竹取物語
(一)
右大臣(うだいじん)阿部御主人(あべのみうし)は、財(たから)豊かに家広き人にておはしけり。その年(とし)来(き)たりける唐土船(もろこしぶね)の王慶(わうけい)といふ人のもとに文(ふみ)を書きて、「火鼠(ひねずみ)の皮といふなる物、買ひておこせよ」とて、仕うまつる人の中に、心(こころ)確かなるを選びて、小野房守(をののふさもり)といふ人をつけて遣(つか)はす。持(も)て到(いた)りて、かの唐土に居(を)る王慶に金を取らす。王慶、文をひろげて見て、返事(かへりごと)書く。
火鼠(ひねずみ)の皮衣(かはぎぬ)、この国に無き物なり。音(おと)には聞けども、未(いま)だ見ぬ物なり。世にある物ならば、この国にも持てまうで来(き)なまし。いと難(かた)き商(あきな)ひなり。然(しか)れども、もし、天竺(てんぢく)にたまさかに持(も)て渡りなば、もし長者の辺りに訪(とぶら)ひ求めむに。無きものならば、使(つかひ)に添へて金をば返し奉(たてまつ)らむ。と言へり。
かの唐土船(もろこしぶね)来(き)けり。小野房守まうで来て、まう上(のぼ)るといふことを聞きて、歩み疾(と)うする馬をもちて走らせて、迎へさせ給ふ時に、馬に乗りて、筑紫(つくし)よりただ七日にまうで来たる。文(ふみ)を見るに言はく、
火鼠の皮衣、からうじて人を出(い)だして求めて奉(たてまつ)る。今の世にも昔の世にも、この皮は、たやすく無き物なりけり。昔、かしこき天竺の聖(ひじり)、この国に持て渡りて侍りける、西の山寺(やまでら)にありと聞き及びて、朝廷(おほやけ)に申して、からうじて買ひ取りて奉る。
価(あたひ)の金(かね)少(すくな)しと、国司(こくし)、使(つかひ)に申ししかば、王慶が物(もの)加えて買ひたり。いま、金(かね)五十両賜はるべし。船の帰らむにつけて賜(た)び送れ。もし、金(かね)賜はぬものならば、かの衣(きぬ)の質(しち)、返(かへ)したべ。
と言へることを見て、「何(なに)仰(おほ)す。いま、金(かね)少しにこそあなれ。嬉(うれ)しくておこせたるかな」とて、唐土の方(かた)に向かひて、伏し拝(をが)み給ふ。
【現代語訳】
右大臣の阿部御主人(あべのみうし)は、財産が豊かで一門が繁栄している人だった。その年に日本ににやってきた唐船の王慶という商人へ、「火鼠の皮というものを買って送っほしい」と手紙を書き、確かな家来である小野房守を選んで持たせて派遣した。房守はその手紙を持って唐土に着くと、王慶に手紙と金を渡した。王慶は手紙を広げて見て、返事を書いた。
火鼠の皮衣はこの国にはないものです。噂には聞いたことがありますが、まだ見たことがありません。もしこの世にある物ならば、この国にもきっと来ていることでしょう。とても難しい取引ですが、天竺(インド)にはあるかもしれませんので、長者の家などをあたって探してみましょう。どこにも無ければ、使者の人に預けて返金します。と言った。
やがて、唐船が筑紫の港に帰って来た。小野房守が帰国し上京するということを聞いて、大臣は、速い馬を走らせて使者をやった。房守はその馬に乗って、筑紫からわずか七日間で都に着いた。持参した王慶からの手紙に次のように書いてあった。
火鼠の皮衣を、やっとのことで人に頼んで手に入れましたのでお届けします。今も昔も、この皮は容易に手に入らぬ物だったのです。昔、天竺の聖がこの国に持ってきていたのが西の山寺にあると聞き、朝廷に働きかけてようやく買い取ることができました。「代金が少ない」と、担当の役人が言いますので、この王慶が不足分を立て替えておきました。ですから、あと五十両の金をいただかねばなりません。船が帰る時、その船に託してお送りください。もし金をいただけないのなら、あの皮衣はお返しください。
これを見て、大臣は、「何をおっしゃる。あとわずかな金だ。それにしても嬉しいことだ。よく送ってきてくれたものだ」と言って、唐土の方に向かって伏し拝んだ。
(二)
この皮衣(かはぎぬ)入れたる箱を見れば、種々(くさぐさ)のうるわしき瑠璃(るり)を色(いろ)へて作れり。皮衣を見れば、紺青(こんじやう)の色なり。毛の末(すゑ)には、金(こがね)の光りし輝きたり。宝と見え、うるはしきこと、並ぶべき物なし。火に焼けぬことよりも、けうらなることかぎりなし。「うべ、かぐや姫、好(この)もしがり給ふにこそありけれ」とのたまひて、「あな、かしこ」とて、箱に入れ給ひて、物の枝につけて、御身(おほんみ)の化粧(けさう)いといたくして、「やがて泊まりなむものぞ」とおぼして、歌詠み加へて、持ちていましたり。その歌は、
かぎりなき思ひに焼けぬ皮衣(かはごろも)袂(たもと)乾きて今日(けふ)こそは着(き)め
と言へり。
【現代語訳】
