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更級日記

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初瀬詣で

(一) 
 そのかへる年の十月(かみなづき)二十五日、大嘗會(だいじやうゑ)の御禊(ごけい)とののしるに、初瀬(はつせ)の精進(さうじ)はじめて、その日、京を出づるに、さるべき人々、「一代に一度の見物(みもの)にて、田舎(ゐなか)世界の人だに見るものを、月日多かり、その日しも京をふり出でて行かむも、いともの狂ほしく、流れての物語ともなりぬべきことなり」など、はらからなる人は、言ひ腹立てど、児(ちご)どもの親なる人は、「いかにもいかにも、心にこそあらめ」とて、言ふに従ひて出だし立つる心ばへもあはれなり。ともに行く人々も、いといみじく物ゆかしげなるは、いとほしけれど、「物見て何にかはせむ。かかるをりに詣でむ志を、さりともおぼしなむ。かならず仏の御しるしを見む」と思ひ立ちて、その暁に京を出づるに、二条の大路(おほぢ)をしも渡りて行くに、さきにみあかし持たせ、供の人々、浄衣(じやうえ)姿なるを、そこら、桟敷(さじき)どもに移るとて、行きちがふ馬(むま)も車もかち人も、「あれはなぞ、あれはなぞ」と、やすからず言ひおどろき、 あさみ笑ひ、あざける者どももあり。

 良頼(よしより)の兵衛督(ひやうゑのかみ)と申しし人の家の前を過ぐれば、それ桟敷へ渡り給ふなるべし、門(かど)広う押しあけて、人々立てるが、「あれは物詣人(ものまうでびと)なめりな、月日しもこそ世に多かれ」と笑ふ中に、いかなる心ある人にか、「一時(ひととき)が目をこやして何にかはせむ。いみじくおぼし立ちて、 仏の御徳かならず見給ふべき人にこそあめれ。よしなしかし。物見で、かうこそ思ひ立つべかりけれ」と、まめやかに言ふ人一人ぞある。

【現代語訳】
 その翌年の十月二十五日、大嘗会の御禊で世間が騒がしいころ、私は初瀬詣での精進を始めて、その御禊の当日に京を出発しようとしました。すると、周囲の人たちが、「大嘗会は天皇一代に一度だけの見もので、田舎の人ですらわざわざ見に来るというのに、いくらもある月日の中、よりによってその日に京を出ていくのは、まるで狂気の沙汰で、後々までの語り草になるほどのことだ」などと言い、とくに兄弟が腹を立てていた。でも、夫は、「どのようにでも、あなたの気のすむようにしたらよい」と、私の思い通りに旅立たせてくれ、その心遣いが身にしみる。同行する人々も、とても御禊を見物したそうにしているのが気の毒だったが、「見物などして何になろう。このような折に参詣しようという志を、仏様は何とか汲み取ってくださるから、きっと霊験が現れるだろう」と思い立って、その明け方に京を出ると、御禊の行列の通り道となる二条大路を通るはめになり、先頭の者に灯明を持たせ、供の人々が浄衣姿であるのを見て、桟敷の席に移ろうと行き交う大勢の、馬上の人も牛車の人も徒歩の人も、「あれは何だ、あれは何だ」と、ただごとではないと言い驚き、あざ笑い、口に出して馬鹿にする者たちがいる。

 良頼の兵衛督と申し上げる方の家の前を通り過ぎる時、そこでも桟敷にお移りになるところなのか、門を広く押し開いて人々が立っており、「あれは物詣でに行く人らしい。ほかに日にちはいくらでもあるのに」と笑う中に、何と思慮深い人であろうか、「一時の目の肥やしが何になろう。このような日に殊勝に思い立たれ、仏の御利益をお受けになる人に違いない。たわいもないこと。御禊見物などせずに、あのように物詣でを思い立つべきだった」と、まじめに言う人が一人だけいる。 

(二) 
 道、顕証(けんそう)ならぬさきにと、夜深う出でしかば、立ち遅れたる人々も待ち、いとおそろしう深き霧をも少し晴るけむとて、法性寺(ほふさうじ)の大門に立ちとまりたるに、田舎(ゐなか)より物見に上(のぼ)る者ども、水の流るるやうにぞ見ゆるや。すべて道もさりあへず。物の心知りげもなきあやしの童(わらは)べまで、ひきよきて行き過ぐるを、車を驚きあさみたることかぎりなし。これらを見るに、げにいかに出で立ちし道なりともおぼゆれど、ひたぶるに仏を念じたてまつりて、宇治の渡りに行き着きぬ。

 そこにも、猶しもこなたざまに渡りする者ども立ちこみたれば、舟の楫(かぢ)とりたるをのこども、舟を待つ人の数も知らぬに心おごりしたるけしきにて、袖をかいまくりて、顔にあてて、棹(さを)に押しかかりて、とみに舟も寄せず、うそぶいて見まはし、いといみじうすみたるさまなり。無期(むご)にえ渡らで、つくづくと見るに、紫の物語に、宇治の宮のむすめどものことあるを、いかなる所なれば、そこにしも住ませたるならむと、 ゆかしく思ひし所ぞかし。げにおかしき所かなと思つつ、からうじて渡りて、殿の御領所(ごらうしよ)の宇治殿を入りて見るにも、浮舟の女君の、かかる所にやありけむなど、まづ思い出でらる。

 夜深く出でしかば、人々、困(こう)じて、やひろうちといふ所にとどまりて、物食ひなどするほどにしも、供なる者ども、「高名(かうみやう)の栗駒山(くりこまやま)にはあらずや。日も暮れがたになりぬめり。ぬしたち調度(てうど)とりおはさうぜよや」と言ふを、いとものおそろしう聞く。

【現代語訳】
 道がはっきりして人目につくようにならないうちにと、まだ夜が深い頃に出てきたので、遅れてきた人々を待ち、また、恐ろしく深い霧が少し晴れるまで待とうと、法性寺の大門のところで立ち止まっていると、田舎から御禊の見物に上京する者たちが、まるで水が流れるように途切れず見えることだ。道では、その人の波を全く避けきれない。物心のなさそうな賤しい子どもたちまでが、よけながら通り過ぎる私たちの車を見て、驚きあきれること限りない。そのようなのを見ると、なぜこんなふうに出てきてしまったのかとも思われるが、一心に仏にお祈り申し上げて、宇治川の渡し場に行き着いた。

