔にあはれなり。

【現代語訳】
 毎年桜の花が咲いては散るたびに、乳母が亡くなった頃だったと、そればかり思い出してしみじみとした気持ちになるのに、同じころに亡くなられた侍従の大納言の姫君の筆跡を繰り返し見ては、しきりに悲しくなった。五月頃、夜更けまで物語を読んで起きていると、どこからやって来たのか、猫がとてもおだやかな声で鳴いているので、はっとして見ると、とても可愛らしい猫がいる。どこから来た猫かと見ていると、姉が、「しっ、静かに、人に知らせてはだめ。とても可愛い猫ですもの、私たちで飼いましょう」と言うと、猫はとても人なつっこく私たちのそばに身を横たえている。捜している人がいるかもしれないと思い、隠しながら飼っていると、この猫は決して身分の低い者のそばには寄りつかず、じっと私たちの前にばかりいて、食べ物も汚らしい物は、顔を背けて食べようとしない。
 
 私たち姉妹にじっとまとわりついているのを、面白がり可愛がっているうちに、姉が病気になったことがあり、家中があわただしくなって、この猫を召使いのいる北向きの部屋ばかりにおいて、こちらには呼ばないでいたところ、うるさく鳴き騒いだが、飼い主から離れるとそういうものだとそのままにしていた。そのうち、病気の姉が目を覚まして、「どこなの、猫は。こちらに連れてきてちょうだい」と言うので、「どうして」と聞くと、「夢の中でこの猫が私のそばに来て、『私は、侍従の大納言様の姫君がこうして猫に生まれ変わったものです。前世からこうなる因縁が少々あり、この中の君(作者のこと)がしきりに私のことを懐かしんで思い出してくださるので、ほんのしばらくこの家にいるのですが、近頃は身分の低い者たちの中にいるので、とても辛いのです』と言ってしきりに鳴く様子がいかにも上品で可愛らしい人に見えて、はっと目が覚めたら、この猫の声が聞こえたので、とてもしみじみと感じられたのです」と話すのを聞き、私もまたたいそうしんみりしてしまった。
 
 その後は、この猫を北向きの部屋に出すこともせず、大切に世話をした。私が一人で座っているところに、この猫が向き合って座るので、撫でてやっては、「侍従の大納言の姫君がこうしてここにいらっしゃるのですね。父君の大納言様にお知らせ申し上げたいものだわ」と話しかけると、私の顔をじっと見つめたままおだやかな声で鳴くのも、気のせいか、見れば普通の猫ではなく、私の言葉がよく分かっているようで、しんみりと心惹かれる。 

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『長恨歌』

 世の中に、『長恨歌(ちやうごんか)』といふ書(ふみ)を、物語に書きてあるところ有(あ)んなりと聞くに、いみじくゆかしけれど、え言ひよらぬに、さるべき便りを尋ねて、七月七日、言ひやる。

 契(ちぎ)りけむ昔の今日(けふ)のゆかしさにあまの川浪(かはなみ)うち出(い)でつるかな

 返し、

 立ち出(い)づる天の川辺(かはべ)のゆかしさに常(つね)はゆゆしきことも忘れぬ

【現代語訳】
 世の中に『長恨歌』という漢詩を物語に書いてあるのを持っている人がいるらしいと聞き、何とかして読みたいと思うけれど、頼むこともできなかったのだが、しかるべきつてを尋ねて、七月七日、借用を願う歌を書き送った。

玄宗皇帝と楊貴妃が深く契り交わしたという昔の今日の日、その物語をお持ちのあなた様に、どうか拝見させてほしいというお願いを、彦星のわたる川波のように、思い切ってあなたに打ち明けます。

返し、

牽牛と織女が天の川の川辺で逢うことに、私も心惹かれております。『長恨歌』は楊貴妃の死を描いている不吉な書物なので、ふだんなら人には貸さないのですが、今日はそんなことも忘れて、お貸しいたしましょう。

(注)長恨歌・・・中唐の詩人・白居易による長詩。唐の玄宗皇帝と楊貴妃の悲恋を描く。

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姉の言葉

 その十三日(とをかあまりみか)の夜(よ)、月いみじく隈(くま)なく明かきに、皆(みな)人も寝たる夜中ばかりに、縁(えん)に出でゐて、姉なる人、空をつくづくと眺めて、「ただ今、行方(ゆくへ)なく飛び失(う)せなば、いかが思ふべき」と問ふに、「生(なま)恐ろし」と思へる気色(けしき)を見て、異事(ことごと)に言ひなして笑ひなどして、聞けば、傍(かたは)らなる所に、前駆(さき)(お)ふ車、止まりて、「荻(をぎ)の葉、荻の葉」と呼ばすれど、答へざなり。呼び煩(わづ)らひて、笛をいとをかしく吹き澄まして、過ぎぬなり。

 笛の音のただ秋風と聞こゆるになど荻(をぎ)の葉のそよと答へぬ

と言ひたれば、「げに」とて、

 荻の葉の答ふるまでも吹きよらでただに過ぎぬる笛の音(ね)ぞ憂(う)き

 かやうに、明くるまで眺め明(あ)かいて、夜明けてぞ皆(みな)人、寝(ね)ぬる。

【現代語訳】
 その月(七月)の十三日の夜、月がたいそう隈なく明るい晩、家の者もみな寝静まった夜中ごろに、姉と二人で縁側に出て座っていると、姉が空をつくづくと眺めながら、「たった今、私がこのまま行方も知れず飛び失せてしまったら、あなたはどう思うかしら」と尋ねるので、何となく恐ろしく思っている私の様子を見て、姉は、笑いながら別の話題に変えた。その時、隣の屋敷の前に、先払いをしながら進んできた牛車が止まり、「荻の葉、荻の葉」と供人に呼ばせる声がする。ところが、隣の屋敷からの答えはないようだ。車の男は呼びあぐねて、笛をたいそう優雅に吹きながら、通り過ぎていったのだった。