この皮衣の入っている箱は、さまざまな瑠璃をとりまぜ、色あざやかに装飾してある。皮衣を見ると紺青色である。毛の先端は金色に光り輝いている。まさしく宝物と思われるほど、比類ない美しさである。火に焼けないということよりも、非の打ちどころのない美しさである。「なるほど、かぐや姫が欲しがるだけのことはある物だ」と言い、「ああ、ありがたい」と言って、その箱を木の枝につけ、自身の化粧も入念になさり、「このまま、婿として姫の部屋に泊まり込むことになろうよ」と思って、歌を詠み、箱と一緒に持参した。その歌には、
かぎりなくあなたを思う火ではないが、火にも焼けない皮衣を手に入れ、今は涙に濡れた袂も乾き、今日は晴れ晴れとした気分で着られます。
と書いてある。
(三)
家の門(かど)に持(も)て到(いた)りて、立てり。竹取、出(い)で来て、取り入れて、かぐや姫に見す。かぐや姫の、皮衣(かはぎぬ)を見て言はく、「うるはしき皮なめり。わきて真(まこと)の皮ならむとも知らず」。竹取、答へて言はく、「とまれかくまれ、先(ま)づ請(しやう)じ入れ奉(たてまつ)らむ。世の中に見えぬ皮衣のさまなれば、これをと思ひ給ひね。人ないたくわびさせ奉り給ひそ」とひて、呼び据(す)ゑ奉れり。
かく呼び据(す)ゑて、「この度は必ずあはむ」と媼(おうな)の心にも思ひをり。この翁(おきな)は、かぐや姫の寡(やもめ)なるを嘆(なげ)かしければ、「よき人にあはせむ」と思ひはかれど、切(せち)に「否(いな)」と言ふことなれば、え強(し)ひねば理(ことわり)なり。
かぐや姫、翁に言はく、「この皮衣は、火に焼かむに、焼けずはこそ真(まこと)ならめと思ひて、人の言ふことにも負けめ。『世になき物なれば、それを真と疑ひなく思はむ』とのたまふ。なほ、これを焼きて試みむ」と言ふ。
翁、「それ、さも言はれたり」と言ひて、大臣(だいじん)に、「かくなむ申す」と言ふ。大臣答へていはく、「この皮は、唐土(もろこし)にもなかりけるを、からうじて求め尋ね得たるなり。何の疑ひあらむ」。「さは申すとも、はや焼きて見給へ」といへば、火の中にうちくべて焼かせ給ふに、めらめらと焼けぬ。
「さればこそ、異物(こともの)の皮なりけり」と言ふ。大臣、これを見給ひて、顔は草の葉の色にて居給(ゐたま)へり。かぐや姫は、「あな、嬉し」と喜びて居(ゐ)たり。かの詠み給ひける歌の返し、箱に入れて返す。
名残(なごり)なく燃ゆと知りせば皮衣(かはごろも)思ひの外(ほか)におきて見ましを
とぞありける。されば、帰りいましにけり。
世の人々、「阿部の大臣、火鼠の皮衣持ていまして、かぐや姫にすみ給ふとな。ここにやいます」など問ふ。ある人の言はく、「皮は火にくべて焼きたりしかば、めらめらと焼けにしかば、かぐや姫あひ給はず」と言ひければ、これを聞きてぞ、とげなきものをば、「あへなし」と言ひける。
【現代語訳】
大臣は、かぐや姫の邸の門前に、その宝物を持って立っていた。竹取の翁が出てきて、その宝物を受け取り、かぐや姫に見せる。かぐや姫がその皮衣を見て言った。「みごとな皮衣のようですね、でも、これが本物の火鼠の皮衣だという証拠が私には分かりません」。翁が答えて言うには、「ともかくも、まず大臣を招き入れてさしあげましょう。この世では見ることができない皮衣の様子ですので、本物と信じなされ。あの方をあまり困らせないように願います」と言って、大臣を招き入れ、席をおすすめした。
このように席に座らせると、媼も「今度こそは必ず結婚することになろう」と確信している。これまで翁はかぐや姫が独り身でいるのを嘆かわしく思っていたので、立派な人と結婚させようと思いはかるのだが、姫がどうしてもいやだと拒むので強いることができず、今回ふたりが期待するのも当然だった。
かぐや姫が翁に言うには、「この皮衣を火に焼いみて、焼けなければ本物であると信じて、あの方のお言葉にも従いましょう。あなたは『この世にまたとない物だから、疑うことなく信じましょう』とおっしゃるけれども、やはり焼いて本物かどうか確かめてみたいと思うのです」と言う。
翁は、「それも、もっともだ」と言って、大臣に「姫がこのように申しています」と伝えた。大臣は「この皮衣は唐土にも無かったものを、やっとのことで探し求めて手に入れたものです。何を疑うことがございましょうか」。翁は「私もそう申したのですが、とにかく早く焼いてみてください」と言うので、火にくべて焼かせてみると、めらめらと焼けてしまった。
「こうなったのですから、やはり偽物の皮なのですね」と翁が言う。大臣はこれを見て、顔は草の葉のように青ざめた色になって座っている。かぐや姫は「ああ、嬉しい」と喜んでいる。そして、先刻、大臣が詠んだ歌への返歌を、皮衣が入れてあった箱に入れて返す。