 そこでも、やはりこちら側に渡ってくる者たちで混んでいるので、船頭たちは、舟を待つ人が数知れないほどいるのを得意そうに、袖をまくり上げ、顔に棹を当て、もたれかかって、すぐには舟も寄せず、とぼけたように辺りを見回し、ひどくもったいぶった様子である。いつまで経っても渡れないので、つくづくと景色を眺めると、『源氏物語』に宇治の八の宮の姫君たちのことが書かれているのを、いったいどんな所で姫君たちをわざわざそこに住まわせたのだろうかと、以前から興味のあった場所ではないか。なるほど趣きのある所だと思いながら、やっとのことで渡ることができ、関白殿(藤原頼通)の御領地の宇治殿(今の平等院)に入って見れば、浮舟の女君はこのような所に住んでいたのだろうかなどと、まず思い出される。

 まだ夜が深い頃に出てきたので、人々は疲れて、「やひろうち」という所で休んで、物を食べたりしていると、供の者たちが、「ここは盗賊が出るので有名な栗駒山ではありませんか。日も暮れ方になりそうです。皆さん、弓矢などを手放さないように」と言うのを、たいそう恐ろしく聞く。 

(三)
 その山越えはてて、贄野(にへの)の池のほとりへ行き着きたるほど、 日は山の端(は)にかかりにたり。「今は宿とれ」とて、人々あかれて宿もとむる、所はしたにて、「いとあやしげなる下衆(げす)の小家(こいへ)なむある」と言ふに、「いかがはせむ」とてそこに宿りぬ。「みな人々京にまかりぬ」とて、あやしのをのこ二人ぞゐたる。その夜も寝(い)も寝(ね)ず、 このをのこ出で入りし歩(あり)くを、奥の方(かた)なる女ども、「などかくし歩かるるぞ」と問ふなれば、「いなや、心も知らぬ人を宿したてまつりて、釜はしもひきぬかれなば、いかにすべきぞと思ひて、え寝でまはり歩くぞかし」と、寝たると思ひて言ふ。聞くに、いとむくむくしくおかし。

 つとめてそこを立ちて、東大寺に寄りて、拝みたてまつる。

 石上(いそのかみ)も、まことに古りにけること、思ひやられて、むげに荒れはてにけり。

 その夜、山辺(やまのべ)といふ所の寺に宿りて、いと苦しけれど、経少し読みたてまつりて、うちやすみたる夢に、いみじくやむごとなく清らなる女のおはするに参りたれば、風いみじう吹く。見つけて、うち笑(ゑ)みて、「何しにおはしつるぞ」と問ひたまへば、「いかでかは参らざらむ」と申せば、「そこは内裏(うち)にこそあらむとすれ。博士(はかせ)の命婦(みやうぶ)をこそよく語らはめ」とのたまふと思ひて、うれしく頼もしくて、いよいよ念じたてまつりて、初瀬川などうち過ぎて、その夜、御寺(みてら)に詣で着きぬ。祓(はら)へなどして上(のぼ)る。三日さぶらひて、暁まかでむとて、うちねぶりたる夜さり、御堂(みだう)の方より、「すは、稲荷(いなり)より賜はる験(しるし)の杉よ」とて、物を投げ出づるやうにするに、うちおどろきたれば、夢なりけり。

 暁、夜深く出でて、えとまらねば、奈良坂のこなたなる家をたづねて宿りぬ。これもいみじげなる小家なり。「ここはけしきもある所なめり。ゆめ寝(い)ぬな。れうがいの ことあらむに、あなかしこ、おびえ騒がせ給ふな。息もせで臥させ給へ」と言ふを聞くにも、いといみじうわびしくおそろしうて、夜を明かすほど、千年(ちとせ)を過ぐす心地す。からうじて明けたつほどに、「これは盗人(ぬすびと)の家なり。あるじの女、けしき あることをしてなむありける」など言ふ。

 いみじう風の吹く日、宇治の渡りをするに、網代(あじろ)いと近う漕ぎ寄りたり。

 音にのみ聞きわたりこし宇治川の網代の浪も今日(けふ)ぞかぞふる

【現代語訳】
 その山を無事に越え、贄野(京都府井手町付近)の池のほとりに着いた頃、日は山の端にかかってしまった。「今はもう宿の手配をしよう」と言い、手分けをして宿を探し求めるが、取るに足らない場所で、「ひどくみすぼらしい下人の小家しかありません」と言うので、「仕方がない」と、そこに宿を取った。「家の者はみな京に出かけました」と言って、賤しい下男が二人だけいた。その夜も寝るに寝られない。この下男が出たり入ったりして歩き回るので、奥の方にいる女たちが、「どうしてそんなに歩き回るのですか」と尋ねる声がして、「なにね、気心の知れない人をお泊めして、釜でも盗まれてしまったらどうしようかと、寝てもいられず見回っているのですよ」と、私が寝ていると思って言う。何とも気味悪く、おかしくもある。

 翌朝、そこを発って、東大寺に立ち寄り、参拝する。

 石上神社(天理市布留町)も、その地の「布留(ふる)」の名さながら、本当に古びていると思いやられ、すっかり荒れ果てていた。

 その夜は、山辺という所の寺に泊まり、とても疲れてはいたが、経を少しお唱えしてから休んだ。すると、夢の中で、とても高貴で美しい女人がおられる所に参上したところ、風がひどく吹いている。その女人は私を見つけてにっこりと微笑み、「何をしにおいでになったのですか」とお尋ねになるので、「どうして参らずにおられましょう」と申し上げると、「あなたは宮中に上がることになっています。博士の命婦とよく相談なさい」とおっしゃったかと思うと、夢から覚め、それが嬉しく頼もしく、いよいよ熱心にお祈りをし、翌朝は初瀬川などを渡って、その夜、長谷のお寺に着いた。祓えなどをして御堂に上る。三日間お籠りをして、明け方に退出しようと、うとうとまどろんだ夜に、御堂の方から、「さあ、稲荷が下さった霊験あらたかな杉であるよ」と言って、何か投げ出すようにするので、驚いて目を覚ますと、それは夢だった。

 明け方、まだ暗いうちに長谷寺を出て、途中宿を取れなかったので、奈良坂のこちら寄りの家を探して泊まった。これも何ともみすぼらしい小家である。「ここは怪しげな所のようだ。決して眠らないように。何かあっても決して怯えたり騒いだりせず、息を殺して寝ているように」と言うのを聞き、とても情けなく恐ろしくて、夜が明けるまで、千年を過ごす心地がする。ようやく夜が明け始める頃、「ここは盗人の家です。女主人がうさんくさいことをしていたのです」などと言う。