笛の音は、まさに秋風のようで、萩の葉はそよそよと音を立てるのに、どうして女性の荻の葉はそよとも答えなかったのでしょう。

と詠んだところ、姉はいかにもと言って唱和した。

荻の葉が答えるまで笛を長く吹き続けないものだから、そのまま通り過ぎてしまった笛の音の惜しいこと。

 こんなふうに姉と語らいながら、秋の月夜を眺め続け、夜が明けかかってから、私たちは寝た。

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火事のこと

 その返る年、四月(うづき)の夜中ばかりに火の事(こと)ありて、大納言殿の姫君と思ひかしづきし猫も焼けぬ。「大納言殿の姫君」と呼びしかば、聞き知り顔に鳴きて歩み来(き)などせしかば、父(てて)なりし人も、「珍(めづら)かに哀(あは)れなることなり。大納言に申さむ」など、有りしほどに、いみじう哀れに口惜(くちを)しくおぼゆ。

 ひろびろともの深き深山(みやま)のやうにはありながら、花紅葉(はなもみぢ)のをりは、四方(よも)の山辺(やまべ)も何ならぬを見ならひたるに、たとしへなくせばき所の、庭のほどもなく、木などもなきに、いと心憂きに、向かひなる所に、梅、紅梅など咲き乱れて、風につけて、かがえ来るにつけても、住み馴れしふるさとかぎりなく思ひ出でらる。

 匂ひくる隣の風を身にしめてありし軒端(のきば)の梅ぞこひしき

【現代語訳】
 その翌年、四月のある晩、夜中ごろに火事が起こり、大納言殿の姫君と信じて大切に可愛がっていた猫も焼け死んでしまった。「大納言殿の姫君」と呼ぶと、その言葉を聞き知っているような顔で、いつも歩み寄って来たりしていたので、それを見た父も「滅多にない感動的な話だ。大納言様にご報告したいものだ」など言っていたところなので、死んでしまったのはとてもかわいそうで、悲しくて悔しくてならない。

 焼ける前の住まいは広々として奥深い深山のようではあったが、桜や紅葉の季節には、四方の山辺も問題にならないほど素晴らしかったのを見慣れていたのに、新しい住まいは比べようもなく狭い所で、庭のゆとりもなく、木などもないので、たいそうつまらなく思っていたところ、向かいの家に、梅、紅梅などが咲き乱れ、風が吹くと自然と梅の香が香ってくるのにつけても、住み慣れた元の住まいが限りなく思い出されるのだった。

梅の香りを運んでくる隣の家からの風をしみじみ味わうにつけても、住み慣れた元の家の軒端の梅が恋しくてならない。 

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姉の死

 その五月(さつき)の朔日(ついたち)に、姉なる人、子産みてなくなりぬ。よそのことだに、幼くよりいみじくあはれと思ひ渡るに、まして言はむかたなく、あはれ悲しと思ひ嘆かる。母などは皆亡くなりたる方(かた)にあるに、形見にとまりたる幼き人々を左右(ひだりみぎ)に臥せたるに、荒れたる板屋の隙(ひま)より月のもり来て、乳児(ちご)の顔に当たりたるが、いとゆゆしく覚ゆれば、袖を打ちおほひて、いま一人をもかき寄せて、思ふぞいみじきや。

 そのほど過ぎて、親族(しぞく)なる人のもとより、「昔の人の、必ず求めておこせよとありしかば、求めしに、そのをりは、え見いでずなりにしを、今しも人のおこせたるが、あはれに悲しきこと」とて、かばね尋ぬる宮といふ物語をおこせたり。まことにぞあはれなるや。返りごとに、

 うづもれぬかばねを何に尋ねけむ苔(こけ)の下には身こそなりけれ

【現代語訳】
 その年の五月一日に、姉が子を産んで亡くなった。他人の死さえ、幼い時からとても悲しく思ってきたから、まして肉親である姉の死は何とも言いようがなく、切なく悲しいと嘆かずにはいられない。母など皆は亡くなった姉の部屋にいるので、私は姉の忘れ形見として残された幼い子どもたちを自分の左右に寝かせた。すると、荒れた板葺きの屋根のすき間から月の光がもれてきて、赤ん坊の顔に当たっているのがとても不吉に感じられたので、袖をおおいかぶせて、もう一人の子も引き寄せて、子どもたちの将来を思うとたまらなく悲しくなった。
 
 法要などの時期が過ぎると、親類の人の所から、「亡くなったあなたのお姉さんが生前にぜひ探し求めて送ってほしいと言っていたので、探したのですが見つけられずにいて、今になってある人が送ってきたのが、何とも悲しいことです」といって、「かばね尋ぬる宮」という物語を届けてくれた。そのいきさつを知り、しみじみと悲しい思いがした。返事として歌を送った。
 
 
この物語は埋もれることなく残っているというのに、姉はどうして探し求めたのでしょう。姉自身が苔の下の「かばね」になってしまったのに。
 
(注)かばね尋ぬる宮・・・現存しない。悲恋物語か。作者の歌では「屍」の意も掛けてある。 

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姉の乳母

 乳母(めのと)なりし人、「今は何につけてか」など、泣く泣くもとありける所に帰りわたるに、「ふるさとにかくこそ人は帰りけれあはれいかなる別れなりけむ。昔の形見には、いかでとなむ思ふ」など書きて、「硯(すずり)の水の凍(こほ)れば、皆とぢられてとどめつ」と言ひたるに、

 かき流すあとはつららにとぢてけりなにを忘れぬかたみとか見む

といひやりたる返りごとに、

 なぐさむるかたもなぎさの浜千鳥なにかうき世にあともとどめむ

この乳母、墓所(はかどころ)見て、泣く泣くかえりたりし。

 昇りけむ野辺(のべ)は煙(けぶり)もなかりけむいづこをはかとたづねてか見し

これを聞きて、継母(ままはは)なりし人、

 そこはかと知りてゆかねど先に立つ涙ぞ道のしるべなりける

かばねたづぬる宮、おこせたりし人、

 住みなれぬ野辺の笹原(ささはら)あとはかもなくなくいかにたづねわびけむ

これを見て、兄人(せうと)は、その夜送りに行きたりしかば、

 見しままに燃えし煙は尽きにしをいかがたづねし野辺の笹原

 雪の、日を経て降るころ、吉野山に住む尼君を思ひやる。

 雪降りてまれの人めも絶えぬらむ吉野の山の峰のかけみち

【現代語訳】
 姉の乳母だった人が、「亡くなられた今となっては、ここにとどまるべき理由もありません」などと言って、泣く泣く元住んでいた所に帰っていくので、「
元の家に、あなたはこうして帰っていく。こんな別れさえもたらす姉との死別は、何という悲しいものだったのでしょう。亡き姉の形見として、どうにかここに留まってほしいと思います」などと書いて、「硯の水も凍ってしまったので、書きたい文字も私の心も閉ざされる思いで、筆を置きました」と書いたのに加え、