あとかたもなく燃えると分かっていたなら、あれこれ気を揉まず、焼いたりせずに火の外に置いて鑑賞しましたでしょうに。
という返歌だった。大臣はしょんぼりと帰っていった。
世間の人々は、「阿部の大臣が火鼠の皮衣を持参して、かぐや姫と結婚なさるということだな。もう、ここにおいでになるのか」などと聞く。ある人が言うには、「皮衣はめらめらと焼けたので、かぐや姫は結婚されなかったそうだ」。これを聞いてから、目的を遂げられなくてがっかりというような場合を、「阿部」にちなんで、「あへなし」と言うようになったのである。
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(一)
大伴御行(おほとものみゆき)の大納言(だいなごん)は、我が家にありとある人集めて、のたまはく、「龍(たつ)の頸(くび)に、五色(ごしき)の光りある珠(たま)あなり。それを取りて奉(たてまつ)りたらむ人には、願はむことをかなへむ」とのたまふ。
男(をのこ)ども、仰(おほ)せのことを承りて申さく、「仰せのことは、いとも尊(たふと)し。ただし、この珠、たはやすくえ取らじを。いはんや龍の頸に珠は如何(いかが)取らむ」と申しあへり。
大納言ののたまふ、「君(きみ)の使(つかひ)といはむ者は、命を捨てても、おのが君の仰せ言をばかなへむとこそ思ふべけれ。この国に無き、天竺(てんぢく)、唐土(もろこし)の物にもあらず。この国の海山(うみやま)より、龍は下(お)り上(のぼ)るものなり。如何に思ひてか、汝(なんぢ)ら難(かた)きものと申すべき」
男(をのこ)ども、申すやう、「さらば、如何はせむ。難きものなりとも、仰せ言に従ひて求めにまからむ」と申すに、大納言、見笑ゐて、「汝らが君の使と名を流しつ。君の仰せ言をば、如何は背くべき」とのたまひて、「龍の頸の珠取りに」とて、出だし立て給ふ。この人々の道の糧(かて)、食ひ物に、殿(との)の内の絹(きぬ)、綿(わた)、銭(ぜに)など、ある限り取り出でて、添へて遣(つか)はす。「この人々ども帰るまで、斎(いもひ)をして、我は居(を)らむ。この珠取り得(え)では、家に帰り来(く)な」とのたまはせけり。
【現代語訳】
大伴御行大納言(おおとものみゆきだいなごん)は、自分の邸内の家来全員を集めて命令した。「龍の頸には五色の光を放つ珠があるそうだ。それを取ってくることができた者には、願い事を叶えてやろう」
家来たちは大納言の命令を聞いて、「ご命令はまったく尊重すべきことと存じます。しかし、珠というものは簡単には手に入らないもの。まして龍の頸にある珠をどのようにして取ったらよいのでしょうか」と口々に言うのだった。
それを聞いた大納言は激怒した。「家来というものは、命を捨ててでも主君の命令をかなえようと思うのが当然だ。龍の頸の珠は、この日本に無い物ではなく、インド、中国にある物でもない。日本の海山から龍は昇り降りするものだ。いったいお前たちは、どう思って、手に入れるのは困難だと申すのか」
家来たちは震えあがって、「命令とあらば、いたしかたありません。難しいとはいえ、ご命令に従って探し求めにまいりましょう」と答えたので、大納言は、機嫌を直して、「お前たちは、この私の家来として世間に知られている。その主君の命令にどうして背けようか」と言い、龍の首の珠取りをあらためて発令した。そして彼らに、食物の他、お屋敷にある絹、綿、銭など、ある限りのものを集めて与え、出動させた。「お前たちが帰るまで、私は心身を清めて祈願して待つことにしよう。珠を手に入れることができなければ、家に帰ってくるな」と厳命した。
(二)
各々(おのおの)、仰せ承りてまかりぬ。「龍の頸の珠取り得ずは帰り来な」と、のたまへば、いづちもいづちも、足の向きたらむ方(かた)へ往(い)なむず。「かかる好き事(ごと)をし給ふこと」とそしりあへり。賜(たま)はせたる物、各々、分けつつ取る。あるいは己(おの)が家に籠(こも)り居(ゐ)、あるいは、己が行かまほしき所へ往(い)ぬ。「親、君と申すとも、かくつきなきことを仰せたまふこと」と、事ゆかぬもの故(ゆゑ)、大納言をそしりあひたり。
「かぐや姫すゑむには、例のやうには見にくし」とのたまひて、うるはしき屋(や)を造り給ひて、漆(うるし)を塗(ぬ)り、蒔絵(まきゑ)して壁(かべ)し給ひて、屋(や)の上には糸を染めて、いろいろ葺(ふ)かせて、内々(うちうち)のしつらひには、いふべきもあらぬ綾織物(あやおりもの)に絵を書きて、間毎(まごと)に張りたり。元の妻(め)どもは、かぐや姫をかならずあはむ設(まう)けして、独(ひと)り明かし暮らし給ふ。
【現代語訳】