 ひどく風の吹く日、宇治の渡しを越えると、網代のすぐ近くまで舟が漕ぎ寄った。

 
話にだけ聞いていた宇治川の網代を、今日はそこに寄せる波の数を数えるほどに近くに見ている。

(注)博士の命婦・・・内侍所に所属する上席の女官。 

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鞍馬の春秋

 二三年、四五年へだてたることを、 次第もなく書きつづくれば、やがてつづきたちたる修行者(すぎやうじや)めきたれど、さにはあらず、年月へだたれることなり。

 春ごろ、鞍馬(くらま)にこもりたり。山際(やまぎは)(かす)みわたり、のどやかなるに、山の方(かた)より、わづかにところなど堀りもて来るもをかし。出づる道は花もみな散りはてにければなにともなきを、十月(かみなづき)ばかりに詣(まう)づるに、道のほど山のけしき、このころは、いみじうぞまさるものなりける、山の端(は)、錦(にしき)をひろげたるやうなり。たぎりて流れゆく水、水晶を散らすやうにわきかへるなど、いづれにもすぐれたり。詣で着きて、僧坊に行き着きたるほど、かきしぐれたる 紅葉(もみぢ)の、たぐひなくぞ見ゆるや。

 奥山の紅葉の錦ほかよりもいかにしぐれて深く染めけむ

とぞ見やらるる。

【現代語訳】
 二、三年、また四、五年と年月を隔てたことを、順序もなく書き続けていると、まるで物詣でにばかり行く修行者のようだけれど、そうではなく、年月を置いてのことなのだ。

 春頃、鞍馬に参籠した。山際が霞みわたり、のどかな時に、山の方から野老(ヤマイモ科の植物)などを掘って来るのも風情がある。帰りの道は、花もすっかり散っているので何の趣もないが、十月頃にまた参詣すると、道中の山の景色は、この時期は、格別に素晴らしいものだった。山の端は、紅葉の葉が錦を広げたかのようである。ほとばしり流れ行く水は、水晶を散らしたように跳ね返るなど、どこの景色よりも素晴らしい。お寺に着いて僧坊に行き着くと、時雨に濡れた紅葉が、たぐいなく美しく見えたことだ。

 
奥山の紅葉の錦を、時雨はどのようにしてほかよりも色深く染めたのだろう。

と見ずにはいられない。 

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石山寺の月

 二年ばかりありて、また石山にこもりたれば、よもすがら、雨ぞいみじく降る。旅居(たびゐ)は雨いとむつかしきものと聞きて、蔀(しとみ)を押し上げて見れば、有明の 月の谷の底さへくもりなく澄みわたり、雨と聞こえつるは、木の根より水の流るる音なり。

 谷川の流れは雨と聞こゆれどほかよりけなる有明の月

【現代語訳】
 二年ほど経って、また石山に参籠したところ、夜通し雨が激しく降った。旅先での雨は困りものだと、その雨音を聞き、蔀戸を押し上げて外を見ると、有明の月が谷の底まではっきり見えるほどに澄み渡り、雨の音だと聞こえたのは、木の根を伝って水が流れる音だった。

 
谷川の流れは雨音に聞こえたけれど、どこで見るより美しい有明の月だった。 

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また初瀬詣で

 また初瀬に詣(まう)づれば、はじめにこよなくもの頼もし。所々に設けなどして、行きもやらず、山城(やましろ)の国、柞(ははそ)の森などに、紅葉(もみぢ)いとおかしきほどなり。初瀬川渡るに、

 初瀬川たちかへりつつ訪ぬれば杉のしるしもこのたびや見む

と思ふもいと頼もし。

 三日さぶらひてまかでぬれば、例の奈良坂のこなたに、小家などに、このたびはいと類ひろければ、え宿るまじうて、野中にかりそめに庵(いほ)つくりて据へたれば、人はただ野にゐて夜を明かす。草の上に、行縢(むかばき)などをうち敷きて、上にむしろを敷きて、いとはかなくて夜を明かす。頭(かしら)もしとどに露おく。暁がたの月、いといみじく澄みわたりて、世に知らずをかし。

 ゆくへなき旅の空にもおくれぬは都にて見し有明の月

【現代語訳】
 再び初瀬に参詣したが、最初の時に比べると、この上なく気持ちがしっかりしている。所々で饗応などしてくれるので、さっさと通り過ぎるわけにもいかない。山城の国の柞の森など、紅葉がとても美しくなっている。初瀬川を渡る折に、

 
初瀬川の波が立ち返るように、再びお参りするのだから、いつかの夢に見た杉の霊験も、このたびはいただけるだろうか。

と思うのも、心強い。

 三日間お籠りして退出すると、帰り道の例の奈良坂のこちら側の小家などには、このたびは大人数なので泊まれそうになくて、野中に簡単な仮小屋を作って入れてくれたので、供の人たちは全くの野宿で夜を明かした。草の上に行縢などを敷いて、その上に筵を敷き、ずいぶん手軽な支度で夜を明かす。頭にもしっとりと露が置く。明け方の月は、とてもすっきりと澄み渡り、この上ない風情である。

 
あてどのない旅の空にも、遅れずについてくるのは、都で見る月と同じ有明の月だ。 

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充足した日々

 なにごとも心にかなはぬこともなきままに、かやうにたち離れたる物詣(ものまう)でをしても、道のほどを、をかしとも苦しとも見るに、をのづから心もなぐさめ、さりとも頼もしう、さしあたりて嘆かしなどおぼゆることなどもないままに、ただ幼き人々を、いつしか思ふさまにしたてて見むと思ふに、年月(としつき)の過ぎ行くを、心もとなく、頼む人だに、人のやうなるよろこびしてはとのみ思ひわたる心地、頼もしかし。

【現代語訳】
 何事も、これといって不満に思うこともないまま、このように遠くへ物詣でに出かけても、道中の様子をすばらしいとか苦しいとか感じることで、自然と心も慰められ、それでもやはり、仏様の御利益も頼もしく、さしあたって辛く嘆くような出来事もないまま、「ただ、幼い子たちを、早く思い通りに育てたい」と思っている。それにつけても、年月の経つのがもどかしく、せめて頼みに思う夫が人並みに任官してくれたらと、そればかりを望み続けている気持ちは、張り合いのあるものだった。 