書き流す文字の跡も氷に閉ざされてしまいました。あなたが去ってしまったら、私は何をよすがに姉を偲んだらよいのでしょうか。

と書き贈った返事に、

干潟のなくなった渚の浜千鳥が、足跡を残すすべがないように、私はここに残っていても、悲しみを慰めるすべもありません。どうして留まっておれましょうか。

この乳母は、姉の墓に参って、泣きながら帰っていったが、それについて私が詠んだ。

亡き人が煙となって立ち昇った野辺には、もう煙もなかったでしょうに、どのようにお墓を尋ね当てたのでしょうか。

これを聞いて、継母であった人が、

そこがお墓だと確かな見当も無かったでしょうけど、先に立つ涙こそが道しるべだったのでしょう。

『かばねぬづぬる宮』という物語を贈ってくれた人が、

人も住み慣れない野辺の笹原には道の跡とてなく、乳母は泣きながらどんなにお墓を尋ねあぐねたことでしょう。

これを見て私の兄が、姉の葬送をした夜のことを思い出して、

見ているうちに火葬の煙は燃え尽きてしまったのに、乳母はどうやって野辺の笹原を尋ねていったのだろう。

雪が何日も降り続く頃、吉野山に住む尼君のことが思いやられて、次のように詠んだ。

雪が降ると、ただでさえ稀な人の訪れも絶えてしまっているでしょう、吉野山の峰の険しい道では。 

(注)吉野山に住む尼君・・・出家した姉の乳母か。

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司召の失意

 かへる年、一月(むつき)の司召(つかさめし)に、親のよろこびすべきことありしに、かひなきつとめて、同じ心に思うべき人のもとより、「さりともと思ひつつ、明くるを待ちつる心もさなさ」と言ひて、

 明くる待つ鐘の声にも夢さめて秋の百夜(ももよ)の心地せしかな

といひたる返事(かえりごと)に、

 暁(あかつき)をなにに待ちけむ思ふことなるともきかぬ鐘の音(おと)ゆゑ

【現代語訳】
 翌年の正月の司召に、父の国司任官がかなって喜ぶはずだったのに、任官にもれて期待がはずれた翌朝、同じ気持ちで期待してくれているはずの人の許から、「いくら何でも今年こそはお決まりになるだろうと思いつつ、結果の分かる夜明けを待っていたじれったさといったら」と言って、

結果はどうかと夜明けを待つ夜、でも鐘の音に目が覚めてその夢も破れました。秋の夜長を百夜も重ねたような思いです。

と言ってきた返事に、

この夜明けを、私たちはどうしてこんなに待っていたのでしょう。願いの成就を知らせてくれる暁の鐘ではないのに。

(注)司召・・・新年早々に行われた、国司などの任地を決定する「県召(あがためし)の除目(じもく)」 

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東山へ

(一)
 四月(うづき)つごもりがた、さるべきゆゑありて、東山なる所へうつろふ。道のほど、田の、苗代(なはしろ)水まかせたるも、植ゑたるも、なにとなく青みをかしう見えわたりたる。山のかげ暗う、前近う見えて、心ぼそくあはれなる夕暮、水鶏(くひな)いみじく鳴く。

 たたくとも誰(たれ)かくひなの暮れぬるに山路(やまぢ)を深くたづねては来む

 霊山(りやうぜん)近き所なれば、詣(まう)でて拝みたてまつるに、いと苦しければ、山寺なる石井(いしゐ)に寄りて、手にむすびつつ飲みて、「この水のあかずおぼゆるかな」と言ふ人のあるに、

 奥山の石間(いしま)の水をむすびあげてあかぬものとは今のみや知る

と言ひたれば、水飲む人、

 山の井のしづくににごる水よりもこはなほあかぬ心地こそすれ

 帰りて、夕日けざやかにさしたるに、都の方(かた)も残りなく見やらるるに、このしづくににごる人は、京に帰るとて、心苦しげに思ひて、またつとめて、

 山の端(は)に入日の影は入りはてて心ぼそくぞながめやられし

【現代語訳】
 四月の末頃、しかるべき事情があって、東山という所へ引っ越した。道すがら、田んぼの苗代に水を引き入れてあるのも、また田植えがすんでしまっているのも、何となく青々として趣深く、一帯が見渡せた。着いた先の家では、山の姿が暗く目の前に迫って見え、心細くもの寂しい夕暮れに、水鶏がしきりに鳴いている。

戸を叩くような音がするが、こんな夕暮れの山の奥深くに誰が訪ねてくるものか。あれは水鶏の声だ。

 霊山(正法寺)に近い所なので、参拝して拝んだところ、山路に難儀してたいそう苦しいので、山寺にある湧き水に立ち寄って、手で水をすくって飲んでいると、「ここの水はおいしくて、いくら飲んでも飲み飽きないですね」と言う人がいたので、その人に、

奥山の石の間の水をすくって飲んで、飲み飽きないものだと、今初めて知ったのですか。古い歌にも詠まれていますのに。

と言ったら、水を飲む人が、

古い歌に「しづくににごる」と詠まれた山の井の水より、ここの水はいっそう飲み飽きない心地がします。

 家に帰って、夕日があかあかと射しているので、都の方角もよく見渡せる頃、この「しづくににごる」と詠んだ人は、京に帰るといって、別れを辛そうに心苦しげに思って、次の日の朝、都から歌をよこしてきた。

昨日お別れしてからの帰り道、山の端に夕日がすっかり沈んでしまい、それを見るにつけても、あなたのいらっしゃる東山の方角を、心細くも眺めたことです。 


(注)水飲む人・・・作者の初恋の人かともいわれる。

(二)
 念仏する僧の暁(あかつき)にぬかづく音の尊く聞こゆれば、戸を押しあけたれば、ほのぼのと明けゆく山際(やまぎは)、こぐらき梢(こずゑ)ども霧(き)りわたりて、花紅葉(はなもみぢ)の盛りよりも、なにとなく茂りわたれる空のけしき、曇らはしくをかしきに、ほととぎすさへ、いと近き梢にあまたたび鳴いたり。