家来たちは、それぞれ命令を受けて出発した。しかし、実際は「龍の頸の珠を取ることができなければ帰って来るな」と命令されたので、どの方角でもよいと、足の向くままに出かけただけだった。「こんな物好きなことをなさって」などと文句を言い合い、そのくせ、下賜された物は分け合って取った。そして、ある者は自分の家に籠り、ある者は好きな所へ行ってしまう。「たとえ親や主君とはいっても、このように無理なことを命令するとは」と、どうすることもできずに、大納言を非難し合っている。
大納言のほうは、「かぐや姫を妻に据えるには、ふだんのままでは見苦しい」といって、立派な建物を建築して、壁に漆を塗り、蒔絵を用いて、壁をお作りになり、屋根には、糸を染めて色々な色に葺かせ、内装は、言葉で言い表せられないほど豪華な綾織物に絵を描いたものを柱と柱の間すべてに張った。前からいた妻たちは別居させて、かぐや姫と必ず結婚しようとして準備し、一人で生活するのだった。
(三)
遣(つか)はしし人は、夜昼(よるひる)待ち給ふに、年越ゆるまで、音もせず。心もとながりて、いと忍びて、ただ舎人(とねり)二人、召継(めしつぎ)として、やつれ給ひて、難波(なには)の辺(へん)におはしまして、問ひ給ふことは、「大伴(おほとも)の大納言殿の人や、船に乗りて龍(たつ)殺して、そが頸の珠取れるとや聞く」と、問はするに、船人(ふなびと)、答へていはく、「怪しきことかな」と笑ひて、「さる業(わざ)する船もなし」と答ふるに、「をぢなきことする船人にもあるかな。え知らで、かく言ふ」と思(おぼ)して、「我が弓の力は、龍あらば、ふと射殺して、頸の珠は取りてむ。遅く来る奴(やつ)ばらを待たじ」とのたまひて、船に乗りて、海ごとに歩(あり)き給ふに、いと遠くて、筑紫(つくし)の方(かた)の海に漕(こ)ぎ出(い)で給ひぬ。
いかがしけむ、疾(はや)き風吹きて、世界(せかい)暗(くら)がりて、船を吹きもて歩(あり)く。いづれの方(かた)とも知らず、船を海中(うみなか)にまかり入(い)りぬべく吹き廻(まは)して、浪(なみ)は船にうち掛けつつ巻き入れ、雷(かみ)は落ちかかるやうにひらめきかかるに、大納言は惑(まど)ひて、「まだ、かかるわびしき目、見ず。如何(いか)ならむとするぞ」とのたまふ。梶取(かぢとり)答へて申す。「ここら船に乗りてまかり歩(あり)くに、まだかかるわびしき目を見ず。御船(みふね)海の底に入(い)らずは、雷(かみ)落ちかかりぬべし。もし、幸ひに神の助けあらば、南海に吹かれおはしぬべし。うたてある主(ぬし)の御許(みもと)に仕(つか)うまつりて、すずろなる死にをすべかめるかな」と、梶取泣く。
【現代語訳】
大納言は、派遣した家来からの連絡を夜も昼も待っていたが、その年が過ぎても何の連絡もない。いらいらした大納言は、ほんのお忍びで、たった二人の護衛菅を案内役にして、難波(大阪)の港まで出かけた。二人に命じて「大伴の大納言殿の家来がここから船出して、龍を殺し、その頸の珠を手に入れたという話を耳にしたことはないか」と尋ねさせた。
ある船乗りは、「不思議な話ですなあ」と笑って、「そんな仕事をする船なんかいませんよ」と答えた。すると大納言は。「臆病な船乗りであるよ。この私の力を知らないからあんなことを言うのだ」と、むらむらと反発心を起こして、「私の弓の力からすれば、龍がいたらすぐに射殺して、頸の珠を取ってしまうだろう。ぐずな家来どもなど待つまい」と、船に乗り込み、龍を探しにあちこちの海を巡っているうちに、たいそう遠く、筑紫の方面にまで出てしまった。
ところが、どうしたことか、暴風が吹き出し、あたり一面暗くなって、船は荒波にもまれ始めた。方角を見失い、ただもう海のなかに没してしまうほどに吹かれ、大波は何度も船に打ちかかって、海中に巻き入れんばかりになり、雷が今にも落ちそうにひらめいた。大納言はうろたえて、「今までこんなひどい目にあったことがない。どうなるのだ」と言う。船頭は「長い間、ここのあたりをあちこち航海してきましたが、いまだかつて、こんなに苦しい目にあったことがございません。船が海の底に沈まなくても、雷が落ちかかってくるにちがいありません。万一、神の助けがあるならば、南の海に吹き流されるでしょう。とんでもない主人にお仕えして、情けない死に方をしそうです」と泣く。
(四)
大納言、これを聞きてのたまはく、「船に乗りては、梶取(かぢとり)の申すことをこそ高き山と頼め、など、かく頼もしげなく申すぞ」と、青反吐(あをへど)を吐(つ)きてのたまふ。梶取答へて申す、「神ならねば、何業(なにわざ)をか仕うまつらむ。風吹き、浪(なみ)激しけれども、雷(かみ)さへ頂(いただき)に落ちかかるやうなるは、龍(たつ)を殺さむと求め給へば、あるなり。疾風(はやて)も、龍(りう)の吹かするなり。はや、神に祈り給へ」といふ。「よきことなり」とて、「梶取の御神(おほんかみ)聞(きこ)しめせ。をぢなく、心幼く、龍(たつ)を殺さむと思ひけり。今より後(のち)は、毛の一筋(ひとすぢ)をだに動かし奉らじ」と、寿詞(よごと)を放(はな)ちて、立ち居(ゐ)、泣く泣く呼ばひ給ふこと、千度(ちたび)ばかり申し給ふ験(げん)にやあらむ。やうやう雷(かみ)鳴りやみぬ。少し光りて、風は、なほ疾(はや)く吹く。