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越前の旧友

 いにし へ、いみじう語らひ、夜、昼、歌など詠みかはしし人の、ありありても、いと昔のやうにこそあらね、絶えず言ひわたるが、越前守(えちぜんのかみ)の嫁にて下りしが、かき絶え音もせぬに、からうじてたより尋ねてこれより、

 絶えざりし思ひも今は絶えにけり越(こし)のわたりの雪の深さに

と言ひたる返りごとに、

 白山(しらやま)の雪の下なるさざれ石の中の思ひは消えむものかは

【現代語訳】
 昔、たいそう親しく語らい合い、夜に昼に歌などを詠み交わした人で、長く年月がたっても、昔ほどではないにせよ、絶えずに便りを交わしていた人が、越前守の嫁になって下向し、全く音沙汰がなくなったので、何とかつてを求めて、こちらから、

 
ずっと絶えなかった思いも、今は絶えてしまったのですね。あなたがおいでになる越の雪の深さに埋もれて。

と詠んで贈ったその返事に、

 
白山の雪の下に埋もれている小石の中の思いは、消えることなどありましょうか。あなたを思い続けています。 

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西山の奥

 三月(やよひ)のついたちごろに、西山の奥なる所に行きたる、人目も見えず、のどのどと霞(かす)みわたりたるに、 あはれに心ぼそく、花ばかり咲き乱れたり。

 里遠みあまり奥なる山路(やまぢ)には花見にとても人来(こ)ざりけり

【現代語訳】
 三月の上旬に、西山の奥にある所に行ったが、人影もなく、のどかに霞がかかり、しみじみと心細げに、桜の花だけが咲き乱れている。

 
人里から遠く離れているので、奥深いこの山路には、花見に来る人さえやって来ない。 

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太秦

 世の中むつかしうおぼゆるころ、太秦(うづまさ)にこもりたるに、宮に語らひ聞こゆる人の御もとより文ある、返りごと聞こゆるほどに、鐘の音の聞こゆれば、

 繁りかりしうき世のことも忘られず入相(いりあひ)の鐘の心ぼそさに

と書きてやりつ。

【現代語訳】
 夫婦の仲が難しく思われていた頃、太秦に参籠していると、宮家で親しくしていただいている方からお便りがあったので、お返事をしたためているその時に、鐘の音が聞こえてきたので、

 
うっとうしく悲しい世間や家庭のことも、忘れられずにいます。晩鐘の鐘の音が心細く聞こえるものですから。

と書いて贈った。 

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二人の友と

 うらうらとのどかなる宮にて、同じ心なる人、三人(みたり)ばかり、 物語などして、まかでてまたの日、つれづれなるままに、恋しう思い出らるれば、二人の中に、

 袖ぬるる荒磯浪(あらいそなみ)と知りながらともにかづきをさせいぞ恋しき

と聞こえたれば、

 荒磯はあされど何のかひなくてうしほに濡るる海人(あま)の袖かな

いま一人、

 みるめ生(お)ふる浦にあらずは荒磯の浪間(なみま)かぞふる海人もあらじを

【現代語訳】
 うらうらとのどかな宮家で、気心の知れた者同士、三人ばかりで、いろいろ語り合って退出した翌日、退屈に任せて、彼女たちと宮仕えした昔を懐かしみ、二人にあてて、

 
袖が濡れる荒磯の波と知りながら、一緒に潜った日が懐かしく思われます(涙に袖の濡れる辛い宮仕えと知りながら、一緒に苦労した日々が懐かしく思われます。)

と詠んで贈ったところ、

 
あなたのおっしゃる荒磯は、探し回っても何の貝もなく、袖が潮に濡れるだけのように、私の宮仕えは何の甲斐もなく涙に濡れるばかりです。

もう一人から、

 
海松布の生える浦でなかったら、荒磯の浪間に潜る海人もいないでしょう。あなたがいればこそ、辛い宮仕えも過ごしていけるのです。 

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筑前の友

 同じ心に、かやうに言ひかはし、世の中の憂きもつらきもをかしきも、かたみに言ひ語らふ人、筑前に下りて後、月のいみじう明かきに、かやうなりし夜、宮に参りて、会ひては、つゆまどろまず、ながめ明かいしものを、恋しく思ひつつ寝入りにけり。宮に参りあひて、うつつにありしやうにてありと見て、うちおどろきたれば、夢なりけり。月も山の端(は)近うなりにけり。覚めざらましをと、いとどながめられて、

 夢さめて寝覚(ねざめ)の床の浮くばかり恋ひきと告げよ西へ行く月

【現代語訳】
 気心が合い、このように便りを交わし、世の中の嫌なことも辛いことも楽しいことも、お互いに親しく語り合っていた人が、筑前に下って後、月がとりわけ明るい時に、こんな夜には、宮家に参上し、あの人と一晩中眠らずに月を眺めて明かしたものを、と恋しく思いながら寝入ってしまった。すると宮家で、実際に昔のようにその人と過ごしているのを見て、はっと目覚めたら、夢だった。月も山の端に近く沈もうとしていた。夢と知っていたら覚めるのではなかったのにと、さらに思われて、

 
夢から覚めて、寝覚めの床が涙で浮き上がるほど恋しく思われたと、あの人に伝えてほしい、西へ行く月よ。 

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和泉へ

 さるべきやうありて、秋ごろ和泉(いづみ)に下るに、淀(よど)といふよりして、道のほどのをかしうあはれなること、言ひつくすべうもあらず。

 高浜(たかはま)といふ所にとどまりたる夜、いと暗きに、夜いたう更けて、舟の楫(かぢ)の音聞こゆ。問ふなれば、遊女(あそび)の来たるなりけり。人々興じて、舟にさし着けさせたり。遠き火の光に、単衣(ひとへ)の袖長やか に、扇(あふぎ)さし隠して、歌うたひたる、いとあはれに見ゆ。

 またの日、山の端(は)に日のかかるほど、住吉(すみよし)の浦を過ぐ。空も一つに霧(き)りわたれる、松の梢(こずゑ)も、海の面(おもて)も、浪の寄せ来る渚(なぎさ)のほども、絵にかきても及ぶべき方なうおもしろし。