 誰(たれ)に見せ誰に聞かせむ山里のこの暁もをちかへる音も

 このつごもりの日、谷の方(かた)なる木の上に、ほとどぎす、かしかましく鳴いたり。

 都には待つらむものをほととぎすけふ日ねもすに鳴き暮らすかな

などのみながめつつ、もろともにある人、「ただいま京にも聞きたらむ人あらむや。かくてながむらむと思ひおこする人あらむや」など言ひて、

 山深く誰(たれ)か思ひはおこすべき月見る人は多からめども

と言へば、

 深き夜に月見るをりは知らねどもまづ山里ぞ思ひやらるる

 暁(あかつき)になりやしぬらむと思ふほどに、山の方(かた)より人あまた来る音す。おどろきて見やりたれば、鹿の縁のもとまで来て、うち鳴いたる、近うてはなつかしからぬものの声なり。

 秋の夜の妻恋ひかぬる鹿の音(ね)は遠山にこそ聞くべかりけれ

 知りたる人の、近きほどに着て帰りぬと聞くに、

 まだ人め知らぬ山辺(やまべ)の松風も音して帰るものとこそ聞け

【現代語訳】
 近くの寺から、念仏する僧が暁に勤行する音が尊げに聞こえるので、戸を押し開けると、ほのぼのと明けていく山際は、薄暗い木々の梢にあたりに霧がかかり、春の花や秋の紅葉の盛りよりも、何となく木々が茂りわたる夏の今の空の様子が、やや曇り加減で趣深い。さらに、ほととぎすまでも、すぐそばの梢に何度も何度も鳴いている。

いったい誰に見せ、誰に聞かせようか。この山里のこの暁も、繰り返し鳴いているほととぎすの声も。

この月末の日、谷の方角にある木の上で、ほととぎすが騒々しく鳴いていた。

都の人々は、ほととぎすの初声を心待ちにしているだろうに、ここでは、一日中鳴き続けていることだ。

などと、ぼんやり辺りの景色を眺めてばかりいると、一緒にいる人が、「今この時、京にもほととぎすの声を聞いている人があるでしょうか。こんなふうに私たちがぼんやり物思いにふけっているだろうと、思いやってくれる人はあるでしょうか」など言って、

山深くにいる私たちのことを、誰が思いを馳せてくれるでしょうか。都では、月を見る人は多いでしょうけれど。

と詠んだので、

深夜に月を見る折に、人がどのような気持ちになるのかは知らないけれど、私ならまず山里に思いを馳せるでしょう。きっと都の人たちも、私たちのことを思っていてくれるでしょう。

 もう明け方だろうと思う時分に、山の方から人が大勢やって来るような音がする。はっとして見やると、鹿が縁先まで来て鳴いているのだが、鹿の声というものは、近くで聞くのは、どうも情緒がないものだ。

秋の夜に牡鹿が牝鹿を恋しく思って鳴く鹿の声は、遠くの山に聞いてこそ風情があるものだった。

 知人が、近いあたりまで来てそのまま帰ったと聞いたので、

まだ人を知らない山辺の松風でさえ、音だけは残して帰ります。まして知らない仲ではないのに、そのままお帰りになるなんて。

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東山より帰京

 八(はづき)月になりて、二十余日の暁がたの月、いみじくあはれに、山の方はこぐらく、滝の音も似るものなくのみながめられて、

 思ひ知る人に見せばや山里の秋の夜深き有明(ありあけ)の月

 京に帰り出づるに、渡りし時は、水ばかり見えし田どもも、みな刈りはててけり。

 苗代の水かげばかり見えし田の刈りはつるまで長居(ながゐ)しにけり

 十月(かみなづき)つごもりがたに、あからさまに来てみれば、こぐらう茂れりし木(こ)の葉ども残りなく散り乱れて、いみじくあはれげに見えわたりて、心地よげにささらぎ流れし水も、木の葉にうづもれて、あとばかり見ゆ。

 水さへぞすみたえにける木の葉散る嵐の山の心ぼそさに

 そこなる尼に、「春まで命あらばかならず来む。花ざかりはまづ告げよ」など言ひて帰りにしを、年かへりて三月(やよひ)十余日になるまで音もせねば、

 契りおきし花の盛りを告げぬかな春やまだ来(こ)ぬ花やにほはぬ

 旅なる所に来て、月のころ、竹のもと近くて、風の音に目のみ覚めて、うちとけて寝られぬころ、

 竹の葉のそよぐ夜ごとに寝ざめしてなにともなきにものぞ悲しき

 秋ごろ、そこをたちて外(ほか)へうつろひて、そのあるじに、

 いづことも露のあはれはわかれじを浅茅(あさぢ)が原の秋ぞ悲しき

【現代語訳】
 八月になって、二十日過ぎの明け方の月がたいそう趣深く、山の方はこんもりと薄暗く、滝の音も比類のない風情で、ぼんやりと景色を眺めていて、

 
風情を解する人に見せたい。この山里の夜更けの有明の月を。

 東山を発って京に戻る道すがら、ここに移ってきた時は水ばかりと見えた田も、すっかり刈り入れが終わっている。

 
苗代に一面、水を張っていた田が、今やすっかり刈り入れが終わっている。ずいぶん長く東山にいたことだ。

 十月末ごろ、またちょっと東山に来てみると、うっそうと茂っていた木の葉なども残らず散り乱れて、辺り一帯がたいそう寂しげに見え、気持ちよさそうにさらさらと流れていた水も木の葉に埋もれ、流れの跡だけが見えている。