梶取の言はく、「これは、龍(たつ)の所為(しわざ)にこそありけれ。この吹く風は、よき方(かた)の風なり。悪(あ)しき方の風にはあらず。よき方に赴(おもむ)きて吹くなり」と言へども、大納言は、これを聞き入れたまはず。
三(みか)、四日(よか)吹きて、吹き返し寄せたり。浜を見れば、播磨(はりま)の明石(あかし)の浜なりけり。大納言、「南海の浜に吹き寄せられたるにやあらむ」と思ひて、息づき臥(ふ)し給へり。船にある男(をのこ)ども、国に告げたれども、国(くに)の司(つかさ)まうでとぶらふにも、え起き上がり給はで、船底(ふなぞこ)に臥し給へり。松原に御筵(みむしろ)敷きて、下ろし奉る。その時にぞ、「南海にあらざりけり」と思ひて、からうじて、起き上がり給へるを見れば、風いと重き人にて、腹(はら)いとふくれ、こなたかなたの目には、李(すもも)を二つつけたるやうなり。これを見奉りてぞ、国の司も、ほほゑみたる。
【現代語訳】
大納言はこれを聞いて、「船に乗ったら、船頭の言葉を高い山を仰ぐように信頼するものなのだ。なのに、どうしてそんな頼りないことを言うのか」と言いながら、あまりの船酔いに青反吐を吐いていた。船頭は「私は神ではないのだから、何をしてさしあげられましょうか。暴風に荒波、そのうえ、雷まで頭の上に落ちかかるようなのはただごとではありません。あなたが龍を殺そうと探していらっしゃるからこうなっているのです。暴風も龍が吹かせているのです。はやく神様にお祈りしてください」と言う。大納言は「それはよいことだ」と言い、誓願の詞を唱えた。「船頭がお祭りする神様よ、どうかお聞きください。思慮もなく子どもじみて、龍を殺そうと思いました。今から後は、龍の毛一本すら触れて動かすようなことはいたしません」と、立ったり座ったり、泣きながら、千度ほども唱えたその甲斐があったのだろうか、しだいに雷が鳴りやんだ。しかし、雷光は弱くなったものの、風はまだはやく吹いている。
船頭は、「これは龍の仕業です。いま吹いてきた風は、よい方向に吹く風です。悪い方向へ吹く風ではなく、よい方向に向かって吹いているようです」と言うが、大納言はこの言葉も耳に入らない。
この風は三、四日続き、大納言の船を陸地に吹き寄せた。船頭が浜を見ると、なんと、それは播磨(兵庫県)の明石の海岸だった。大納言は、てっきり南海の浜に吹き寄せられたのだと思い、ため息をついてぐったりしていた。船に乗っていた家来たちが国府に連絡し、国司の播磨守(はりまのかみ)がお見舞いにやってきたが、大納言は起き上がることもできず、寝たままだった。浜の松原に御むしろを敷いて、大納言を船から下ろした。そのときになって、南海ではなかったのだと気づいて、やっとのことで起き上がった。その姿は重く精神を病んだようであり、腹はたいそう膨れ、両眼は、李(すもも)を二つくっつけたように腫れあがっている。そのさまを見た国司も、にやにやしている。
(五)
国に仰(おほ)せ給ひて、手輿(てごし)作らせ給ひて、によふによふ荷(にな)はれて、家に入(い)り給ひぬるを、いかでか聞きけむ、遣(つか)はしし男(をのこ)ども参りて申すやう、「龍(たつ)の頸(くび)の珠(たま)をえ取らざりしかばなむ、殿(との)へもえ参らざりし。珠の取り難(がた)かりしことを知り給へればなむ、勘当(かんだう)あらじとて参りつる」と申す。大納言起き居(ゐ)て、のたまはく、「汝(なんぢ)ら、よく持て来(こ)ずなりぬ。龍は鳴る雷(かみ)の類(るい)にこそありけれ、それが珠を取らむとて、そこらの人々の害せられむとしけり。まして、龍を捕へたらましかば、また、こともなく、我は害せられなまし。よく捕らへずなりにけり。かぐや姫てふ大盗人(おほぬすびと)の奴(やつ)が、人を殺さむとするなりけり。家の辺りだに今は通らじ。男どもも、な歩(あり)きそ」とて、家に少し残りたるける物どもは、龍の珠を取らむ者どもに賜(た)びつ。
これを聞きて、離れ給ひし元の上(うへ)は、腹を切りて笑ひたまふ。糸を葺(ふ)かせ造りし屋(や)は、鳶(とび)、烏(からす)の巣に、みな食ひ持ていにけり。世界の人の言ひけるは、「大伴の大納言は、龍の頸の珠や取りておはしたる」、「否(いな)、さもあらず。御眼(おほんまなこ)二つに、李(すもも)のやうなる珠をぞ添へていましたる」と言ひければ、「あなたべ難(がた)」と言ひけるよりぞ、世にあはぬことをば、「あなたへ難(がた)」とは言ひ始めける。
