無神論的な実存主義(⇔本質主義)の哲学者であり、小説家、劇作家でもあっただったサルトルは、行動する知識人としてさまざまな活動を行いました。哲学においてはヘーゲルの弁証法、フッサールの現象学を批判的に継承し、物的存在すなわち事物がそれ自身として既にあるのを「即自存在」、それに対して自己の存在を意識する自分の存在を「対自存在」と把握し、対自存在と他人の意識との関係で作られるのが「対他存在」だと捉えました。言い換えると、他人が意識する自分を気遣う自分のありようが「対他存在」です。
この思想は実存主義の代表的な理論とされ、「存在(実存)は本質に先立つ」という彼の有名な言葉に要約されます。人間にたとえるなら、人がどう振る舞うかが先にあり、その振る舞いによって後に本質が作られるという考え方です。さらにそれを進めて、人間は自由な存在であるがゆえにその振る舞い(選択と決断)によって生じる結果について一切の責任を負わなければならないとしました。
彼が考える自由というのは、何をしてもよいという楽観的な自由ではなく、その選択と結果に同等の責任を伴う自由です。またそれぞれに異なる人間には選択の正解など無いし、誰かに教えてもらうものでもない。さらに誰かと共有もできないし、失敗したからといって誰にも文句を言えない、孤独で苦痛なものでもある。このことをサルトルは「人間は自由の刑に処されている」または「人間は自由に呪われている」と表現しました。
だからといって「自由の刑」から目を背け、何もしなくてよいわけではなく、サルトルは、だからこそ自己の客体性を容認しつつ、自分の目の前に広がる自由の中から生き方を選択し、その人生に自分を拘束して積極的に社会参加するべきであると説きました。また、そうすることによって社会を作り変えるべきだ、と。この概念を「アンガージュマン」と呼びます。
第二次世界大戦が終わった1945年の秋、サルトルは雑誌『現代』を創刊し、その編集長になりました。そこでサルトルの掲げたスローガンが「アンガージュマン」です。サルトルは、人間はそもそも自由な存在だとされているが、決してそうではなく、人間は時代と社会の状況に「拘束されている」と考えました。自由はこの拘束とぶつかることからしか生まれない。そうだとすれば哲学者や学者や作家も、時代状況と徹底的に関わっていくことしか、その使命を見出す方法はないのではないか。雑誌『現代』はそう訴えようとしたのです。
サルトルは一方で、ナチス支配下のフランスでのレジスタンス運動(抵抗運動)への参加や、戦後のマルクス主義への接近と原水爆禁止運動への積極的な発言など、幅広く行動する思想家でもありました。また、定住を好まず、パリのサン=ジェルマン通りのカフェに毎日のように通いつめ、若者たちと一緒に議論して親しまれ、サルトルを敬う彼らから「サン=ジェルマン通りの法主」と呼ばれるようになったこともありました。
このころは、マルクスの共産主義が有力視されてきた時代と重なります。そのため、多くの若者たちがサルトルの呼びかけに感化され、彼らは共産主義革命や学生運動にのめり込んでいきました。ひいては火焔瓶を投げつけて機動隊ともみ合うなどの過激で暴力的な活動へと連なっていったのです。
なお、1964年にサルトルはノーベル文学賞に選ばれましたが、これを辞退しています。当時、サルトルはあらかじめノーベル財団あてに辞退の意思をつづった書簡を送っていましたが、その到着が遅れたために混乱を招いてしまったようです。サルトルは1945年の仏最高勲章レジオン・ドヌールの受賞も辞退しています。後の説明では「公的な賞はどれも辞退している」と述べ、その理由に独立性の維持などを挙げていますが、ブルジョア的な賞だとして忌み嫌ったようです。
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