 
私たちが住まなくなって、水までが流れを止めてしまった。木の葉が散り嵐が吹く山の心細さに。

 東山に住む尼に、「春まで命があれば、必ずまた来ます。花の盛りには真っ先に教えてください」など言って帰ったのだが、年が明けて三月十日過ぎになるまで連絡が無いので、

 
約束していた花の盛りをお知らせくださいませんね。春はまだ来ないのでしょうか。それとも、花が色づかないのでしょうか。

 他の人の家に移ってきて、月の美しい頃、竹林に近く、風の音に目ばかり覚めて、落ち着いて眠れない時に、

 
竹の葉がそよぐ夜ごとに目が覚めて、なんとなく物悲しい思いに駆られることよ。

 秋頃、その家を出て他の所へ移ってから、もとの家の主人に、

 
どこであっても秋の露の情緒は変わりないものでしょうが、あなたのお宿の浅茅が原の秋が恋しく思われます。

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継母の名のり

 継母(ままはは)なりし人、下りし国の名を宮にも言はるるに、こと人通はして後も、なほその名を言はると聞きて、親の、「今はあいなきよし言ひにやらむ」とあるに、

 朝倉や今は雲居(くもゐ)に聞くものをなほ木(こ)のまろが名のりをやする

 かやうにそこはかとなきことを思ひつづくるを役にして、物詣(ものまう)でをわづかにしても、はかばかしく、人のやうならむとも念ぜられず。このごろの世の人は十七八よりこそ経よみ、行ひもすれ、さること思ひかけられず。からうじて思ひよることは、「いみじくやむごとなく、かたち有様、物語にある光源氏などのやうにおはせむ人を、年に一たびにても通はしたてまつりて、浮舟(うきふね)の女君(をんなぎみ)のやうに、山里に隠し据ゑられて、花、紅葉、月、雪をながめて、いと心ぼそげにて、めでたからむ御文などを、時々待ち見などこそせめ」とばかり思ひ続け、あらましごとにもおぼえけり。

【現代語訳】
 継母だった人が、私の父とともに下った上総の国の名そのままに、宮中に上がってからも上総大輔と名乗っていたのだが、別の人を夫として後もなおその名を名乗っていると聞いて、父が、「今はもう筋違いだという由を申し入れよう」と言うので、私が、

天智天皇がましました朝倉の木の丸殿は遠い昔の話となりました。そのように、あなたと夫婦だったのも遠い昔になりましたのに、あなたはまだ上総の名をを名乗っているのですか。

 このような、とりとめもないことを思い続けてばかりいて、たまに物詣でをしても、しっかりと身を入れ、人並みにになろうとも念じられない。近頃の世間の人は十七、八歳からお経を読み、勤行をもするようだが、そんなことは思いもよらない。せいぜい思いつくことと言えば、「たいそう高貴で、姿形が、物語にある光源氏のように美しくいらっしゃる人を、年に一度でもよいから通わせ申し上げ、浮舟の女君のように山里に隠し置かれて、花、紅葉、月、雪をながめて、たいそう心細げに、素晴らしいお手紙などが時々届けられるのを待ち受けて見ることなどしたい」とばかり空想し続け、将来を夢見ていたのだった。

(注)「朝倉や今は・・・」・・・神楽歌「朝倉や木の丸殿に我が居れば名宣りをしつつ行くは誰」を踏まえている。『新古今集』に、天智天皇御製としてほぼ同一の歌がある。

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父の任官

(一)
 「親となりなば、いみじうやんごとなく我が身もなりなむ」など、ただ行方(ゆくへ)なきことを打ち思ひ過ぐすに、親、からうじて、遥(はる)かに遠き東国(あづま)になりて、「年ごろは、いつしか思ふやうに近き所になりたらば、まづ胸(むね)(あ)くばかり傅(かしづ)き立てて、率(い)て下りて、海山(うみやま)の景色をも見せ、それをば然(さ)るものにて、我が身よりも高う持て成し傅(かしづ)きてみむとこそ思ひつれ。我(われ)も人も宿世(すくせ)の拙(つたな)かりければ、有り有りて、かく遥(はる)かなる国に成りにたり。幼かりし時、東(あづま)の国に率(ゐ)て下りてだに、心地もいささか悪(あ)しければ、これをや、この国に見捨てて、惑(まど)はむとすらむと思ふ。人の国の恐ろしきにつけても、我が身一つならば、安らかならましを、所(ところ)(せ)う引き具して、言はまほしきことも、え言はず、為(せ)まほしきこともえ為(せ)ずなどあるが、侘(わ)びしうもるかなと心をくだきしに、今は増(ま)いて大人(おとな)になりにたるを、率て下りて、我が命も知らず、京のうちにてさすらへむは例のこと、東(あづま)の国、田舎人(ゐなかびと)になりて惑(まど)はむ、いみじかるべし。京とても、頼(たの)もしう迎へとりてむと思ふ類、親族(しぞく)もなし。さりとて、わづかになりたる国を辞し申すべきにもあらねば、京にとどめて、永き別れにて止(や)みぬべきなり。京にも、然(さ)るべきさまに持て成して留(とど)めむとは、思ひよることにもあらず」

と、夜昼(よるひる)嘆かるるを聞く心地、花、紅葉(もみぢ)の思ひもみな忘れて悲しく、いみじく思ひ嘆かるれど、いかがはせむ。

【現代語訳】
 「親がそれなりの地位に立ったら、私の身もたいそう高貴なさまになるだろう」などと、ただ当てにならないことを思いながら過ごしてきたところ、父親はやっとのことで、はるかに遠い国司(常陸国の介:介は地方官の次官)に任官した。父親は、「長年の間、いつかは都に近い国の国司になり、思うさまにお前を大切にして、任国に一緒に来てもらい、海や山の景色も見せ、それより何より、私のような身分を超えるため、立派な婿を迎えるなど努力しようと思っていた。しかし、私もお前も宿世が拙いせいか、このような遠い田舎の国に赴任することになってしまった。お前がまだ幼かったころに上総国に連れ下った時も、体調が悪くなると、もし私が死んだらお前を露頭に迷わせることになるだろうと心配したものだ。都との人とは全く異なる東国の人々の人情が恐ろしく思うにつけ、わが身一つならばどうということはないが、大勢の家族を連れているので、東国人に対して言いたいことも言えず、したいこともできずと、ずいぶん困惑してきた。今はまして、お前は妙齢の大人に成長しているので、任地に連れ下っては、私の命もおぼつかなく、京の中で頼るところもなく放浪するのはよくあることだが、東国の田舎人となって露頭に迷うのは、悲惨だろう。お前を京に残していっても、安心して迎え入れてくれる親類縁者があるわけでもない。そうはいっても、せっかく任官した国司を辞退するわけにもいかないので、お前を京に残していって、これが今生の別れともなりそうだ。都でしかるべき結婚相手を見つけてやった後にお前を京に留め置きたいとも思うが、それもおぼつかない」