【現代語訳】
大納言は、国府に命じて手輿を作らせ、それに乗って担がれ、うんうんうめきながら自邸に運びこまれた。それをどこで聞いたのか、先に大納言の命で派遣された家来たちがやって来て申し上げるには、「私どもは龍の頸の珠を取ることができなかったので、お邸へ帰参できませんでした。しかし、今は珠を取ることが困難であるのをお知りになったので、もうお咎めもあるまいと存じて帰参しました」
大納言が寝床から起き上がり、きちんと座ると、「お前たち、龍の頸の珠をよくぞ取ってこなかった。龍は空に鳴る雷と同類であった。その珠を取ろうとして多くの人々が殺されるところだった。まして龍を捕らえようものなら、私はこともなく殺されていただろう。お前たちもよく捕らえずにいてくれたことだ。あのかぐや姫という大悪党めが、人を殺そうとして、こんな難題を出したのだ。もうあいつの邸のあたりすらも通るまい。お前たちもあのあたりを歩いてはならぬ」と言って、家にまだ残っていた財産などを、龍の珠を取らなかった家来たちに与えた。
これを聞いて、離別していた元の奥方は、腹がよじれるほどに大笑いした。あの御殿の屋根を葺かせた色とりどりの糸は、鳶や烏が巣を作るためにみなくわえて持って行ってしまった。世間の人が言うことには、「大伴の大納言は、龍の頸の珠を取ってきたのか」、「いや、そうではない。両目に李(すもも)のような珠を二つつけていらっしゃったよ」と言うと、「ああ、その李は食べ難い」と言ったことから、言うこととやることがまるで違う場合を、「あな、堪え難(がた)」と言い始めたのである。
(注)手輿・・・腰のあたりまで持ち上げて運ぶ輿。
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(一)
中納言(ちゆうなごん)石上麻呂足(いそのかみのまろたり)の、家に使はるる男(をのこ)どものもとに、「燕(つばくらめ)の、巣(す)くひたらば、告げよ」とのたまふを、承(うけたまは)りて、「何(なに)の用にかあらむ」と申(まう)す。答へてのたまふやう、「燕の持(も)たる子安貝(こやすがひ)を取らむ料(れう)なり」とのたまふ。男ども、答へて申す、「燕をあまた殺して見るだにも、腹(はら)に無き物なり。ただし、子を産む時なむ、いかでか出(い)だすらむ、はらかくると申す。人だに見れば、失(う)せぬ」と申す。
また、人の申すやうは、「大炊寮(おほひづかさ)の飯(いひ)炊(かし)く屋(や)の棟(むね)に、つくのあるごとに、燕は巣をくひ侍(はべ)る。それに、まめならむ男ども率(ゐ)てまかりて、足座(あぐら)を結(ゆ)ひ上げて、うかがはせむに、そこらの燕、子産まざらむやは。さてこそ、取らしめ給はめ」と申す。中納言よろこび給ひて、「をかしきことにもあるかな。もつともえ知らざりけり。興(きよう)あること申したり」とのたまひて、まめなる男二十人ばかり遣(つか)はして、麻柱(あななひ)に上げ据ゑられたり。
【現代語訳】
中納言の石上麻呂足は、仕えている家来たちに命じた。「燕が巣を作ったら知らせよ」。承った家来たちが、「何に使われるのですか」と申し上げると、中納言は、「燕が持っている子安貝を取ろうとするためだ」。家来たちは、「いくら燕を殺して腹の中を見ても、子安貝はございません。ただし、子を産む時には、どうやって出すのか腹に抱えるといわれます」と申し上げる。また「人が少しでも見ると、子安貝は消えてなくなってしまいます」とも申し上げる。
また、ある人が中納言にこう申し上げた。「大炊寮に飯を炊く建物があり、その棟の束柱ごとに燕が巣を作っています。そこへ忠実な家来たちを連れて行き、足場を高く組み、その上からのぞかせれば、たくさんの燕が子を産んでいるはずです。そうすれば子安貝を取らせることできましょう」。中納言は、「おもしろい話だ。少しも知らなかった。いいことを言ってくれた」と喜んで、忠実な家来たち二十人ほどを大炊寮につかわして、高い足場を組み、その上に登らせた。
(注)大炊寮・・・諸国から納められた米穀を収納・分配する役所。
(二)
殿(との)より、使(つかひ)ひまなく賜(たま)はせて、「子安(こやす)の貝取りたるか」と問はせ給ふ。燕(つばくらめ)も、人のあまた上(のぼ)り居(ゐ)たるに怖(お)ぢて、巣にも上(のぼ)り来(こ)ず。かかる由(よし)の返事(かへりごと)を申したれば、聞き給ひて、「如何(いかが)すべき」と思(おぼ)し煩(わづら)ふに、かの寮(つかさ)の官人(くわんにん)倉津麻呂(くらつまろ)と申す翁(おきな)申すやう、「子安貝(こやすがひ)取らむと思(おぼ)し召さば、たばかり申さむ」とて、御前(おほんまへ)に参りたれば、中納言、額(ひたひ)を合わせて向ひ給へり。