 いかに言ひ何にたとへて語らまし秋の夕べの住吉の浦

と見つつ、綱手(つなで)ひき過ぐるほど、 返り見のみせられて、あかずおぼゆ。

 冬になりて上るに、大津といふ浦に、舟に乗りたるに、その夜、雨風、岩も動くばかり降りふぶきて、雷(かみ)さへ鳴りてとどろくに、浪の立ちくる音なひ、風の吹きまどひたるさま、おそろしげなること、命かぎりつと思ひまどはる。丘の上に舟を引き上げて、夜を明かす。雨はやみたれど、風なほ吹きて、舟出ださず。ゆくへもなき丘の上に、五六日と過ぐす。からうじて風いささかやみたるほど、舟の簾(すだれ)まき上げて見わたせば、夕潮(ゆふしほ)ただ満ちに満ち来るさま、とりもあへず、入江の鶴(たづ)の、声惜しまぬもをかしく見ゆ。国の人々集まり来て、「その夜この浦を出でさせ給ひて、石津(いしづ)に着かせたまへらましかば、やがてこの御舟なごりなくなりなまし」など言ふ、心ぼそう聞こゆ。

 荒るる海に風よりさきに舟出して石津の浪と消えなましかば

【現代語訳】
 しかるべき事情があって、秋頃、和泉の国に下り、淀という辺りからの、道中の素晴らしく情緒深い様子は、言葉では言い尽くしようもなかった。

 高浜という所に泊った夜、とても暗い中、夜もすっかり更けてから、舟の楫の音が聞こえてくる。供人の誰かが尋ねる様子から、何と、遊女がやって来たらしい。人々は興じて、こちらの舟に遊女の船を着けさせる。遠い灯火の光に照らされ、遊女の単衣の袖が長く垂れる姿が映え、扇をかざして顔を隠しながら歌を歌っている姿は、実に趣深く見える。

 翌日、山の端に夕日が沈んでいく頃に、住吉の浦を過ぎる。海と空の一面に霧が立ち込め、松の梢も、海面も、波が寄せる渚の辺りも、たとえ絵に描いても及ばないほど風情がある。

 
どのように言い、何に喩えて語ったらよいのか、秋の夕べの住吉の浦の景色を。

と眺めながら、舟を漕いで行き過ぎる間、何度も振り返って見ても飽きない思いがする。

 冬になって和泉から上京する時に、大津という浦で舟に乗ったところ、その夜、雨風が、岩も動くばかりに激しく降り吹き、雷まで鳴りとどろく上に、波が立ち寄せる音や、風の吹き荒れる様子の恐ろしげなことは、命もこれまでとおろおろする。丘の上に舟を引き上げて、夜を明かす。雨はやんだが、まだ風が吹いているので、舟を出さない。あてどのない丘の上で五、六日と空しく過ごす。ようやく風が少し収まった頃、舟の簾を巻き上げて見渡すと、夕潮がどんどん満ちてくる様子は急で、入江にいる鶴が飛び立とうとしきりに鳴くのも趣き深い。国府の役人たちが集まってきて、「あの夜にこの浦を出られて石津に着こうとなさっていたら、そのままこのお舟は跡形もなくなってしまわれたことでしょう」などと言うのが、心細く聞こえる。

 
荒れ狂う海に、風の来るより前に舟を出し、石津の波となって消えてしまっていたのだろうか。

(注)単衣・・・袿(うちぎ)の下に着る下着。

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夫の任官

 世の中に、とにかくに心のみ尽くすに、宮仕へとても、もとは一筋に仕うまつりつかばや、いかがあらむ、時々立ち出でば何なるべくもなかめり。年はややさだ過ぎ行くに、若々しきやうなるも、つきなう覚えならるるうちに、身の病いと重くなりて、心に任せて物詣でなどせしこともえせずなりたれば、わくらばの立ち出でも絶えて、長らふべき心地もせぬままに、幼き人々を、いかにもいかにもわがあらむ世に見おくこともがなと、臥し起き思ひ嘆き、頼む人の喜びのほどを、心もとなく待ち嘆かるるに、秋になりて待ちいでたるやうなれど、思ひしにはあらず、いと本意(ほい)なく口惜し。

 親のをりより、たち返りつつ見し東路(あぢまぢ)よりは近きやうに聞こゆれば、いかがはせむにて、ほどもなく下るべきことども急ぐに、門出は女(むすめ)なる人の新しく渡りたる所に、八月(はづき)十余日(とをかよか)にす。後(のち)のことは知らず、そのほどの有様は、もの騒がしきまで人多くいきほひたり。

 二十七日に下るに、男なるは添ひて下る。紅(くれなゐ)の打ちたるに、萩(はぎ)の襖(あを)、紫苑(しをん)の織物の指貫(さしぬき)着て、太刀はきて、しりに立ちて歩み出づるを、それも織物の青にび色の指貫、狩衣(かりぎぬ)着て、廊(らう)のほどにて馬に乗りぬ。

 ののしり満ちて下りぬる後(のち)、こよなうつれづれなれど、いといたう遠きほどならずと聞けば、先々のやうに心細くなどは覚えであるに、送りの人々、またの日帰りて、いみじうきらきらしうて下りぬなど言ひて、この暁に、いみじく大きなる人魂(ひとだま)の立ちて、京ざまへなむ来ぬると語れど、供の人などのにこそはと思ふ。ゆゆしきさまに思ひだによらむやは。

【現代語訳】
 世間にあれやこれやと気ばかりを使ってきたが、宮仕えにしても、最初からそれ一筋に努力していたらどうだったろう、何かよいことがあったかもしれないが、私のように時おり出仕するぐらいではどうなるものでもなさそうだ。年はしだいに盛りを過ぎ、いつまでも若い人と同じように出仕するのも不似合いに思えてきて、自身の病気もたいそう重くなってきて、思い通りにお寺参りなどをしていたのもできなくなり、時たまの出仕も止めてしまった。長生きできる気もせず、幼い子どもたちの将来を、何としてでも自分が生きているうちに見届けたいと、寝ても覚めても心を悩ましている。また、夫の任官の日をじれったく待ちわびていたところ、秋になって、待ち続けた任官がかなった。しかし、望んでいた国ではなかったので、まことに不本意で残念だった。

 父親の時代から繰り返し赴いてきた東国よりは近い国だというので、致し方ないとして、まもなく任国へ下るために必要な準備をしたが、門出は結婚した娘(俊通と他の妻の間に生まれた子)が新しく移った所で、八月十日過ぎにした。これから先どうなるか分からなかったが、その時の様子は、騒がしいまでに人が多く集まって活気づいていた。
 
 二十七日に夫は任国に下ったが、男の子(長男の仲俊)は夫について下ることになった。紅色の、砧(きぬた)で打ってつやを出した衣に萩がさねの狩衣を着て、紫苑色の織物の指貫をはき、太刀を腰に帯びて、夫の後ろについて歩き出し、夫も織物の青にび色の指貫に狩衣を着て、中門の廊下あたりで馬に乗った。
 