と、夜昼なくお嘆きになるのを聞く気持ちは、花紅葉への憧れや思いもどこかへ吹っ飛んでしまい、悲しくてたいそう思い嘆かれるけれど、どうにもならない。

(二)
 七月(ふみづき)十三日(とをかあまりみか)に下る。五日(いつか)兼ねては、見むもなかなかなべければ、内にも入(い)らず。増(ま)いて、その日は立ち騒ぎて、時なりぬれば、今はとて簾(すだれ)を引き上げて、打ち見合はせて、涙をほろほろと落として、やがて出(い)でぬるを見送る心地、目も暗(く)れ惑(まど)ひてやがて臥(ふ)されぬるに、留(と)まる男(をのこ)の、送りして帰るに、懐紙(ふところがみ)に、

 思ふこと心に叶(かな)ふ身なりせば秋の別れを深く知らまし

とばかり書かかれたるをも、え見やられず、事よろしき時こそ、腰折れかかりたることも思ひ続けけれ、ともかくも言ふべき方(かた)も覚えぬままに、

 かけてこそ思はざりしかこの世にてしばしも君に別るべしとは

 とや書かれにけむ。

 いとど、人目も見えず、寂しく心細く打ち眺めつつ、いづこばかりと、明け暮れ思ひやる。道の程(ほど)も知りにしかば、遥かに恋しく心細きこと限りなし。明くるより暮るるまで、東(ひむがし)の山際(やまぎは)を眺めて過ぐす。

【現代語訳】
 七月十七日に父は任国に下ることとなった。出立の五日前ともなると、顔を合わせるのもかえって辛いらしく、私の部屋にも入ってこない。まして、出発当日はひどくごたごたして、いよいよその時となれば、もう本当にお別れだというので、父は私の部屋の簾を引き上げ、顔を見合わせて涙をほろほろと落として、そのまま出てしまった。それを見送る心地は、目も眩む思いで、そのまま突っ伏してしまったが、京に留まることになった下男が、途中まで父の見送りをして帰って来て、懐紙に、

私が思い通りにできる身であったなら、この秋の別れをしみじみと深くかみしめるのだが、今はそのゆとりもない。

とだけ書かれているのも、涙にくれて、ろくに見ることができない。ふつうの時であれば、腰折れ歌(下手な歌)を詠んで折り返し父に届けるのだけれども、今は何とも言い表す言葉も思いつかないままに、

今まで全く思っていませんでした。この世で父上とほんの少しでもお別れすることになるなろうとは。

などとわれ知らず書いたのだろうか。

 父がいなくなってからは、今までにも増して人の訪れもなく、寂しく心細く物思いにふけっては、今頃どの辺りだろうかと、明けても暮れても思いやる。あづまへの道の様子も知っていたので、はるか遠くを思い、父が恋しく心細いことは限りもない。朝から晩まで、父が旅立った東の山際を眺めて過ごした。

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太秦参籠

 八月(はづき)ばかりに、太秦(うづまさ)にこもるに、一条より詣(まう)づる道に、男車(をとこぐるま)二つばかり引き立てて、物へ行くに、もろともに来(く)べき人待つなるべし。過ぎて行くに、随身(ずいじん)だつ者をおこせて、花見に行くと君を見るかな、と言はせたれば、「かかるほどのことはいらへぬも便(びん)なし」などあれば、千ぐさなる心ならひに秋の野の、とばかり言はせて行き過ぎぬ。

 七日さぶらふほども、ただあづま路(ぢ)のみ思ひやられて、よしなし事からうじてはなれて、「平らかにあひ見せ給へ」と申すは、仏もあはれと聞き入れさせ給ひけむかし。

 冬になりて、日ぐらし雨降り暮らいたる夜、雲かへる風はげしううち吹きて、空晴れて 月いみじう明かうなりて、軒(のき)近き萩(をぎ)の、いみじく風に吹かれて、砕けまどふが、いとあはれにて、

 秋をいかに思い出づらむ冬深み嵐にまどふ萩の枯葉は

【現代語訳】
 八月頃、太秦に参籠するために一条大路を通っていく途上で、男車が二台停まっていて、どこかへ行くのに人を待っている様子で、私がその傍らを通り過ぎようとすると、随身らしい人をよこして、
花見に行こうとしていたら、花のようなあなたをお見かけしました、と言ってきて、「このような場合は、応対しないのは不都合だ」などと周りの者が言うので、多くの女性に目移りする浮気な御性分から、物詣でに行く私のことまで、秋の野の花見に行くとおっしゃるのですね、とだけ言わせて行き過ぎた。

 七日参籠している間にも、ただ父のいる東国のことばかり思いやられ、物語に耽溺するたわいもない妄想からようやく離れて、「つつがなく父に会わせてください」と申し上げる祈りは、仏も不憫に思ってお聞き入れくださるだろう。

 冬になって、一日中雨が降り続いたその夜、雲を吹き払う風が激しく吹いて、空も晴れ、月がたいそう明るくなり、軒近くの荻がひどく風に吹かれて砕け乱れるのがたいそう不憫で、

 
秋の盛りの頃をどんなふうに思い出しているだろう、冬が深まり、嵐にもまれる荻の枯葉は。

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東より人来たり

 東(あづま)より人来たり。「神拝(しんぱい)といふわざして国のうち歩(あり)きしに、水をかしく流れたる野の、はるばるとあるに、木(こ)むらのある、をかしき所かな、見せでと、まづ思ひいでて、ここはいづことか言ふと問へば、子忍びの森となむ申すと答へたりしが、身によそへられて、いみじく悲しかりしかば、馬より降りて、そこに二時(ふたとき)なむながめられし。

 とどめおきてわがごと物や思ひけむ見るに悲しき子忍びの森

となむおぼえし」とあるを見る心地、言へばさらなり。返りごとに、

 子忍びを聞くにつけてもとどめ置きし秩父(ちちぶ)の山のつらき東路(あづまぢ)