倉津麻呂が申すやう、「この燕の子安貝は、悪(あ)しくたばかりて取らせ給ふなり。さては、え取らせ給はじ。麻柱(あななひ)におどろおどろしく二十人の人の上(のぼ)りて侍れば、あれて寄りまうで来(こ)ず。せさせ給ふべきやうは、この麻柱(あななひ)をこほちて、人みな退(しりぞ)きて、まめならむ人一人を、荒籠(あらこ)に乗せ据(す)ゑて、綱(つな)を構へて、鳥の子産まむ間(あひだ)に、綱を吊(つ)り上げさせて、ふと子安貝を取らせ給はむなむ、よかるべき」と申す。中納言のたまふやう、「いとよきことなり」とて、麻柱をこほち、人みな帰りまうで来(き)ぬ。
中納言、倉津麻呂にのたまはく、「燕は、いかなる時にか子産むと知りて、人をば上(あ)ぐべき」とのたまふ。倉津麻呂申すやう、「燕、子産まむとする時は、尾を捧(ささ)げて、七度(しちど)めぐりてなむ、産み落とすめる。さて七度めぐらむ折(をり)、引き上げて、その折、子安貝は取らせ給へ」と申す。
中納言よろこび給ひて、よろづの人にも知らせ給はで、みそかに寮(つかさ)にいまして、男どもの中に交じりて、夜を昼になして取らしめ給ふ。倉津麻呂のかく申すを、いといたくよろこびて、のたまふ、「ここに使はるる人にもなきに、願ひをかなふることのうれしさ」とのたまひて、御衣(おほんぞ)脱ぎて被(かづ)け給うつ。「更に、夜(よ)さり、この寮(つかさ)にもうで来(こ)」とのたまうて、遣(つか)はしつ。
【現代語訳】
さて、中納言は、使者をひっきりなしに派遣して、「子安貝は取ったか」と聞かせる。燕は、人が大勢登っているのを怖がって、巣にも上がってこない。そのような状況をを中納言に申しあげたところ、「どうしたらよいだろう」と頭を抱えてしまった。そこへ、その大炊寮の官人で、倉津麻呂いう翁が、「子安貝を取ろうとお望みならば、よい方法を伝授しましょう」と言って参上したので、中納言は、身分差も問題にせず、翁と額(ひたい)を合わせるようにして相談した。
倉津麻呂は、「子安貝が取れないのは、間違った方法をなさっているからです。あれでは、お取りになれないでしょう。高い足場に、おおげさに二十人も登っては、燕は遠のき、そばへ寄ってきません。なさるべき方法は、まずこの足場を取り壊し、人もみな退いて、忠実だと思われる家来一人を目の粗い籠に乗せ、すぐに吊り上げることができるように綱を付けておきます。鳥が子を産もうとしているときに綱を吊り上げさせて、さっと子安貝を取らせるのがよいでしょう」と申しあげる。中納言は「たいへんよい方法だ」と言って、高い足場を取り壊し、家来は皆お邸へ帰ってきた。
中納言が、倉津麻呂に尋ねた。「燕が子を産む時機をどのように判断して、人を上に吊り上げたらよいのか」。倉津麻呂は「燕が子を産もうとする時は、尾をさしあげ、七度まわって卵を産み落とすようです。ですから、七度まわるときに籠を引き上げて、その瞬間に子安貝をお取らせなさいませ」と申しあげる。中納言は喜んで、多くの人には知らせずに、ひそかに大炊寮に出かけ、家来たちに交じって昼夜兼行でとりかかった。中納言は、倉津麻呂の進言を大いに喜び、「私の家来でもないのに、願いをかなえてくれるのは、ほんとうに嬉しい」と言って、着ていた衣装を脱いで褒美として与えた。さらに「あらためて、夜になったら、この大炊寮に来るように」と言って、家に帰らせた。
(三)
日(ひ)暮(く)れぬれば、かの寮(つかさ)におはして見給ふに、まことに燕(つばくらめ)巣つくれり。倉津麻呂(くらつまろ)申すやう、尾(を)浮(う)けてめぐるに、粗籠(あらこ)に人をのぼせて、吊り上げさせて、燕の巣に手をさし入れさせて探(さぐ)るに、「物もなし」と申すに、中納言、「悪(あ)しく探れば、なきなり」と腹立ちて、「誰(たれ)ばかりおぼえむに」とて、「われ登りて探らむ」とのたまひて、籠(こ)に乗りて、吊られ上(のぼ)りてうかがひ給へるに、燕、尾を捧げていたくめぐるに合わせて、手を捧げて探り給ふに、手に平(ひら)める物さはる時に、「われ、物握りたり。今は下ろしてよ。翁(おきな)、し得たり」とのたまへば、集まりて、「疾(と)く下ろさむ」とて、綱を引き過ぐして、綱絶ゆるすなはちに、八島(やしま)の鼎(かなへ)の上に、のけざまに落ち給へり。
【現代語訳】
日が暮れたので、中納言は、大炊寮に出かけてご覧になると、本当に燕が巣を作っている。しかも、倉津麻呂が言ったように、尾をさし上げてまわっているので、家来を籠に乗せ、綱で吊り上げさせて、燕の巣に手を入れて探らせたが、「何もありません」と言う。中納言は「探り方が悪いからだ」と腹を立て、「私でないと分かろうか」と言い、「私が登って探ろう」と、籠に乗り、綱で吊り上げられて巣の中をのぞきこんだ。燕は尾をさし上げて、さかんにぐるぐるまわっている。それに合わせて手を差し出して巣の中を探ると、手に平たい物がさわった。その瞬間、「私は何かをつかんだ。もう降ろしてくれ。爺さん、し得たぞ」と叫んだ。家来たちが集まって、早く降ろそうと綱を引いたが、引っ張りすぎて綱が切れ、中納言は、八個の鼎(かなえ)の上にあおむけに墜落した。