 一行が大騒ぎのなか下っていってしまったあと、私はこのうえもなく所在なく思われたが、任国はそんなに遠い所ではないと聞いているので、以前の父の時ほどには心細く感じなかった。途中まで送っていた人たちが次の日に帰ってきて、とても豪勢に下って行かれましたなどと言い、そして、今朝の明け方に、とても大きな人魂が飛び立って、京のほうへやってきましたと語ったが、供の人などの人魂だろうと思っていた。その時は、不吉な前兆だなどとは思ってもみなかった。 

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夫の死

 今は、いかでこの若き人々おとなびさせむと思ふよりほかのことなきに、返る年の四月(うづき)に上り来て、夏秋も過ぎぬ。

 九月(ながつき)二十五日よりわづらひ出でて、十月(かみなづき)五日に、夢のやうに見ないて思ふ心地、世の中にまた類(たぐひ)あることとも覚えず。初瀬(はつせ)に鏡奉りしに、臥しまろび、泣きたる影の見えけむは、これにこそはありけれ。うれしげなりけむ影は、来(き)し方もなかりき。今行く末は、あべいやうもなし。

 二十三日、はかなく雲煙(くもけぶり)になす夜、去年(こぞ)の秋、いみじくしたて、かしづかれて、うち添ひて下りしを見やりしを、いと黒き衣(きぬ)の上に、ゆゆしげなるものを着て、車の供に、泣く泣く歩み出でて行くを、見いだして思ひいづる心地、すべてたとへむかたなきままに、やがて夢路に惑ひてぞ思ふに、その人や見にけむかし。

【現代語訳】
 夫が単身赴任中の今は、どのようにしてこの幼い子どもたちを成人させようかと思うほかは考えられないでいたが、その翌年の四月に夫が上京してきて、そのまま夏、秋が過ぎ去った。
 
 夫は、九月二十五日から発病して、十月五日にはもう亡くなり、まるで悪夢を見ているような気持ちは、この世にまたと例のあることとは思えなかった。以前に、母が初瀬で長谷寺に鏡を奉納したときに、その鏡に、転びまわって泣いている影が見えたというのは、これのことだったのだ。また、嬉しそうだったという影も見えたが、これまでそのようなことはなかった。またこれから先は、あろうはずもない。
 
 二十三日に、はかなく火葬の煙にする夜、去年の秋には子の仲俊がたいそう立派に着飾り、従者にかしづかれて夫に付き添って下っていくのを見送ったのに、その子が今は、真っ黒い喪服の上にいまわしい感じの素服を着て、柩の車の供をして、泣きながら歩いて出ていく。そんな姿を見やりながら思い出している気持ちは、全くたとえようがなく悲しくて、そのまま夢路をさまよっているような心でいたが、夫はそんな私の姿を空の上から見てくれただろうか。
 

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鏡の影

 昔より、よしなき物語、歌のことをのみ心にしめで、夜昼思ひて、行ひをせましかば、いとかかる夢の世をば見ずもやあらまし。初瀬にて、前のたび、稲荷(いなり)より賜(たま)ふ験(しるし)の杉よとて、投げ出でられしを、出でしままに稲荷に詣でたらましかば、かからずやあらまし。年ごろ、天照御神(あまてるおんかみ)を念じ奉れと見ゆる夢は、人の御乳母(おんめのと)して内裏(うち)わたりにあり、帝、后(きさき)の御かげに隠るべきさまをのみ、夢解きも合はせしかども、そのことは一つかなはでやみぬ。ただ悲しげなりと見し鏡の影のみたがはぬ、あはれに心憂し。かうのみ、心にもののかなふ方(かた)なうてやみぬる人なれば、功徳(くどく)も作らずなどして漂(ただよ)ふ。

【現代語訳】
 昔から、たわいもない物語や歌のことばかりに熱中せず、夜も昼もずっと仏さまを思い、仏道に励んでいたならば、本当にこんな夢のようにはかない運命に会わずにすんだだろう。初瀬で前回参籠した時、稲荷からくださる霊験ある杉だといって投げ出された夢を見たが、あの時、参籠から出てすぐに稲荷神社にお参りしていたら、こんなことにはならなかっただろう。長い間、天照御神をお祈りしなさいと言われて見てきた夢は、高貴な方の御乳母として宮中に暮らし、帝や后の御寵愛を受ける身となるようなことだけを夢占いで判断されたけれど、そんなことは一つもかなえられないで終わってしまった。ただ、悲しそうだと見た鏡の影のほうだけが外れないで実現してしまったことが、つくづく悲しく辛い。私は、このように何一つ思いがかなわず終わってしまう人間だから、よい報いを受けられるような善行を積みもせず、ただふわふわと漂っている。 

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阿弥陀仏の夢

 さすがに命は憂きにも絶えず、長らふめれど、 「後(のち)の世も思ふにかなはずぞあらむかし」とぞ、うしろめたきに、頼むこと一つぞありける。

 天喜(てんぎ)三年十月(かみなづき)十三日(とをかあまりみか)の夜の夢に、居(ゐ)たる所の家(や)のつまの庭に、阿弥陀仏(あみだぼとけ)立ちたまへり。さだかには見えたまはず、 霧(きり)ひとへ隔たれるやうに透きて見えたまふを、せめて絶え間に見たてまつれば、蓮華(れんげ)の座の、土を上がりたる高さ三四尺、仏の御(み)たけ 六尺ばかりにて、金色(こんじき)に光り輝きたまひて、御手(みて)、片つ方(かた)をばひろげたるやうに、いま片つ方には印(いん)を作りたまひるを、こと人の目には見つけたてまつらず、我一人見たてまつるに、さすがにいみじくけおそろしければ、簾(すだれ)のもと近くよりてもえ見たてまつ らねば、仏、「さは、このたびは帰りて、後に迎へに来む」とのたまふ声、 わが耳一つに聞こえて、人はえ聞きつけずと見るに、うちおどろきたれば、十四日(とをかあまりよか)なり。この夢ばかりぞ後(のち)の頼みとしける。

【現代語訳】
 このようであっても、さすがに命だけは辛さに絶えることなく長らえているものの、「現世がこんなことでは後世も思いどおりにはならないだろう」と気がかりだが、頼みに思うことが一つだけあった。