【現代語訳】
 東国(常陸の国)から、父の使いがやって来た。父からの手紙には、「神拝ということをして常陸の国内を歩き回ったとき、川の水がきれいに流れている野原がはるばると広がり、そこに森があるのを見て、美しい所だ、お前に見せてやれなくて残念だと、まずお前のことを思い出した。「ここは何という所か」と尋ねると、「子忍びの森と申します」とそこの人が答えたのが、わが身になぞえられて、何とも悲しかった。馬から降りて、その場所でかなり長い時間ぼんやりと物思いにふけったことだ。
 
 
子を遠くに残した誰かが、私と同じように物思いをしたのだろうか。見るにつけても悲しい気持ちになる子忍びの森であるよ。
 
と思った」と書いてあり、それを見た私の気持ちの切なさは言いようもなかった。返事として、
 
 
子忍びの森のことを聞くにつけても、私を残して秩父の山のある東国に行ってしまわれた父上のことが恨めしく思われます。

(注)神拝・・・新しく着任した国司が、その国の神社に初めて参拝すること。
(注)子忍びの森・・・茨城県笠間市の押辺(おしのべ)地区とする説がある。他の文献には見えない地名。

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(注)現代語訳は、現代文としての不自然さをなくすため、必ずしも直訳ではない箇所があります。

古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。

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「更級日記」とは

『更級日記』は、およそ次のような構成になっています。

① 旅の記
 (13歳)
② 都での生活
 (13歳~31歳ごろ)
③ 宮仕えから結婚へ
 (32歳ごろ~37歳)
④ 物詣での記
 (38歳~47歳ごろ)
⑤ 晩年
 (48歳ごろ~52歳ごろ)

そして、『新訳 更級日記』の著者であり、国文学者の島内景二氏は、著書の中で『更級日記』の特徴などについて次のように述べています。

――『更級日記』には、他の日記文学群とは部分的には似ている側面もあるが、全体としては全く似ていない、という大きな特徴がある。

まず、書かれている時間が、長い。日記文学の祖とされる紀貫之の『土佐日記』は55日間の船旅を描いている。『和泉式部日記』には、約10か月の恋愛が記してある。『紫式部日記』は、約1年半の出来事が記されている。

それに対して、『更級日記』には、作者の13歳から52歳までの40年近い歳月が書き綴られている。作者の伯母に当たる藤原輪寧女には『蜻蛉日記』という名作があり、これには約20年間の歳月が描かれている。ただし、『更級日記』はそれよりも格段に短い分量で、コンパクトに収まっている。なおかつ、『蜻蛉日記』にはほとんど書かれていない「少女時代」のことが詳しく書かれているのが大きな魅力となっている。このような凝縮力と集約力が、『更級日記』の特徴だと言える。

集約力と言えば、冒頭の「東海道紀行」の部分は、『土佐日記』の旅の記録と似ている。「祐子内親王家への宮仕え」の部分は、『紫式部日記』の宮仕えの記録と似ている。「結婚、貴公子(との出会い)、物詣の旅」の部分には、家庭生活の悩みも語られ、『蜻蛉日記』と似ている。つまり、『更級日記』の短い分量の中には、平安時代に書かれた優れた日記文学のほとんどすべてが「集約」されているのである。

だが、40年に及ぶ自分の人生を語るには、卓越した「構想力」も必要になる。作者は、「物語」と「夢」の2つのトピックに絞って総括した。「夢」は神社仏閣に物詣した時に授かることが多いので、「物語」と「物詣」の2つを描いた、とも言える。

これまで、『更級日記』は、少女時代に描いた「物語への憧れ」が、その後の大人の人生で裏切られ、晩年の作者は物語に幻滅した、という理解が多かった。ただし、「物語」と共に語られるもう一つのトピックである「夢」というものほど、物語的なモチーフはない。「物語への幻滅」もまた、究極の「物語性」であったのではないだろうか。

そう思って読み進めると、短い分量の中に、『源氏物語』54帖の膨大な世界を見事に集約している事実に気づかされる。鎌倉時代の初期に『源氏物語』の信頼すべき本文校訂を行った藤原定家は、『更級日記』も書写している。その写本は、幸運にも現存している。現在、私たちが読んでいる『更級日記』は、定家が書き写した本文である。定家にとっての『更級日記』は、「コンパクトな源氏物語」だったのかもしれない。(以上、要約)――


(紫式部)

藤原定家による奥書

藤原定家による『更級日記』の写本は東山御文庫に伝えられ、現存している。以下は、この写本に記された、定家による奥書。

常陸の守、菅原孝標の女の日記なり。母、倫寧朝臣の女。傅の殿の母上の姪なり。『夜半の寝覚』『御津の浜松』『自ら悔ゆる』『朝倉』などは、この日記の人の作られたる、とぞ。
(
(訳)常陸国の守を勤めた菅原孝標の娘の日記である。母は、藤原倫寧の娘である。東宮の傅(世話役)を勤めた藤原道綱の母の姪である。『夜半の寝覚』『御津の浜松』『自ら悔ゆる』『朝倉』などの作者である、と伝えられている。


先年、この草子を、伝へ得たり。件の本、人の為に、借り失はる。依つて、件の本を書写せる人の本を以つて、更に之を書き留む。伝々之間に、字の誤り甚だ多し。不審の事等は、朱を付す。若し証本を得ば、之を見合はすべし。
(訳)先年、写本を伝え得た。その写本を借りたいという人があったので貸したところ、借りた人が紛失してしまった。そこで、その写本を他の人が書写していたものを借りて、あらためて書写した。何度も書写が繰り返されると、どうしても文字の写し間違いは避けられず、この写本にも文字の誤りが甚だ多い。不審な箇所には朱を付しておいた。もし信頼できる写本が得られれば、見合わせて点検したく思う。


(藤原定家)

孝標女の他の作品

藤原定家による写本の奥書には、「『夜半の寝覚』『御津の浜松』『自ら悔ゆる』『朝倉』などは、この日記の人の作られたる、とぞ」との記述がある。ただ、「とぞ」という伝聞形式の記述であることから、この所伝が定家が聞いた伝聞を記録しただけなのか、それとも定家自身の意見でもあるのかを含め、さまざまな検討がなされている。

『夜半の寝覚』は、いわゆる源氏亜流小説のひとつに数えられる王朝物語。その語彙の数量や用例などの調査から、孝標女作説に否定的な見解があったが、同女の初恋の男性を亡姉の夫と想定することにより、人物関係の相似が指摘され、近年では肯定説が強まっている。