(注)八島の鼎・・・日本を代表するかまどの神を祭った、三本足の釜。
(四)
人々あさましがりて、寄りて抱(かか)へ奉れり。御目(おほんめ)は、白目(しらめ)にて臥(ふ)し給へり。人々、水をすくひ入れ奉つる。からうじて、生き出(い)で給へるに、また、鼎(かなへ)の上より、手取り足取りして、さげ下ろし奉る。からうじて、「御心地(おほんここち)いかが思(おぼ)さるる」と問へば、息の下にて、「物は少しおぼゆれど、腰なむ動かれぬ。されど、子安貝(こやすがひ)を、ふと握(にぎ)り持たれば、うれしくおぼゆるなり。まづ、紙燭(しそく)さして来(こ)。この貝、顔見む」と御頭(みぐし)もたげて、御手(おほんて)を広げ給へるに、燕(つばくらめ)のまり置ける古糞(ふるくそ)を握り給へるなりけり。
それを、見給ひて、「あな、貝なのわざや」とのたまひけるよりぞ、思ふに違(たが)ふことをば、「かひなし」と言ひける。
【現代語訳】
人々はびっくり仰天し、そばに寄って抱きかかえた。中納言は、白目をむいて気絶している。家来たちが水をすくい入れて飲ませると、ようやく正気に戻ったので、鼎の上から手をとり足をとって地面に下ろした。「ご気分はいかがですか」と問うと、やっとのことで、苦しい息の下から、「意識は少しはっきりしてきたが、腰が動かない。しかし、子安貝をさっと握って持っているから、嬉しく思っている、まず灯りを持ってこい。子安貝の顔を見よう」と、頭をもたげて手を広げた。それは子安貝ではなく、燕がもらした古糞(ふるくそ)を握っていたのだった。
中納言は、それを見て「ああ、貝がないことだ」と言った時から、期待に反することを「かいなし」と言うようになったそうだ。
(五)
貝にもあらずと見給ひけるに、御心地(おほんここち)も違(たが)ひて、唐櫃(からびつ)の蓋(ふた)の入れられ給ふべくもあらず、御腰(おほんこし)は折れにけり。中納言は、わらはげたるわざして止(や)むことを、人に聞かせじとし給ひけれど、それを病(やまひ)にて、いと弱くなり給ひにけり。貝をえ取らずなりにけるよりも、人の聞き笑はむことを、日にそへて思ひ給ひければ、ただに病み死ぬるよりも、人聞き恥づかしくおぼえ給ふなりけり。
これをかぐや姫聞きて、とぶらひにやる歌。
年を経て浪立ち寄らぬ住(すみ)の江のまつかひなしと聞くはまことか
とあるを、読みて聞かす。いと弱き心に、頭(かしら)もたげて、人に紙を持たせて、苦しき心地(ここち)に、からうじて書き給ふ、
かひはかくありけるものをわび果てて死ぬる命をすくひやはせぬ
と書き果つる、絶え入り給ひぬ。これを聞きて、かぐや姫、「少しあはれ」とおぼしけり。それよりなむ、少しうれしきことをば、「かひあり」とは言ひける。
【現代語訳】
中納言は、子安貝ではないと自分の目ではっきり見たので、気分もずっと悪くなり、体が曲がらなくなって、唐櫃の蓋におさめることができないほど、腰が折れてしまった。中納言は、幼稚なふるまいをしてこのような結果になってしまったことを、人に聞かせまいと気を使っていたが、それがまた病のもとになって、たいそう衰弱した。子安貝を取ることができなくなったことよりも、世間の人々この話を聞いて笑うであろうことを、日がたつにつれてますます気に病んで、ただふつうに病気で死ぬよりも、外聞が悪いと落ち込んでいた。
このようすをかぐや姫が聞いて、お見舞いに送った歌、
長らく、こちらにお寄りになりませんが、浪も立ち寄らない住吉の浜の松ではないですが、待つ甲斐もない、つまりあの貝もない、と噂に聞くのは、本当でしょうか。
と書いてあるのを、おそばの家来が読んで聞かせる。中納言はたいそう気力は弱っていたが、頭をもたげて、人に紙を持たせて、苦しい息の下でやっとの思いで返歌を書いた。
貝はありませんでしたが、このようにお見舞いをいただいた甲斐はありました。でも、「甲斐」ならぬ「匙(かい)」で、悲観のあまり死にそうな私の命をすくい取ってはくださいませんか。
と書き終えると、息が絶えてしまった。これを聞いて、かぐや姫は、少し気の毒に思った。そのことから、少し嬉しいことを「かいあり」と言うようになった。
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(藤原不比等)
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