 天喜三年(1055年)十月十三日の夜の夢に、家の軒先の庭に阿弥陀仏が立っていらした。はっきりとはお姿は拝見できず、霧を一重隔てているかのようにうっすら透けてお見えになるのを、無理して霧の切れ目から拝むと、蓮華の台座が、地面から三、四尺上に浮かんでおり、仏の御丈は六尺ほどで、金色に光り輝いておいでになる。御手は、片方を広げたように、もう片方は印を結んでいらっしゃるのを、他の人の目では拝することもできず、私だけが一人拝見しているのを有難いと思うものの、さすがにたいそう恐ろしく、簾のそば近くまで寄って拝むこともできないでいた。すると、仏さまが、「それでは、今回は帰って、後に迎えに来よう」と仰せになる声が、私の耳にだけは聞こえて、他の人は聞きつけられないでいる、とそんな夢を見て、はっと目を覚ますと翌日の十四日になっていた。私は、ひたすらこの夢だけを後世の頼みとして信じていたのだった。

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姥捨

 甥(をひ)どもなど、一ところにて朝夕見るに、かうあはれに悲しきことの後は、ところどころになりなどして、誰も見ゆることかたうあるに、いと暗い夜、六郎にあたる甥の来たるに、めづらしうおぼえて、

 月も出(い)でて闇(やみ)にくれたる姥捨(をばすて)になにとて今宵(こよひ)たづね来つらむ

とぞ言はれにける。

【現代語訳】
 甥たちなどと、一つ家に住んで朝夕顔を合わせていたが、夫の死という身に染みて悲しい出来事の後は、それぞれ別れて住むようになったりして、人と顔を合わせることがめったになくなっていた。それなのに、真っ暗な晩に、兄弟のなかで六番目にあたる甥が訪ねて来たので、珍しく思い、

月もなく暗闇になっている姥捨山のように、来ても甲斐のない、姨捨山に捨てられそうな私の所に、どうして今夜訪ねてくれたのでしょうか。

とそんな歌を口にした。

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よもぎが露

 ねむごろに語らふ人の、かうて後、おとづれぬに、

 今は世にあらじものとや思ふらむあはれ泣く泣くなほこそは経(ふ)れ

 十月(かみなづき)ばかり、月のいみじう明かきを、泣く泣くながめて、

 ひまもなき涙にくもる心にも明かしと見ゆる月の影かな

 年月は過ぎ変はりゆけど、夢のやうなりしほどを思ひ出づれば、心地も惑ひ、目もかきくらすやうなれば、そのほどのことは、まださだかにも覚えず。人々は皆ほかに住みあかれて、古里にひとり、いみじう心細く悲しくて、ながめ明かしわびて、久しうおとづれぬ人に、

 茂りゆく蓬(よもぎ)が露にそぼちつつ人にとはれぬ音(ね)をのみぞ泣く

尼なる人なり。

 世の常の宿の蓬(よもぎ)を思ひやれそむき果てたる庭の草むら

【現代語訳】
 親しくお付き合いしていた人も、このようになってからは音沙汰がなく、

 
今はもう私がこの世にいないものと思っておいでなのでしょう。泣く泣く生き長らえていますのに。

 十月ごろ、月がとても明るいのを、泣きながら眺めて、

 
絶えず流れる涙に曇る私の心にも、明るく感じられる今宵の月の光であるよ。

 年月は移り変わっていくけれど、夢のようだった時のこと(夫が亡くなったこと)を思い出すと、心も惑い、目の前も暗くなってしまうようなので、その時のことは今もはっきりと思い出せない。それまで一緒だった人々は皆よそに別々に住むようになり、私は一人住みなれた家に残され、たまらなく心細く悲しい気持ちで、物思いに沈んでなかなか眠ることもできず、久しく便りのない人に歌を読んで送った。
 
だんだん茂っていく雑草の露に濡れながら、私は、誰からの便りもない寂しさに声をあげて泣いてばかりいます。
 
相手は尼になっている人で、次のような返歌があった。
 
世間にふつうにある家の雑草ではないですか。思ってみてください、すっかり世を捨てた私の家の草むらのわびしさを。 

(注)現代語訳は、現代文としての不自然さをなくすため、必ずしも直訳ではない箇所があります。

古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。

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『夜半の寝覚』

平安後期に成立した王朝物語で、単に『寝覚』とも呼ばれる。現存する伝本は5巻または3巻の系統があるが、いずれも中間と末尾に大きな欠巻部分がある。元は現存本の2~3倍の量があったと推定されている。作者については、藤原定家による写本の奥書の中で、『浜松中納言物語』などとともに菅原孝標女の作と伝えているが、別人の作とみる説もある。

物語は、源氏の太政大臣の次女、寝覚の上(中の君)の数奇な生涯を、彼女の心を掘り下げつつ息長く追求したもの。

少女時代に「あたら人の、いたくものを思ひ、心を乱したまふべき宿世」と予言された寝覚の上は、その予言どおりに悲運の人生を送る。男主人公である関白左大臣の長男、中納言との不幸な出会いのあと、男君は彼女の姉を娶り、彼女もまた心ならずも老関白に嫁ぐ。男君は、ずっと寝覚の上に恋慕し続けるが、姉君が死に、寝覚の上が若き未亡人となってからも、二人の間には内外の障害が絶えない。すべての障害が除かれたときには、寝覚の上の心は男君を離れ、彼岸を希求していた。

欠けている巻尾(続編)では、男女両主人公の息子まさこと女三宮の恋愛事件を中心に、寝覚の上に恋を仕掛ける冷泉院の話がからむが、結局まさこの恋愛は成就し、寝覚の上の死で終わる物語があったことが、残存資料からうかがえる。

作品は『源氏物語』宇治十帖の影響が著しく、登場人物の心理描写が克明に駆使されており、『源氏物語』以後に書かれた物語の中では抜群であると評価されている。

『浜松中納言物語』

平安後期に成立した後期王朝物語で、原題は『御津の浜松』。現存5巻ながら、首巻が散逸。作者については、藤原定家による写本の奥書の中で、『夜半の寝覚』などとともに菅原孝標女の作と伝えている。夢の頻出や、その浪漫的精神の共通性などから、その可能性は高いとされる。

物語は、故式部卿の息子、源中納言が、母が再婚した相手の左大将を疎むが、その娘大君と契り、左大将を困惑させる。折から中納言は亡父が唐の皇子に転生していると伝聞し、夢にも見て渡唐する。そこで転生の皇子と、父が日本人であるという母后に会って、母后に心ひかれ、後に契り、男子が生まれる。