『御津の浜松(別名:浜松中納言物語)』も、『源氏物語』とくに「宇治十帖」の大きな影響が認められる後期王朝物語。夢の質の共通性、可笑味の欠如等、『更級日記』との内容に共通性が見られることなどから、ほぼ孝標女の作と決定づけられている。

『自ら悔ゆる』『朝倉』についても、和歌を中心にした考察・検討により、孝標女の作とされており、これらから、定家による奥書に掲げられた4つの物語についての所伝は肯定されるべきものとされている。

古典文学年表

奈良時代
712年
 『古事記』
720年
 『日本書紀』
759年
 『万葉集』

平安時代
905年
 『古今和歌集』
 『竹取物語』
 『伊勢物語』
935年
 『土佐日記』
951年
 『後撰和歌集』
 『大和物語』
 『宇津保物語』
974年
 『蜻蛉日記』
 『落窪物語』
1000年
 『拾遺和歌集』
1002年
 『枕草子』
1004年
 『和泉式部日記』
1008年
 『源氏物語』
1008年
 『紫式部日記』
1013年
 『和漢朗詠集』
1055年
 『堤中納言物語』
 『狭衣物語』
 『浜松中納言物語』
 『夜半の寝覚』
1060年
 『更級日記』
 『栄華物語』
1086年
 『後拾遺和歌集』
 『大鏡』
1106年
 『今昔物語』
1127年
 『金葉和歌集』
1151年
 『詞花和歌集』
1169年
 『梁塵秘抄』
1170年
 『今鏡』
1187年
 『千載和歌集』
1190年
 『水鏡』
1190年
 『山家集』

鎌倉時代
1205年
 『新古今和歌集』
1212年
 『方丈記』
1214年
 『金槐和歌集』
1220年
 『宇治拾遺物語』
1220年
 『愚管抄』
 『保元物語』
 『平治物語』
1221年
 『平家物語』
1235年
 『小倉百人一首』
1247年
 『源平盛衰記』
1252年
 『十訓抄』
1280年
 『十六夜日記』
1330年
 『徒然草』

室町時代
1339年
 『神皇正統記』
1356年
 『菟玖波集』
1370年
 『増鏡』
1374年
 『太平記』
1391年
 『御伽草子』
1400年
 『風姿花伝』
1438年
 『義経記』

そのほかの日記文学

土佐日記
 紀貫之によるわが国最初の和文による旅日記体の作品で、平安期の日記文学のさきがけとなった。成立時期は未詳だが、承平5年(934年)後半といわれる。
 内容は、土佐国の国守の任期を終え、土佐国を出発して京に帰る道中のできごとを記述。土佐守という公的な立場から離れ、架空の女性を筆者として、その目を通して道中に出会ったさまざまな人物やできごとを観察させている。貫之自身もその対象となっており、時には笑われたり、からかわれたり、同情されたりしている。

蜻蛉日記
 作者は『更級日記』の作者(菅原孝標女)の母にあたる右大将藤原道綱母。全3巻で、成立年は974~995年ころ。
 夫である藤原兼家との結婚生活や、兼家のもうひとりの妻である時姫(藤原道長の母)との競争、夫に次々とできる妻妾のこと、また唐崎祓・石山詣・長谷詣などの旅先でのできごと、上流貴族との交際、さらに母の死による孤独、息子藤原道綱の成長や結婚、兼家の旧妻である源兼忠女の娘を引き取った養女の結婚話とその破談についての記事がある。藤原道綱母の没年より約20年前、39歳の大晦日を最後に筆が途絶えている。
 歌人との交流についても書かれており、掲載されている和歌は261首。なかでも「なげきつつひとりぬる夜のあくるまはいかに久しきものとかは知る」は百人一首に収められている。女流日記のさきがけとされ、『源氏物語』はじめ多くの文学に影響を与えた。また、自らの心情や経験を客観的に省察する自照文学の走りともされている。
 
和泉式部日記
 平安中期の1007年ころに成立。『和泉式部物語』とも。和泉式部が、愛されていた為尊親王との死別後、その弟宮の帥宮敦道親王(冷泉天皇の第4皇子)と知り合い、新しい愛情を抱く。
 やがて10か月間の恋愛ののち、周囲の冷たい目にも堪えて、親王の屋敷へと伴われていく。二人の緊迫した心の動きが、和歌をまじえて書かれている。
 全体的に、自己に第三人称を用い、恋愛物語風に書かれている。
 
紫式部日記
 紫式部によって書かれた日記(全2巻)とされ、中宮彰子の出産が迫った寛弘5年(1008年)秋から同7年正月にかけての諸事が書かれている。写本の表題は『紫日記』とあり、内容にも紫式部の名の記載はなく、いつから『紫式部日記』とされたかは不明。『源氏物語』の作者が紫式部であるという通説は、伝説とこの日記に出てくる記述に基づいている。
 史書では明らかにされていない人々の生き生きとした行動がわかり、歴史的価値もある。自作『源氏物語』に対しての世人の評判や、彰子の同僚女房であった和泉式部、赤染衛門、中宮定子の女房であった清少納言らの人物評や自らの人生観について述べた消息文などもみられる。

御堂関白記
 藤原道長の日記。長徳4年(998年)から治安元年(1021年)までの公私の出来事を記したもの。平安末期までに36巻が存したとされるが、直筆本14巻が伝わっており、現存する直筆日記としては世界最古。当時の貴族社会を知る重要な史料となっている。
 
讃岐典侍日記
 全2巻、1109年ころ成立か。上巻は、堀河天皇の発病から1か月間にわたる作者の熱心な看病と崩御にいたる有様が書かれ、下巻は、幼帝鳥羽天皇に仕えながら亡き堀河天皇を追慕する心情が書かれている。敬愛する天皇に仕えた作者が、その看病・死を、悲痛な思いと人間的な情愛をこめて直視した日記。
 
十六夜日記
 作者は阿仏尼。全1巻で、鎌倉中期の1282年ころ成立か。夫の為家の没後、わが子為相と先妻の子為氏との間に起こった領地の訴訟のために京都を出立して下る日記的紀行文。旅行前の記事と旅日記と鎌倉滞在中の記事の3部からなる。都の人とかわした手紙や和歌も挿入されている。子を思う母の情にあふれ、歌道を憂える誠心にみちている。

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