3年後、中納言は生まれた男子を連れて帰国して乳母に預ける。一方、渡唐の間に妻の大君は中納言の女子を生み尼となっていた。中納言は唐后に託された手紙を持って后の母尼を吉野に訪ねる。そこで中納言は后の異父妹吉野姫を託され、自分のもとに引き取ったが、好色の式部宮に誘拐される。悲しむ中納言の夢に唐后が現れ、自分は中納言の願いにひかれて転生して吉野姫の腹に宿ったと告げる。吉野姫は式部宮の子をはらんだ。中納言は夢を思い合わせて悲喜こもごもの思いだった。

舞台が日本と中国とにまたがり、夢告による転生を繰り返すなど新奇な筋立てではあるが、登場人物には『源氏物語』における光源氏、藤壺、紫上、弘徽殿女御、薫君、匂宮たちが強い影を落とし、本質的にはその模倣の域を出ないと評されている。

語 句

あいなし
 気に入らない。不快だ。

あからさまなり
 明白だ。露骨だ。

あかる
 散り散りになる。別々になる。

あさまし
 驚くばかりだ。意外だ。

あさむ
 驚きあきれる。

あとはかなし
 跡形もない。行方が分からない。

あなかま
 静かに。しっ。(人の話をやめさせようとして発する語)

あはれなり
 しみじみとした思いだ。趣深く感じる。

あらはなり
 開けっぴろげだ。おおっぴらだ。無遠慮だ。

あらましごと
 予想。予測される事柄。

ありありて
 このままでいて。生き長らえて。

ありもつかず
 馴染まない。落ち着かない。

あれかにもあらず
 茫然自失している。夢見心地である。

いきほふ
 盛んなようす。形勢。

いたづらなり
 無駄だ。無意味だ。

いつしか
 早く。いつになったら。

いづら
 どこ。

言ふかひなし
 どうしようもない。

言へばさらなり
 分かりきっていて、言うまでもない。

うそぶく
 口をすぼめて息をつく。息を切らす。とぼけたふりをする。何気ないふうをよそおう。

うちつけ
 軽率だ。無分別だ。

うちむつかる
 ほのめかす。それとなく言う。

うらうら
 のどか。うららか。

うるはし
 きちんとしている。端正だ。

おほやけ
 朝廷。

おほやけごと
 朝廷の儀式・行事。公務。

おもしろし
 風流だ。すばらしい。

思ひくんず
 ふさぎこむ。気が滅入る。

思ひやる
 はるかに思う。

かいまむ
 のぞき見する。

かしかまし
 やかましい。うるさい。

かつがつ
 ともかく。何はともあれ。不満足ながら。

かづき
 水中にもぐること。水中にもぐって魚・貝・海藻などをとること。

かへる年
 あくる年。次の年。

神さぶ
 神々しくなる。荘厳に見える。

からうじて
 やっとのことで。ようやく。

かりそめ
 一時的なこと。間に合わせ。軽々しいこと。

上達部
 公卿(くぎよう)。 大臣・大納言・中納言・参議、及び三位以上の者。 上級の役人。

きたなげなし
 見苦しくない。こぎれいだ。

興ず
 興に入る。おもしろがる。

清げなり
 さっぱりとしてきれいだ。こぎれいだ。

清らなり
 気品があって美しい。

きらきらし
 際立っている。目立っている。

くんず
 気が滅入る。心がふさぐ。

けさうぶ
 恋心を抱く。色好みらしく振舞う。

けざやかなり
 はっきりしている。際立っている。

けなり
 一段とまさっている。特にすぐれている。

けぶり合ふ
 めぐりめぐって再び出会う。やっと出会う。

心もとなし
 じれったい。待ち遠しい。

こほつ
 壊す。打ち崩す。

さうぞく
 身に着ける。装う。

里ぶ
 宮廷風の生活になじみが薄く、洗練さを欠く。

さりあへず
 避けきれない。

さりとも
 そうであっても。それはそれとしても。

さるにてこそは
 そうであるのでそうなのであろう。

さるべきにやありけむ
 そうなる運命だったのだろうか。

しかすがに
 そうはいうもののやはり。

しかべいこと
 「まことにしかるべきこと」の音便。

すがすがと
 さっぱりと。こだわりなく。

すさまじ
 あきれたことだ。とんでもないことだ。

すずろなり
 何ということもない。関係がない。思いがけない。

せうと
 兄弟。兄。弟。

そこばくの
 ひどく。程度のはなはだしいさま。

そこら
 多く。たくさん。

月かげ
 月明り。

つとめて
 早朝。

つれづれと
 所在なく。しみじみともの寂しく。

ところせし
 余地がない。窮屈だ。気詰まりだ。

なかなか
 かえって。むしろ。なまじっか。

なごし
 穏やかである。和やかである。

なほざり
 いい加減だ。おろそかだ。

なやむ
 病気になる。病気で苦しむ。

にほひ
 (美しい)色合い。色つや。

ねぢけがまし
 ひねくれている。素直でない。

はかばかし
 しっかりしている。頼りになる。

ひとりごつ
 独り言を言う。つぶやく。

ふりはふ
 する。わざわざ~する。

本意なし
 不本意だ。思うようにいかない。

設け
 準備。用意。

まさなし
 よくない。不都合だ。見苦しい。

まめまめし
 いかにも真面目だ。本気だ。

まめやかなり
 誠実だ。真面目だ。本気だ。

まらうと
 用がある時にやって来て、長話をする客。

みそかに
 こっそりと。ひそかに。

むくむくし
 何とも気味が悪い。

めづらかなり
 風変わりである。珍しいさま。

ものぐるほし
 馬鹿げている。

ゆかし
 見たい。聞きたい。知りたい。心が引かれる。慕わしい。懐かしい。

ゆくへなし
 行方が分からない。

ゆゆし
 畏れ多い。はばかられる。

よしなし
 方法がない。手段がない。

ろんなし
 言うまでもない。

わくらばなり
 たまたまだ。偶然だ。まれだ。

わざと
 わざわざ。格別に。ことさら。

わりなし
 道理に合わない。分別がない。無理やりだ。

をちかへる
 若返る。元に戻る。

参考文献

新明解古典シリーズ 更科日記ほか
~桑原博史/三省堂

更級日記
~原岡文子/角川ソフィア文庫

更級日記
~関根恵子/講談社学術文庫

新訳 更級日記
~島内景二/花鳥社

ビギナーズ・クラシックス日本の古典 更級日記
~川村裕子/角川ソフィア文庫

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